人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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五井先生と呼んで下さい(6)

2021-03-26 09:52:01 | スピリチュアル
     (前日からの続き)      
神様の御心というものは深くて暖かくって
本当はやわらかい。
北風と太陽の話じゃないけど、北風が
吹いたって旅人の衣はずっと寒いから
脱ぎっ放しにできない、むしろ、どんな
風が吹いてもしがみついたでしょう。
だけど、太陽の場合はポカポカ照ったから、
サーッと脱いじゃったね。
あれと一緒なんです。
どんなものもゆるしてね、どんなものも
溶かす。
それが太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
そういうふるさとをあなた方はもってるわけ、
自分の中にね。それを日常の慌しい中ではね、
ここにふるさとがあると思えたってなかなか
思えないから、だから、祈るわけでしょ。
で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除を
してもらって、そうして、そのひびきにのって
統一してもらってねえ、もらってというのは、
私があなた方にしてもらうんですよ。
あなた方が五井先生にしてもらうんじゃ
ないのよ。
一緒に祈って、祈りの階段をのぼって
もらって、お互いに神様の大生命の中に
入ってゆくんです。
そのお手伝いを私がしているんです。
だから、安心してどうぞ私のところへ
いろいろもってきて下すって結構ですから。

やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。
祈りというものは窮屈なことを目指すんじゃ
ない。
こうしなければならぬというものじゃない
からね。
人間の中の想いの枠をはずしてゆく。
世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に
朗らかにひろやかに深くね、広々とさせる
ことですよ。

しかし、人間にはそれぞれの立場という
ものがあってね、立場によって出てくる
言葉ってあるんですよ。
私は前に妙好人ということを言いましたよね。
白光に寄ってくる人は特別な人は来なくて
いいと言いましたよ。
妙好人みたいな人が集まりゃいいって。
それは何も妙好人を理想にした訳じゃない。
けれども、神仏へのあるいは大生命への
ものすごく素直な祈りがあり希求がある。
そういう人をやはり理想にしたい。
他の、社会的な地位だとか立場だとか、
そういうものは一切いらない。
そういうものはむしろ宗教にとっては
本当に雑なものになるんです。
やっぱり、すっきりと生き通しの生命に
なってゆくためには、自分の中のそういう
雑物をのけてゆく、そのために祈りが
あるわけですから。

ですけれどもね、さっき言いかけました
ように立場があってねえ。
例えば、高橋君なんかは、この人善人
ですかって問いかけてくればねえ、ああ
そうだよと答えなきゃしょうがないし。
で、善人だけがいいわけでもないんです。
善人ということはいいことだけども、
ある時にはいいけども、ある時には
大変だろうなあという時があります。

例えば、バカ正直という言葉がありましょ。
正直ということはいいけれども、
何でもかんでも言ってしまうということが、
その人の人生にとっても他の人の人生に
とっても良いことか悪いことかといったら、
何でもかんでもつつみ隠さず自分の気持ちを
相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれない
けれども、それによって相手が傷つくという
こともある。
だから、その立場立場によってね、ある時
ある人が善人に見えることもある。
ある時ある人がずるく見える時もある。
それは、その人がその人の生きてきた
環境とかいろんなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあ
とか感じる。
その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一旦認めてやらないといけない訳
ですよ。
善人なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど
放っとくとね、とてもじゃないけどすっきり
いい生命にはなっていかない。

我々の目指してゆくところは、そういう
いろんな面を持っていても、その生命を
さながらに明るく朗らかにしてゆくという
ことですから、そこへ向かってゆかなきゃ
いけないわけですからねえ。
だから、私たちはその立場立場によって、
見える感じる想えるということをまず
認めた上でね、その上でさらにその人の
成長に従って、ああここまでならこの人
行けるなというところまで、一段一段
いっしょに階段を登ってやるということ。
降りて行ってやるということね。
それが大事なんです。
上からね、あなたこうしなきゃいけませんよ、
こうすべきですよ、というふうに言って
しまいますとね、それがしたくともできない
という人がたくさんいるわけですよ。
おもいは一杯あるけれども弱くってできない、
ありますよ。
だから、それがいけないと言ってしまうと、
もうその人全体を否定することになる。
禁止することになる。
おまえがいけないということになる。

だけど、神様というものは、おまえは
いけないはないんです。
おまえは可愛いけれど、おまえは駄目だ、
おまえは良い子だけど、おまえは悪い子だ、
それは全くないんですよ、神様の側から
すれば。
だから、それぞれその時々に応じてね、
人間の我々の目から見ますとね、ああ
しょうがない人だなあ、やっかいな人だなあ、
こんなつまんない人がいるかしら、もう
いろいろ言ったって何にもわからないような・・・
と思いますよ、あせりますよ。
だけども、やっぱりその人はその人なりに
悟る時期、分かる時期気づく時期、あるいは、
傷ついて一歩進む時期、いろいろあるわけね。
そこで、へたに我々が裁断をしてねえ、
この人は駄目だとか、この人を標準にして
話をしようとかねえ、そういうことは言っちゃあ
いけないし想っちゃあいけない。
何故なら、神様というものはね、そういう標準を
何ももっていない無限定なんですよ。
神様というものは、無限定な愛なんですよね。
その愛というものは測り知れない、測るものは
ないんです。
そういうものから我々の生命というものは
出てきているんですね。
            (つづく)


