北條民雄“いのちの初夜”(ハンセン病文学)からみた介護論
編集委員 大岡信 大谷藤郎 加賀乙彦 鶴見俊輔『ハンセン文学全集』1
(小説)皓星社:北條民雄「いのちの初夜」3~28頁
(2)
病棟に足を踏みいれると、顔からさっと血の引くのを覚えた。
「奇怪な貌(顔)」があり、
「泥のやうに色艶が全くなく、
ちょっとつつけば膿汁が飛び出すかと思はれる程
ぶくぶく張らんで」いた(9頁)。
看護師は尾田に、同病である佐柄木を紹介され、
この方がこれからあなたの附添人であると説明を受けた。
初対面の挨拶をして間もなく彼は佐柄木に連れられて初めて重病室に入った。
そのときの光景を見た彼は驚愕してしまった。
重病室の光景は
「鼻の潰れた男や口の歪んだ女や骸骨のやうに目玉のない男などが
眼先にちらついてならなかった。
・・・・・膿がしみ込んで黄色くなった繃帯やガーゼが散らばった中で
黙々と重病人を世話している佐柄木の姿」(11頁)に、
尾田は考え込んでしまう。
尾田をベッドに就かせた後も
佐柄木は、重病者の世話(介護)を続ける。
引用が長くなってしまうが彼がどのような介護を為しているのか、紹介していきたい。
佐柄木の為す介護姿に学ぶべき多くのことを感じたからである。
「佐柄木は忙しく室内を行ったり来たりして立働いた。
手足の不自由なものには繃帯を巻いてやり、
便をとってやり、
食事の世話すらもしてやるのであった。
けれどもその様子を静かに眺めていると、
彼がそれ等を真剣にやって病人達をいたはっているのではないと察せられるふしが多かった。
それかと言ってつらく当っているとは勿論思へないのであるが、
何となく傲然としているやうに見受けられた。
崩れかかった重病者の股間に首を突込んで絆創膏を貼っているやうな時でも、
決して嫌な貌を見せない彼は、
嫌な貌になるのを忘れているらしいのであった。
初めて見る尾田の眼に異常な姿として映っても、
佐柄木にとっては、恐らくは日常事の小さな波の上下であらう」。
尾田が感じた重病室は異様な光景であり、
彼の附添人である佐柄木は重病室のなかで息つく暇もなく介護をしている。
重病者の介護をしている佐柄木の後姿は、
同情や憐憫の情でしているのでもなく、
重病者につらく当たり愚痴をこぼしているわけでもなく、
黙々と立働いている。
そうした介護は「日常事の小さな波」の如く普通の行為として為されている。
いま、特別養護老人ホームは、要介護5の状態の入所者が多くなってきており、
介護保険型医療施設では気管切開や胃ろう増設などの患者が占め、
佐柄木のような介護がなされているのだろうか。
依然、筆者は東京板橋区にあるT老人病院に看護助手(介護員)として
3ヶ月研修に通っていたときのことである。
老いた男性患者が四肢(両手両足)が拘縮しベッドに一日中寝ていた。
オムツ交換時のことである。
話すことができないと思っていた看護師は、
多量の軟便失禁をした彼を叱り、
拘縮した両足を力まかせに開き小言を言いなが雑に臀部を拭きオムツを取り換えたのである。
彼にしてみれば凄い痛みや屈辱的な「介護」を為されても無言の抵抗で介護者を睨んだままであった(実は彼は話ができるのである)。
「崩れかかった重病者の股間に首を突込んで絆創膏を貼っているような時でも」、
佐柄木は決して患者に当たらず嫌な顔もみせなかった。
手がかかるような多量の下痢便や軟便失禁をしたとき、
つい小言を吐き、「介護してあげている」介護に陥ってはいないか、
佐柄木の介護を通し自問自答(反省)してみる必要がある。
介護とは何か・・・・