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古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

仲哀天皇(その2 熊襲征伐)

2017年11月15日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 仲哀8年、天皇と皇后は豊浦宮を出て筑紫に向かった。目的地は筑紫の橿日宮(現在の香椎宮)であるが、この行程においてもふたりは別行動をとっている。
 天皇はまず周芳(すわ)の娑麼(さば)の浦、現在の山口県防府市佐波に到着し、岡県主の先祖である熊鰐(わに)の歓迎を受けた。熊鰐はここで天皇に魚や塩を採る魚塩(なじお)の地を献上した。そのあと、穴門の引島、現在の山口県下関市彦島では伊都県主の先祖の五十迹手(いとて)の歓迎を受ける。天皇はこのときに五十迹手を褒めて「伊蘇志(いそし)」と言ったので時の人は五十迹手の国を伊蘇国と呼び、これがなまって伊都国になったという。魏志倭人伝にある伊都国である。3世紀後半、伊都国は現在の糸島市にあって倭国における外交窓口として栄えた国であった。天皇はそのまま関門海峡を抜けて山鹿岬(やまかのさき)、現在の北九州市若松区の遠見ケ鼻を経て岡浦(おかのうら)に入った。そして水門(みなと)に着いたときに船が進まなくなった。岡浦の水門とは遠賀川河口にあり、神武天皇が東征の際に立ち寄った岡水門(おかのみなと)のことである。古代には遠賀川下流域は古遠賀潟が広がっていて潮の干満で船の航行が左右された。おそらく天皇の船が岡浦についたときは干潮時にあたっていたのだろう。しかし、熊鰐が大倉主と菟夫羅媛(つぶらひめ)の男女二神が原因であると言うので天皇は舵取りの伊賀彦に二神を祭らせたところ、無事に進むことができた。

 ここで前述の娑麼の浦での熊鰐による歓迎と引島での五十迹手による歓迎の様子を見ておきたい。熊鰐は五百枝賢木(いおえのさかき)を船の舳先に立てて上段の枝に白銅鏡(ますみのかがみ)、中段の枝に十握剣、下段の枝に八尺瓊(やさかに)をかけて出迎えた。八尺瓊は勾玉であるので要するに三種の神器を賢木に吊るしたということだ。一方の五十迹手は、船の舳先と艫に立てた五百枝賢木の上段に八尺瓊、中段に白銅鏡、下段に十握剣を吊るして天皇を迎えた。こちらも同じ三種の神器である。このことから三種の神器は天皇家のみならず各地域の首長の権威を表すものでもあったことがわかる。熊鰐や五十迹手はそれを示すことによって自身が地域の首長であることを誇示するとともに、天皇に対して歓迎の意を表したのであろう。しかし熊鰐と五十迹手の場合では各神器の吊るす順番が違っているが、この順番によって首長の序列があったのだろうか、それともこの違いは各地域での祭祀方式の違いを表しているのだろうか。
 二代前の景行天皇が熊襲討伐のために西征した際に仲哀天皇と同様に周芳の娑麼に滞在したことがあった。このとき、南の方に煙が立ち上るのをみて賊がいると思い、確認のために使いを派遣したところ、女首長の神夏磯媛が(かむなつそひめ)が帰順の意を表しにやって来た。このとき神夏磯媛の船の舳先には、磯津山(しつのやま)で抜き取った賢木の上段に八握剣、中段に八咫鏡、下段に八尺瓊が吊るされ、さらに基準の意思を表す白旗が掲げられていた。ここでも三種の神器を賢木に吊るすという方法をとっているが、その順番は熊鰐や五十迹手と違っている。
 さらに書紀の神代巻を見れば天照大神の岩屋隠れの話に同様の場面が登場する。書紀本編においては、八十万の神々が天照大神を天岩屋から外へ出すために様々な策を施すなかで、中臣連の祖先の天児屋命(あめのこやねのみこと)と忌部氏の祖先の太玉命(ふとたまのみこと)が天香山の五百箇真坂樹(いおつまさかき)を掘り出して、上の枝に八坂瓊の五百箇御統(いおつみすまる)、中段の枝に八咫鏡、下段の枝には青と白の和幣(にきて)を掛けて祈祷するということを試みている。和幣とは麻の布のことである。一書(第3)においても同様に天香山の真坂木の上段に八咫鏡、中段に八坂瓊の曲玉(まがたま)、下段に木綿(ゆう)をかけて祈った、とある。三種の神器のうち剣が用いられずに麻布や木綿に替わっている。これは最高神である天照大神に対して剣を示すことが不適切であるということであろうか。そしてここでも上段と中段で順番が違っているが、重要なことは天岩屋の前で真坂木に神器を吊るして祈っていることである。三種の神器を真坂木あるいは賢木に吊るすという行為は祈りの際のしきたりなのであろう。

 話を元に戻して、天皇が引島から海岸伝いに岡浦へ進んでいた時、皇后は別の船で洞海(くきのうみ)から岡浦を目指した。洞海は現在の洞海湾であるが、古代には東西に広がる遠浅の湾で古遠賀潟によって遠賀川河口と水路でつながっていた。この皇后の船も洞海で進まなくなったと言う。同じく干潮によるものと考えられるが、皇后の場合は潮が満ちてきたので船が進んだと素直に書かれている。

 天皇、皇后ともにそのまま儺県(なのあがた)に向かい、橿日宮に入った。現在の香椎宮は仲哀天皇と神功皇后が主祭神として祀られ、本殿からすぐ近くにこのときに設けられた仮宮の伝承地があり「仲哀天皇大本営御旧蹟」の碑が建てられている。


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仲哀天皇(その1 崇神王朝の終焉)

2017年11月13日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 成務天皇には跡継ぎの皇子がいなかったため、異母兄である日本武尊の子、足仲彦尊が皇太子となっていた。そして成務天皇の崩御後に仲哀天皇として即位した。しかし、先に書いた通り私は成務天皇と日本武尊は同一人物であると考えるので、景行天皇、成務天皇(日本武尊)、仲哀天皇は直系で系譜をつないでいると言える。
 仲哀天皇が即位した年の11月、天皇は群臣に向かって「自分が二十歳になる前に父の王が亡くなり、魂は白鳥となって天に昇った。それで白鳥を飼うことによって父を偲びたい」と言って諸国に白鳥を献上させる詔をしているが、ここで「父王」という表現が使われている。また、越国から白鳥4羽が献上されようとしたときに蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が「白鳥も焼いてしまったら黒鳥になるだろう」と言ってその白鳥を奪い取ったことに対して、天皇は蒲見別王が先王に対して無礼であることを憎んで兵を送って誅殺した。ここでは「先王」という表現になっている。さらにこの事件に対して時の人が「父(日本武尊のこと)は天であり、兄(仲哀天皇のこと)は君主である。天を侮り、君主に叛けば罪は免れることができない」と言った。日本武尊を「天」と呼んでいる。これらはすべて日本武尊が天皇であったことを意味していると考えられる。

 仲哀天皇は気長足姫尊(おきながらしひめのみこと)を皇后としたが、それより先に叔父である彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘である大中媛(おおなかつひめ)を妃として香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)というふたりの皇子を設けていた。また、来熊田造(くまたのみやつこ)の祖である大酒主(おおさかぬし)の娘である弟媛(おとひめ)との間には誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を設けた。気長足姫尊はのちの神功皇后であるが、なぜ三番目の妻が皇后となったのであろうか。
 これを考えるにあたっては、日本武尊が近江の伊吹山の神に敗れて死に至ったことが、天皇家が近江勢力に敗北を喫したことを意味している、ということを思い出す必要がある。この近江勢力とは言わずもがな、天日槍の後裔たちが築きあげた大丹波王国に近江の息長勢力を加えた連合勢力である。仲哀天皇は自身の父である日本武尊、すなわち成務天皇がこの連合勢力に敗れたあとに即位したのである。大中媛や弟媛という本来なら皇后にしたい妻がいるにも関わらず気長足姫尊が皇后になったのは、天皇家に勝利して勢いを増したこの連合勢力が自陣の気長足姫尊を送り込んで強引に皇后にさせてしまったのである。大中媛との間にはすでに皇太子候補である香坂皇子と忍熊皇子の兄弟が存在し、弟媛との間にも誉屋別皇子がいたにも関わらず、未だ皇子を生んでいない気長足姫尊が皇后になる理由はそれ以外に考えにくい。要するに連合勢力が実権を握ろうと目論んだのだ。仲哀紀を読んでも天皇と皇后が夫婦である印象が全くと言っていいほど伝わってこないことはそれを裏付けているのではないだろうか。
 仲哀2年、角鹿(敦賀)に行幸して行宮として笥飯宮(けひのみや)を設けたとあるが、これも実際は行宮ではなく、景行天皇が晩年に遷都した高穴穂宮を廃止して笥飯宮に遷都したのではないだろうか。もちろん連合勢力の仕業である。これによって仲哀天皇は完全に実権を失うこととなり、崇神王朝はここで実質的な終焉を迎えたと言ってもいいだろう。もともとこの敦賀の地は書紀において天日槍が渡来後に但馬に拠点を設けるまでに移動したルートにあたっており、大丹波王国が押さえていた要衝の地であったのだ。また、「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」や「天日槍の王国」などで見たとおり、このあと神功皇后に応神天皇が生まれると、連合勢力と敦賀あるいは笥飯(気比)とのゆかりがさらに深まっていくことになるのだ。そういう状況下にあって仲哀天皇は遷都後すぐに紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)に行幸しているが、これには皇后を伴っていない。これは明らかに連合勢力からの逃避であろう。こういう様子を見ていると、仲哀天皇と神功皇后が本来の夫婦関係にあったとは到底思えないのだ。現在の和歌山市新在家に徳勒津宮の跡地がある。

 天皇が紀伊国に行幸しているときに熊襲が叛いた。景行天皇の時以来、三度目の反乱である。中央政界が大きく揺れている真っ只中での反乱であるが、このタイミングは偶然であろうか。私は神功皇后が仕組んだのではないかと考えている。崇神王朝が実質的に終焉を迎えようとしている中での有事の勃発はさらに政権の力を弱めることになる。仲哀天皇にとってはまさに内憂外患である。
 天皇は徳勒津宮から船で穴門(山口県)に向かうとともに、敦賀に使いを出して神功皇后に対して穴門で落ち合おうと告げた。天皇は先に豊浦津(とゆらのつ)に到着したが、皇后は敦賀を出て渟田門(ぬたのみなと)に着き、船上で食事をとった。このとき、たくさんの鯛が船の周りに集まって来たので皇后がそこに酒を注いだところ、鯛は酒に酔って浮かんできた。漁師たちはその鯛を得て大いに喜んだ。この話、神武天皇が東征の際に大和に侵攻しようと戦っているときに丹生川の上流で勝敗を占った際の行為とそっくりだ。酒の入った甕を丹生川に沈め、大小の魚が酔ってマキの葉が流れるように浮かび上がってきたら必ずこの国を平定できるだろう、と言って甕を沈めたところ、魚が皆浮かび上がって来たので天皇は大いに喜んだという。神功皇后の行為は神武天皇が行った占いの行為そのものであり、さらにはその結果によって勝利、すなわち仲哀天皇からの政権奪取を暗示するものであった。このあと、仲哀紀および神功皇后紀における皇后の行為において、神に教えを乞うたり、神の教えに従ったり、神に依存する場面が多く出てくる。皇后が神と通じる存在であることをほのめかす意図があるのだろう。

