古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

崇神天皇(その5)

2017年01月16日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 四道将軍が任命されたのが即位10年9月9日であるが、その直後の9月27日、北陸担当に任命された大彦命の異母弟の武埴安彦と妻の吾田媛による反乱の説話が記紀に記載される。崇神天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)と大彦命、さらに和珥氏の祖先である彦国葺に命じて反乱軍を討たせた。この反乱は何を意味するのだろうか。武埴安彦は第8代孝元天皇の子であり、第9代開化天皇の異母弟である。また、妻の吾田媛の名から連想されるのは「阿多」であり「阿多隼人」である。阿多は天孫族、すなわち神武天皇の祖先が大陸から流れ着いた地であり、一族はその地の豪族である阿多隼人と融合した。これらのことから、この反乱は神武王朝の一族が崇神王朝に対して起こした反乱であると言えよう。したがって、開化の兄である大彦命がこの反乱の鎮圧に参加している点は創作であろうと考えられる。
 神武王朝一族による崇神王朝に対する反乱はこれだけではなく、垂仁天皇のときにも起こっている。天皇の后である狭穂姫の兄、狭穂彦王が謀反を企てた話が日本書紀および古事記に記載されている。兄の狭穂彦王が妹の狭穂姫をそそのかして天皇を殺害しようとしたが失敗に終わり、二人は死を共にしたという話であるが、この狭穂彦王は開化天皇の孫にあたる。
 この2つの話から想像を膨らませると、崇神天皇のときに農民が流浪し反乱を起こした話も神武王朝あるいはそれに近い集団による反乱であったのかもしれないし、そもそも四道将軍を派遣した話も神武王朝と同盟関係にある国による反乱の事実があったのかもしれない。いずれにしても神武王朝は開化天皇の後も崇神王朝に対して抵抗を続けていたことがわかる。しかし、このあとも崇神王朝の勢力は衰えることはなかった


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