人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

想いと言葉

2011-12-07 10:20:52 | スピリチュアル
 想いということ、それから言葉ということ、これは
人間である限り、想いも言葉も、人間からは死ぬ
まで離れていかない。あるいは死んでも離れて
いかないものなんでありますが、この言葉という
ものも、想いというものも、どちらも自由自在に
自分の中でこなしてゆく、あるいはこなれてゆく
というのは、非常にこれは難しい。実に想いも
言葉もやっかいなものであります。

 私はよく想念とか想いとか、想いのスイッチを
切り換えるとか申しますけれども、この場合の想い
というのは、実はあまり良い想いではない。どっちか
というと、この人間商売をやっていて、もう止めたいな
と想う様なことが連続してきてどうにもならなくなって、
にっちもさっちもいかなくなって、暗い想いが出てきた
時に、想いなんてあるから、こんな気持ちがあるから
人間止めたくなるんだとか、そっちの方へ行く想い
であります。あるいはそれに付属してですね、言葉と
いうものも明るくはなっていかない。ところが、じゃあ
想わなきゃいい、言葉を出さなきゃいいということに
なって、それを望んでも、人間というものは想いから
あるいは言葉から切り離されてはゆかない
のであります。
 仮りに想うことを禁じてあるいは言葉を出すことを
禁じて、一日でも暮せと言われたらですね、これは、
人間というのは非常に生きにくい。もう息がしにくく
なってしまう。そういう存在である訳です。

 そして、それは何かというと、想いとか言葉とかいう
ものは本来は神様の方から出てくるエネルギーだと
いうことなんであります。

 この神様の方からくるエネルギーだということを
わきまえておりませんと、非常に想い違いをして
しまう。想いを軽くするとか想いが沈んでいく重くなる
というのは、これは自分の中にある人間の我、ここで
想いという言葉を使ってしまうとその想いという
言葉で皆雁字搦(がんじがら)めになって何が何だか
わからなくなってしまいますから、ここでは我という
言葉を使いますが、その我の方へ引っぱられた
想いに皆今なっている訳であります。
 ところが、もともとの想いというのはどういう
想いであったかというと、人間生まれた時のその瞬間
というのは、むこうからこちらへ出て来た時の瞬間の
想いというのは真白なんです。その真白の想い
というのは神様のふところから入って出て来た
その想いでありますから、本当にこれは無垢の、
純粋無垢の想いで、このまま大きくなってゆけば、
その人から出てくる想いも言葉もこれは光そのものの
想いで、あるいは、何をやっても光明化されていく
想いになっていく訳でありますけれども、人間の
生活の中に我というものがありますから、肉体
というものを纏ってしまったその想い癖というものが
ありまして、その我の生活の中から出てくる言葉なり
想いなりというものが年々不自由さを、実は纏わせて
いくものなんであります。

 ところが、昔から言霊とか申しますように、本当は
言葉というものも想いというものも、両方ともこれは
自分が出すもんではない。むこうの世界、
守護霊さんなり守護神さんなり、あるいは神様なり、
我々を生かしめているエネルギーの元
という風(ふう)に考えてもいいのであります。そこの
ところがですね、今逆転してしまっているんです。
 あいつはこんなこと言いやがったとか、こんなこと
言われたら俺だまっちゃいられねえーとかですね。
 そんなことを考えるから、そこでその憎たらしい
とか、悔しいとかいう想いが飛んでいって、又
争(あらそ)いが大きくなる。憎いという想いが
飛んでいきゃ憎い、になります。愛(いと)しいという
想いが飛んでくりゃ、やっぱりこっちも愛(いと)しい、
となるんです。それがつくづく分かるのは死んでから
なんですね。死んで、自由な体になっちまったら、
むこうへ行けばですね、想いというのは、そのまんま
実現する訳ですから。
 ですから何にも無いんです。全く想いのまんまの
世界が自分の目の前に出てくる。こんなたまらない
世界はない訳ですね。