 皇后は約ひと月遅れで豊浦津に着いた。このとき、如意珠(全ての願いが叶う珠)を海中から拾い上げたという。これは山幸彦が失くした針を探し求めて滞在した海神の宮殿から戻るときに海神からもらった潮の満ち引きを自由に扱える潮満玉(しおみつたま)と潮涸玉(しおひのたま)を思い出す。神と通じる存在になったこと合わせて神功皇后がどんどん強くなっていく様子が窺える。その後、穴門に豊浦宮を設けた。しかし、ここからすぐに熊襲征伐に向かったわけではなく、その後この豊浦宮での滞在が6年にも及ぶことになる


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成務天皇(その1 天皇即位)

2017年10月23日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀には成務天皇は景行天皇の第四子であると書いてある。景行天皇の最初の皇后は播磨稲日大郎姫であるが、この后との間に生まれたのが大碓皇子と小碓尊(日本武尊)の双子の兄弟であった。ただし書紀には「一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子」とあって、播磨稲日大郎姫との間にもうひとり、稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)という第三子がいたことも記される。そして皇后が亡くなったあとに美濃から招いた八坂入媛命を后として生まれたのが稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、すなわち成務天皇である。したがって書紀の第四子という記述は一書にある播磨稲日大郎姫との間にできた第三子を数えてのことと思われる。

 さて、景行天皇から仲哀天皇にかけての期間、各天皇や皇子の生誕や崩御を丁寧にみると大きな矛盾を見つけることができる。確認してみよう。

 まず、景行27年に小碓尊(日本武尊)が16歳で熊襲征伐に向かったことが記されるので、日本武尊の生誕年は景行11年であることがわかる。そして日本武尊は30歳で亡くなったのでそれは景行41年ということになる。また、景行天皇の崩御は景行60年とある。さらに、成務紀には景行46年に稚足彦天皇(成務天皇)が24歳で皇太子になったとあるので、成務天皇の生誕が景行22年ということがわかる。その成務天皇は成務60年に崩御。また、仲哀紀には仲哀天皇は成務48年に31歳で皇太子になったことが記されることから、その生誕は成務17年となる。これを時系列に並べると次のようになる。(※印が書紀に記述あり)

  景行11年  日本武尊が生まれる
    22年  成務天皇が生まれる
    27年  日本武尊が16歳で熊襲を討つ(※)
    41年  日本武尊が30歳で薨去する(※)
    46年  成務天皇が24歳で皇太子になる(※)
    60年  景行天皇が崩御する(※)
  成務17年  仲哀天皇が生まれる
    48年  仲哀天皇が31歳で皇太子になる(※)
    60年  成務天皇が崩御する(※)

 問題は成務17年である。この年に仲哀天皇が生まれているが、この天皇は日本武尊の子である。しかし日本武尊はその36年前の景行41年にすでに亡くなっている。この矛盾も含めて仲哀天皇が実在しなかったという説がある。そもそも父親である日本武尊や后である神功皇后の実在性すら疑わしいとも言われる。日本武尊は複数の英雄によってなされた全国平定をあたかもひとりの英雄が成し遂げた話として創作されたと言われ、神功皇后は記紀編纂時に権力の座にあった持統天皇をモデルに創作されたという見方がある。そしてこのふたりの存在やそれにまつわる説話を史実として語るために創造されたのが仲哀天皇であると言うのが「仲哀天皇架空説」である。そして成務天皇であるが、成務天皇についてもその実在性が疑われており、主な理由は以下の通りである。

  ①60年の在位期間での事績が少なすぎる。主な事績は次の3点。
    ・武内宿禰を大臣に任命したことと。
    ・諸国の国郡に造長を、県邑に稲置を立てたこと(行政管理体制の整備)。
    ・甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を皇太子としたこと。
  ②二段階の行政管理体制は成務天皇よりも後世であると考えられている。
  ③皇太子にした足仲彦尊はそもそも実在を疑われる日本武尊の子である。

 ①については、事績が少ないことで実在しなかったとするのは暴論のように感じる。欠史八代の実在性についても同様の理由が挙げられるが、本当に特筆すべき事績がなかったのかもしれないし、単に記録が残っていないだけかもしれない。②についても、確かに二段階になったのは後世かもしれないが、景行天皇のときに諸国を平定し、次の成務天皇のときに何らかの諸国管理体制の整備が始まった、という話の流れには違和感はなく、それが当初から二段階であったと誇張されていたとしても記紀の記述においてはよくあることなので何ら問題がないように思う。そして③であるが、これについては日本武尊をどう考えるか、ということになる。

 前述したように、日本武尊は複数の英雄によって成し遂げられた全国平定が、あたかもひとりの英雄によるものとして創作されたという考え方があるが、これには妥当性があるように思う。というのも、ひとりの人物が西は九州から東は東北と全国を巡り、自らの手で各地の豪族を討伐し続けたとは実際には考えにくい。むしろ、日本武尊を総大将とする複数の討伐軍が各地に赴いて同時多発的に行った作戦と考えた方が納得感がある。これは景行天皇による九州平定も同じで、天皇自らが九州を順に進攻したというのは現実味がなく、実際のところ天皇は豊前国長峡県に設けた行宮で指揮をとり、九州各地に軍を派遣したと考えるべきであろう。

 日本武尊は全国平定の総大将として実在したが、各地の平定物語があたかも全て日本武尊自らの手によってなされたというのは創作である、というのが私の考えである。さらに、実在した日本武尊は成務天皇と同一人物である、とも考える。先に「景行天皇(その11 日本武尊の死)」のところで日本武尊は天皇であった可能性が高いと書いた。さらに、伊吹山の神に敗れて亡くなったことが近江勢力に敗北を喫したことを意味しているとも書いた。天皇が敵対する近江勢力に敗北したとは書けないので、日本武尊が天皇であったことを伏せ、さらにそのまま亡くなったことにしたのだ。これによって天皇が敗北した事実が明るみに出ることはなくなる。したがって、私は日本武尊の死は創作であったと考える。

 日本武尊の死が創作であると考えると、先に指摘した日本武尊の死後に子の仲哀天皇が生まれたという矛盾はなくなる。また、日本武尊と成務天皇が同一人物だとすると、成務天皇の事績が少ないというのも納得できる。そもそも、景行天皇と最初の后である播磨稲日大郎姫との間にできた子は日本武尊のほかに大碓皇子がいる。一書には第三子として稚倭根子皇子がいることも記している。日本武尊が薨去したとしても、このいずれかを後継にできたはずなのに景行天皇が皇太子として指名したのは第二の后である八坂入媛との間にできた稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)であった。そしてこの成務天皇(稚足彦尊)は皇子を持たなかったために異母兄である日本武尊の子、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を皇太子としたが、同母弟である五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)や忍之別皇子(おしのわけのみこ)、あるいはその子に継がせることはしなかった。

 このように景行天皇から仲哀天皇に至る系譜は日本武尊の死を挟んで無理のある設定となっている。これが景行天皇の子である稚足彦尊、すなわち成務天皇が日本武尊と同一であると考えると無理なく直系の系譜としてつながってくる。そう考えると、成務天皇(稚足彦尊)に皇子がいなかったという設定も頷ける。本来の系譜である日本武尊の子に戻すことが簡単にできるからだ。

 成務天皇や仲哀天皇が実在しないと考える根拠のひとつに和風諡号の考察がある。成務天皇の和風諡号は「稚足彦(わかたらしひこ)」で、仲哀天皇が「足仲彦(たらしなかつひこ)」である。景行天皇は「大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)」だ。この「たらし」が7世紀前半の在位が確実とされる第34代舒明天皇(息長足日広額、おきながたらしひひろぬか)、第35代皇極天皇(天豊財重日足姫、あめとよたからいかしひたらしひめ)と共通することから、諡号に「たらし」を持つ景行、成務、仲哀は後世の創作である、という考えだ。また、成務天皇はこの「たらし」に「稚(わか)」を加えただけ、仲哀天皇は「仲(なか)」を加えただけで、どちらも意味を持つ固有名詞と考えにくいとも言われている。
 和風諡号については、欠史八代が実在しない理由のひとつともされている。欠史八代のうち、懿徳、孝安、孝霊、孝元、開化の5人の天皇の諡号には7世紀に国号として定まった「日本(やまと)」がつくことから、これらの天皇が実在しないというのだ。天皇の諡号については、漢風諡号は8世紀に淡海三船が定めたとされるが、和風諡号については実のところよくわかっていないのが実態だ。とくに古代の天皇について和風諡号を根拠にして白か黒かを論じるのはあまり意味がないように思う。私は記紀を素直に読んで欠史八代も、景行・成務・仲哀も実在したと考える。ただし、成務天皇は日本武尊と同一であると考えたい。


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景行天皇(その12 近江遷都)

2017年10月21日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行53年、日本武尊の平定した諸国を巡幸したいと考えた天皇は伊勢から東海道に入った。上総国から海路で淡(安房)の水門に着いた。淡水門は弟橘姫が入水した馳水(はしるみず)、つまり浦賀水道であろう。東国からの帰りに伊勢に立ち寄り、綺宮(かにはたのみや)に留まった。綺宮は三重県鈴鹿市加佐度町に跡地がある。近くに日本武尊の墓である能褒野王塚古墳があるので、天皇は子の地でわが子を偲んだのであろう。そして翌年、大和の纒向宮に戻り、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道15国の都督(かみ)に任じた。彦狭島王は豊城命の孫であるが、書紀には豊城命は崇神天皇のときに東国に派遣され、上毛野君、下毛野君の先祖になったとある。しかし彦狭島命は赴任前に亡くなったので、子の御諸別王(みもろわけのみこ)が後任として派遣された。任期中、蝦夷が騒いだので兵を送ったところ、蝦夷の首領たちが降伏してきた。御諸別王は降伏する者を許し、服従しないものを誅殺した。東国はこのあと久しく事が起こることがなかった。

 景行57年、天皇は諸国に田部と屯倉を作らせた。田部は天皇家の田で、屯倉は天皇家の直轄領のことである。日本武尊の活躍もあって支配の及ぶ地域が全国に広がったための措置であろう。翌年、天皇は近江国に行幸し志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に3年間滞在した。そしてその地で崩御された。高穴穂宮はその後、成務天皇が60年、仲哀天皇が1年、宮として暮した。滋賀県大津市穴太にある高穴穂神社がその跡地とされるが、天皇はなぜここに宮を設けたのだろうか。
 高穴穂宮は琵琶湖の南西部、比叡山の東麓にある。すぐ近くには天智天皇の近江京(近江大津宮)があることから、これをもとにした創作であろうとの説があるが、私はここに三代の天皇が住んだかどうかは定かではないが、何らかの拠点があったのではないかと考える。琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川は宇治川から淀川となって河内湖に流れ込み、そのまま瀬戸内海に通じる。そして先に見たように、琵琶湖対岸の北東部には天敵の息長氏が居を構えている。息長氏は近江から北へ抜けて敦賀から日本海へと出るルートを押さえていたので、この南のルートを押さえられると大和は孤立することになってしまう。景行天皇はそれを恐れて高穴穂に拠点を設けたのではないだろうか。

