人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

続 さやけき生命(3)

2018-08-26 10:35:50 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
 こういう誠心とか祈り心とか静か心
というものは、目に見えるようで見えない。
 その人がいくら信心深く装(よそお)って
いても、外から見てすごいなあと思っていても、
私達がこちらから見ているとですね、
すごい虚栄がある人だねと見てしまうことが
ありますよ。
 そうすると、ほかの人はごまかせるけれど、
神様はごまかせない。
 ふりをすることはいくらでも出来るけれども、
ふりが通らないのが神様です。
 神様というのは、例えば、何十万も何百万も
お布施を上げないと、こちらに光を送って
もらえない、振り向いてもらえないとか、そんな
ものじゃないんですね。何故かというと、我々
みんな神様から分かれて来た生命なんだから、
その元に向かって自分が動いてゆく、
働いてゆく。そこに向かって素直に語りかけて
ゆく。そういうところを神様は喜ばれる。
 「愛(う)い奴じゃ」てな感じでね。
 ところが、そういうことというのは、さき程
申しましたように、本当に目に見えない地味な
ことなんですね。
            (翌日へ続く)

続 さやけき生命(2)

2018-08-25 09:14:06 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
 この一番必要なものというのは、イエスも
“なくてかなわぬものは一つだけだ”と
言いましたけれども、あのマルタとマリアの話の
中で、妹のマリアは、イエスが来た時にじっと
座って、イエスの話ばかり聞いていて、姉の
マルタは、一生懸命イエスをもてなそうと色々
用意していて話も聞けない、それでマルタが
イエスに訴える場面がありますが、そこで
イエスが言ったのは、マルタよマルタよ、
そんなに心を騒がせないがいい、なくてかなわぬ
ものはただ一つだ。マリアはそのよい方を
選んだのだと。これをそのままにとったらね、
マルタは無駄働きをしているように思うけれど、
そうではなくて、そのせわしく人間が
追い求めてるものが必ずしも全部人間に必要な
ものじゃなくて、本当に静かなものというのが
人間を養う。その人間を養う静かなるもの、
なくてかなわぬもの、つまり、神様に向かっての
誠心が私達の生命を養っているものだという
ことなんです。これこそが、自分達の
生きる元です。
             (翌日へ続く)

続 さやけき生命(1)

2018-08-24 09:46:08 | スピリチュアル
 引っ掛(かか)らず生きてゆくということは
非常にむつかしいんですね。何もうまく
ゆかないとか、どうしたらうまくゆくだろうとか、
そういうことばかり考えるように人間というのは
出来てる。というか、そういう想いの習慣で来て
しまっている。そうですね。ところが、神様の
世界の中では、うまくゆくもゆかないも、
ちゃんともう備わっていて、そのままゆくように
なっているんですよ。人間の方が、
あれやこれや思い悩んで、奥のものを見る
ということがだんだんなくなって来てる。

 そういう習慣をつけるということが、昔は
あったんだけれど、今は少なくなって来た。
 そういうことで、なんかこう静か心という
ものが無くなって来た。静かに自分の
裡(うち)を省(かえり)みるとか、自分という
存在は何だろうというようなことを見つめる
ことが、少なくなって来てるんですね。
 ところが、そういうことが、人間の生命を
養うんです。つまり、祈りというものが人間の
生命を養ってゆく。静かに自分を省みて、
静かに目を閉じてみる。そういう時間が
本当は自分を養ってゆく。

 ところが今世の中はせわしくなっていて、
セカセカ動いている。セカセカ動かないと、
自分が置いて行かれるようなスピードで
皆んなが動いているものだから、自分も
動かないと置いて行かれると感じる。その
繰り返しで、追い付け追い越せですよね。
 ところが、神様の世界というのは、何もしなく
ても必要なものは全部与えてもらえる。
 その代わりに何が一番必要かというと、神様に
向かって素直に神様よろしくお願いしますという
心、それが一番必要なことになる訳です。
               (翌日へ続く)

さやけき生命(11)

2018-08-23 08:16:19 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
 しかし、人間がスーパーマンで、何でも
出来て、それで人間万才(ばんざい)に終わって
しまったら、本当の科学でもないし、本当の宗教
でもない。
 本当の宗教というのは、神様への謙虚な
畏(おそ)れをもった祈り心というものを基盤
にしてやっていかなきゃいけない。地位を争う
とか、自分の立場や偉大さを顕示するとか、
そんなものはないんですよ。本当は、光と光が
口を利(き)いてるだけなんです。
 人間というのはそういうものなんです。
 そこで、相手に腹立つことも我だし、それに
腹立つ相手も我ですよね。肉体の思いぐせで
いろいろと出てくる感情想念、これらは消えて
ゆく姿だと思って、人間の真実の姿に近づいてゆく。
 そのために日々を祈りましょうと申し上げてる
わけです。
         「さやけき生命」前半 了

さやけき生命(10)

2018-08-22 07:18:47 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
 “永久(とわ)なる生命、祈りて行かん
世界平和”でしょう。つまり、自分が自分がで
行くと、力んで自分が頑張ってやろうとすると、
そこで限られてしまうんです。自分の限界
だとかね。この世の生命が70年80年だろうと、
人間の本当の生命というのは、これはもう
ずっとあるんですから。
 永久なる生命につながるもつながらないも、
我々はずっとつながっているんですからね。
 そのことを思いながら生きて行くとすれば、
自分のなかにある光、神様から来るみ光、
それを自分の生命として宣り出して、世界平和の
祈りを祈り、神様ありがとうございます
と言える。そういう信仰を深くもつことですね。

 しかし、信仰も力まなくていいんです。自分で
やろうとか、頑張って自分がやらねばとか、
そうなると不自由になるんですね。信仰、宗教
というのは、自分を不自由にさせるものではない
のです。自分が自由になる為のものです。自分が
自由自在に動ける為のものですよね。人間は
本来自由自在なんだからね。神様に守られて
支えられて、何でも出来る存在なんだからね。
 我々が五感に感じているこの私自身は、ほんの
一部の働きでしかないんです。あとは氷山
のように隠れているんですが、今、少しずつ
みんなが知らされて来ていて、科学の力でも
知らされて来る。もう少し経つと、
宇宙子科学など結果が現れて来て、色んなことが
出来ていく。知らされてくる。そういう時代に
なるでしょう。
            (翌日へ続く)