 だから、今何でそれが実現されないかというと、
人間が肉体の世界のこの不自由な世界の中で、
色んな物を物質化して、そして、肉体の波に
合うように、固い鉱物だとか何だとか色んなものが
まわりにあって、なかなか、その想いというか想念
そのままの世界を実現するには、ちょっと時間が
かかる様に出来ている。ところが、むこうはひびき
そのままなんですね。
 人間の想いの奥底にあるもう一つ奥の想い、
そこへ合わせたひびきが出てくるから、そのひびきが
どういう流れのものであるかということによって、
その想いが浄められもすれば言葉もやわらかくなる
ということになっていく訳です。

 実に、この世の中で、想いほど言葉ほど、自由で
不自由なものはない。こんなものがあるから
生きにくいと想っても、これを離れるということが
出来ないということになれば、じゃあこれを
どうすればいいか。

 想いを浄めていかなければならない。あるいは、
言葉を高めていかなきゃなんない。それは何に
よって浄められるかというと、やっぱりこれは、
祈り言、祈り言葉、祈って浄めてゆける。あるいは、
祈り心によって浄めてゆける訳であります。
 ということはどういうことかと申しますと、神様
から来た想い、神様から来た言葉であるということを、
もう一度見つめ直して考え直して、それを神様の
元へ一回かえす。かえして生命をいただき直す。

 私共は、頭の先から爪先まで見ましてもね、何一つ
自分で造ったものはないんですね。生まれて来た
時も、我々が製造して持って来た手だとか指だとか、
そんなものはあり得ないんですね。全部借りてきた
生命なんです。貰ってきた生命なんですね。どっから
貰ってきたか、神様から貰ってきた。でも神様から
貰ってきたけれども、その神様が下すった生命を
支えている光の流れというものは、神様と等しい
ものな訳ですね。
 そして、神様の本質、本体、本心というものは、
ただただ深い愛念なわけですね。ですから、この深い
愛念と等しくなってしまうと、想いとか言葉とかいう
ものが、だんだんだんだん色々な余分なものがとれて
いって、角がとれていって丸くなって、そして
柔らかくなって、そうして、ただ溢れるばかりの愛念、
光、祈り、そういうものに一致していって、ついに
調和の世界の方へもっていける様になる訳ですね。

 しかし、長年長年長年、この地球世界というものは、
業で汚れ切って汚れ切って汚れ切っておりますから、
ですから、その汚れ切った世界の中でいくら人間が
頑張って愛念を出しても、祈っても、
ちょっとやそっとのことでは清くなっていかない。
 何しろ、汚れの方の歴史が長いんですから。
 むこうの方が古いんですから。ですから、それを
浄めるというのは、本当に並み大抵のことじゃない。
 並み大抵のことじゃないけれども、今それを
やらなかったら、この地球世界はともかく、
もっともっと広い宇宙そのものの調和も本当には
完成していかないんだというこの視点に立ちますと、
やっぱり我々は、汚れ切って汚れ切っている
この中でも、祈って愛して、そうして言葉も想いも
神様から来たものであるということを大事にしながら、
やっぱり出来るだけ愛念の言葉を想いを出して
いかないといけない。

 出しても出しても何にもならないという想いも又、
これ消えてゆく姿で、消してもらって、そうして、
段々段々、徐々に徐々にでもいいから、この
地球世界のひびきというか流れというかね、そういう
ものを光明化していく。

 その為には何が一番いいか。それは世界人類が
平和でありますようにというこの祈りなんですね。
 これを想わない人はないんです。自分だけが
平和でありますようにといったって、これは
自分だって世界人類の一人なんだからね。ですから、
それを想わない人は一人もいないわけです。
 例えば、こういう祈りを知らない人でも、世界の
平和が保てなかったら、自分はもう核爆発で
死んじゃうだろうと。そういう何か一触即発の
危ない世界の状勢なんだということは、皆、今
子供から大人まで分かってる訳ですから。そういう
危ない世界の中に私達はいる訳です。生きてる
訳ですね。

 で、これをどうすればいいかということで、今、
米国もソ連もヨーロッパも皆苦労してる。
 レーガンとゴルバチョフだって今必死に握手
しようとしている。あれはもちろん、それぞれの
国益もまだまだ持ってるし、まだまだ真の
世界平和のところまで想念そのものはいっては
いないけれども、しかし、まず現実世界の中で
握手をして、そうして、世界平和の為に戦争の
手段のものをどんどん減らしていくという現実
そういう政府間の協議がなければ、まず障害
というものは取り除かれてはいかない訳ですね。

