人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

さやけき生命(9)

2018-08-21 07:08:31 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
 それだけの話ではなくて、神様、今一生懸命
乗り越えています、乗り越えようとしています。
 つまり、持ち場で一生懸命やっていますという
時には、やっぱり光が入って、そこから確実に、
神様というのは、よしこれでいいと思えば、
ちゃんと卒業させて下すって次の場所に行く。
 ところがそこで迷うと、そのぶんだけ遅れて
しまう。そこへしがみつくことになるから遅れて
しまう。もうどうでもいいです、どうにでも
して下さい、と皆んな言うんですが、どうにでも
して下さいと言うのは、ヤケで言っちゃだめ。
 気持ちを開いて言わなきゃだめね。ヤケだ
というのは自分がまだ残っているからヤケに
なる。神様と一緒になれば、ヤケも何も
無いんですよ。神様が動くのだから、神様が
働くのだから、多少どこかが痛かろうが
苦しかろうが、神様がさせるのだったら文句は
言えない。そういうものなんです、人間
というのはね。

 神様というのは、母親であり父親であり、
親なんですね。親がピタッと寄り添っていて、
それで世界平和の祈りの中に神様が
詰まっていて、神づまりの人間がこっちにも
いてね。我々一人一人の中に神様が
詰まっていて、小宇宙と大宇宙が握手して合体
している。そういうことが本当に思えた時に、
人間は一段階も二段階も上がるんです。

 だから、力んじゃだめ、気負っちゃだめ。
 自分でやれることなんてたかが知れている。
 自分が負わなきゃならないものなんて、たかが
知れている。どんな地位にある人であっても、
その地位をもって、お金をもって死ねるわけじゃ
ないから、そんなもの持って霊界には行けないん
ですよ。裸で生まれて裸で死ぬ。その時に、
神様の愛だけをもって向こうへ行けばいい。
 それだけをもって行けば、ものすごく楽ですよ、
ということを私は教えて来たんですね。
              (翌日へ続く)

さやけき生命(8)

2018-08-20 08:45:04 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
 だから皆さん方はその先兵(せんぺい)
であると同時に、そのことを通して魂が
澄まされて行く。そして自分自身が朗らかに
なって、天の心を私の心とするようになる。
 その天心というものが自分の中にあるんだ
と思って祈っていく時に、あなた方の天命
というものが、一歩ずつ深くなって、一歩ずつ
開いていく。時に応じてそれは本当に大きく
深くなってゆく。最初は一歩一歩でいいんです。

 無茶な目標をかかげすぎると、出来ない自分に
うんざりしたりしますから、限定をしないこと。
 自分に限定の枠を設けてしまうと、そこから
どうにもならなくなる。その枠の中でしか
動けなくなるんです。ところが、神様の枠
というのは無限大ですから、枠というものが
ありませんからね。
          (翌日へ続く)

さやけき生命(7)

2018-08-19 09:26:14 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
 世界平和の祈りというのは、地球人類だけ
ではなく、宇宙にいる人類すべての、
星々すべての、ふるさとの祈りなのです。
 肉体だけで祈るのでもなく、霊だけで祈る
のでもなく、全体が祈るんです。言葉だけで
祈るんじゃないんです。想いも何もかも、
波動全体でみんなが光って祈っている。私が
祈っていると同時に、私だけではなく、私から
広がって、あらゆるすべてのものが祈る。
 そういう祈りになってゆくわけですね。

 だから、この世界平和の祈りというのは、
非常に広大無辺なものなんです。どこから
どこまでがどうの、どこからどこ迄が光るとか、
これ祈ったらどうなるとか、そういう小さな
ことなんていうのは、私の神様は相手にしない。
 宇宙神の広大さなんて、そんなものではない。
 私達なんかの一つや二つの生命を使っても、
それでもまだ、もっともっと大きなことを
なさる。そんなものですよね。