 息長氏の拠点である近江国坂田郡は琵琶湖東岸、現在の長浜市、米原市、彦根市の広範囲にわたっており、さらに琵琶湖の水運をも押さえていたであろう。また、琵琶湖の南東地域は天日槍の勢力が及んでいた。天日槍の渡来に同行してきた陶人(すえひと)が住んだのが鏡邑であり、現在の滋賀県蒲生郡竜王町の鏡村とされる。さらに少し南西にある草津市穴村町は天日槍が住んだとされる吾名邑と考えられている。そして、この息長氏と天日槍によるふたつの勢力圏のちょうど中間地点で発見されたのが稲部遺跡である。彦根市教育委員会の資料をもとに稲部遺跡を詳しく見てみよう。

 稲部遺跡は彦根市稲部町、彦富町にまたがる微高地に位置し、弥生時代後期中葉から古墳時代中期にかけて栄えた巨大集落遺跡である。その広さは20万㎡におよぶ。また、遺跡周辺は弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡が密集する地域でもある。各地の土器が出土しており、その範囲は大和、伯耆、越前、美濃、伊勢、尾張、駿河などにおよび、この集落が広範囲にわたる各地と交流がなされていたことがわかる。また、韓式系土器も出ており、朝鮮半島との交流も窺える。韓式系土器とは、三国時代(3~7世紀)の朝鮮半島南部地域から渡来人が持ち込んだり、すでに日本に居住していた人が半島の土器を真似て作った土器のことである。
 青銅器の鋳造や朝鮮半島から運ばれた鉄素材をもとに鉄器の大規模な生産を行うとともに、大型建物や100㎡を超える超大型建物、独立棟持柱建物という首長層の居館と考えられる建物や儀礼に使用されたと考えられる建物と区画が時代を経るごとに出現する。政治都市や祭祀都市としての面を強く持ち、工業都市としての面も併せ持つ近江の巨大勢力の中枢部である。
 弥生時代終末期から古墳時代前期にかけては、3棟の大型建物が検出され、集落の中心的な儀礼空間と考えられる。近くの大溝跡からは韓式系土器が出土。さらに方形区画の内側に大型建物、区画の南側には大規模な鍛冶工房群と考えられる23棟以上の竪穴建物が見つかり、ここで鉄器の生産が行われた。その後、古墳時代前期前半から後半にかけて、方形区画を切ってさらに新しい大型建物2棟、超大型建物3棟が柵あるいは塀を伴って出現する。これらは倉庫や儀礼施設、あるいは首長層の居館と考えられる。最も大きい建物は188㎡あり、纒向遺跡の超大型建物(約238㎡)に次ぐ当時の国内屈指の規模である。

 「天日槍の王国」「天日槍と大丹波王国」に書いた通り、新羅から渡来した天日槍とその後裔一族は但馬を拠点に播磨、宇治、近江、若狭と、近畿北部のほぼ全域にわたる一大王国を築いた。そして近江においては息長氏と婚姻関係を築き、生まれたのが天日槍の七世孫である息長帯比売命、すなわち神功皇后である。稲部遺跡は弥生時代終末期から繁栄を始めたという。天日槍が渡来した垂仁天皇の時期から次の景行天皇の時期にあたる。その景行天皇の時、日本武尊が全国平定の仕上げとして出向いた近江の伊吹山で山の神に敗れた。この伊吹山での一戦が大和の崇神王朝と丹波・近江勢力との戦いを象徴しており、崇神王朝が丹波・近江勢力に敗北を喫したことが後の神功皇后、応神天皇による政権交代につながるきっかけになったということはすでに書いた。その崇神王朝の都であった纒向に匹敵する大型建物や製鉄工房をもつ巨大集落であり、息長氏の本貫地と天日槍一族の近江における勢力地の中間地点にある稲部遺跡は、この丹波・近江連合勢力の拠点ではなかっただろうか。

 丹波・近江連合勢力は琵琶湖の東側の北から南までの全域を押さえた。この一帯は北へ抜ければ日本海、東へは尾張、美濃から東国へ通じ、先述の通り、瀬田川を下れば難波から瀬戸内海、さらにその先には九州、朝鮮半島がある。まさに日本列島の中心地、列島の要衝の地である。崇神王朝は大和の奥津城に引っ込んでいる場合ではなかったのだ。

 景行天皇が高穴穂に宮を移して以降、崇神、垂仁、景行と続いた纒向に宮が戻ることはなかった。石野博信氏によると、2世紀末に突如として現れた纒向遺跡は4世紀中頃に突然に消滅したという。景行天皇がその晩年に高穴穂宮に遷都した時期と重なる。


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景行天皇(その11 日本武尊の死)

2017年10月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 日本武尊が東国平定を終えて戻ってきた尾張で娶った宮簀媛は初代尾張国造である小止余命の子で、尾張戸神社の祭神である建稲種命の妹である。日本武尊はこのあと草薙剣を宮簀媛のもとに置いて近江の五十葺山(伊吹山)の荒ぶる神を倒すために出かけた。しかし、山の神は雲を起こして雹を降らせた。峯には霧がかかり谷は暗くなり、日本武尊は道に迷った。正気を失って病になり、やっとの思いで尾張に戻ることができた。しかし宮簀媛のもとには帰らず、さらに進んで伊勢の尾津浜で食事をとり、そのまま能褒野に向かった。尾津は尾張との境の揖斐川下流右岸、三重県桑名市多度町にある尾津神社あたりとされる。
 能褒野では蝦夷から連れて帰ってきた捕虜を伊勢神宮に献上し、吉備武彦を遣わして天皇に帰還の報告をした。しかし、ここで病が悪化し、そのまま亡くなってしまった。年齢は30歳だった。能褒野は三重県亀山市の東部から鈴鹿市の西部にわたる地域で、亀山市田村町には能褒野古墳群があり、その中で最大規模とされる墳丘長90mの前方後円墳である能褒野王塚古墳(能褒野墓)が日本武尊の墓に治定されている。しかし、この古墳の築造は4世紀末とされているので、少し時代が合わない。
 書紀には日本武尊の墓が三ケ所あると記される。ひとつは前述の能褒野王塚古墳、もうひとつが倭の琴弾原(現在の奈良県御所市冨田)、三つめが河内の古市邑(現在の大阪府羽曳野市軽里)である。能褒野に葬られた後、亡骸は白鳥となって能褒野から琴弾原、古市邑と飛び渡り、最後は天に昇って行ったとされる。古事記では能褒野から河内国の志幾(志紀)に飛んだ後、そのまま天に昇ったとある。宮内庁は書紀の記述を尊重し、能褒野王塚古墳(能褒野墓)、御所市の日本武尊琴弾原白鳥陵、羽曳野市の前の山古墳(日本武尊白鳥陵)の3つを全て日本武尊の墓に治定している。


 日本武尊が近江の伊吹山の神に敗れたことは、近江の勢力を制圧できなかったことを意味していると考える。「天日槍の王国」に書いたとおり、近江は天日槍の勢力が及んでいた。天日槍は渡来後に近江の吾名邑に住んだことがあり、またその近くには彼が連れてきた陶人(すえひと)が住む鏡邑があった。古事記によると、天日槍の七世孫が息長帯比売命(神功皇后)であり、息長氏は琵琶湖東岸の近江国坂田郡、まさに伊吹山の西麓にあたる一帯を拠点とする氏族であった。

 ここであらためて景行天皇と日本武尊が平定した地域を振り返ると、九州(ただし隼人の拠点である九州最南部を除く)、吉備、難波、東国、蝦夷となり、古事記ではこれに出雲が加わる。ほぼ全国にわたっているが、丹波が入っていないことに気がつく。私は、丹波は天日槍とその後裔一族が基盤をおく地域で、大丹波王国として大和の天皇家に匹敵する勢力を持っていたと考えている。そして近江はその丹波勢力とつながりを持つ息長氏の拠点であり、日本武尊はそこで敗れた。私はここに、崇神・垂仁の二代にわたって、さらに景行の前半まで含めると三代にわたって勢力を拡大し、神武王朝をも従えた崇神王朝の勢いに陰りを感じるのだ。その勢いにストップをかけたのが丹波を後ろ盾とした近江勢力、すなわち息長氏であった。日本武尊の伊吹山における山の神との戦いは、大和の崇神王朝と丹波・近江勢力との戦いを象徴しているのだと考える。

 ところで、日本武尊が天皇であったという説がある。書紀では「日本」、古事記では「倭」を名に持つことに加えて、書紀においては東征前に景行天皇が「我が子であるがその実は神人だ」「この天下はお前の天下、この位はお前の位」と言い、東征時には三種の神器のひとつである草薙剣を持たせ、日本武尊を「王(みこ)」、乗る船を「王船(みふね)」と記している。蝦夷と対峙する場面でも自らを「現人神の子」と名乗り、能褒野、琴弾原、河内の墓は全て「陵」と記される。古事記では景行天皇の段はほぼ全てが倭建命の事績で埋められるだけでなく、弟橘比売を「后」と記し、東征後に尾張に戻ったときに美夜須比売が神や天皇が食べるものを意味する「大御食(おおみけ)」を差し上げたと記す。常陸国風土記にいたっては、日本武尊を倭武天皇、弟橘媛を橘皇后と記している。私は日本武尊が天皇であった可能性はかなり高いと思う。記紀ともに、皇位継承権を持ちながら父である景行天皇よりも先に亡くなったので天皇になれなかったように装うが、東征前の景行天皇の言葉は日本武尊が皇位を継承したことの表れではないかとさえ思える内容だ。しかし残念ながら近江勢力に敗北を喫したことで死に至り、さらにその敗北が後の神功皇后と応神天皇による政権交代につながるきっかけとなったことから、日本武尊が天皇であったと直接的に記すことができなかったのではないだろうか。


