人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

愛深い人間になる為に

2011-12-08 10:43:16 | スピリチュアル
 結婚相手なんかを選ぶ時に、よく昔から冗談で、
心より顔とかですね、何がなくとも美人がいいとか、
色んなことを申しますけれど、私は、やっぱり人間
として何が一番大事かと言えば、これは何がなくとも
優しさだと。
 優しさがなくなったら、人間というものは優しさに
伴う潤いがなくなっていって、そして遂には、人間が
人間らしさを失なっていくという風に常々考えて
います。

 ところで、優しさというものですけれども、これは
ただ単に誰に対しても優しいとか、何に対しても
優柔不断な位(ぐらい)優しいとか、そういうものが
本当の優しさではない。優しさというのは何か
というと、これはまずは、自分を愛する心、そうして
人を愛する心、それから人を容れる心であります。

 この三つがなかなか難しいのでありまして、特に
人を容れるということ、寛容な心になるということ、
これはなかなか出来ることではありません。
 虫の好かない相手というものはありますし、
あるいは一緒の同僚でも、この人とは仕事が
しやすいけれども、この人はもう一言居士で
なかなか文句屋で、この人とは勤務は一緒に
組みたくないとかですね、虫が好かんとか色々
出てきます。で、そういう相手になかなかじゃあ
優しい気持ちをもつということも、非常に難しいこと
なんでありますね。そういう事で色々悩んでる人も
ある。
 又、家庭の中では、姑とうまくいかない、舅と
うまくいかない、嫁とうまくいかない、兄弟が
どうのこうの、色々なことがあります。社会ばかり
じゃない、自分の家の中に向けたって、色んな
気持ちが人間はぶつかり合って出て来るもん
なのであります。そういう中で優しさということを
極めていくのは、これは本当に考えていけば、
本当に見つめていけば、ものすごく本当は難しい
ことなのであります。

 人を容れるとか、人に優しくするとか、自分に
対して優しくする、自分を愛するとかいうことは、
これはなかなか自分の想いだけでは出来ること
ではなくて、これは祈りの中で、ずっとこの命題
というものは宿題にして考えていかないといけない。
 あるいは、我々人間が向かっていかなきゃ
いけない問題だと、私は考えます。我々の会の、
世界人類が平和でありますようにというのは、
個人も人類も共に真実の救いを体得できるもので
あるという風に、私は教義の中で申しました
けれども。
 世界人類がというこの世界人類の中には、
自分自身も入ると同時に、普段は固有名詞で
考えますと虫の好かない誰々さんであるとか
ですね、あるいは隣のおっさんであるとか、色んな
ものが浮んで邪魔をしますけれども、世界人類
というもののその言葉の中へ入れてしまうと、
そういう余分な余計なものが一切消えて
しまいまして、ああ世界人類がーと想えてしまう。
 そこで祈れてしまう訳であります。それでもって、
自分も祈っている時に、自分の心がずーっと優しく
なっていって、そうしてその優しさというものが
回りにどんどん溢れていく。

 その溢れていくというのは、ただ観念で私は
申し上げてる訳ではなくて、皆さんが世界人類が
平和でありますようにと、私と一緒に祈って
下さる、あるいは、祈りのテープで倶に祈って
下さる時に、統一会の時でも来て祈って下さる時に、
こちらから見ておりますと、世界人類がーと統一
すればする程、光の波というものが皆さんの心の
中から、あるいは体からずーっと出てまいりまして、
そこへ優しいという気持ちが広がっていく。それが
こちらからは見えるわけであります。そういうものが
見えたら、先生一遍に信じるんですけどという人に
随分(ずいぶん)会いますけれども。

 人間というものは、見える世界だけで生きてる訳
じゃない、見えない世界で生きてる。実は、見えない
世界からそういう働きなり祈りなりエネルギーなり
貰って生きているわけ。
 なんでそれを見えさせないかというと、見えたら
邪魔になってしようがないんですね。あの人の方が
光の波の色がいいとかね。この人の方が真白に
近いとか、自分はオレンジだとか、何か紫色
だなんて、見え始めたらもう色に迷っちゃって何にも
出来ない、けれども、見えたって見えなくたって、
とに角、世界平和の祈りの中で一念になって祈って
いる時に、皆の光の色というのは本当にきれいな
色なんですね。そして、そのきれいな色になって
いる瞬間というのは、皆菩薩なんです。一分キリスト
一分釈迦ということを、私は前にも申しました
けれども、その時には本当に皆がもう透き通った
生命そのもの、本来のさながらの生命そのものに
なって祈っている。だから、神様の想いと一致して
祈っている。その時には、本人も気づかない
けれども、本当に“やさしい”という言葉も
追いつかない程、やさしい波動がスーッと出て、
そうしてそこへ溶け込んで祈っている。