 生命を捨てざれば生命を得ずというのは、
それなんです。捨身になって神様を信じ、
本当に信じるところから出発する時に、光は
サーッと入って来る。信じなきゃ入らない
かというと、そうじゃない。信じないところにも
入るんだけれども、より信じてよりゆだねて
祈る時に、神様から来る光というのは、素直に
自分の心へ入って来る。そのことによって、
我々の道が生かされてゆく。生きるわけ
ではなく、生かされてゆく。
           (翌日へ続く)

さやけき生命(6)

2018-08-18 08:27:25 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
 自分だけが光る祈りじゃないんですよね、
世界平和の祈りというのはね。
 尽十方(じんじっぽう)に広がり、強烈で
やわらかく、祈ってる人も祈られてる方も
光になって、敵も味方もなくなってというのが
世界平和の祈りですよ。そういう祈りを常に
口ずさんで呟いて、身体の中に入れて
ゆく時には、もう自分の身体だか神様の身体だか、
身体が有って無いようなね。本当に把われが
なくなって来て、神様の久遠の光と一緒で
共に生きている。自分の中に光が流れ込み、
その光に支えられて、神様に支えられて
我々は生きているんだなあということを、
これを悟らせて下さるのが祈りですよね。
 それで、何の為に祈るかというと、やはり
自分の生命が輝くために祈る。自分の生命が
輝くというのは、エゴイズムの祈りじゃ
ないんです。
 自分の生命というのは、神様から流れて
来ているもの。神様の奥の奥の生命と、自分の
生命とが一体なんだ、共にある生命なんだ
と思って祈る時には、両方輝くわけです。
 肉体界も輝くし、幽界も霊界も天界も全部が
輝く、すべての世界が輝く。目に見える世界も
目に見えない世界も、すべてが輝いて、
すべてが赦し合って、すべてが大愛の世界に
なってゆく。
 本来我々が、そういう世界の住人なんです。

 そこへ目指して行くんじゃないんです。
 そこへ帰るんですね。その世界から我々は
来ている、地球へやって来ていろんな仕事を
している。元々が光っているわけです。
 光ってるけれども光っているなんて到底
思えないような、様々なことがあって、
苦しみがあり、どうしようもないいろいろな
ことがあって、最後にふるさとである世界平和の
祈りのところへ、皆んなが今、たどり着いてきた。
           (翌日へ続く)

さやけき生命(5)

2018-08-17 07:58:26 | スピリチュアル
         (前日からの続き)
 例えば、自殺をする人がいるでしょ。入水する
人もあれば飛び込む人もある。いろいろな苦しみも
あるけれども、そういう自殺ではなくて、実際に
捨身(しゃしん)をする。自分の身を捨てて、
自分が光になって、業を消すというかたちの自殺
もある。つまり、神様に押されて、守護霊様に
押されて、守護霊様の光によって霊界に転出する
という、その死もある。これは人間の智恵では
分かりかねる。
 たとえプラットホームからボーンと飛び込んで、
肉片がいっぱい散って顔もわからない状態
になったとしても、本人が本当に悲しみ嘆いて
自殺する場合と、そうでない場合とがあるんです。

 なんであの人がと思う人が不幸になったり
死んでしまったりね。あっという間に居なく
なったりする時には、何かしらの神様の方の
おもんばかりが後ろで働いている。だから、
自分がやろうと思わないことです。自分の生命
だと思わないことです。神様から流れて来ている
生命だと思うことです。

 「久遠の光、神と共に」と書いたのは、久遠の
光というのは、消えることのない絶えることの
ない光ですよね。これが、我々のこの
身体(からだ)を貫いて流れている。そして、
この光というものは大宇宙につながっている。
 宇宙神のみこころにつながってる。その大愛に
つながってる我々というものを、自分の中で、
そうだそうだと本当に思おうとすれば、これは
やっぱり祈るしかない。
 何でもいいけれども、我々は世界平和の祈りに
つながった。だから、世界人類が平和であります
ようにと祈ってゆく時に、皆んなが
そこで光になる。
               (翌日へ続く)