人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

偶々成詩献友

2020-11-12 10:05:59 | スピリチュアル
日月天在人照心
人者光為互観自
眼放水者其流楽
草木之戦覚神恵
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳



今日は私のつくりました詩を
もとにして祈りということを
考えてみたいと思います。




日月天在人照心
人者光為互観自
(じつげつはてんにありて
ひとのこころをてらし、
ひとはひかりとなりて
かたみに、みずからをかんず)


 日月、太陽も月もですね、それは空にあって
それぞれが光を万物に届かせているわけ
ですけれども、人間のどこを一番
照らしているかというと、それは、心、本心、
いのちのみなもとを照らしている、
というんです。
 勿論、からだも照らしますよ、けれど、
からだを照らしながら、その実は、人間の心、
おおもとをてらして、神様の愛を伝えている
とこういうわけです、これは真実なんですよ、
事実そのまんまです。
 で、その光を受けた人間、神様の愛を
日月の光から感じとった人間はどうかというと、
ほん然と、本来の自分の姿、光そのものの
自分であることをさとってですね、光明
となってお互いに、その光体光身を、しみじみと
永遠者の前にさながらにみつめるわけです。
 自分の本来をつくづくとながめる
わけですよね、ようございますか?



眼放水者其流楽
草木之戦覚神恵
(めをはなてばみずはそのながれを
たのしみ、くさきのそよぎにすら
かみのめぐみをさとる)


 第一句が日月は天にありてで、うーんと高い
感じでしょ、それで、おんなじことを、今度は、
我々の生きてるこの地上にみてみよう、と、
こういうわけですよね。
 眼を地上に移してみると、せせらぎにしても
大河にしてもですね、水というものは、自分が
どんなふうに流れようとか、流れたいとか一切
考えない。ねっ。
それでいて、おのずからなるそのながれを、
ながれのまんま楽しんでいる。
 任せ切った姿ですね、それでもって悠々と
してる。
朗らかでさえある。
 実は、我々を生かしめておりますいのち
というものも、このとおりなのでありまして、
その相(すがた)は、悠々としたもの
なのであります。
 真理の相の無邪気さ、ほがらかさを、
わたくしはここでうたったつもりです。
 さて、そこで、水の流れの自在なすがたを
受けて、今度は、自然に眼を向けてみました。



草木之戦覚神恵
(くさきのそよぎにすら
かみのめぐみをさとる)


 くさきは、そのそよぎにすらかみの
めぐみをさとる。
そよぎですから、それほどの風じゃありません。
ありませんけども、自分自身をゆらゆらさせる、
フラフラさせるものにはちがいないんです。
 これを、人間世界におきかえると、火事に
なるってことかも知れないし、病気になる、
貧乏になるってことかも知れませんよね。
 とにかく、いいことじゃない。
この世で、不幸とよばれているものの
いくつかに襲われる、そういうことです。
 けれど、地の上の草木は、突然風が
吹いてきて、踏んばるのがやっとなんていう
時にもね、ああ、これは神様が私に働いていて
下さるからだ、神様ありがとうございますって、
イヤホントですよ。
 私なんぞ、花の精や木の精としょっちゅう
そういうことを話してるんですもの、で、
そういうふうに、感謝してしまう。
ありがとうございますといってね、神様と
一体になる。
 いつも、私の言ってる消えてゆく姿で
世界平和の祈りそのものですよね。
 神様の愛を受けて、万物は生(お)い育って
いるんです。
勿論、その筆頭に人間がくる。
 そうすると、本当に、素直な、さながらの
すがたになるとですね、あらゆることに、
いいことに出合っても、また悪いことに
出合っても、神様ありがとうございますって
いえるようになるんです。
それが自然なんです。
 次にいきましょうか?



天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
(てんちをすべるは、たそ
というこえをきけば、
ほしはほほえみてあいをちになげ、
ひとのこころのすがたをかたりて
やまず)


 この天地、あめつちのすべて、すべてを
統(お)さめていらっしゃるのはどなた
でしょうと、問いかけ、これは、人間からの
問いかけですよ。
問いかけを耳にした星は、にっこりして
人の心の真実の相について語りはじめた、
それは、倦(う)むことなく
語りつづけられた…という意味です。
 ここでは、人の心というものに主眼を
おいています。
 この天地すべてを治めておられるのは
どなたなんだろう、こういう人間の
呟(つぶや)きがきこえてきた時、星が、
地上に投げたものは愛だったというのです。
 神様という言葉を、ここでは使って
おりませんけれど、愛を投げた、しかも、
にっこり笑って投げたということで、この愛が、
神様の愛だということをあらわして
いるわけです。
 いつも申しますように、神様という方を、
別の言葉におきかえるとすれば、それは
極みのない愛なのです。
徹底した愛なのです。
 その神の愛を地にふりそそいで、そうして
人の心、本心の姿というものについて、
倦(う)むことなく語りつづけたところですね。
 人の心が、神の愛をあらわす主体である
ことをここでいいたいのであります。
心をさかのぼれば、本心、本体になってゆく
のであります。



即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
(すなわちきかずや、その
じっそうはかみの
あいじにして、こうげんは
うちゅうにきし、
えいえんのいのちは
おのれにおうかんす)


