彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

読書寸評 「日本史の誕生」

2014年05月07日 10時10分32秒 | イベント・出来事・生活
この年齢になって、高校時代の「日本史」の授業を思い出してみると
(今にして納得したってことなんだけど)、たしかに不思議な授業だったと
思います。

歴史を物語としてみれば、始まりがあって、「今」があるんだって
ことを教えられたら、一貫とした「流れ」があってね,そりゃガキとしては
興味を持ったんだと思うんだ。

でも、授業は違った。縄文時代とか弥生時代とかの考古学上の「事実」を
さらりと書いて、突然の「推古天皇」や摂政の「聖徳太子」の業績の
「歴史的事実」を、これまたあっさりとした羅列として登場させたものだっと
記憶しています。

でも、それは「今にして分かった」ことであって、当時のガキとしては、
「こんなもんかな?」って感じでした。

当時の違和感として憶えているのは、教科書の記述してはあるのに、
「近代」を教えないまま、終わったことでした。

「おい、おい。それって困るんだ。大学受験では、近代の問題が出ることが
 あんのにさ、教えてくれないの?」と、真面目な受験生だったら困惑
しただろうね。

「もう教える時間がなくなってしまったから」と教師は言ってたけど、
「今にして思えば」、彼らは確信犯だったよね。

当時は、「右」と「左」の世界の空間が、それぞれ狭くって、なおかつ
「どちらか」を迫られた時代だったように思います。
そして、「左」の方が「開明的」「進歩的」「開放的」と思われていて、
「右」の方は「旧守」「古くさい」「頑迷」というイメージに、少なくとも
当時の若い世代は囚われていたと思うんだ。

「時代はそうなんだけど、ちょっと違うよな」と思う、当時の聡明な中年の
人たちは、みんな沈黙していたんだということ、「今にして」思うんだ。

だからと言って、当時の多数派の「左」の人たちが、開放的に、磊落に
行動してたってこともなかった。
なんせ、地方都市だからさ、綿々と続いてきた「力」に無自覚には弱くって、
自己発信としては「左」、教職維持としては、「だんまり」を自然に
選択したんだろうね。

だから、日本史を教える教師は、近世までは教えるが、それまでを
熱心に教えたが故に、「たまたま」近代を教える時間がなくなった・・
と、毎年、「たまたま」だと演技したんだろなー。

ま、それで、僕たちの世代は、始まりも今も教えられてないのだって、
ことになる。
でも、それが悪かったってことでもない。時の政権が創作する「始まり」や
「今」を教えられる状況より、ましな時代だったとも言えるからです。


いい時代になったもんだと思います。こういう本が冷静に読める時代に
なってるんだよね。

・世界史(中国史)の一貫として、日本を読み解く
・「国」という概念を、ともすれば国民国家としての「国」と狭めないように
  しよう。
・当時の日本列島の「国」なんて、ちょっと大きめの集落を指す。城郭のない
 城郭都市だった。
・中国系の移民(つまり華僑)と、現地住民とのハイブリッド状態である、
 都市国家の連合体を、時の中国は「倭」といった。

等々ね。
やっと、日本列島の「古代」が腑に落ちましたなー。資料的に正しい
かどうかではなく、こういう切り口ではなくってはいかんのだという意味での
納得ね。

なお、卑弥呼がいた邪馬台国、この本では山口県の瀬戸内海沿岸のどこかの
可能性が強いと記されていた。
だからといって、山口県民がその情報にロマンを感じたら、痛いめにあって
しまいます。

邪馬台国が大和にあったのか、九州にあったのかっていう論争自体、迷妄の
世界からなりたっているんだという、身も蓋もない世界なんです。

by K

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