 さて、宮簀媛の家に置いていった草薙剣であるが、現在は三種の神器のひとつとして熱田神宮に祀られている。熱田神宮の公式サイトによると、祭神は熱田大神、相殿神として天照大神、素戔鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀り、主祭神の熱田大神は草薙剣を御霊代(みたましろ)・御神体とよせられる天照大神であると、としている。しかし、相殿神に天照大神を祀っていることを考えると熱田大神を天照大神とすることに違和感を抱かざるを得ない。熱田大神はご神体である草薙剣そのものと考えるか、または尾張氏の祖先にあたる人物と考えるのが妥当ではないだろうか。
 草薙剣は素戔鳴尊が出雲で八岐大蛇を退治した時に尾から取り出したものを天照大神に献上し、次に天照大神が天孫降臨に際して瓊々杵尊に授けた。その後、八咫鏡とともに崇神天皇の宮に祀られていたものを宮外の笠縫邑に遷し、倭媛命によって伊勢神宮にもたらされた。それを日本武尊が受け取って東国平定に持参し、尾張に戻ったときに宮簀媛に預けた。そして日本武尊は戻ることなく亡くなったので、宮簀媛が熱田の地に社地を定めて祀ることになった。その後、盗難に合って神社外へ出たことがあったものの、今日現在まで熱田神宮に祀られている。よく考えると、八岐大蛇も天孫降臨も神話であり、何らかの史実に基づくとはいえ創作された話である。この剣はもともと尾張にあったのではないだろうか。
 草薙剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ばれる。勘注系図によると、火明命の孫に天村雲命の名が見える。この天村雲命から海部氏と尾張氏に分かれていくので、天村雲命は尾張氏の始祖であるとも言える。同様に先代旧事本紀の天孫本紀においても天村雲命から尾張氏が始まっている。天叢雲剣と天村雲命、名前が一致するのは偶然だろうか。天叢雲剣はもともと尾張氏に伝わる剣ではなかっただろうか。尾張氏が尾張に定着し、天皇家との関係が深まる中で神器のひとつと看做されるようになっていった。そして熱田神宮にはその天叢雲剣とともに、尾張氏の始祖である天村雲命が主祭神として祀られているのではないだろうか。


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景行天皇(その10 東国征討)

2017年10月02日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行40年、天皇は東国へ出発しようとする日本武尊に斧と鉞(まさかり)を授けて、蝦夷は凶暴で手強い、一方で日本武尊は勇猛かつ無敵で、まさに神であると説き、天下の位も日本武尊のものであると言って、吉備武彦、大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)のふたりを従わせるとともに、七掬脛(ななつかはぎ)を料理人として付き添わせた。
 日本武尊はまず倭媛命に会うために伊勢神宮に立ち寄った。そこで倭媛命から激励を受け、草薙剣を授かった。草薙剣は三種の神器のひとつで、素戔鳴尊が八岐大蛇を退治したときに尾から出てきた剣だ。神の剣だからということで天つ神(古事記では天照大御神と明記されている)に献上されたのだが、天孫降臨の際に天照大神が八尺瓊勾玉と八咫鏡とともに瓊々杵尊に授けられた。草薙剣がその後に倭媛命の手に渡った経緯は記紀に記されないが古語拾遺によると、崇神天皇のとき、同床共殿による神の勢いを畏れ、形代(かたしろ)を作らせた上で鏡、剣ともに笠縫邑に遷して豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせたと記される。その後、天照大神を祀る役割が倭媛命に代わったときに草薙剣も倭媛命の手に渡り、天照大神とともに各地を巡った後に伊勢で祀られるようになったのだ。

 伊勢から駿河に入った日本武尊は土地の賊に騙され、野で狩をしているときに火を放たれて焼き殺されそうになったが、火打石で迎え火を作って逃れることができた。書紀の一書では、腰に差していた剣が草を薙ぎ払ってくれたおかげで難を逃れたことから「草薙剣」の名がついた、とある。
 その後、相模から上総に渡ろうとしたとき、小さな海だから飛び上がって渡ることができるだろと言い放ったにも関わらず、途中で風が吹き荒れて船が進まなくなった。付き添っていた弟橘媛(おとたちばなひめ)が、海神の仕業を鎮めるために海に入りましょう、と言って入水すると風が止んで無事に上総に渡ることができた。この海は馳水(はしるみず)と呼ばれているが、現在の浦賀水道である。
 さらに上総から陸奥国に入った。海路で葦浦に回り、玉浦を横切って蝦夷との境に至った。葦浦や玉浦が現在のどのあたりかはよくわからないが、上総から海路で向かったとあることから、茨城県の沿岸だろうか。しかし、玉浦を横切ったともあるので海岸沿いに行ったのではなく、海を渡って対岸に着いた状況が浮かぶ。とすると、この海は霞ヶ浦だろう。
 蝦夷の首領たちが竹水門(たかのみなと)に集まって日本武尊の侵入を防ごうとしたが、その威勢に恐れをなして降伏した。日本武尊は蝦夷を捕虜として大和に連れ帰ろうとした。そして日高見国から常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮に着いた。竹水門は陸奥国と蝦夷の国の境界にあったと考えられる。記紀が編纂された8世紀初め頃の陸奥国は現在の宮城県の松島以南とされることから、竹水門は松島湾のあたりで、竹水門を「たかのみなと」と読むことから陸奥国宮城郡多賀郷(現在の宮城県多賀城市付近)とするのが通説のようである。日高見国は景行27年に東国視察から戻った武内宿禰が攻略して手に入れようと奏上した蝦夷の国だ。北上川の名の由来になったとも言われるので、北上川の下流域あたりであろうか。
 その日高見国から戻るときには遠征してきた往路のルートを取らずに、常陸から甲斐国へ向かっている。その甲斐国の酒折宮で「新治、筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌で家臣に尋ねたところ、火焚きの者が「かがなへて(日々を重ねて)夜には九日、日には十日」と返した。新治・筑波ともに常陸国の西側にある郡なので、復路は霞ヶ浦を渡らずに陸路で戻ったのだろう。甲斐国の酒折宮は現在の山梨県甲府市酒折にある、その名も酒折宮という神社が跡地とされている。この神社の主祭神はもちろん日本武尊である。

 日本武尊は、蝦夷を服属させたが信濃国と越国がまだ服していない、と言って武蔵から上野(かみつけの)を経由して碓日坂、現在の碓氷峠に着いた。ここで吉備武彦を越国に行かせ、自らは信濃国に向かった。高い山、深い谷、険しい坂道に悪戦苦闘しつつ、途中で山の神である白鹿を退治し、ようやく美濃に出て吉備武彦と落ち合うことができた。白鹿は土地の賊であろうか。ともかく信濃と越を押さえて美濃まで来た。そのまま尾張に向かい、尾張氏の娘である宮簀媛を娶ってしばらく留まった。

 ここまでの東国遠征で書紀の記述にある国を順に並べると、往路が「伊勢→駿河→相模→上総→陸奥」、復路が「日高見→常陸→甲斐→武蔵→上野→信濃・越→美濃→尾張」となる。往路は東海道の国々を順に進んでいることを考えると、伊勢と駿河の間の尾張、三河、遠江は記述にはないが通過していると考えていい。上総と陸奥の間の下総、常陸も同様だ。また、復路は主に東山道を進んでいる。これによって、景行天皇のときに蝦夷を含めて東国のほとんどの地域が支配下に置かれたということがわかる。景行53年、天皇は彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を東山道15国の都督に任じている。彦狭嶋王は残念ながら赴任前に亡くなったが、子の御諸別王(みもろわけのみこ)が後任として東国を治めた。また、書紀では成務天皇のときに諸国に国造を設けたことが記され、先代旧事本紀の国造本紀にはこれらの地域のほとんどが成務朝の御世に国造が定められたことが記される。そうすると遅くとも4世紀後半までにはほとんどの東国諸国が大和の支配下に入ったことになる。

 なお、古事記にも日本武尊(倭建命)の東征が記されるが、出発後に伊勢の倭媛命のところに立ち寄ったあと、尾張の宮簀媛のところにも行っている。また、足柄山で白鹿を退治するなど、内容が少し違っている。


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景行天皇(その9 尾張の勢力)

2017年09月23日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 熊襲討伐の功で天皇の篤い寵愛を受けた日本武尊であったが、次に東国が騒がしくなったときに再び征討担当に任命されることとなった。自分は九州から戻ったばかりで疲れているので次は大碓皇子を派遣してはどうかと奏上したところ、大碓皇子は逃げて隠れてしまった。天皇は大碓皇子を美濃に封じることにして、結局は日本武尊を派遣することにした。

 またしても美濃が出てきた。どうやら景行天皇の時代は美濃や尾張に縁があるようだ。すでに見たように景行天皇は美濃へ行幸して八坂入媛を娶り、その後も美濃国造の娘である兄遠子・弟遠子の姉妹を望んで大碓皇子を派遣したが、こっそり大碓皇子に奪われてしまった。その大碓皇子は東国遠征の件で美濃に封じられた。日本武尊は熊襲討伐において弓の名手である美濃の弟彦公を召集し、弟彦公は尾張の田子稲置と乳近稲置を連れてきた。また、このあと出てくるが、日本武尊は東国遠征に先立って伊勢に立ち寄ったが、その際に倭姫命から授かった草薙剣が尾張の熱田神宮に納められている。さらに東征の途中に尾張に立ち寄って宮簀媛(みやずひめ)を娶った。

 このように景行天皇の時に美濃や尾張と盛んに交流が行われたことがわかる。景行天皇は纒向の日代に宮を置いた。先代の垂仁天皇の宮は纒向珠城宮であった。前者の跡地は奈良県桜井市穴師、後者は桜井市巻野内とされ、いずれも纒向遺跡の東端にあたる。纒向遺跡では大和以外の地域から運び込まれた多くの外来系土器が出土しているが、3世紀末にその比率が高まることと、外来系土器の半数近くが東海地方のものであることがわかっている。この時代の纒向と美濃・尾張との交流、交易が盛んであったことの裏付けと言えよう。このあたりの話、もう少し考えてみたい。

 愛知県名古屋市の北東端にある守山区上志段味(しだみ)に志段味古墳群がある。庄内川が山地を抜けて濃尾平野へと流れ出る部分にあたり、市内最高峰の東谷山(とうごくさん)の山頂から山裾、庄内川に沿って広がる河岸段丘の上に大小の古墳が分布する。4世紀前半から7世紀にかけて、一部の空白期間を挟んで古墳時代を通してさまざまな古墳が築かれた。確認されている古墳は全部で66基、そのうち33基が現存する。現在は名古屋市が「歴史の里 しだみ古墳群」として整備中であり、発掘調査や古墳の復元が進められている。この中のふたつの古墳に注目したい。ひとつは全長115mの前方後円墳である白鳥塚古墳。愛知県で最初に築造された大型前方後円墳とされ、その形は崇神天皇陵と治定されている奈良県の行燈山(あんどんやま)古墳に似ているという。この行燈山古墳はもともと景行天皇陵に治定されていた。古墳の後円部頂上や斜面の葺石の上には多量の石英がまかれて墳丘が飾られ、石英で白く輝いていたことから白鳥塚の名がついたと言われている。もうひとつは東谷山の山頂にある尾張戸(おわりべ)神社古墳。墳径27.5mの円墳で斜面の葺石上には白鳥塚古墳と同様に石英がまかれていた。古墳上には尾張戸神社があり、祭神として天火明命、天香語山命、建稲種命(たけいなだねのみこと)が祀られている。天火明命は尾張氏の始祖、天香語山命はその子、建稲種命は天火明命の十二世孫にあたり、初代尾張国造である小止与命(おとよのみこと)の子で宮簀媛の兄である。いずれの古墳も築造は4世紀前半とされている。これらに加えて愛知県にはもうひとつ興味深い古墳がある。愛西市(旧海部郡佐織町)にある墳径25mの円墳である奥津社古墳だ。これも4世紀前半の築造とされ、尾張国造の領域内では最古とされている。墳頂に奥津社という神社があり、宗像三女神が祀られている。この神社には椿井大塚山古墳出土のものと同范とされる三面の三角縁神獣鏡が所蔵されている。これらの古墳に注目する理由はいずれも築造時期が4世紀前半とされていることである。加えて、大和の大王の古墳と同様式の古墳であること、葺石に石英をふんだんに使う贅沢な古墳であること、大和とのつながりを想起させる三角縁神獣鏡が出たと考えられること、などだ。

