古代日本国成立の物語

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景行天皇(その11 日本武尊の死)

2017年10月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 日本武尊が東国平定を終えて戻ってきた尾張で娶った宮簀媛は初代尾張国造である小止余命の子で、尾張戸神社の祭神である建稲種命の妹である。日本武尊はこのあと草薙剣を宮簀媛のもとに置いて近江の五十葺山(伊吹山)の荒ぶる神を倒すために出かけた。しかし、山の神は雲を起こして雹を降らせた。峯には霧がかかり谷は暗くなり、日本武尊は道に迷った。正気を失って病になり、やっとの思いで尾張に戻ることができた。しかし宮簀媛のもとには帰らず、さらに進んで伊勢の尾津浜で食事をとり、そのまま能褒野に向かった。尾津は尾張との境の揖斐川下流右岸、三重県桑名市多度町にある尾津神社あたりとされる。
 能褒野では蝦夷から連れて帰ってきた捕虜を伊勢神宮に献上し、吉備武彦を遣わして天皇に帰還の報告をした。しかし、ここで病が悪化し、そのまま亡くなってしまった。年齢は30歳だった。能褒野は三重県亀山市の東部から鈴鹿市の西部にわたる地域で、亀山市田村町には能褒野古墳群があり、その中で最大規模とされる墳丘長90mの前方後円墳である能褒野王塚古墳(能褒野墓)が日本武尊の墓に治定されている。しかし、この古墳の築造は4世紀末とされているので、少し時代が合わない。
 書紀には日本武尊の墓が三ケ所あると記される。ひとつは前述の能褒野王塚古墳、もうひとつが倭の琴弾原(現在の奈良県御所市冨田)、三つめが河内の古市邑(現在の大阪府羽曳野市軽里)である。能褒野に葬られた後、亡骸は白鳥となって能褒野から琴弾原、古市邑と飛び渡り、最後は天に昇って行ったとされる。古事記では能褒野から河内国の志幾(志紀)に飛んだ後、そのまま天に昇ったとある。宮内庁は書紀の記述を尊重し、能褒野王塚古墳(能褒野墓)、御所市の日本武尊琴弾原白鳥陵、羽曳野市の前の山古墳(日本武尊白鳥陵)の3つを全て日本武尊の墓に治定している。


 日本武尊が近江の伊吹山の神に敗れたことは、近江の勢力を制圧できなかったことを意味していると考える。「天日槍の王国」に書いたとおり、近江は天日槍の勢力が及んでいた。天日槍は渡来後に近江の吾名邑に住んだことがあり、またその近くには彼が連れてきた陶人(すえひと)が住む鏡邑があった。古事記によると、天日槍の七世孫が息長帯比売命(神功皇后)であり、息長氏は琵琶湖東岸の近江国坂田郡、まさに伊吹山の西麓にあたる一帯を拠点とする氏族であった。

 ここであらためて景行天皇と日本武尊が平定した地域を振り返ると、九州(ただし隼人の拠点である九州最南部を除く)、吉備、難波、東国、蝦夷となり、古事記ではこれに出雲が加わる。ほぼ全国にわたっているが、丹波が入っていないことに気がつく。私は、丹波は天日槍とその後裔一族が基盤をおく地域で、大丹波王国として大和の天皇家に匹敵する勢力を持っていたと考えている。そして近江はその丹波勢力とつながりを持つ息長氏の拠点であり、日本武尊はそこで敗れた。私はここに、崇神・垂仁の二代にわたって、さらに景行の前半まで含めると三代にわたって勢力を拡大し、神武王朝をも従えた崇神王朝の勢いに陰りを感じるのだ。その勢いにストップをかけたのが丹波を後ろ盾とした近江勢力、すなわち息長氏であった。日本武尊の伊吹山における山の神との戦いは、大和の崇神王朝と丹波・近江勢力との戦いを象徴しているのだと考える。

 ところで、日本武尊が天皇であったという説がある。書紀では「日本」、古事記では「倭」を名に持つことに加えて、書紀においては東征前に景行天皇が「我が子であるがその実は神人だ」「この天下はお前の天下、この位はお前の位」と言い、東征時には三種の神器のひとつである草薙剣を持たせ、日本武尊を「王(みこ)」、乗る船を「王船(みふね)」と記している。蝦夷と対峙する場面でも自らを「現人神の子」と名乗り、能褒野、琴弾原、河内の墓は全て「陵」と記される。古事記では景行天皇の段はほぼ全てが倭建命の事績で埋められるだけでなく、弟橘比売を「后」と記し、東征後に尾張に戻ったときに美夜須比売が神や天皇が食べるものを意味する「大御食(おおみけ)」を差し上げたと記す。常陸国風土記にいたっては、日本武尊を倭武天皇、弟橘媛を橘皇后と記している。私は日本武尊が天皇であった可能性はかなり高いと思う。記紀ともに、皇位継承権を持ちながら父である景行天皇よりも先に亡くなったので天皇になれなかったように装うが、東征前の景行天皇の言葉は日本武尊が皇位を継承したことの表れではないかとさえ思える内容だ。しかし残念ながら近江勢力に敗北を喫したことで死に至り、さらにその敗北が後の神功皇后と応神天皇による政権交代につながるきっかけとなったことから、日本武尊が天皇であったと直接的に記すことができなかったのではないだろうか。


 さて、宮簀媛の家に置いていった草薙剣であるが、現在は三種の神器のひとつとして熱田神宮に祀られている。熱田神宮の公式サイトによると、祭神は熱田大神、相殿神として天照大神、素戔鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀り、主祭神の熱田大神は草薙剣を御霊代(みたましろ)・御神体とよせられる天照大神であると、としている。しかし、相殿神に天照大神を祀っていることを考えると熱田大神を天照大神とすることに違和感を抱かざるを得ない。熱田大神はご神体である草薙剣そのものと考えるか、または尾張氏の祖先にあたる人物と考えるのが妥当ではないだろうか。
 草薙剣は素戔鳴尊が出雲で八岐大蛇を退治した時に尾から取り出したものを天照大神に献上し、次に天照大神が天孫降臨に際して瓊々杵尊に授けた。その後、八咫鏡とともに崇神天皇の宮に祀られていたものを宮外の笠縫邑に遷し、倭媛命によって伊勢神宮にもたらされた。それを日本武尊が受け取って東国平定に持参し、尾張に戻ったときに宮簀媛に預けた。そして日本武尊は戻ることなく亡くなったので、宮簀媛が熱田の地に社地を定めて祀ることになった。その後、盗難に合って神社外へ出たことがあったものの、今日現在まで熱田神宮に祀られている。よく考えると、八岐大蛇も天孫降臨も神話であり、何らかの史実に基づくとはいえ創作された話である。この剣はもともと尾張にあったのではないだろうか。
 草薙剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ばれる。勘注系図によると、火明命の孫に天村雲命の名が見える。この天村雲命から海部氏と尾張氏に分かれていくので、天村雲命は尾張氏の始祖であるとも言える。同様に先代旧事本紀の天孫本紀においても天村雲命から尾張氏が始まっている。天叢雲剣と天村雲命、名前が一致するのは偶然だろうか。天叢雲剣はもともと尾張氏に伝わる剣ではなかっただろうか。尾張氏が尾張に定着し、天皇家との関係が深まる中で神器のひとつと看做されるようになっていった。そして熱田神宮にはその天叢雲剣とともに、尾張氏の始祖である天村雲命が主祭神として祀られているのではないだろうか。


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