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ひまりんのつれづれ日記

感じるままに何でも書けたら・・・

最初の難関は

2005-11-22 14:12:34 | アメリカでの思い出
今日も天気がいい。
この明るさはカルフォルニアと似ている。
ロサンゼルスでは子ども以外みな車の運転ができなくては不便なので、私までもが運転免許を取らねばならなかった。最初はママチャリで子どもおんぶで買い物に行ったりもしたけど、さぞ奇異に見えたことだろう。
(ヤマシーフードのやまさんが笑っていた)
現地で運転免許を取るときは(日本語ペラペラの)韓国人の先生がボロのホンダの小型車で迎えに来た。
教習所に行くのではなく、始めから路上運転である。
子どもをベビーシッターに預け、2時間50ドルだかで教えてくれる。
(2時間終わったときに小切手で払う)
私はまったくの運動音痴でこわがりで、判断力がないので、本当に苦労した。みんな1ヶ月あまりで取れるというのに、私は3ヶ月以上かかったと思う。
会社の人から「もう中古車が買えるくらい使ったね」と言われた。
長くかかったおかげで韓国人のLEE先生ともよく話し、注意力散漫だとか、今子どもの子と考えてるでしょとか言われた。先生はアメリカに来て10年はたっていると思われ、駐在員やその奥さんたちはみな習うような人だ。先生は「この国にはマスターがいない。(みな平等)だから好きだ」と言っていた。
試験はダウンタウンの近いところのDMV(車両省)で3回落ち、会社の人のアドバイスもあり、住宅地のパサデナのDMVに変えてもらってやっと受かった。
アメリカでは車検がないのでみな結構ボロの車で運転している。みな結構自分で車を直したりもするようだった。先生の車もメーターがこわれていた。
先生は車の買い替えをどうしようか迷っていた。「日本車は壊れないが、すわり心地が悪い」なんて言っていた。でも結局また日本車を買ったようだった。
行ったときはそうでもなかったけど、帰る頃(90年)には日本車が半分くらいに見えた。
うちの車も一台ビューイックの中古車だったが、故障が多く、トヨタカムリ新車に買い換えた。日本の製品は何でも優秀に思えた。

母がついて行ってくれた

2005-11-09 18:38:11 | アメリカでの思い出
主人が3ヶ月ほど先に赴任していたので、3歳6ヶ月の長男と10ヶ月の次男をかかえていた私は、アメリカに行くとき、母(当時66歳)についていってもらった。子連れなので、ビジネスクラスの席の前の広いところを使わせてもらい、
スチュワデスさんも優しく、子どももご機嫌だった。
母当時はまたまた元気で、10日間の滞在期間、食事作りををやってくれた。後で私にはまったくおさんどんをさせられたと言っていた。おかげでアメリカを見れたよとも言った。大正8年生まれの母は若い頃洋裁を習っていて、アメリカに行きたかったのだと言う。
私たちの住んだところは母のイメージとは違ったらしく、ここはアメリカの田舎だね~と言った。
アメリカのゴミ収集は前庭の前にゴミバケツに入れて各家が置く。母は集めるのはたいへんだろうと隣の日本人のSさんのところに置いたけど、それはやっぱり駄目なことだろう。
母は帰る前おみやげのお買い物に行ったくらいで名所など見せてあげられなかった。一緒に住んでいる孫にミッキーマウスやらうれしそうに買っていた。
残してきた父を心配して急いで帰っていった。
空港まで送った帰りに、サンタモニカの海岸に行った。サンタモニカは歌にもあったけど、そのイメージとは違い、あまり美しくもない海岸だ。でもそこの海を見るとなんか日本に通じているんだと思える海岸だった。