 このことから3世紀後半から4世紀前半にかけての時期、尾張の地にはかなりの有力者がいて大和王権との交流が行なわれていたと考えられる。では、その有力者とは果たして景行紀に記される八坂入彦や美濃国造の神骨なのだろうか。尾張戸神社の祭神にあるようにこの有力者はやはり尾張氏であろう。「尾張氏と丹波」にも書いたように私は、尾張氏は大和の葛城に近いとされる高尾張邑を本拠とし、神武東征で功績のあった高倉下(たかくらじ)以来、神武王朝に仕えた氏族であると考えるが、その尾張氏の一部が高尾張を出て丹後へ移り、さらに愛知に移って勢力基盤を築き、結果として丹波国造や尾張国造となっていった。大和において同じく神武に仕えた丹後の大海氏(海部氏と同族か)とのつながりが強く、その関係で尾張氏は丹後へ移ったと考えられる。これまで何度も見てきた勘注系図あるいは先代旧事本紀にはその尾張氏の系譜が記されるが、ここでは先代旧事本紀(以下、本紀とする)をもとに尾張氏の隆盛の様子を見てみたい。


 尾張氏の始祖は先述の通り天火明命で、その子が天香語山命である。本紀によると天香語山命は高倉下と同一とされる。そして天火明命の四世孫に記紀で尾張連の祖とされる瀛津世襲命(おきつよそのみこと)の名が見られるが、奥津社古墳あるいは墳頂にある奥津社との関連を想起させる。奥津社古墳の所在地の住所は2005年に町村合併して愛西市になる前は海部郡佐織町であった。隣接してあま市があり、この一帯は海部氏が丹後から移り住んだところと考えられる。天火明命の二世孫である天村雲命には天忍人命(あめのおしひとのみこと)、天忍男命(あめのおしおのみこと)、忍日女命(おしひめのみこと)の3人の子があって直系が天忍人命であるが、傍系の天忍男命の子が瀛津世襲命である。おそらくこの傍系筋が大和から丹後を経て海部氏とともにやってきたのだろう。奥津社古墳の被葬者は瀛津世襲命で奥津社の祭神も当初は瀛津世襲命ではなかっただろうか。瀛津世襲命の妹である世襲足姫命(よそたらしめのみこと)は第5代孝昭天皇の后になっている。

 さらに七世孫の建諸隅命(たけもろすみのみこと)は崇神天皇の時に出雲へ派遣されて神宝を献上させる役割を担った。この建諸隅命の妹が大海姫命(おおあまひめのみこと)となっており、崇神天皇の妃となった尾張大海媛と同一人物と考えられる。尾張大海媛は神武が崇神側との融和を目論んで差し出したと考えるが、直系の建諸隅命までもが崇神天皇に仕えていることを考えると、尾張氏はこの段階で神武側から離れて崇神側に着かざるを得ない状況にあったのだろうか。

 そして九世孫の弟彦命(おとひこのみこと)は日本武尊が熊襲討伐に同行させた弟彦公であるが、書紀によると日本武尊は弟彦公を美濃から呼び寄せたとなっていることから、この頃には尾張氏は完全に大和から尾張および美濃に本貫地を移していたと考えられる。その後、十一世孫の乎止与命(小止与命)が尾張国造に任命されることとなる。さらにその子が尾張戸神社に祀られる建稲種命で、その妹が日本武尊の妃となった宮簀媛である。本紀によれば建稲種命の子である尾綱根命(おづなねのみこと)のときに尾治(おわり)連の姓を与えられたとあり、それ以降に尾治氏を名乗るようになった。先に瀛津世襲命が尾張連の祖であることが記紀に記されていると書いたが、実は同じことが本紀にも記される。尾張と尾治が同じだとすると、記紀および本紀の記述は尾綱根命が尾治連の姓を与えられたことと矛盾してしまう。本紀の尾張氏の系譜については今一つ腑に落ちない部分がほかにもあるが大きな流れとして捉えることは可能であろうからここでは拘らないでおこう。ともかく、こういう経過を経て尾張氏は美濃・尾張に勢力基盤を設けて大和纒向との関係を築いていった。


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景行天皇(その8 日本武尊による熊襲征討)

2017年09月14日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行天皇による九州平定の話は古事記に収録されていないことから史実ではないという考え方もあるが、私はこれまで書いてきたように、崇神王朝は垂仁天皇の時期までに大和において神武王朝勢力を押さえることに成功したので、次のステップとして彼らの本拠地である九州を攻め落とそうとする戦略に至るのは必然であると思うので、天皇が自ら西征したかどうかはわからないが、何らかの形で九州への遠征が行われたと考えている。その流れがあるからこそ日本武尊による熊襲征討や東国平定の話につながるのだ。景行天皇は九州平定のあとすぐに五百野皇女(いおのひめみこ)を遣わして天照大神を祀らせている。神武王朝の本拠地を制圧したことで彼らの祖先神である天照大神の祟りを畏れたからだ。そして西の次は東ということで、全国平定を目指して武内宿禰を東国へ派遣して視察させたところ、攻略して広大な土地を手に入れようという結論に至った。

 そうこうするうちに熊襲が再び反抗するようになった。先の九州遠征で熊襲の本拠地である熊県を攻め、日向の高屋宮での6年間の滞在をもって襲の国を完全に平定したものの、支配下に置き続けるためには臣下を派遣して統治する必要がある。しかし、どうやらそれを怠ったものと思われる。取石鹿文(とろしかや)、またの名を川上梟帥という熊襲の首領が反抗を企てたのだ。書紀には辺境を侵すことが止まないと記されている。「辺境」とはこれまで何度も触れてきたとおり、狗奴国と北九州倭国との国境、すなわち現在の福岡県・大分県・熊本県の県境付近、書紀にある玉杵名邑から阿蘇国にかけての一帯、と考えるのが合理的だ。

 天皇は弱冠16歳の小碓尊を九州へ派遣した。小碓尊は弓の名手を連れて行きたいと要望し、美濃国の弟彦公(おとひこのきみ)を呼んだ。弟彦公は石占横立(いしうらのよこたち)と尾張の田子稲置(たごのいなき)と乳近稲置(ちぢかのいなき)を率いてやってきた。小碓尊はどうして弓の名手を望んだのだろうか。九州の狗奴国と北九州倭国の国境付近にある多数の遺跡からは大量の鉄鏃が出土している。狗奴国、すなわち熊襲の軍勢は弓矢に長けた集団だったのだ。それに対抗する必要から弓の名手を要望したのだろう。

 小碓尊による熊襲征討の話は古事記にも記されるが、美濃や尾張から助っ人を呼び寄せた話はなく、伊勢で天照大神を祀る叔母の倭姫命を訪ね、衣服と剣を譲り受けて九州へ向かっている。豊鍬入姫命のあとを受けて天照大神を奉斎しながら各地を遍歴した倭姫命は伊勢で遍歴を終わらせ、その地で天照大神を永遠に祀り続けることを決めた。このことから彼女は伊勢で天照大神を祀った最初の皇女で伊勢の斎宮の起源とされているが、祀られる天照大神は天孫族である神武王朝の祖神である。私は、崇神天皇の時にその神を宮中から追い出し、垂仁天皇の時に畿内から離れた伊勢に封じ込めたことをもって神武王朝と崇神王朝の対立に決着がついた、すなわち神武王朝が崇神王朝に服したことを表していると考えている。九州で勢力を保持する熊襲が神武の出身部族あるいは親戚部族であったことを考えると、小碓尊が倭姫命の力を借りて熊襲を討つという古事記の話は、このことを背景に生まれたのであろう。

 そしていよいよ熊襲討伐。小碓尊は女装して熊襲の宴会に紛れこみ、隠していた剣で殺害するわけだが、記紀ともによく似た手口が記される。ただ、書紀では川上梟帥はひとりであるが、古事記では二人の熊曽建が登場する。いずれが正しいかは定かではないが、この殺害の場面で小碓尊が熊襲から日本武尊(倭建命)の名をもらったことを記紀ともに記す。敵のボスを殺害するまさにその瞬間、お前のような強い者を見たことがないので名前を授ける、と言われてそれを素直に受けるというのは常識的には考えられないが、神武王朝に対する敬意の表れであろうか。ともかくも熊襲の首領を討った日本武尊は同行させた弟彦達に残党を残らず斬らせた。

 こうして熊襲討伐を終わらせて海路、つまり瀬戸内海を通って大和へ戻った。途中、吉備と難波の柏済(かしわのわたり)でその地の首領を討った。いずれも瀬戸内海航路を安全に通行できるようにしたことを言おうとしたのだろうが、よく考えてみると景行天皇はこれより先、九州平定にあたって瀬戸内海を通って穴戸へ着いている。日本武尊自身も熊襲へ赴く際にはここを通っているはずだ。とすると、熊襲を討ったことによって吉備や難波が反乱を起こしたということになる。吉備はもともと隼人系海洋族であり神武一族と同盟関係にあった。難波の勢力も淀川水運を握る三島の勢力と思われ、彼らは瀬戸内海の大三島とつながる一族である。大三島、吉備、難波、三島は神武東征を支援した勢力であり、熊襲と神武の関係はそのまま彼らとの関係にあてはまるのだ。だから熊襲が討たれたことで反旗を翻したのだ。古事記では山の神、河の神、穴戸の神を討ったと記される。

 さて、古事記ではさらにこのあと、出雲に向かって出雲建を討つ話が記載されるが、内容は書紀の崇神紀にある出雲の神宝を献上させる際の話とよく似ている。それにしてもこの古事記の記述は少し唐突な気がする。熊襲討伐という大仕事の後、ついでに出雲を討ったような印象だ。しかも難波まで戻って来た後に出雲に向かうという不自然な設定になっている。古事記は全国統一を全て日本武尊の成果にする意図があったのだろう。

 熊襲を討伐した日本武尊は次に東国平定の旅に出ることになる。


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景行天皇(その7 九州平定④)

