古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

景行天皇(その10 東国征討)

2017年10月02日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行40年、天皇は東国へ出発しようとする日本武尊に斧と鉞(まさかり)を授けて、蝦夷は凶暴で手強い、一方で日本武尊は勇猛かつ無敵で、まさに神であると説き、天下の位も日本武尊のものであると言って、吉備武彦、大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)のふたりを従わせるとともに、七掬脛(ななつかはぎ)を料理人として付き添わせた。
 日本武尊はまず倭媛命に会うために伊勢神宮に立ち寄った。そこで倭媛命から激励を受け、草薙剣を授かった。草薙剣は三種の神器のひとつで、素戔鳴尊が八岐大蛇を退治したときに尾から出てきた剣だ。神の剣だからということで天つ神(古事記では天照大御神と明記されている)に献上されたのだが、天孫降臨の際に天照大神が八尺瓊勾玉と八咫鏡とともに瓊々杵尊に授けられた。草薙剣がその後に倭媛命の手に渡った経緯は記紀に記されないが古語拾遺によると、崇神天皇のとき、同床共殿による神の勢いを畏れ、形代(かたしろ)を作らせた上で鏡、剣ともに笠縫邑に遷して豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせたと記される。その後、天照大神を祀る役割が倭媛命に代わったときに草薙剣も倭媛命の手に渡り、天照大神とともに各地を巡った後に伊勢で祀られるようになったのだ。

 伊勢から駿河に入った日本武尊は土地の賊に騙され、野で狩をしているときに火を放たれて焼き殺されそうになったが、火打石で迎え火を作って逃れることができた。書紀の一書では、腰に差していた剣が草を薙ぎ払ってくれたおかげで難を逃れたことから「草薙剣」の名がついた、とある。
 その後、相模から上総に渡ろうとしたとき、小さな海だから飛び上がって渡ることができるだろと言い放ったにも関わらず、途中で風が吹き荒れて船が進まなくなった。付き添っていた弟橘媛(おとたちばなひめ)が、海神の仕業を鎮めるために海に入りましょう、と言って入水すると風が止んで無事に上総に渡ることができた。この海は馳水(はしるみず)と呼ばれているが、現在の浦賀水道である。
 さらに上総から陸奥国に入った。海路で葦浦に回り、玉浦を横切って蝦夷との境に至った。葦浦や玉浦が現在のどのあたりかはよくわからないが、上総から海路で向かったとあることから、茨城県の沿岸だろうか。しかし、玉浦を横切ったともあるので海岸沿いに行ったのではなく、海を渡って対岸に着いた状況が浮かぶ。とすると、この海は霞ヶ浦だろう。
 蝦夷の首領たちが竹水門(たかのみなと)に集まって日本武尊の侵入を防ごうとしたが、その威勢に恐れをなして降伏した。日本武尊は蝦夷を捕虜として大和に連れ帰ろうとした。そして日高見国から常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮に着いた。竹水門は陸奥国と蝦夷の国の境界にあったと考えられる。記紀が編纂された8世紀初め頃の陸奥国は現在の宮城県の松島以南とされることから、竹水門は松島湾のあたりで、竹水門を「たかのみなと」と読むことから陸奥国宮城郡多賀郷(現在の宮城県多賀城市付近)とするのが通説のようである。日高見国は景行27年に東国視察から戻った武内宿禰が攻略して手に入れようと奏上した蝦夷の国だ。北上川の名の由来になったとも言われるので、北上川の下流域あたりであろうか。
 その日高見国から戻るときには遠征してきた往路のルートを取らずに、常陸から甲斐国へ向かっている。その甲斐国の酒折宮で「新治、筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌で家臣に尋ねたところ、火焚きの者が「かがなへて(日々を重ねて)夜には九日、日には十日」と返した。新治・筑波ともに常陸国の西側にある郡なので、復路は霞ヶ浦を渡らずに陸路で戻ったのだろう。甲斐国の酒折宮は現在の山梨県甲府市酒折にある、その名も酒折宮という神社が跡地とされている。この神社の主祭神はもちろん日本武尊である。

 日本武尊は、蝦夷を服属させたが信濃国と越国がまだ服していない、と言って武蔵から上野(かみつけの)を経由して碓日坂、現在の碓氷峠に着いた。ここで吉備武彦を越国に行かせ、自らは信濃国に向かった。高い山、深い谷、険しい坂道に悪戦苦闘しつつ、途中で山の神である白鹿を退治し、ようやく美濃に出て吉備武彦と落ち合うことができた。白鹿は土地の賊であろうか。ともかく信濃と越を押さえて美濃まで来た。そのまま尾張に向かい、尾張氏の娘である宮簀媛を娶ってしばらく留まった。

 ここまでの東国遠征で書紀の記述にある国を順に並べると、往路が「伊勢→駿河→相模→上総→陸奥」、復路が「日高見→常陸→甲斐→武蔵→上野→信濃・越→美濃→尾張」となる。往路は東海道の国々を順に進んでいることを考えると、伊勢と駿河の間の尾張、三河、遠江は記述にはないが通過していると考えていい。上総と陸奥の間の下総、常陸も同様だ。また、復路は主に東山道を進んでいる。これによって、景行天皇のときに蝦夷を含めて東国のほとんどの地域が支配下に置かれたということがわかる。景行53年、天皇は彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を東山道15国の都督に任じている。彦狭嶋王は残念ながら赴任前に亡くなったが、子の御諸別王(みもろわけのみこ)が後任として東国を治めた。また、書紀では成務天皇のときに諸国に国造を設けたことが記され、先代旧事本紀の国造本紀にはこれらの地域のほとんどが成務朝の御世に国造が定められたことが記される。そうすると遅くとも4世紀後半までにはほとんどの東国諸国が大和の支配下に入ったことになる。

 なお、古事記にも日本武尊(倭建命)の東征が記されるが、出発後に伊勢の倭媛命のところに立ち寄ったあと、尾張の宮簀媛のところにも行っている。また、足柄山で白鹿を退治するなど、内容が少し違っている。


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