 それで、それを支えるものは何かというと
祈りなんです。

 祈りというのは非常に消極的にみえて、実は一番
威力がある。何故かというと、目に見えない世界の
守護霊さんとか守護神さんとかあるいは霊団とかいう
ものが働いて、この世界平和を祈る時には、一人に
ついて何十人何百人の人が、もうウンカのごとき
人達が一緒になって、霊人が一緒になって
祈るんですね。天上も天下も一緒になって祈る。天地
貫いて祈る。だから、この祈りというものの威力と
いうものは、それこそミサイルの弾(たま)の方向も
変えさせる。変えさせるのみならず、途中で
止まらせちゃう、世界平和というものは、完全平和
というものは、絶対できると私はいつも言いますのは、
それこそ想いを浄めて祈りに高めていって、そして
祈りが本当に愛一念になった時には光になります。
 光になった時には、闇は光に勝ちませんから、
そこで、どんな武器であろうと人を損う想いで
あろうと何であろうと、そういうものを全部、もう
闇のものを全部光に変えちゃう訳です。ですから、
そこで武器というものは無くなってしまう。
 あっても無用のものになってしまう。そういう
現実が来るんです。その現実を来たらせる為の
世界平和の祈りなんです。

 そうして、もっと言えば、一人一人が本心を開発
していって、一人一人が神様の器なんだ
ということを本当に自覚できた時には、皆の心が
平和になってくる訳です。平和になるということは
さっきも言いました様に、祈りが消極的なもの
ではないというのと同じように平和である
ということは何であるかというと、どうなるか
というと、自分の中のさながらの生命が生き生きと
生きづいて、根本の自信が出て来まして、そして、
意欲に満ちて働いていきます。
 そして、自分の後に守護霊さん守護神さんという
ものが守っている、神様というものがいる、
あるいは五井先生というものがいて、そうして、
世界平和が実現する、ということが本当に自覚
されて来ますと、自分が動いてるんじゃない。
 生かされてる喜び、生かされてる充実感
というものに満ちて動いていきますから、今までの
何十倍もの力が出て来る訳です。

 そうやって一人一人が持ち場持ち場で
動いていって付き合ってく。色んな人と
付き合ってく。話をしていく。仕事をしていく。
 ということになると、もうそれが一部の宗教家
だとか政治家だとかいう方面の人達だけのもの
ではなしに、皆の心が開発されていって、そこで
平和というものが段々段々広がっていって、
世界平和というものがついに完成していく訳です。
 それが私には見えている訳です。

 幽界なんぞというものは今でもあります。
 そうして、人間のそういう本質、本心、本体
というものの光を遮ろうとして、色々な障害を
もってまいりますけれども、しかし、何をもって
こられても、先程申しました様に、我々の心、気持ち
というものが揺らいでも、本心本体というものは
揺らがないのでありますから、寧ろ我々の本心本体
というものは完全平和を目指して生きる器で
ありますので、光というものを受けている時
というのは、そういうものを受けつけません。
 そうして、そういう想いを包んで愛念にかえて、
そういう想いを持たされた人達を本当の意味で
呼び醒まして、仲間にして、今度は一緒に共々に
世界平和を祈る仲間にしてですね、何十人もの
何百人もの仲間を増やしていく訳です。

 今、世界平和を祈る運動というものに
白光真宏会がつき進んでおりますけれども、これは、
世界人類、どんな国の人も、民族の人も、世界が
平和であるようにという共通の想い、それを
祈り言葉にすることによって、その言葉を
想い浮かべることによって、自分の本心が神様の
愛と合致して、そして、光となって一体化していく。
 その本心開発の運動を今私共の会が先達となって
やっていってる訳であります。

 こういう地球規模の運動をしてまいりませんと、
とてもではないけれども、この地球の想念の汚れと
いうものは、一朝一夕(いっちょういっせき)に
拭いされるものではないのであります。