2017年09月06日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 八代県豊村(現在の熊本県宇城市)のあとは有明海を越えて高来県(島原半島一帯)へ、そこから再び有明海を戻って玉杵名邑(熊本県玉名郡および玉名市)に至り、土蜘蛛の津頬を殺害した。その後、内陸部へ移動して阿蘇国に到着した。当ブログの第一部の「倭国vs狗奴国 戦闘の様子」で詳しく見たように、玉杵名邑から阿蘇国にかけての一帯には狩尾遺跡群、池田古園遺跡、池田遺跡、下山西遺跡、西弥護免遺跡など、大量の鉄器や鍛冶遺構が検出された弥生時代の遺跡が密集している。奥野正男氏はその著書の中で、弥生時代後期後半から終末期にかけてこれらの遺跡から鉄族を中心とする大量の鉄器が出土する事実から、三世紀頃のこの地域において軍事的緊張が続いていたことが想定される旨のことを書かれている。ここは狗奴国と倭国の戦闘における狗奴国側、すなわち熊襲・隼人勢力の前線基地のあったところだ。景行天皇は的確に敵勢力の拠点を攻めていると言える。
 阿蘇国に阿蘇津彦と阿蘇津姫の二柱の神がいた。阿蘇津彦は肥後国一之宮の阿蘇神社の祭神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)と同一神とされる。その阿蘇神社には阿蘇津姫も祀られている。阿蘇神社では健磐龍命は神武天皇の子である神八井耳命の子、すなわち神武の孫と伝えられているという。やはりこの地は神武勢力の領域なのである。景行天皇からみると敵側である神武の系譜にある阿蘇津彦、阿蘇津姫を土蜘蛛や賊として扱わずに神として敵でも味方でもないように書いている。これもまた万世一系を演出した書紀の矛盾の表れである。
 阿蘇津彦、阿蘇津姫が祀られる阿蘇神社は先の熊本地震で社殿が倒壊するなど甚大な被害を被り、現在は復旧の真っ最中である。

 阿蘇から再び有明海方面に向かった天皇は筑紫後国御木(大牟田市三池町)に到着し、仮の宮を設けた。大牟田市歴木(くぬぎ)町 の高田公園内に高田行宮跡の記念碑が建っている。書紀に長さが970丈もある長大な倒木の話が記載されている。天皇が「何の木だ」と尋ねたところ、老人が「歴木である」と答えた。天皇は「珍しい木で神の木だ」と言った後に「この国を御木(みけ)と名づけよ」と言ったことから当地の地名は御木となり、それが三毛→三池と変化した。三池町の隣の歴木町の名もこの書紀の逸話によるものだろう。高田行宮跡地の決定においては、この付近で地中に埋まった古代のクヌギが時々産出されることが大きな要因になったという。

 次に八女県(現在の福岡県八女郡あるいは八女市)に着いた。八女市矢部村には八女津媛神社がある。峯が重なる美しい山々を見た景行天皇が「あそこに神がいるのか」と聞いたところ、水沼県主である猿大海が「八女津媛という女神がいる」と答えた。この媛はおそらく神夏磯媛と同様、この地を牛耳る女首領であろう。とはいえ、土蜘蛛や賊ではなく神とされていることから、阿蘇津彦・阿蘇津姫と同じく神武勢力側の人物ではないだろうか。
 そしていよいよ九州平定の最終目的地である的邑(現在の福岡県うきは市)に到着して食事をとった。そして翌年、天皇はようやく大和へ戻った。景行12年に開始した西征は足掛け7年を要した。

 さて、あらためて九州平定の行程地図を見てみよう。南九州に足を踏み入れていないことは前回書いたとおりだが実はもう1ヶ所、踏破していないところがある。それは北九州の玄界灘沿岸各地である。ここは魏志倭人伝にある末廬国、伊都国、奴国、不弥国が並ぶ地域で、私が北九州倭国とよぶ地域である。これらの国々は邪馬台国、すなわち崇神王朝を盟主とした連合国家を形成していた。つまり邪馬台国の王は連合国の王でもあり、それが景行天皇であった。したがって、これらの国々が平定の対象となるはずがなく、当然のごとく西征の空白地帯となっているのだ。


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景行天皇(その6 九州平定③)

2017年09月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 前回、神夏磯媛は中臣氏の遠祖である天種子と菟狭津媛の間にできた子の後裔ではないか、という全くの想像話を書いた。時代は少し下って仲哀天皇の9年、仲哀天皇は熊襲を討とうと筑紫へ向かったが、ここで神功皇后に神が憑依して新羅を討てと告げた。しかし天皇はそのお告げに反して熊襲を討とうとしたが失敗に終わり、その直後に崩御した。その後、神功皇后は山門県(やまとのあがた)で土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺した。そのとき媛の兄である夏羽(なつは)が決起したが、妹が殺されたことを聞いて逃亡したという。若八幡神社の由緒によると、このときの夏羽は神夏磯媛の後裔であるとされている。ということは妹である田油津媛もまた神夏磯媛の後裔ということになるが、景行天皇の軍門に下った神夏磯媛の後裔が2代あとの仲哀天皇のときには土蜘蛛と呼ばれて討伐対象となっているのは少し解せない。一度は天皇家に従った神夏磯媛であるが、後裔が反抗して再び天皇家に敵対する勢力となっていたのであろうか。

 さらに、神武東征のときに菟狭津媛とともに神武一行を歓待した菟狭津彦を考えてみる。菟狭津彦・菟狭津媛は神武一行を歓迎するために菟狭川の上流に一柱騰宮を設けた。そして景行天皇のときになってこの菟狭川の上流は鼻垂という賊の拠点となっていた。もともと菟狭津彦はこの菟狭川流域を拠点とする首長であり、九州での倭国との戦闘で狗奴国を支えた勢力であると考えるが、神武王朝側の勢力であったため、敵対する崇神王朝3代目の景行天皇からみると鼻垂と呼ばれる賊として討伐対象とされたのであろう。菟狭津媛の後裔である神夏磯媛が菟狭津彦の後裔である鼻垂を敵勢力に売ったことは理解が困難であるが、前回書いたとおり、藤原不比等の遠祖による九州平定の手柄話と考えればあり得るか。いずれにしても想像の域をでる話ではない。

 さて、景行天皇一行は豊国のあとはそのまま南下して日向国へ向かっている。西都原古墳群との関連はすでに書いた通りである。
 日向の次は熊県(現在の熊本県球磨郡)に向かっているが、ここはまさしく熊襲の本拠地である。人吉盆地では熊襲の土器と言われる免田式土器が多数見つかっている。この免田式土器はその形状から中国の煮炊き用の器具である銅ふくを模倣したものと考えられ、その起源は大陸に求められるという。また、免田式土器が最初に出土した同じあさぎり町にある才園(さいぞん)古墳からは中国江南地方で鋳造されたとされる金メッキが施された鏡も発見されている。この熊県は大陸とつながる独自の文化を形成した一族である熊襲の拠点である。景行天皇は熊襲の本拠地を攻撃したのだ。

 その後、球磨川を下って八代海に面する葦北(現在の熊本県葦北郡)へ出て小島で泊まって食事をとった。山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖先の小左(おひだり)を呼び寄せて冷たい水を奉らせようとしたが、水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった。球磨川の河口近くに水島の地名が見られる。現在は干拓が進んだためにほとんど陸続きになっているが、古代には海に浮かぶ島であったと思われる。

 一行は再び船に乗って火国に着き、八代県豊村(現在の熊本県宇城市)に上陸した。熊県のあとは九州の西側を北上しており、行程をプロットした地図をみるとよくわかるが、九州南端の大隅半島および薩摩半島には向かっていないのだ。日向の高屋宮に6年滞在して襲の国を完全に平定したという記述に加えて、熊襲の本拠地である熊県を攻めていることから熊襲を討ったことは想定されるが、実は九州南端を避けているのだ。ここは熊襲と同種族とされる隼人族の本拠地である。熊襲を討ったものの、いわば親戚関係にある隼人を討たないのはどういうことであろうか。実はここに書紀の矛盾が表れている。

 隼人の本拠地である南九州のこの地は、書紀において天皇家の祖先とされる瓊々杵尊が天孫降臨を果たした場所である。また、薩摩半島には瓊々杵尊が天孫降臨のあとに向かった笠沙岬があるが、ここは大陸からやってきた天孫族が実際に流れ着いた場所である。景行天皇にとって熊襲が敵なら隼人も敵であり、本来ならこの九州南端の地も制圧対象となるはずである。とくに隼人は天孫族そのものであり、大和で敵対した神武王朝の祖とも言える一族だ。崇神王朝にとってはどうしても討たなければならない相手であるはずだ。しかし、実態としては対立していた両王朝であったが、書紀においてはその編纂方針により、並立ではなく縦に並べて万世一系としているため、天孫降臨のあった隼人の地は崇神王朝にとっても故郷の地ということになる。自らの祖先の地を攻撃したと書けるはずがないのだ。




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景行天皇(その5 九州平定②)

2017年09月02日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行18年、天皇はさらに進んで熊県(くまのあがた)、現在の熊本県球磨郡に到着した。兄熊(えくま)・弟熊(おとくま)という土着の豪族の熊津彦兄弟がいたので呼び寄せたところ、弟熊が来なかったので派兵して誅殺した。

 その後、海路で葦北の小島に泊まった。現在の熊本県葦北郡である。この島には水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった。葦北から再び船に乗って火国(ひのくに)に着き、八代県豊村、現在の熊本県宇城市に上陸した。

 高来県(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)へ渡り、ここで土蜘蛛津頬(つちぐもつつら)を殺した。高来県は現在は長崎県諫早市、島原市、雲仙市、南島原市などに再編されているが、明治まで高来郡が、平成の市町村合併までは北高来郡や南高来郡が郡名として残っていた。玉杵名邑は現在の熊本県玉名郡あるいは玉名市である。

 そして阿蘇国に到着した。阿蘇津彦と阿蘇津姫の二柱の神がいた。さらに進んで筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木に着いた。御木は現在の福岡県大牟田市三池町である。ここに高田行宮(たかたのかりみや)を設けた。次に八女県に着いた。現在の福岡県八女郡あるいは八女市である。ここで天皇が南の粟岬を見て「峯が重なって大変麗しいあの山には神がいるのか」と尋ねたところ、水沼県主(みぬまのあがたぬし)の猿大海(さるおおみ)が「八女津媛という女神がいます」と答えた。それでこの神の名が地名になった。水沼県主はこのあたりを支配していた土着の豪族で水間氏(水沼氏)の祖とされる。さらに的邑(いくはのむら)、現在の福岡県うきは市に到着して食事をとった。日向の夷守で諸県君の泉媛が大御食を奉ろうとして集まっている場面に出くわして以降、この的邑に到着するまでの行程は全て景行18年の一年間のことである。そして景行19年、天皇はようやく大和へ戻った。


