(前日からの続き)
神様の御心というものは深くて暖かくって
本当はやわらかい。
北風と太陽の話じゃないけど、北風が
吹いたって旅人の衣はずっと寒いから
脱ぎっ放しにできない、むしろ、どんな
風が吹いてもしがみついたでしょう。
だけど、太陽の場合はポカポカ照ったから、
サーッと脱いじゃったね。
あれと一緒なんです。
どんなものもゆるしてね、どんなものも
溶かす。
それが太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
そういうふるさとをあなた方はもってるわけ、
自分の中にね。それを日常の慌しい中ではね、
ここにふるさとがあると思えたってなかなか
思えないから、だから、祈るわけでしょ。
で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除を
してもらって、そうして、そのひびきにのって
統一してもらってねえ、もらってというのは、
私があなた方にしてもらうんですよ。
あなた方が五井先生にしてもらうんじゃ
ないのよ。
一緒に祈って、祈りの階段をのぼって
もらって、お互いに神様の大生命の中に
入ってゆくんです。
そのお手伝いを私がしているんです。
だから、安心してどうぞ私のところへ
いろいろもってきて下すって結構ですから。
やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。
祈りというものは窮屈なことを目指すんじゃ
ない。
こうしなければならぬというものじゃない
からね。
人間の中の想いの枠をはずしてゆく。
世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に
朗らかにひろやかに深くね、広々とさせる
ことですよ。
しかし、人間にはそれぞれの立場という
ものがあってね、立場によって出てくる
言葉ってあるんですよ。
私は前に妙好人ということを言いましたよね。
白光に寄ってくる人は特別な人は来なくて
いいと言いましたよ。
妙好人みたいな人が集まりゃいいって。
それは何も妙好人を理想にした訳じゃない。
けれども、神仏へのあるいは大生命への
ものすごく素直な祈りがあり希求がある。
そういう人をやはり理想にしたい。
他の、社会的な地位だとか立場だとか、
そういうものは一切いらない。
そういうものはむしろ宗教にとっては
本当に雑なものになるんです。
やっぱり、すっきりと生き通しの生命に
なってゆくためには、自分の中のそういう
雑物をのけてゆく、そのために祈りが
あるわけですから。
ですけれどもね、さっき言いかけました
ように立場があってねえ。
例えば、高橋君なんかは、この人善人
ですかって問いかけてくればねえ、ああ
そうだよと答えなきゃしょうがないし。
で、善人だけがいいわけでもないんです。
善人ということはいいことだけども、
ある時にはいいけども、ある時には
大変だろうなあという時があります。
例えば、バカ正直という言葉がありましょ。
正直ということはいいけれども、
何でもかんでも言ってしまうということが、
その人の人生にとっても他の人の人生に
とっても良いことか悪いことかといったら、
何でもかんでもつつみ隠さず自分の気持ちを
相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれない
けれども、それによって相手が傷つくという
こともある。
だから、その立場立場によってね、ある時
ある人が善人に見えることもある。
ある時ある人がずるく見える時もある。
それは、その人がその人の生きてきた
環境とかいろんなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあ
とか感じる。
その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一旦認めてやらないといけない訳
ですよ。
善人なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど
放っとくとね、とてもじゃないけどすっきり
いい生命にはなっていかない。
我々の目指してゆくところは、そういう
いろんな面を持っていても、その生命を
さながらに明るく朗らかにしてゆくという
ことですから、そこへ向かってゆかなきゃ
いけないわけですからねえ。
だから、私たちはその立場立場によって、
見える感じる想えるということをまず
認めた上でね、その上でさらにその人の
成長に従って、ああここまでならこの人
行けるなというところまで、一段一段
いっしょに階段を登ってやるということ。
降りて行ってやるということね。
それが大事なんです。
上からね、あなたこうしなきゃいけませんよ、
こうすべきですよ、というふうに言って
しまいますとね、それがしたくともできない
という人がたくさんいるわけですよ。
おもいは一杯あるけれども弱くってできない、
ありますよ。
だから、それがいけないと言ってしまうと、
もうその人全体を否定することになる。
禁止することになる。
おまえがいけないということになる。
だけど、神様というものは、おまえは
いけないはないんです。
おまえは可愛いけれど、おまえは駄目だ、
おまえは良い子だけど、おまえは悪い子だ、
それは全くないんですよ、神様の側から
すれば。
だから、それぞれその時々に応じてね、
人間の我々の目から見ますとね、ああ
しょうがない人だなあ、やっかいな人だなあ、
こんなつまんない人がいるかしら、もう
いろいろ言ったって何にもわからないような・・・
と思いますよ、あせりますよ。
だけども、やっぱりその人はその人なりに
悟る時期、分かる時期気づく時期、あるいは、
傷ついて一歩進む時期、いろいろあるわけね。
そこで、へたに我々が裁断をしてねえ、
この人は駄目だとか、この人を標準にして
話をしようとかねえ、そういうことは言っちゃあ
いけないし想っちゃあいけない。
何故なら、神様というものはね、そういう標準を
何ももっていない無限定なんですよ。
神様というものは、無限定な愛なんですよね。
その愛というものは測り知れない、測るものは
ないんです。
そういうものから我々の生命というものは
出てきているんですね。
