人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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さやけき生命(3)

2018-08-15 12:19:57 | スピリチュアル
        (前日からの続き)
 光というものは、どんなにでも働くんですね。
 神様は光の元の元です。神様というのは、
どんなふうにでも人に現われて来る。その
現われて来る時は、いい現われかたばかりでは
ないんです。非常に手の込んだ、もって廻った
現われかたもあるのです。悪役も一人や二人
置いといて、喧嘩をさせたり、色んなこと
させたりして、神様が何故こんなことまで
されるのか?というような体験をさせて、
人間の出来をもっと上にあげようとする。
 だから光によって全部ワーッと良くなるか
というと、そうでもないんですよね。それは
御利益信仰と同じことになる。

 ですから、ごほうび上げますよと言われたら、
その通りのものがポンと来ると皆思ってしまう
でしょうが、その人は何十生何百生何千生かけて
やって来た、いろんなことがあるわけですね。
 いいこともあるし、悪いこともあるし、
過(あやま)ちもある。それらが混合されて、
生命の糸をつむぐように、今色んなことに
現われて来ている訳でしょう。その中で人間が、
消えてゆく姿の中で、ただ一つの光の自分を
見つけていくためには、ものすごい苦労が
要るわけですよね。だから、要らないものは
もうけっこうですと、もう辛いことはけっこう
ですと言いたくなる。みんな言いたくなる。

 ところが、その人の前生に借金がまだ払って
いないものは残っているんですね。四次元の
光が降ろされ、世界的にも個々人にも
いい方向へ行くんですが、ただその人が固有に
自分で消さないといけないものは、やはり皆、
それぞれに持っているわけで、その分だけは
なんか苦労がまだあるなぁーという
感じなんですね。

 しかし、神様は平等だから、絶対に皆んなを
幸せにするんです。だからそこに信を置けば、
どんなものが来ようと、たとえ自分が八つ裂きに
されようと、そこで「ありがとうございます。」
と言って死ねるんですが、そういうわけには
ゆかないのが人間ですね。何でこんなものが
自分のところへ来るんだろうと、御神水も
飲んでるし、富士にも行ってるし、いっぱい愛行
やっているのに、いろんな活動もやっているのに
何故なんだと。これは、御利益信仰になって
きたら、うちの信仰はだめだ。
             (翌日へ続く)