 我々の生命というものは、いつも申して
おります様に、生き通しの生命であって、それは
ずーっと天命にまで流れ込んでおりまして、ただ、
魂の覚醒というものがどこで世界平和の祈りに
会うかということ、これが大事ないわゆる時間
というものであります。

 法然も親鸞も時期相応ということを考えて
おりまして、その時期相応の祈り言である南無阿弥
陀仏に出会うまでに、彼等は随分学問も致しました、
悩みました。あるいは、宗祖の釈迦でさえも苦行を
六年致しました。その苦しみというものは無駄では
ありませんでした。苦しみを通して、ただ一部の人
だけが救われるもの、魂が救われて自分が救われて
いくものであれば、これは小乗なのであります。
 大乗の祈りではない。人類の祈りではないので
あります。人類の宗教ではないのであります。愛
ではないのであります。

 人類の、我々共通の、なる程と想えるものという
ものは、誰もが納得できるものでなくてはならない。
 しかも、易しいものでなくてはならない。そして、
誰もが出来るものでなくてはならない。そして、
任せられるものでなくてはならない。この三つ四つの
条件が、全部今の状勢の中で出来るといったら、
これは、世界人類が平和でありますようにという
この祈り言をすすめていく、目にふれさせていく、
それしかないのであります。

 祈りというものは、強制できるものでは
ございません。それは、その国の人々の民族性や
信条や、あるいは宗教や習慣や風土、その違いが
ございますので、これは何も強制できるものでは
ない。ただ我々は、その人々の中に眠っている、
あるいは気付いてはいても弱い気付き方である、
世界人類が平和でありますようにという、元々の
根元の祈りの芽を、あるいはピースポールによって、
あるいはステッカーによって、あるいは白光誌を
手渡すことによって、それを呼び醒(さ)ます。
 その役割りをするのであります。ですから、その
手渡すということは、すでに私がそこで働いて、
その人を通して一番いい、その人が生き易い
やり易い方法で、この祈り言がその人の生命の中に
生活の中に生き方の中に入っていく様に、守護霊
守護神さんと倶(とも)に私が働いていくという
ことでありまして、その点で皆さんは、本当の意味
において繋(つな)ぎの役を、後は五井先生がして
くれるから大丈夫だというその位の軽い気持ちで、
しかし、本心開発の為にこの祈り言が絶対に
人類の為に必要なんだという、そういう自信と
覚悟をもってこの運動を広めていっていただきたい。

 そうすることによって実は、想いとか言葉とか
いうものが、その想念の汚れというものが
浄められていくのであります。想いとか言葉とか
いうものがどうしようもないやり切れない暗いもの
だという歴史が、そこで段々段々縮められていく
のであります。実は、言葉の光明化、想いの光明化
ということをやっていかなければ、我々本心本体の
一体化というのは出来ないのでありまして、この身
さながらに神様の生命である、神様から流れ
来たっている真理、愛と一体なんであるという、
その遠大な目的というものを達成する為には、
やはり、この世界人類が平和でありますように、
日本が平和でありますように、私達の天命が完う
されますように、守護霊様守護神様ありがとう
ございます。というこの完全な愛と平和のお祈りを
唱えることによって、我も他人(ひと)も一体になる。
 そうして、神様の生命とすこやかに一つになる。
 ということを信じていくことによって、我々個人の
想いも苦しみも、又救いとられていく訳であります。

 もう私共の生きているこの時代は、私が良ければ、
私達さえ良ければいいという時代ではない。たとえ
白光真宏会に入っていない人達の中でも、この
本心開発がなされていかなければ、この地球の浄化
あるいは大きく言えば宇宙全体の調和というものは
在り得ないんだと。だから、白光に入れる入れない
ではなくて、その本心開発の芽を我々がどれ程
無になって、それぞれの持ち場持ち場、立場立場で
やっていけるか、その為に自分をむなしくして祈る。
 祈って、そうして今かかえている課題や悩みや
嘆き、そういうものを全部私に預けて下さる。
 そういうことが今一番必要なのだと思います。
       
             昭和63年5月5日
                     
                五井 昌久