 さて、ここであらためて景行天皇の九州平定の行程を確認し、九州の地図にプロットしてみた。

  ①周芳の娑麼(山口県防府市佐波)
  ②豊前国長峡県(福岡県行橋市長尾)
  ③碩田国(大分県)
  ④速見邑(大分県速見郡)
  ⑤来田見邑(大分県竹田市)
  ⑥柏峡の大野(大分県豊後大野市)
  ⑦日向国高屋宮(宮崎県宮崎市高屋神社)
  ⑧子湯県丹裳小野(宮崎県児湯郡)
  ⑨日向国夷守(宮崎県小林市)
  ⑩熊県(熊本県球磨郡)
  ⑪葦北(熊本県葦北郡)
  ⑫八代県豊村(熊本県宇城市)
  ⑬高来県(長崎県諫早市、島原市、雲仙市、南島原市)
  ⑭玉杵名邑(熊本県玉名郡、玉名市)
  ⑮阿蘇国(熊本県阿蘇郡)
  ⑯筑紫後国御木(福岡県大牟田市三池町)
  ⑰八女県(福岡県八女郡、八女市)
  ⑱的邑(福岡県うきは市)

 


 これを見ると西征のルートがよくわかる。大和から周芳の娑麼まではおそらく瀬戸内海を船で行ったのだろう。ということは、景行天皇のときには淡路や吉備、伊予など瀬戸内海航路の要衝は崇神王朝の支配下に入っていたと考えられる。いずれも神武東征を支援した一族であった。
 九州に渡った一行は豊前国長峡県を皮切りに時計回りに九州を一周していることがよくわかる。長峡県は豊前国に属し、碩田国、速見邑、来田見邑、柏峡大野は豊後国に属するが、豊前と豊後は7世紀末に分轄されるまでは豊国としてひとつの行政単位であった。その豊国の中心にある宇佐は神武東征の最初の寄港地であった。景行天皇が宇佐に滞在した記載はないが、長峡県に行宮を設ける前に偵察隊が討った鼻垂という賊は菟狭川の川上にいたという。菟狭川の川上と言えば、神武一行が宇佐に立ち寄った際に菟狭津彦・菟狭津媛が一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を設けて神武天皇を歓迎した場所だ。また、私の考えではこの宇佐は魏志倭人伝に記された狗奴国と倭国(北九州倭国)の戦闘において鉄製武器の供給で狗奴国を支援した、すなわち狗奴国王である神武側についたところだ。景行天皇はこの宇佐の鼻垂を始めとする豊前の賊を討ち、続いて来田見邑を拠点に豊後の土蜘蛛を討った。これによって豊国を支配下におくことに成功した。
 
 
 ところで、鼻垂ら4人の賊のことを告げて降参してきた神夏磯媛はいったい何者だろうか。書紀には非常にたくさんの部下を持つ一国の首領で、八握剣、八咫鏡、八坂瓊と白旗を船の舳先に掲げて降参してきたとある。八握剣、八咫鏡、八坂瓊とは三種の神器である。神夏磯媛は三種の神器を持つ豊前国の首領であり、しかも「神」を名に持つ。福岡県田川市夏吉に若八幡神社があり、祭神には仁徳天皇、応神天皇、神功皇后に加えて 地主神として神夏磯媛命の名がある。神社由緒によると、神夏磯媛は夏吉地域開発の祖神とある。一方で書紀には神武東征の際に中臣氏の遠祖である天種子が菟狭津媛を娶ったことが記される。天種子は天孫降臨の際に瓊々杵尊に随伴してきた天児屋命の孫である。天孫族に近い関係にある天種子と菟狭津媛の間にできた子の後裔が神夏磯媛ではないだろうか。神夏磯媛が祀られる若八幡神社は宇佐からはかなり離れているが、いずれも豊前国である。天種子の系譜は書紀編纂時の実力者である藤原不比等へとつながる。藤原氏の祖先が天皇による九州平定に尽力したことが暗に示されている、と考えるのは想像が過ぎるだろうか。



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景行天皇(その4 九州平定①)

2017年08月30日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀における景行天皇の最大の事績は、天皇自らが出向いた九州平定と日本武尊を派遣した熊襲征伐および東国平定である。まずは九州平定を見ていこう。なお、古事記では天皇による九州平定の話は記載されていない。

 景行12年、熊襲が反抗して朝貢してこないことを理由に天皇は九州に向けて出発した。これまで何度も述べてきたように、熊襲あるいは隼人は神武天皇のお膝元である九州中南部を支配する一族である。崇神天皇から垂仁天皇を経て、ようやく大和で神武王朝を制圧して畿内での主導権を握った景行天皇は神武の故郷である九州の制圧に乗り出したのだ。その西征ルートを順に追いかけてみる。

 西征部隊はまず周芳(すわのくに)の娑麼(さば)に到着した。現在の山口県防府市佐波である。天皇は南の空に煙がたくさん上がるのを見て必ず賊がいると思い、多臣の祖の武諸木(たけもろき)、国前臣(くにさきのおみ)の祖の菟名手(うなて)、物部君の祖の夏花(なつはな)の3人を派遣して状況を偵察させた。すると神夏磯媛(かむなつひめ)という女首領が降参を申し出て、鼻垂(はなたり)・耳垂(みみたり)・麻剥(あさはぎ)・土折猪折(つちおちいおり)という4人の賊の拠点を教えてくれたため、偵察隊は4人を誅殺することに成功した。その後、天皇は豊前国長峡県(ながおのあがた)に到着して行宮(かりみや)を設けた。それでこの地を京(みやこ)と呼ぶようになった。長峡県は現在の福岡県行橋市長尾に比定されており、一方の京は現在の福岡県京都(みやこ)郡に比定されるが、行橋市は市制施行前は京都郡に属していた。

 次に碩田国(おおきたのくに)、現在の大分県に到着し、さらに速見邑、現在の大分県速見郡に進んだ。速津媛という女首領がやって来て、青・白・打猿・八田・国摩侶という5人の土蜘蛛の存在を告げたので、天皇は来田見邑(くたみむら)に宮を設けて滞在した。大分県竹田市にある宮処野(みやこの)神社がその跡地とされる。天皇と群臣は後顧の憂いを絶つために土蜘蛛を討つことを決め、激戦の末に勝利した。天皇は柏峡(かしわお)の大野、現在の大分県豊後大野市に留まり、土蜘蛛を滅ぼせるよう、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なおいりのもののべのかみ)、直入中臣神(なおいりのなかとみのかみ)の三神に祈って誓約をしたところ、結果は吉と出た。
 一行は日向国で高屋宮を設けて滞在した。宮崎市にある高屋神社が跡地とされる。天皇はここで厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)という二人の熊襲八十梟帥(くまそやそたける)を討った。そして滞在すること6年にわたり、襲の国を完全に平定することができた。そしてこの国の御刀媛(ひはかしひめ)を妃とし、日向国造の始祖である豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。

 景行17年、子湯県(こゆのあがた)へ行き、丹裳小野(にものおの)で遊んだときに「この国は真っ直ぐに日の出る方を向いている」と言ったことから、この地を日向と呼ぶようになった。子湯県は現在の宮崎県児湯郡である。
 景行18年、日向国の夷守に着いた。現在の宮崎県小林市である。石瀬河のほとりに人が集まっていたので兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)を派遣したところ、諸県君(もろあがたのきみ)の泉媛が大御食(おおみあえ)を奉ろうとして集まっているということだった。諸県君は書紀の応神紀および古事記の応神天皇の段にも登場する。美貌の噂が高い諸県君牛諸井(もろあがたのうしもろい)の娘である髪長媛を応神天皇が娶ろうとしたが、媛が皇子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、のちの仁徳天皇に恋心を抱いていたので天皇は皇子に媛を譲ったという話である。諸県君は宮崎県南部にあった諸県郡(もろかたぐん)を拠点にした土着の豪族であろう。


 景行17年および18年の記事から景行天皇一行は日向国の子湯県や諸県を行幸したことがわかる。ここには日本最大の規模を誇る西都原古墳群がある。現在までの発掘調査によって、3世紀前半あるいは半ばから7世紀前半に築造された311基の様々な古墳が存在し、その内訳は前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基となっており、ほかにこの地域に特徴的に見られる地下式横穴墓が多数見られる。その中の100号墳は全長が約57m、後円部の径が約33mの前方後円墳であり、調査の結果、4世紀前半の築造であることがわかっている。前方後円墳の原型を大和纒向の帆立貝式古墳(纒向型前方後円墳)に求める考えからすると、4世紀前半にはこの日向の地に大和の影響が及んでいたことになる。私は古事記で崇神天皇崩御年とされる戌寅を西暦258年と考えているので、そうすると次の垂仁天皇の治世が3世紀後半となり、さらに次の景行天皇は3世紀末から4世紀前半の天皇と考えることができる。すると、景行天皇による九州平定の時期と西都原100号分の築造の時期がいずれも4世紀前半と整合してくる。景行天皇の西征によって大和の崇神王朝の墓制が西都原に伝えられたと考えることができる。西都原古墳群は九州中南部を支配していた熊襲族あるいは隼人族の首長、すなわち狗奴国の王家の墓域であることは以前に書いた。そして、日向から大和へ東征した神日本磐余彦、すなわち神武天皇は狗奴国王であった。神武の故郷である狗奴国は敵国である崇神王朝すなわち邪馬台国によって爪痕を残されることになったのだ。邪馬台国である崇神王朝側から見ると、初代の崇神天皇のときに大和において東征してきた神武王朝と敵対し(3世紀中頃)、二代目の垂仁天皇のときに神武王朝を退けて畿内周辺での支配権を確立(3世紀後半)、三代目の景行天皇のときに神武王朝の本拠地である九州中南部を影響下においた(4世紀前半)、ということになる。これら大和政権成立の過程については私の仮説の一部訂正も含めて改めて整理したい。


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景行天皇(その3 美濃への行幸)

2017年08月29日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行4年、天皇は美濃へ行幸した。美濃で崇神天皇の皇子である八坂入彦皇子の娘、八坂入媛を妃とした。八坂入彦皇子は崇神天皇と尾張大海媛の間にできた子で、美濃のあたりを支配していたとされる。母方を頼って尾張に移動したという考えもあるがどうだろう。私は、尾張大海媛は大和の葛城を本貫地とする尾張氏と、饒速日命とともに丹後から大和に移ってきた大海氏との間にできた娘で、神武王朝が崇神王朝との融和を狙って崇神天皇に嫁がせたと考えている。尾張氏が尾張の地を拠点とするようになったのは、尾張国造に任じられて以降のことであり、先代旧事本紀の国造本紀によればそれは成務天皇の時とされる。これらのことから八坂入彦が母方を頼ったという考えは成り立たないと考える。八坂入彦が崇神天皇の子であるという書紀の記述は果たして本当だろうか。
 八坂入彦が美濃で一定の勢力を持っていた痕跡が岐阜県可児市の久々利(くくり)にある八坂入彦墓とされる大萱(おおかや)古墳および隣接する八剱(やつるぎ)神社である。しかし大萱古墳の築造は古墳時代中期とされ、八坂入彦が3世紀中頃の崇神天皇の皇子である、すなわち八坂入彦が3世紀後半から4世紀前半の人物であることと整合がとれない。八剱神社の祭神は八坂入彦命、八坂入媛命、弟媛命となっている。また、天皇はこの地で泳宮(くくりのみや)という仮宮を設けているが、大萱古墳や八剱神社から3キロほど西へいったところにその跡地とされるところも残っているが、泳宮の実在性や跡地の信憑性については何ともいえない。