(つづく)
神様の御心というものは深くて暖かくって
本当はやわらかい。
北風と太陽の話じゃないけど、北風が
吹いたって旅人の衣はずっと寒いから
脱ぎっ放しにできない、むしろ、どんな
風が吹いてもしがみついたでしょう。
だけど、太陽の場合はポカポカ照ったから、
サーッと脱いじゃったね。
あれと一緒なんです。
どんなものもゆるしてね、どんなものも
溶かす。
それが太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
そういうふるさとをあなた方はもってるわけ、
自分の中にね。それを日常の慌しい中ではね、
ここにふるさとがあると思えたってなかなか
思えないから、だから、祈るわけでしょ。
で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除を
してもらって、そうして、そのひびきにのって
統一してもらってねえ、もらってというのは、
私があなた方にしてもらうんですよ。
あなた方が五井先生にしてもらうんじゃ
ないのよ。
一緒に祈って、祈りの階段をのぼって
もらって、お互いに神様の大生命の中に
入ってゆくんです。
そのお手伝いを私がしているんです。
だから、安心してどうぞ私のところへ
いろいろもってきて下すって結構ですから。
やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。
祈りというものは窮屈なことを目指すんじゃ
ない。
こうしなければならぬというものじゃない
からね。
人間の中の想いの枠をはずしてゆく。
世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に
朗らかにひろやかに深くね、広々とさせる
ことですよ。
しかし、人間にはそれぞれの立場という
ものがあってね、立場によって出てくる
言葉ってあるんですよ。
私は前に妙好人ということを言いましたよね。
白光に寄ってくる人は特別な人は来なくて
いいと言いましたよ。
妙好人みたいな人が集まりゃいいって。
それは何も妙好人を理想にした訳じゃない。
けれども、神仏へのあるいは大生命への
ものすごく素直な祈りがあり希求がある。
そういう人をやはり理想にしたい。
他の、社会的な地位だとか立場だとか、
そういうものは一切いらない。
そういうものはむしろ宗教にとっては
本当に雑なものになるんです。
やっぱり、すっきりと生き通しの生命に
なってゆくためには、自分の中のそういう
雑物をのけてゆく、そのために祈りが
あるわけですから。
ですけれどもね、さっき言いかけました
ように立場があってねえ。
例えば、高橋君なんかは、この人善人
ですかって問いかけてくればねえ、ああ
そうだよと答えなきゃしょうがないし。
で、善人だけがいいわけでもないんです。
善人ということはいいことだけども、
ある時にはいいけども、ある時には
大変だろうなあという時があります。
例えば、バカ正直という言葉がありましょ。
正直ということはいいけれども、
何でもかんでも言ってしまうということが、
その人の人生にとっても他の人の人生に
とっても良いことか悪いことかといったら、
何でもかんでもつつみ隠さず自分の気持ちを
相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれない
けれども、それによって相手が傷つくという
こともある。
だから、その立場立場によってね、ある時
ある人が善人に見えることもある。
ある時ある人がずるく見える時もある。
それは、その人がその人の生きてきた
環境とかいろんなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあ
とか感じる。
その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一旦認めてやらないといけない訳
ですよ。
善人なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど
放っとくとね、とてもじゃないけどすっきり
いい生命にはなっていかない。
我々の目指してゆくところは、そういう
いろんな面を持っていても、その生命を
さながらに明るく朗らかにしてゆくという
ことですから、そこへ向かってゆかなきゃ
いけないわけですからねえ。
だから、私たちはその立場立場によって、
見える感じる想えるということをまず
認めた上でね、その上でさらにその人の
成長に従って、ああここまでならこの人
行けるなというところまで、一段一段
いっしょに階段を登ってやるということ。
降りて行ってやるということね。
それが大事なんです。
上からね、あなたこうしなきゃいけませんよ、
こうすべきですよ、というふうに言って
しまいますとね、それがしたくともできない
という人がたくさんいるわけですよ。
おもいは一杯あるけれども弱くってできない、
ありますよ。
だから、それがいけないと言ってしまうと、
もうその人全体を否定することになる。
禁止することになる。
おまえがいけないということになる。
だけど、神様というものは、おまえは
いけないはないんです。
おまえは可愛いけれど、おまえは駄目だ、
おまえは良い子だけど、おまえは悪い子だ、
それは全くないんですよ、神様の側から
すれば。
だから、それぞれその時々に応じてね、
人間の我々の目から見ますとね、ああ
しょうがない人だなあ、やっかいな人だなあ、
こんなつまんない人がいるかしら、もう
いろいろ言ったって何にもわからないような・・・
と思いますよ、あせりますよ。
だけども、やっぱりその人はその人なりに
悟る時期、分かる時期気づく時期、あるいは、
傷ついて一歩進む時期、いろいろあるわけね。
そこで、へたに我々が裁断をしてねえ、
この人は駄目だとか、この人を標準にして
話をしようとかねえ、そういうことは言っちゃあ
いけないし想っちゃあいけない。
何故なら、神様というものはね、そういう標準を
何ももっていない無限定なんですよ。
神様というものは、無限定な愛なんですよね。
その愛というものは測り知れない、測るものは
ないんです。
そういうものから我々の生命というものは
出てきているんですね。
(つづく)