人は、ふるさとびと

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(記事はリンクフリーです♪)

宇宙神と同格ということについて

2012-01-27 12:21:51 | スピリチュアル
 今まで何度か説いてきましたように、人間の生命の
流れというものは、本来、宇宙神のずっと深いところ
まで繋がっているんだというところまでお話しした
かと思います。それでこの間、直線的に昌美が
宇宙神と皆さんとは同格であると、そういうことを
言ったかと思います。それで今聞いていると、諸説紛々
だというので、じゃあちょっとこちらからの
メッセージを言ってみようかと思うんですけれど。

 同格というと、同格という言葉に又把われる
のが人間なんですね。じゃあ同格というと
宇宙神とまるで同じということになると、じゃあ
宇宙神というのは何かというと、すべてのすべて
なんですね。生命の元の元。人間の生命だけじゃ
なくって、この宇宙全体を造った、もう造ったも何も
造る前からいた。それと同じかということになると
仰天しちゃう訳なんです。

 何故かというと、人間というのは、この肉体という
不自由なものを持ってまして、一日の内でも、何度も
何度も言うように、気分が変わる喜怒哀楽が出てくる。
そういうものと宇宙神が同じだと言われてしまうと、
とんでもないという気持ちがまず出て来る。
 それでなくったって我々は凡夫なんだから、
いただき直しの生命なんだからといってずっと
説いて来て、そして皆さんも祈っている。
 そういう中で、そういう風に言われてしまうと
わあ─と思う。思うけれども、昌美が言ったのはね、
その生命の現われとしての宇宙神と一緒なんだ
という風に捉えてしまうと、つまり、全体の存在と同格
だという風に捉えてしまうと、皆困るんですね。そう
じゃない。じゃあ昌美は嘘を言ったのか、そうじゃあ
ないですね。

 同格だというのは、何において同格かというと、
皆さんの奥の奥の悟ってる本体、神体ね、肉体じゃ
ないですよ。神体、本来心というものがね、何によって
できているかというと、宇宙神からの光明と(光と)
ですね、愛と、そういうものによって生きてる訳
なんです。宇宙神の愛というのは、これはもう極まりの
ない愛なんですね。すべてのものを生かそう、すべての
ものをより良くもって行こう、敵も無いんです。味方も
無いんです。あるがままなんですね。

 そういうものが、我々のこの肉体、我の強い肉体を
通して光になって、そして、我々は肉体の生命を養って
もらってる訳なんですね。そして、自分の内の奥の
奥にもそれと同じものがある。そういうことを考え
ますとね、つまり、我々というのは意識するしないに
関わらず、愛したいと思う、仲良くやりたいと思う、
平和にやりたいと思う、喧嘩をしたくないと思う、
砕いて言えばですね、そういう気持ちね。つまり、
世界人類が平和でありますようにという気持ち。何処
にも戦争がなくって無事に平穏に、皆がそれぞれに、
それぞれの家庭で生きていけたらと思う。その祈りの
気持ち。

 それは何かというと、ずっとつき詰めていくと、
宇宙神があるがままの生命を認めてそのままに
ありのままに生かしていく。それが自分の望みであり
願いであり祈りであるんだと。その本来心の祈りを
受けて、世界人類が平和でありますようにという
あの文句が出来た訳ですから。

 ということは、自分の中にも、ものすごく素朴
だけれども、そういう風に祈る、自分の家族のこと
自分のことまわりのこと、そこからずっといって
世界人類のこと、本当に平和であればいいなと祈る。
 そういう何ともしれない思いが湧き起こる。湧き
起こる時には、人間というのは、その時には我には
満たされてないんですね。やっぱりその時には光に
なってるわけ。その光というのは、祈る時にもちろん
強められるし深められるし、こっちから見ていると
光明そのものになるけれども、祈る時だけが光明
かというとそうじゃない。

 普段は、自分が光明体であるということを皆忘れて
生きているんです。何故かというと、この世の中
というのは、忙しいんですね。仕事しなきゃなんない、
連絡しなきゃなんない、子供の面倒はみなきゃなんない、
夫婦の中で解決しなきゃいけない問題がある、親子の
中で解決しなきゃいけない問題がある、家庭はある・・・。
 そのことで自分が光明身だとか、そういう体を
持ってるとかということは、なかなか肉体のこの意識
からはのぼって来ない訳なんです。

 で、心を鎮めて、皆で統一してさあ祈りましょう
という時には、それはスーッと出て来やすい訳ね。
 それは、何も祈ったと同時に自分自身が変わるん
じゃないんです。自分自身というものは本人が意識
するしない、あなた自身が意識するしないに関わらず、
光なんです。何故かというと、神様から分かれて
来ている生命だから、分生命(わけいのち)だから
光なんです。それはどんなにその人が何を表面的に
どうしようと、奥にその光明があって、その光明が
出たがってる。そして、その人本人のその余分な
ものを取っ払っていったら、その人自身も光になる。
 で、その光は愛とゆるしと平和である。ということ
において皆平等なんです。同じなんです。