 景行天皇ははじめ、八坂入媛の妹である弟媛を娶ろうとしたが断られ、代わりに姉の八坂入媛を娶るように薦められたために受け入れた。そして景行52年に当初皇后だった播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が崩御したことを受けて新たな皇后となった。天皇は八坂入媛との間に13人の子を設けた。第一子の稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)は後に成務天皇として即位する。また 第二子の五百城入彦命(いおきいりひこのみこと)の孫の仲姫命(なかひめのみこと)は応神天皇の后となって大雀命(おおさざきのみこと)、すなわち後の仁徳天皇を生んでいる。
 天皇は八坂入媛を妃とする前に播磨稲日大郎姫を后としており、この后との間に双子の子が(別伝では三人の子となっている)生まれている。大碓皇子と小碓尊である。通常であればこの二人の子のいずれかが皇位を継承すべきであろう。とくに小碓尊は日本武尊として熊襲征伐や東国平定など皇位を継ぐに相応しい実績がある。成務紀においても稚足彦尊は第四子、すなわち皇后である播磨稲日大郎姫の三人の子(成務紀では景行紀の別伝を採用している)のあとに生まれた子として、皇位継承の順位が低いことを明らかにしている。さらに言えば、その稚足彦尊が皇太子となったのは小碓尊すなわち日本武尊の死後の景行51年(成務紀では46年となっており矛盾が生じているが)である。日本武尊を皇太子に任命できない理由があったのだろうか。あるいは大碓皇子はどうであったのだろうか。

 また、景行天皇は八坂入媛を妃としたあとすぐ、美濃国造である神骨(かむほね)のもとにいた兄遠子(えとおこ)、弟遠子(おととおこ)という姉妹が美人だと聞いて顔が見たくなり、長子の大碓皇子を行かせたが大碓皇子は報告をしてこなかったため、天皇は彼を恨んだという。このあたりの事情は古事記に詳しく、大碓皇子はその美人姉妹を寝取ってしまったというのだ。おまけに違う女性を天皇に差し出した。天皇はそれに気づいたが口に出すことができずにいた。なお、この時にすでに美濃国造が存在したように書かれているが、諸国に国造が置かれたのは次の成務天皇の時とされている。成務紀に「諸国に令して国郡に造長(みやつこおさ)を立て」とあるのがそれとされるので、神骨は国造ではなく美濃の首長であったということだろう。
 大碓皇子はこの話を含めて記紀ともにあまり良く描かれていない。書紀の景行40年の東国蝦夷征伐の際、最初に派遣命令が下ったのは大碓皇子に対してであったが、彼は怖気づいて逃げ隠れしたために結局は小碓尊が行くことになり、大碓皇子は美濃に封じられることになった。一方の古事記では、大碓皇子が朝夕の食事に出てこないために天皇が小碓尊に諭すように伝えた様が描かれる。このように記紀ともに大碓皇子をよく書いていない。

 一方で小碓尊は日本武尊(倭建命)として大活躍する姿が描かれる一方で、前述の大碓皇子を諭すように天皇から言われたときに、諭すどころか大碓皇子を殺してしまう残忍な姿が描かれる。この残忍さを景行天皇が恐れて皇太子にしなかったとの考えもあるようだが、私は大碓皇子や小碓尊が皇太子に任命されなかった理由は別のところにあると考える。大碓皇子、小碓尊はともに播磨稲日大郎姫との間にできた子であり、一方の稚足彦尊は美濃の八坂入媛との間にできた子である。播磨は先代の垂仁天皇の時に来日した天日槍が天皇の命に背いて領地を奪おうとした土地である。つまり、天皇家(崇神王朝)と敵対する勢力と戦った播磨は崇神王朝側の勢力ということになる。景行天皇はここから后を迎えていたのであるが、一方の美濃はどうであったろうか。

 景行天皇による美濃への行幸は単に新しい妃を得るためということではなく、当時、十分な支配が及んでいない美濃を勢力範囲に加えるためであったと考えるべきであろう。先に見た紀伊への行幸も同様である(この紀伊への行幸が上手く行かなかったことは先述の通り)。天皇は美濃で最も望んだ弟媛に断られ、兄遠子・弟遠子の姉妹を得ることもできなかった。これは美濃行幸の本来の目的、すなわち美濃を支配下に置くことが叶わなかったことを比喩的に表現したのであろう。その代わりに次善の策として八坂入媛を妃とし、播磨稲日大郎姫の死後に皇后に昇格させ、その子である稚足彦尊を皇太子に任じて成務天皇として即位させたことは、美濃を支配下に置くには至らなかったものの、良好な関係が構築できたことを表しているのではないだろうか。その結果、日本武尊の東国平定において越国討伐に派遣された吉備武彦との合流地点として選ばれることとなった。

 さて、八坂入媛の父である八坂入彦は崇神天皇と尾張大海媛の間にできた子とされているが、先に見たとおり八坂入彦の墓とされる大萱古墳の築造年代との矛盾があること、景行天皇と八坂入媛がいずれも崇神天皇の孫にあたることに違和感があることもあり、この親子関係は後付けの創作ではないかと考える。



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景行天皇(その2 影媛と武内宿禰)

2017年08月27日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行3年、天皇は紀伊国へ行幸したが諸々の神々を祀ろうと占ったところ、よくない結果が出たので行幸を中止した。そして代わりに屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わした。この屋主忍男武雄心命は書紀では第8代孝元天皇の孫にあたる人物である。彼は阿備柏原(あびのかしはら)に滞在して神祇を祀ったが、それが9年間にも及んだという。そしてその間に影媛を娶って武内宿禰が生まれた。
 この影媛であるが、書紀では紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ)の娘とあり、私はこの菟道彦を神武が東征した際に速吸之門で一行に加わった珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦であると考えている。難波に上陸した直後の長髄彦との一戦で不利な戦況に陥った神武一行はいったん退却して伊勢に向かおうと大阪湾を南下、紀ノ川河口近くの名草邑で地元の女首長である名草戸畔を討った。神武は椎根津彦を紀伊国に残し、名草戸畔の後継としてこの地を治めさせた。さらにその後、熊野を経由して吉野へ入った神武一行と合流して大和平定に尽力した。その結果、椎根津彦は東征の論功行賞として倭国造に任じられることになった。一方、紀伊国に残った彼の後継たちは紀直、紀伊国造へとつながっていった。つまり、紀伊国は神武王朝の息のかかった一族によって治められていたのだ。これが景行天皇による紀伊国行幸が中止になった本当の理由ではないだろうか。

 なお、古事記では屋主忍男武雄心命は登場せず、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)と宇豆比古(うづひこ)の妹である山下影日売の間にできたのが建内宿禰であるとしている。比古布都押之信命は書紀で第8代孝元天皇の皇子であり武内宿禰の祖父として記される彦太忍信忍と同一人物である。つまり、書紀では孝元天皇の三世孫の武内宿禰が古事記では一世代省かれて孫として記されている。加えて、母親の影媛は古事記では宇豆比古(=珍彦=椎根津彦)の娘ではなく妹となっており、ここでも一世代分の短縮が見られる。いずれが正しいのかは定かではないが、重要なことは武内宿禰が孝元天皇の直系であること、母方が神武天皇の腹心の部下であった椎根津彦の娘、あるいは妹であること、要するに武内宿禰は神武王朝にゆかりある人物ということだ。


 書紀によれば、武内宿禰は景行天皇のときに「棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)」に、成務天皇のときに「大臣」に任じられ、その後も仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と計5人の天皇に仕え、360余歳を生きたとされる。古事記では7男2女の子とその後裔氏族が以下の通りに示される。

 波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)・・・波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部臣の祖
 許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)・・・許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖
 蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)・・蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣の祖
 平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)・・・平群臣・佐和良臣・馬御樴連の祖
 木角宿禰(きのつののすくね)・・・・・・・木臣・都奴臣・坂本臣の祖
 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
 奴能伊呂比売(ののいろひめ)
 葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ)・・・玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖
 若子宿禰(わくごのすくね)・・・・・・・・江野財臣の祖

 その後の大和政権の成立に大きく関わる氏族の多くが武内宿禰を祖としている。Wikipediaには「『日本書紀』『古事記』の記す武内宿禰の伝承には歴代の大王に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う人物像が特徴として指摘される。特に、大臣を輩出した有力豪族の葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏ら4氏が共通の祖とすることから、武内宿禰には大臣の理想像が描かれているとされる」と書かれているが、記紀伝承の中でも特に仲哀天皇のときに神功皇后のもとで暗躍し、その後の応神天皇即位、すなわち応神王朝の開祖に強い影響力を発揮したことが重要であろう。武内宿禰が何者であるのかはこのあと、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇と論証を進める中で考えていきたい。


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景行天皇(その1 丹波勢力の影響力)

2017年08月25日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 今回より第12代景行天皇を考える。景行天皇は第11代垂仁天皇の第三皇子で母親は日葉酢媛命である。この日葉酢媛は丹波道主命の子であり狭穂彦の反乱で命を落とした狭穂姫のあと、垂仁天皇の二番目の后となった。つまり丹波の勢力が崇神王朝の外戚に入ったことになり、その日葉酢媛が生んだのが景行天皇である。また、古事記によれば前后の狭穂姫は彦坐王の子とされてり、丹波道主命は彦坐王の子であるから、狭穂姫と日葉酢媛は叔母・姪の関係となり、垂仁天皇は2人の后をいずれも丹波から迎えたことになる。さらに日葉酢媛の曽祖父、すなわち狭穂姫の祖父は神武王朝最後の天皇である第9代開化天皇であり、この開化天皇は丹波竹野媛を妃とし、第一皇子として彦湯産隅命を設けている。書紀の一書では彦湯産隅命の子が丹波道主命であるとしている。いずれにしても垂仁天皇および景行天皇は丹波勢力の影響を強く受けた天皇であることが言え、その丹波勢力は開化天皇を通じて神武王朝と強い関係があったことが伺えるのだ。

 垂仁天皇のところで見たように、倭姫命によって天照大神が大和から伊勢に遷座したことは、天照を祖神と仰ぐ天孫族である神武王朝の終焉を意味すると考えたのであるが、景行天皇の治世においては前述の関係性によって丹波勢力がそれに替わって影響力を及ぼすことになったのではないだろうか。天日槍の考察で見たように、丹波勢力は大丹波王国として天皇家に匹敵する力を持っていたと考えられる。崇神天皇は四道将軍を丹波に派遣しているが、書紀の記述を見る限り、丹波を支配下に置いたとまでは書かれていない。また、垂仁天皇においても天日槍に手を焼いた様子が窺える。天日槍は天皇の命令に背いて丹波に自らの領地を獲得し、さらに神宝を献上させたものの出石小刀は最後までモノにできなかった。播磨国風土記では出雲の大己貴神と領地争いを演じている。景行天皇、さらには次の成務天皇の治世においても丹波の勢力は大きな影響力を発揮した。そういう視点で景行天皇や次の成務天皇の事績を見ていきたい。


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