さあききなさい、と、こううながしている
わけですよ。
 人間の心、本心というものの真実、それに
人間というものは、神様のいとし児なんだ
ということね。
 人間っていうのは、神からきて、神に帰る
いのちですからね。
よく帰命(きみょう)帰命っていうけども、
帰命ってのは、これをあらわした言葉なんです。
 もっというと、神様から分かれてきた人間は、
我々自身のなかに神そのものの愛とゆるしと
智恵を、持ってるわけなんです。
本当に神の子なんです。
 ですから、自分をみがいてみがいて、
祈って祈って、心を澄ませてゆけばね。
人智ではない神智がかがやきとともにあらわれ
出るんですよ。
 その神様の光でもって、人間は、いのちを
養ってるんです。
その光は、どこまでたずねることが
出来るかっていえば、勿論神様ですけど、
それをここでは、愛の気、平和の気、世界人類が
平和でありますようにっていう世界平和の祈りが
なりひびいている宇宙の大奥にまで、たずねる
ことができる、源は宇宙から来てるって
いってるんです。
 そうして、その光の源、いいかえれば、
永遠のいのち、生命(せいめい)はですね、
もうすでに、一人の人間のなかに自由に
内包(ほう)されて、ぐるぐるとまわって、
幾万世代にもわたっていのちというものの
場所になってる。
 それが、この器である人間の肉体であり、また、
人間それ自身の真性なんだ。
自在な、いのちのなかに、人間は遊んでるんだ。
それが、人間の本来の相であり、肉体人間を
生かしている直霊、本心の真実の相なんだと
こういうことです。



己満愛世界知足
心天地朗高唱我
(すでにあいにみちたるせかい
としりてた ⦅足⦆ らい、
こころこそてんちとわれは
ほがらかにうたわん)


 こうやって、人間、またこの世界という
ものの実相を内観してきますと、もう愛で
満ちている。
あふれている。
 こういうことがわかってきますと、本当に
満足するんです。
嬉しさでいっぱいになってくる。
そうでしょう?
 そこで、自分自身を生かして下さっている
心-本心ですよね、本心こそ、自由の天地
だと高らかに唱いましょう、というんです。
 さしずめここは、ベートーベンの歓喜。
 合唱にあたる部分ですね。



人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
(じんかんのむをこえくうを
はなれて、
いのりをささげ、おのずから
ひかりをはなつことをもわする。
ぼうぼうくうくうしかれども
きょ ⦅虚⦆ ならず)


 さあそうなってくると、人間という
ものはですね、もう本体だけ、光だけに
なってるんですよ。
無とか空を超えちゃって、はなれて本当に
自由になって、ただ、神様と一体になって、
祈りをささげている。
もう自分のからだから、すばらしい光が出てる
ということも忘れている。
忘れているというよりね、もうそれはどっちでも
いいんだということになる。
そんなことどっちだっていいんです、全く我(が)
というものをはなれた、輝きにかがやいた
そういう人間の本当の姿があるんです。
 それは、ひろびろとしてね、ひろやかに
なって、何にもとらわれるものがないという
そういう状態なんで、決して、うつろな、
むなしい状態じゃないと、こういうことですね。
 祈りをささげて、祈ってることさえ忘れる、
それほどに、神様と一体になっていると
そういうことです。



久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
(くおんのながれにみをまかせて、
たいがとなる。
たいがしょうがを
いだきてすなわちひとつ。
いのちは、たいしょに、ひとを
はこびゆけば、
そのながれはゆうゆうとして、
たいがのごとし)


 で、こういう私たち、すみきわまった人間
というものは、久遠の神様の愛の流れへと
身をまかせて、宇宙そのものになると
いうんです。
 宇宙というものは、もう何物をも呑み込ん
でしまう。
とらわれにみちた肉体我といったものも、
全部抱きとって、宇宙そのものとなった
自分自身があるだけだ、つまりは、限りなく
一つとなるのだ、ということです。
 これは、神と一つということでもありますし、
直霊と一つになるということもありますが、
さらに、宇宙神が、混沌のなかから、愛の気を
みたして宇宙をつくられた、そのおおもと
である一に帰る、つまり、いのちに帰るのだ
ということであります。
 いのちというもののはじまりに、祈りは、
世界平和の祈りは、こうして、私どもを運んで
ゆくのでありまして、この祈りによって、
いのちの流れのなかに溶け込みますとき、
全くその流れが、大河のようにゆったりと
おおらかな朗らかなものであることを、
私どもは知るのであります。



神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳
(しんりょはあいにして、じん、
みらい、ざい。
やむことなくひとをひかりの
おくにいこわせん。
じざいなるいのちよ。かんきの
こえをてんにいたらしめ、
われひとともに、
とこしえなるじゆうしん、を
うたわん)


 神様の心というものは、未来永劫、ずっと
愛なんだということですよね、そうして、
つねに、一人びとりを、ひかりの家にみちびいて
休ませているということです。
 自在なるいのちよ、これは、自分への
語りかけです。
よろこびの声を天に到らせて、私も、
天地の霊人たちも、ともどもに、この
朗らかな自由身、自在身のよろこびを
うたおうではないか…
 と、ざっといいますと、こういう詩なんです。
 これは、真実の相であって、しかも、我々は
毎日の生活に疲れ果てているけれども、
ひとたび、世界平和の祈り言を唱えて祈って
ゆけば、こうした真実の本来の自分に
出会えるんだということなんです。
自分自身に出会うために祈りはあるんです。
その自分というのは、朗らかな神のいのち、大我、
宇宙そのものであるということなのであります。
        昭和62年3月6日 夜
           「偶々成詩献友」の稿 終了