 その愛とゆるしと平等の元の元、平和の元、それが
宇宙神なんですね。だから、あなた方は宇宙神と同格
であるというのは、そういうもともとあなた方の中の
生命を生かしめている思いだけじゃなくて、肉体も
全部含めてね、我々からすると煩わしいものも全部
含めて、この世の中に生かしめられて働かしめられてる
その元の元が愛とゆるしと平和だから、その大元を
辿って行けば、何度も言うけれども、つまり
宇宙神だから、それは本人が意識するしないじゃ
ないんですね。

 昌美があの時あれを言ったというのは、もともと
宇宙神と同格であるというのは、そういう分かれてきた
生命の末、元と末ですから、で、その末というのは
萎びるんじゃなくて、これからもずっと続いていく末
だから、ずっと連らなってるものだから、もう
そろそろあなた方が光明なんですよということを、
あそこであの子は言いたかった筈なんですね。そうして、
それぞれに分けられている光明身というものをずっと
繋いでいって、祈りにしていって、そうして、
世界人類がーとやっていけばね、そうしたらつまり、
それは宇宙神のみ心になる訳。宇宙神のみ心と一つに
なる訳です。そこに入っちゃう訳ね。

 今は、魂というか、そういう本来心がどんどん
どんどん磨かれていって、どんな時にもみ心の中へ
入るようにやっていかないと、この地球の汚れ
というものは、なかなか大変なんですね。今随分掃除が
出来てるけれども、でも根っこの所もまだまだ一杯
大変なものがあるから。それで宇宙神と同格だ
というのは、それも本来本当の意味だけれども、
あなた方を励ます、ね。萎縮(いしゅく)するんじゃ
なくって、縮むんじゃなくって、そうだそうだ生命の
本当の本当の底のところで我々はそうなんだと宇宙神の
み心の中を見てみると、自分がまわりを平和にしたい、
ゆるしていきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに
育っていきたい、生きていきたい、というのと、
宇宙神の方からこちらを見て、いい人間一人一人を
本当に愛してゆきたい、ゆるしていきたいというのと、
一緒なんですからね。何にも変わるところが
ないんですよ。

 ただこの世の中では色んな煩(わずら)いがあるから、
そういう気持ちになるところが少ないけれども。
 しかし、先程申しました様に、神様が生かしている間
というのは、悟ってる本体、あなた方の神体、霊体
というのは、常に祈りを捧げている訳、宇宙神と一緒に
なって捧げている訳、共に捧げている訳なんです。目
には見えないけれどもね。ですから、分かれるも
分かれないもね、ずーっと一緒なんですよね。そういう
意味で同格なんです。

 ですから生命のすべてを造った創造主としての宇宙神
というものをへんに想像してしまうと、そこでおかしな
ことになるけれども、そうではなくて、つまり本当の
心の底のところで、現われも何も超越したところで、
我々は一本につながっているんだ。そこで我々は
抱きとられてるんだ。愛されてるんだ。ゆるされて
いるんだ。だから我々もささやかでもゆるして、愛して
できるだけ平和にという風に努力をしてやって
いったら、その時に自分の中の霊性が目覚めて、喜んで
高まっていってね、自分の愛の光がゆるしの光が
まわりに飛び交って、そうして、皆の中にその光の輪が
広がっていくというかね。祈りというものはそういう
ものなんですね。

 だから、祈ってる時だけがただ光明心が出てくる訳
じゃない。その時だけが同格というのも、それも正確
じゃない。常に常に自分の中で自分の知らないところで、
自分の本体は本心は宇宙神と同じような働きをして
いるんです。

 父子御霊とキリスト教でいいますよね、三位一体。
 あれは、父子御霊という風に分けることが
出来ないんです。あれは本当に一体なんです。

 たとえば、愛とゆるしと平和というものがそれぞれ
違うもんですかといったら、これはみんな一つらなりに
連らなってるというのと一緒なんです。我々は神から
分かれてきた生命であるというのは、じゃあ神様と
人間の生命とはどんな風に違うんですかというのは、
それは正解じゃないんです。一緒なんです。
 一緒なんだけれども、ただ今のこの世の中の色々な
現われでもって、自分の状況でもって、その言葉なりを
測ってしまうと、自分の想像でもって測ってしまうと、
とてつも無くおかしな事になるわけね。

 そうではない。本体において神体において本来心に
おいて、我々は一時(とき)も神様から離れたことは
ない。宇宙神から離れたことはないし、宇宙神も
離したことは無い。そういう意味において、不即不離
なんだということね。これが、我々は宇宙神と同格
なんだということの本当の意味なんです。

     昭和63年6月13日
                   五井 昌久