人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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かえし受けるいのち

2010-07-20 11:53:22 | スピリチュアル
 私どものいのちは、日々神様からの光をいただいて

保たれているのでありますが、自分自身を絶えず

あたらしくするために祈りがあり、一瞬一瞬に、古い

自分を返しつづけているのだということを、考えて

みたいと思うのであります。


 一体自分とは何でありましょう。自分とは肉体だと

思う人があるかも知れない。あるいは又、心だと思う

人があるかも知れない。

 では、私は、何と思っているかをここで申します。


 自分とはいのちであります。 いのちそのもので

あります。神の光を受け、霊要素、霊気を呼吸して

生きるのが自分自身、人間そのものなのであります。


 人間というものは、こんなちっぽけな肉体の中に

閉じこめられているものではありません。 

 人間の真性は、天地宇宙をつらぬいて、神の愛と

一体となっているものであります。

 神の光に抱かれ、宇宙神の愛とゆるしの大光明の

一筋となって永遠に生きゆく相、それが、いのちと

いうものの真実の相なのであります。


 昔々、まだ、人間が、空気のように霊気を呼吸し、

神の光を、よろこんで身に浴びておりました頃、

人間と神との交流、人間と守護の神霊との交流

というものは、誠に畏れを持ちながら、和に満ちて

いたのであります。


 いのちというものの朗らかさ、永遠に活きづく

本心そのもののかがやきが、神や守護の神霊との

交流のなかに、自らを突き動かしていることを、

人間達は知っていたのです。


 実に自然に、いのちというものが、つねに

あたらしくされ、日々瞬々いただきなおすもので

あることを、本心本体そして心が知っていたので

あります。


 祈りの言葉というものも、ひびきそのままの交流

であり、交歓でありましたが、つねに自らのいのちの

かえるべきところが、神であることをよろこびながらの

祈りでありました。

 こうしたすがたは、人間本来のものであり、今、

宇宙の星々に、宇宙神の愛をうけて生きている私どもの

すぐれた先達、宇宙人類達は、さながらこういう心

なのであります。


 いのちの流れというものはとどまることを知りません。

 そしてそれは、肉体などという私ども肉体人間の眼を

超えた、霊妙なひびきを持つ光そのものの光体を貫き、

遂に宇宙神のみふところに流れ込んでいるものなので

あります。


 つねに新しくされるということは、古い自分を脱ぎ

捨てているということでありますけれども、これが、

この現世における「死」とおなじようにとらえられる

ならば、それは全くことなった死なのであります。


 本来、いのちというものは、ずっと、神の愛のもとに

みちびかれて絶えることのない流れでありますので、

その節目節目における「死」は、一つの仕事、修行を

やりおえた私どもが、さらに素直に神様の光のなかに

生きるために、また、より深くより広い人類の進化の

ために、一区切がついた、そして、次はここだという

本心本体への覚醒を指すのであります。


 私どもは、すきとおるような神の愛と神への愛を受け、

又ささげるためにこの地上に、また宇宙に連なる存在

なのでありますが、こうした光体から、遂に神の光の

一筋となるために、永遠のいのちを受けているのであり、

祈り---世界平和の祈りは、各自に分けられたこのいのちの

かがやきを、いやが上にもかがやかすのであります。


 こうした人間のいのち、自分自身はかがやく神の光で

あり、いのちであると、祈りのうちに、この宣言を神への

最上のそなえ物とする時、辺りはよろこびの光に

みちるのです。


 どうか、果てしなく円環しつづけるいのちをみつめる

ためにも、一切を消えてゆく姿と観じ切る、とらわれを

放つ神への信をかためていただきたいものであります。

                  
                   五井 昌久