 だから、優しくなるとか優しくしようとかいう
ものは、本当は、それはまずきっかけなんで
ありまして。愛情というものも、例えば、抱かれた
経験がないと抱かれるということがどれ程気持ちが
いいか、赤ちゃんでもそうですよね。今、抱きぐせが
つくから抱かれない子供が増えてる。そうすると
何が起こるかというと、お母さんの暖かみというのを
知らないで育つ子供が多くなるから、後になって
学校に行きたくないとかいう子供が増えてくる。
 愛情というものは、やっぱり抱かれた記憶という
ものがないと育っていかない。だから、愛情という
ものはもちろん本能的なものでもあるけれども、
一面、習慣でもある訳です。その愛情というもの、
どんどんどんどん高めていった愛情というものは
どこで発揮されるかというと、祈りの中で発揮
されるから、その祈りを高めていく為には、こういう
世界人類が平和でありますようにという、こういう
高い祈り この高い祈りの中で、自分も気が
つかないうちに、自分自身がやさしくなる。やさしく
なってる。いつの間にかしら優しくなって気持ちが
良くなって、そうして、祈りの場所から
日常生活の中へ帰ってきた時に、何かしら前とは
ちょっと違って、人に接する時に、少し何か
やわらかく接することが出来るようになるとかね。
 あるいは、ちょっと腹立たしかったのが前よりまし
になったとかね。
 そんなところからだんだん気がつかない内に、
やさしさというものが芽ばえてきて、あるいは
深まっていって、本当のやさしさへ、神さまの方から
持っていって下さる訳です。

 先程申しましたが、やさしいということの中に三つ
あると申しました。つまり、人を容れるということと、
自分を愛するということ、人を愛すること。人を
愛するのと人を容れるというのは、だいたい同じと、
まあいまのところしておきますが。自分を愛する
ということはどういうことか。

 それは自分を大事にすること。自分を大事に
出来ないということは、本当に自分を愛せない
ということです。つまり、自分を大事にすると
いうことは、自分の今の有りのままの姿を見つめて、
ああ自分は今ここに居るんだな、自分は今こういう
気持ちでいるんだな、その自分を確認して、そうして
その自分を抱きしめてやる。
 そして、自分の守護霊さんなり守護神さんなりに、
今自分はこんな状態ですけれども宜敷くお願い
致します、とこう渡してしまう。あるいは祈ってしまう。
 それが自分を大事にするということです。

 生きて行きますと、色んな事がありまして、
頼り無い自分がでたり、腹立たしい自分が出たり、
悔しくって悲しくって、もうそういう自分は否定
し切ってしまいたいから、どんどんどんどん
自己否定になって行く。卑下して行く。劣等感に
苛まれてしまう。何にも出来ない自分だと思って
しまう。そうして、否定して否定して否定していく
うちに、何が出てくるかといったら、今度は我が
出るんです。そうして、いつの間にか我の世界の
中で自分を自閉してしまって、自分なんか何にも
役に立ちませんと言って──。こういうのを私は
何時も言う卑下高慢というんですがね。

 卑下高慢の中へ入ってしまうと、こっちから出る
のに大変なんです。自分の本体とか本心が
見失っちゃって、我の世界の中で自分で自閉して
しまってますから、神様の方がいくら力を与えよう
と思っても、自閉してしまうとなかなか出にくい。
 この卑下高慢から解き放たれるにはどうしたら
いいかといったら、こういう人というのは完全欲が
強いですから、自分は完全でありたい。
 例えば、神様にでも完全に自分を高めていきたい。
 五井先生がああ言ったから神様がこういう風に
望んでおられるから・・・という風にやって
行きやすいんです。そうして、自分の限度、限界が
あるから、そこでバタッと倒れちゃう。

 けれども、神様の方から見ればね、あるいは、
守護霊さん守護神さんの方から見ればですね、
そんなに人間が完全であるはずがない。完全である
筈がないからこそ、今苦労して世界平和の祈りを
与えて、皆が光明化するように、この世界が平和に
なるようにといって、うちの会が一所懸命やって
いる訳で。皆完全である筈が無い訳ですから、
自分は完全じゃないけれども、でも宜敷くお願い
します。そういう心になるということが、まず自分を
大事にしていくということなんです。

 有りのままの自分を放り出すことが非常に恐い
という人がいると思います。
 けれども、守護霊さんとか守護神さんとかいうのは、
その人の想い癖を全部わかっている訳です。
 生まれる前から皆さんと付き合ってる訳ですから、
そういう事はもう百も承知な訳です。だから恐いも
何もないわけです。ただ投げ出しちゃえば、預け
ちゃえば、そこでもう抱きしめてくれる訳ですね。

 そうなると今度は、向こう側から光のエネルギーが
来まして、だんだん自分を閉じ込める時間が少なく
なって、そうして、自分を大事にするということは、
自分を見つめることだという事が分かってきて、
祈り言でも唇に出せるようになって来ます。声に
出して祈れる様になって来ます。

 最初から自信の無い人に、大きな声で世界人類が
平和でありますようにと祈れといっても無理です。
 それは無理です。この辺のところは、講師の人も
幹事の人も気を付けなきゃいけないことです
けれども。そのとても祈れない現実の中で、ただ
お祈りをすれば心がすっきりしますよと言ったって、
その時に祈れない状況の人がいる訳ですね。
 祈りたいけれども祈れない、そんな心になれない。
 そういう時はどうするか。