五井先生と呼んで下さい(5)

2021-03-25 11:08:16 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念が
どんどん出るけど大丈夫だろうかと。
大丈夫です。
自分の中の雑念というものはそんなに
気にする必要はありません。
出させとけばいいんです。
そういうものもこっち側はもうよく知って
ますしね。
前も話したかわからないけれども、法然さん
という偉いお坊さんが、ある信者さんに
聞かれたでしょう。
南無阿弥陀仏と言うんだけれども、南無阿弥
陀仏と言えば言うほど雑念が出てきて困ると。
法然さんが偉い人でねえ。
あんたもそうか、わしもだという話が
あったよね。
あれと一緒なんですよ。
統一会に来てね、眠ってもいいいんです。
本心のところで霊体は聞いていますからね。
肉体は疲れるから眠っちゃってもいいんですよ。
そこをねびしっとして、絶対にお話だから
お祈りだから、まっすぐに背筋を伸ばしてと、
そんなもんじゃないんです。
もっと生命というものはほがらかでね、本当は
障りのないもんでしょ。
ひろやかなもんですよ。
だから、そこを目指して我々は祈っていくん
ですからねえ。
窮屈になるために祈るわけじゃないでしょ。
もっともっと自分のたがをはずす。
それを目指して祈るんです。
何々をするために祈るとかね、そういうふうに
してしまうとね、そのためにが主人に
なっちゃってね、目指してるものがねえ、
めざしが嫌いでいわしがいいとかね。
生がいいとかいう人もあるかもしれないけれど、
そんなんじゃないんですよ。
             (つづく)


五井先生と呼んで下さい(4)

2021-03-24 07:12:28 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
まあ、バカ話みたいにしゃべってますけど、
やっぱりねえ、生命の流れをね、滞らせない
ようにしておかないとね。
これはしんどいですよ。
辛いんです。
本当にね。
今しんどいという大阪弁を使ったけれどね、
あれは心労なんですね。
あれは心疲れるんです。
心労ですね。
だから、しんどいという言葉はね、あれは実際、
心の憂さという言葉があるけれども、本当に
心が疲れて疲れて大変だという言葉ですがね。
ですけど、ずっと申してますように、本心
というものは、心が疲れているように
見えても、本当に疲れをしらない。
疲れを知らないどころか、神様の側から光
というものを受けとってね、そして、
あなた方の中のそういう想いとか悩みとかいう
ものを軽く軽くして、光の方へ引っ張ろうと
している。
そういうものが同時にあなた方の奥に深くに
あるのですからね。
だから、心だけを感情だけを自分だと思って
しまうと、勘定は払わなければいけないですね。
勘定払って借金払ってね、そうして、本心の方へ
降りて行ってね、ハシゴを使わないと降りて
ゆけないという人もあるかもしれないけれども、
だから祈りのエレベーターの世界人類が平和で
ありますようにというのをつくったんだから。
せっかくエレベーターがあるんですから、
ハシゴで一段一段降りなくともね、エレベーターを
使って降りてくれればいいわけです。
それで、エレベーターでサーッとね神様の
ところへ行く。
           (つづく)

五井先生と呼んで下さい(3)

2021-03-23 05:34:56 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
人に対する時というのはね、私の経験に
よればと、それを出しちゃうと相手が
悲しむね。
六十 七十 八十 生きて来た人がね、私は
こう生きて来たと言いたくなるのもよく
分かるけれども、悩んで苦しんで切羽
詰まって来る人というのは、それどころじゃ
ないんですよ。
その人の経験談を聞きに来た訳じゃなくって、
とにかくただ単純に慰めて欲しい。
そこから悲しみをとって欲しい。
軽くして欲しいんです、まず。
医者のね、頭痛がするから頓服下さい
というのと同じなんです。
頓服あげといてね、熱下げて頭痛とって、
頭痛とった後にね、何で頭痛くなったか
というの一緒に考えましょうよという
ゆとりを、そこから導き出すんですよ。
頭痛とらないでね、説教したってしょうがないの。
だから、ある人は頭痛で来るかもわからない、
ある人はおなかが痛いといってとんで来るかも
わからない。
先生、姑が!という人も沢山いたしね。
嫁さんとうまくいきませんという人もいたしね。
どっちにもいい顔しなさいというの。
それじゃあどっちもいい加減にしなさい
というんじゃないですよ。
そうじゃなくって、どっちもに対して
いたわりがないと、人間関係なんていうものは
本当にうまくやってゆけないということ
ですよね。

だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、
自己愛というものですね。
自分を可愛がりすぎるあまりに、相手が見えない
ということになっちゃうとこれはあぶないんです。
自分自分自分が辛い辛い辛いと想うとね、その
辛い辛い辛いが相手を変に傷つけたりね。
あるいは、こう気持ちをにぶくさせてることが
あるんですよ。
自分が一番辛いと想うからね。
だけども、自分も辛いけれども本当は相手も辛い。

ところが、人間というのは不便というか
何というかね、そんな吸いとり紙みたいな人は、
いないでしょ。
とってもじゃないけどありませんよ。
だから私ができたという訳じゃなくって、私は
もうずっと十字架にかかったようなもんですからね、
前も言ったように。
神様に自分の生命というものを差し上げちゃって、
投げ出しちゃって、それで、どうなとして下さい
といったら、まあやくざみたいだけれどもねえ、
そこで自分の生命の本体というものを見たから。
もう私安心しちゃいましたからね。
安心した人間は今度、皆さんの中にその大安心
というものを分けないとね、いけませんでしょ。
そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、
そうやって皆さんと話をしたり、今こっちから
見たり聞いたり、祈りを届いたりするのを
見ていると、あるいは感じてるとね、本当に
何とかして下さい、どうにかして下さい、
本当に辛い祈りが多い。

だけども、その辛さをね、とかして、そうして
本当は、あなたの中に光があるんですよという
ことを、こっちはね、皆さんの守護霊さん
守護神さんと一緒になって出してゆく訳ですからね、
その流れを。
その役目を未来永劫五井先生は引き受けた訳だから、
だから、皆さんは安心してね、五井先生と呼んで
下すっていいんですよ。
五井先生にこんなつまんないことを聞かせるなんて、
とてもじゃないけど私の気持ちがゆるさないとかね。
どっかでかっこうつけたりとか、ありますね。
恥ずかしがったりとかね。
だけども、そんなこと言ってる内にストレスが
溜まってくんのね。
そういう遠慮はいらないんです。
どこでもいいんですよ、五井先生と呼べば
行くんですからこっちはね。
行ってどういう手当てができるか分からないけれども、
しかし、最善の手当てをするわけよ。
どういう手当てができるか分からないというのは、
皆さんの心に思ってるような手当てが果たして
こっちが出来るかどうか、その時期かどうか、
よくは分かんないけれども、しかし、神様の愛
というものを携えてこっちが行くということは
確かなんです。
そうして、皆さんの悩みも苦しみも抱きとって
浄めてるということも確かなんです。
だから、いつかその悩みとか苦しみとか辛さという
ものは消えてゆくんだ、五井先生に任せてれば
消えてゆくんだ、五井先生を通して神様の愛
というものが通ってきて、その大愛によっ
て我々の諸々のものというのは消えてゆくんだ
ということね。
そこさえしっかり見ていてもらえば、こっちは
本当に守り易いんですよね。
やりやすいんです。
            (つづく)

五井先生と呼んで下さい(2)

2021-03-22 22:33:52 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。
皆くい入るように話を聞いてくれてね、
最初の白光の人たちは。
今の人たちが駄目だというんじゃないですよ。
本当にくい入るように聞いてくれたけれども、
あんまり深い話をし過ぎるとくたびれちゃってね、
みんな。
とっても私はできないわとかね、思っちゃうから。
だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、
ある時は八百屋になったり、それから、本当に
落語家じゃないかというくらい軽口とばして、
そうして、ふーっと気がついたら神様のことを
考えていたというふうにもっていく。
これ方便なんですね。

で、その時々によっていろんな話し方をする。
さっきの私と今の私と違うのかといったら、
違わないんですよ。
全然違わない。
だけども、とにかく機をみてね、人をみてね。
人をみて法を説けというでしょ。
あれと一緒なんですよ。
その時々その場相手によってさっきのような
しゃっちょこばったああいう講演口調の、
ねばならぬ存じます式が通じる時もあるんです。
そうじゃなくて、こりゃあもうそんなこと
言ったら逃げ出しちゃうなあという場合は、
こういう口調もあるんですよね。
どれも五井昌久。
どれも神様。
神様といったって、私が神様じゃないですよ。
そうじゃなくって、神様がいろんな働きを
こうやってなさるということの証しをここで
やっているようなもんだね。
そうじゃなきゃ、こんな講演会なんか
やりませんよ。
そんな無駄なことを神様はやらないと思いませんか。
本当にそうですよ。
やっぱり誰かに聞いて欲しいという気持ちが
皆あるでしょ、皆苦しいから。
聞いて欲しいといっても、吸いとり紙のようにね、
自分というものをさしはさまないで、深く
うなずきながらね、ああそれは大変ですねえって
聞くというのはこれは大変なことよ。
実際に。
絶対に自分が出るもの。
そんなことはあなた言うけれども、私の経験
によればということになるよね。
なるけれども、そこは本当に難しい。
                (つづく)