ひまりんのつれづれ日記

感じるままに何でも書けたら・・・

H田さんのこと

2007-01-08 18:59:02 | 思い出したこと
昨夜は早く寝たせいか、夢を見た。私の実家の古い家にいる頃の夢だ。

うちの敷地には東側の縁側から、3メートルくらい離れたところに一間だけの貸家が立っていた。家賃はあの頃(昭和38年頃)2千円だった。ずっとその値段だったと思う。
そこには60くらいの女の人と20代の娘さんが住んでいた。H田さんである。
東側の雨戸を閉めるのは長兄の仕事だった。
でもある日突然、母が今日から私に閉めるようにといった。そのわけはすぐわかった。
私が閉めようとすると、となりのH田さんは開け放たれた引き戸を急いで閉める。
さものぞかれるのがいやだよと言った風に。
きっと兄が閉めるのを困ると母に訴えたのであろう。

娘の○枝さんもおおらかと言うか、大胆と言うか、スリップ姿で家の前の川まで
何か水物を捨てに行ったりしたので、隣の綿職人の叔父さんにジロジロ見られて
、憤慨してたりしたっけ。
仲がいいんだか悪いんだかわからないけど、数年間はあの親子はあそこに住んでいた。うちに一番近くにいた他人だと言える。
夢にあのH田さんが出てきた。何故だかわからないけど。


今日は娘の成人式。無事に終わりました。楽しかったと言っていた。今度はいつ会えるのかななんて。
成人式の晴れ着を着せて、貸衣装のそれを返して、私ホッとしました。
あぁ、イベントひとつ終わりました。
主人がすごく喜んでいた。女の子の成人式はちょっと違うな~なんて言って。

もう一人の叔父さんのこと

2006-11-12 07:57:09 | 思い出したこと
山梨に行って親戚の人たちに会ってきたせいか、もう一人の叔父さんのことを思い出した。
母は6人きょうだいの一番上で、他に妹が二人、弟が3人いた。水曜日に亡くなった叔父さんは母の下の妹の連れ合いだ。
母のすぐ下の弟(私の叔父さん)は、若くして亡くなった。その叔父さんは母の実家の長男であるから家業を継ぐということで、上の学校へも行かせてもらわなかったという。昭和元年ごろ生まれた人ではなかったか、亡くなったのは多分昭和38年ごろではないか。そうすると40にまだならないくらいかと思われる。

叔父さんはおとなしい勉強好きの人だったのではなかろうか、だけど弟たちは大学には言ったが、叔父さんは行かせてもらえず、家業の味噌醤油製造業を継ぐはずであった。
しかし、召集されたため精神を病んでどこか普通ではなくなった。
病院に入って、退院してから田舎に住んでいて、東京に出てきて家に下宿してから
近くのアパートを借り、何か工場のようなところで働いていたと思う。
叔父さんは無口で人と話すのは苦手、パンが好きでお昼など食パンを何もつけず一斤食べてしまう。
お風呂から上がると一直線で何も着ず座敷を通って、家の東の廊下のところで服を着替えた。
その叔父さんは働いてはいたけれど、ある日突然死をしてしまったんだ。
心臓病か何かだったと思う。
兄弟思いの母の嘆きは大きく、葬式の帰りであろうか駅のベンチで涙が止まらなかったという。
私たち子どもはお葬式には行かなかったけど、何かショッキングなことが起こったというのは小学生(?)の私にもわかった。
そのことは忘れていたが、後に高校生になって
国語の時間、先生が黒板いっぱいに宮澤賢治の「永訣の朝」を書いてくれたとき突然貫一叔父さんのことを思い出した。
<あめゆじゅととちてけんじゃ>
あれを読んだら涙が出てきました。
いい詩ですね、文学っていうものは心の奥に入り込んでくることってありますね。
叔父さんもきっと文学青年だったではないでしょうか。
ご冥福をお祈りします。