 そういう時は、守護霊さん守護神さんが後(うしろ)
で祈る。あるいは私が後で祈るんです。ですから、
そういう時に、この祈り言というものを強制しても
駄目なんです。そういう時には、それはそのままに
しておいて、その人の守護霊さん守護神さん、
その人の本心が開発されますように宜敷くお手助け
下さい。その人の天命が完うされますようにという、
そういう祈りを指導者である人達はやって
いかないといけない訳です。
 何が何でも成績主義で、皆で声を合わせて唱和
する、唱和しなきゃいけない。なきゃいけないと
いうのはこの場合、自分を大事にすることにも
相手を大事にすることにも、ましてや、自愛にも
他愛にもつながっていかない。その有りのままの
どうしようもない、もう自分なんか何にも役に立た
ないんじゃないかと思われる程追いつめられた
人間のある一断面というものを見つめていく。で、
認めたところから人間というものは光が入るんです。
 認めきって、そこで闇に沈んじゃうんじゃ
ないんです。それは、一つのその否定的な側面と
いうものを認めてしまって、カラッポになったときに、
スーッと、光が入るんです。光が入ったら引き上げ
られる訳です。そうして今度は、自分を愛することも
人を愛することも、人を容れることも出来る
様(よう)になる。

 人を愛する。愛するというのも色々あります
けれども、愛するというのは、愛(いと)しく想う、
可愛く想う。ね、この人はとても朗らかで笑顔が
良くっていつも会うとニコニコしてて、こういう人は
愛し易いですね。心に浮べただけで自分の心が
和んできますね。その人を浮べることによって、
自分も力が出てくる。愛しいとしは一つなんですが、
そこで今度は人を容れる。容れるということは
何だろう。
 容れるというのは、自分の心が無理な時にでも
他の人のことを考えて、そうして自分の方へ
引き寄せる。もっと砕いて言うと、ゆるすということ
でしょうけれども、これはなかなか出来ること
じゃない。

 先程申しましたね、人間の色んなやり切れない
想いとか何だとか。 色んなごちゃごちゃした
ものが出ます。で、出て出っ放しだと救われません
から、私はそこで、消えてゆく姿ということを
申しまして、それでいいんだよいいんだよと
言いながら、皆さんを祈りの座へと高めていく。
 そのお手伝いをしている訳ですけれども。 
 出しながらどんどんどんどん自分の色んな嫌な
救われない想いを出して出して出してカラッポに
して、そして、世界人類が平和でありますように
という中へスーッと統一して出し切っちゃって、
もうこれ以上愚痴がありません嘆きがありません
という所まで出し切ってしまうと、今度カラッポに
なった中に何が入って来るかといったら、静かに
なった中に、今度は人の心の想いがそのまま
大きな深い流れとなって入って来る訳です。

 あるいは、皆さんの心の音信というものを
聴き分けている他の人の心というものが、扉を
叩いて来る訳です。そうした時に何が働き出すか
というと、愛(いと)し愛(あい)しが働いてくる訳です。
 ということは、無理に受け容れるんでは
ないんです。無理に受け容れるというのは、これは
枷(かせ)なんですね。無理に受け容れるという
ことはないんです。あるいは、ゆるすということも
なかなか人間出来るもんじゃありません。
 ましてや、色んな事言われて拒否されて、何だ
かんだされて、自分がこれだけしてやったのに
相手はという想いになっている時に、なかなか
それが出来るこっちゃない。出来るこっちゃない
けれども、ただやっぱり、祈りの中に一つになって
しまうと、あるいは自分がカラッポになってしまうと、
カラッポにしてすべてゼロ以下にしてしまうと、
静かにその人の姿が見えてくる。映ってくる。映って
きて、いい所が見えてきて感じられて来た時に、
あーと思う。愛し いとしが今度入ってきて、そうして、
あ、この部分はなあーと自分が優しくなれていく訳
ですね。させて貰える訳ですね。

 ですから、愛深い人間になる為には何をすれば
いいかといったら、この有りのままの自分を
見つめて見極めて、辛いなあ悲しいなあと想い
ながらお祈りを重ねて行って、そうしてその光と
一緒になって行く。あるいは、もうこれ以上自分の
苦しい事はないという位文句を言っていって言い
抜いてゆくと、その余分なものが出ますから、出た
ところで今度は、守護霊さん守護神さん、あるいは
私が抱きとめて、愛の光を入れていく訳です。

 そうしますと、愛しといとしとそして容れるという
ことが三位一体になって、そうして優しいという所へ
昇華していく訳です。
 そうなりますと我々が求めております、目標として
おります、世界平和というものが完成していく訳
です。その為のやさしさであり、強さであり、見た目
ではない心の奥深さというもの、本心の本体の
極みのない広大な世界というものを、我々は
目の当たりにしていく。そういう時代になって行く訳
であります。
          昭和63年5月5日
         
                   五井 昌久