今日の阪神タイガース

毎日の阪神の各選手の動きを分析し様々なマスコミの情報を紹介して行きます

虎ドラフト戦略変更か

2007年08月15日 18時23分25秒 | Weblog
 タイガースは、これまで大阪桐蔭・中田翔投手の「1位入札」を公言していたのが、今夏の甲子園大会でMAX154キロをマークした仙台育英高・佐藤由規投手への“乗り換え”も視野に入れ始めたという。

 中田選手が大阪大会決勝戦で金光大阪に敗れ、「今年は大物がいないな」と手持ちぶさただったスカウト陣の目をくぎ付けにするのが佐藤投手だ。
 9日の智弁和歌山戦でその豪腕を見たスコアラーは「昨年のマー君(田中将大=駒大苫小牧→楽天)よりも実力は上ということは、はっきり断言できる。すぐプロでも通用する逸材ですよ」と、今後も徹底マークすることを明かした。

 南信男球団社長も「これまでの方針通り、ウチは中田クン1本でいくのが基本線」としながらも、「あれだけのピッチャーですから。16日の編成会議でスカウトの意見を聞きたい」と“微調整”を強調した。

 今年トラ投手陣を引っ張っているのは下柳投手と助っ人2人に、JFKだ。
 ルーキー・上園投手が先発ローテ入りして頑張っているが、「井川慶のような器ではない。他の若手を見渡しても、将来エースで活躍できそうな投手はいない」と球団首脳は話している。

 それに、松坂投手(西武→レッドソックス)やダルビッシュ投手(日本ハム)、田中投手(楽天)など、歴代の高校生No.1投手は1年目から活躍しているというのも“佐藤へグラリ”の理由のひとつの様だ。

 一方で、中田選手は競合が予想されるだけに、阪神サイドが佐藤投手にラブコールを送ることで、他球団も再評価し、当初は、8球団前後の1位入札が予想される“本命”への競争率を下げる戦略も見え隠れするのだが・・・。

 「まあ、ウチの手の内を明かす必要はないでしょう。『逆指名だったら公言していたのに、不義理じゃないのか』といわれるけど、クジで決まるんだからね」と編成担当も語る。


虎のドラ1候補 甲子園最速記録樹立

2007年08月15日 18時08分49秒 | Weblog
 本日の第2試合、仙台育英(宮城)―智弁学園(奈良)戦で、仙台育英の佐藤由規投手(3年)が球速155キロをマークし、「甲子園史上最速記録」を塗り替えた。
 今大会までは01年夏に日南学園(宮崎)の寺原隼人投手(現横浜)が出した154キロが最速だった。

 甲子園球場にスピードガンが設置されたのは92年春で、高校野球では3年前からスコアボードに球速を表示するようになったが、それ以前も球場のスピードガンで計測した数字が朝日放送の中継で表示されていた。
 01年夏に寺原投手が154キロを投げた際、ネット裏でスカウトが測ったスピードガンでは158キロが記録されたといい、この数字を「甲子園最速」としているメディアもある。

 佐藤投手は1回戦で、「最速タイ」の154キロを記録を記録した。
 「スピードは一生懸命投げた結果なので、気にしていない」と話していたが、この日も150キロ台を連発した。
 記録更新は4回裏の先頭打者に対してのもので、スコアボードに球速が表示されると、観客から一斉にどよめきが起こった。

ボギー好投

2007年08月15日 07時34分56秒 | Weblog
 昨夜は白星こそ逃したが、ボーグルソン投手の力投が勝利を呼び込んだともいえる。

 「プレッシャーは全然なかった。いつもの試合と一緒と考えて投げた。特別なことではなくていつも通りやれば勝てる。それができている」と語るボーグルソン投手は、MAX149キロの直球にチェンジアップ、ツーシームを織り交ぜ的を絞らせなかった。
 7回を投げて3安打1失点の成績に、表情を一切変えず冷静に竜打線を封じ込めた。

 唯一の落とし穴は1点リードの五回だった。
 一死から谷繁捕手に投じた初球のカーブを完全に狙われた。
 低い弾道の打球はそのまま左翼スタンドへ突き刺さった。
 不用意な形での同点劇に、まさに一発に泣いた。

 それでも先発としての仕事は十分にこなしたといえるだろう。
 期待通りの好投に首脳陣の表情も緩む様で、岡田監督は「(先発陣の中で)今は一番安定している」と絶大な信頼を寄せ、久保チーフバッテリーコーチも「よう放ってくれとるよ」と称賛した。

 これで右肩腱板炎から復帰した後半戦は、4戦負けなし(3勝)で絶好調だ。
 しかも中日戦も4戦無敗(2勝)だ。
 頼れる助っ投がチームをがっちりと支えている。


(相撲の話題です)先代佐渡ケ嶽親方天へ

2007年08月15日 06時35分00秒 | Weblog
 大相撲の53代横綱琴桜として人気を博し、大関の琴風や琴欧洲を育てた先代佐渡ケ嶽親方の鎌谷紀雄氏が昨夜午後6時19分、多臓器不全のため千葉県松戸市の病院で死去した。66歳だった。告別式等の日程は未定だという。

 1959年に初土俵を踏み、73年に横綱に昇進した。
 鋭い当たりで先手を取る取り口で「猛牛」のニックネームがついた。
 優勝5回、殊勲賞4回で、幕内通算成績は553勝345敗だった。

 引退後は佐渡ケ嶽部屋を継承し、7月に大関に昇進した琴光喜関ら多くの後進を育てた。
 日本相撲協会でも審判部長など要職を務め、2005年に定年退職していた。