(前日からの続き)
こういう誠心とか祈り心とか静か心
というものは、目に見えるようで見えない。
その人がいくら信心深く装(よそお)って
いても、外から見てすごいなあと思っていても、
私達がこちらから見ているとですね、
すごい虚栄がある人だねと見てしまうことが
ありますよ。
そうすると、ほかの人はごまかせるけれど、
神様はごまかせない。
ふりをすることはいくらでも出来るけれども、
ふりが通らないのが神様です。
神様というのは、例えば、何十万も何百万も
お布施を上げないと、こちらに光を送って
もらえない、振り向いてもらえないとか、そんな
ものじゃないんですね。何故かというと、我々
みんな神様から分かれて来た生命なんだから、
その元に向かって自分が動いてゆく、
働いてゆく。そこに向かって素直に語りかけて
ゆく。そういうところを神様は喜ばれる。
「愛(う)い奴じゃ」てな感じでね。
ところが、そういうことというのは、さき程
申しましたように、本当に目に見えない地味な
ことなんですね。
(翌日へ続く)
こういう誠心とか祈り心とか静か心
というものは、目に見えるようで見えない。
その人がいくら信心深く装(よそお)って
いても、外から見てすごいなあと思っていても、
私達がこちらから見ているとですね、
すごい虚栄がある人だねと見てしまうことが
ありますよ。
そうすると、ほかの人はごまかせるけれど、
神様はごまかせない。
ふりをすることはいくらでも出来るけれども、
ふりが通らないのが神様です。
神様というのは、例えば、何十万も何百万も
お布施を上げないと、こちらに光を送って
もらえない、振り向いてもらえないとか、そんな
ものじゃないんですね。何故かというと、我々
みんな神様から分かれて来た生命なんだから、
その元に向かって自分が動いてゆく、
働いてゆく。そこに向かって素直に語りかけて
ゆく。そういうところを神様は喜ばれる。
「愛(う)い奴じゃ」てな感じでね。
ところが、そういうことというのは、さき程
申しましたように、本当に目に見えない地味な
ことなんですね。
(翌日へ続く)