捨てられないマフラー

2005-11-05 17:15:42 | アメリカでの思い出
主人に買ってもらった数少ないものの中に黒の、軽い感じのマフラーがある。
ロサンゼルスの教会の近くでフリーマーケット的にしろうとの人が広場で売っていたものを買ってくれた。そのとき私はアメリカに渡ってから4,5ヶ月くらいで、うつみたいな状態だったと思う。
私を元気づけようと思ってくれたのであろう。もっと大きいもの(セーターのようなもの)を買っていいよといったけど、私はそのマフラーが気に入った。
黒地に少し青系赤系が混じったループ糸で編まれたもので、きっと私のそのときの気分にぴったりだったんだろう。
3、4年前主人が一冬使って、汚れたからと言って「捨てようか?」といったが、
「だめ!思い出の品だから」と洗ってまたしまう。色があわせにくいのであまり使わないのだが、やはりその時のことを思い出させてくれる大切なものなのである。
ロサンゼルスでは5年足らずの期間だったが2回引越しをした。
始めの家は、ロサンゼルスのダウンタウンより東、車で20分くらいフリーウェイ
を走らせたところにあった。(アメリカは高速道路は料金を取らない。)
サンマリノというのは高級住宅地だが私たちの家(会社が借りてくれたもの)は
そのサンマリノの隣のサンゲーブルという中の上くらいの地域だったと思う。
家は一階立ての家だった。アメリカの家は耐久性があるらしく50年くらい経っている家ではないか。外見はきれいだが、なかの水まわりなど古く、しょっちゅう修繕が必要だった。
クーリッジという小学校の近くにあり、あの頃はアメリカ駐在の人も多く、隣も
日本の商社の人だった。優秀で美人のおくさんがいた。
車で5分もかからないところに山シーフードと言う魚屋さんがあり、マルちゃんの焼きそばだの豆腐だの納豆だの紀文の豆乳など、だいたいのものはそろった。
家は100坪くらいの敷地に建ち、裏庭にガレージがあり、杏の木、レモンの木などがあり、電線を伝ってりすが来ることもある、環境のいいところだった。

ロサンゼルスはいつも天気がよくからりとしていて、一年中Tシャツと短いスカート、キュロットなどで過ごせるところだ。1月には
雨が降ることもあったと思うが。

アメリカでの思い出

2005-11-03 06:57:01 | アメリカでの思い出
わたしは主人が銀行に勤めていたときロサンゼルス転勤になり、ついて行ったので、4年半くらいアメリカで生活した。1985年6月から1990年1月のあいだである。
その間楽しいことばかりではなかったが、そのころのことをいつか書こうと思いつつ、今まで来てしまったのでここで少し書かせてもらおう。だんだん忘れてしまうので。辛かったことはなかなか書けないかもしれない。あまり思い出したくないから。でも今思うとなんか長~い旅行をしたのかなという感じでもある。

ハロウィーンの思い出

2005-10-31 23:25:29 | アメリカでの思い出
おしゃれなお店はハロウィーンの飾りをしたりする今日この頃、パンプキンを見ると
19年前の10月31日を思い出す。
一番下の娘はアメリカ西海岸のカリフォルニア、ロサンゼルスで産んだ。当時銀行のロサンゼルス支店に勤務していた主人に付いて滞在していた。(1985.6-90.1)

25日に待望の娘を産んで、3日くらいで帰ってきたばかりの、産んで六日めなので
今年のハロウィーンはしないつもりで、パンプキンなどの飾りもせず、門灯を消して、静かにしているつもりだった。
ところがである。暗くしていれば来ないはずの、トリック、オア、トリートのギャングたちがなんかの拍子で家にも来たのである!
来たのでしょうがなくお菓子をひとつまみずつあげると、それを見ていた子どもたちの集団が次々とたずねてくるのだ!!
皆思い思いの変装をしてくる小さなギャングたち。
うちのお菓子はすかっりなくなり、非常事態にびっくりした長男5歳が、自分のもらってきたお菓子までを差し出して供給!
あの必死の、かわいかった長男の様子は今も目に焼きついている。
あの頃は子どもが小さくて大変だったけど楽しかったねと、今も夫と言うことがあります。