老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

350;“人生の短さ”と老人介護(1)

2017-08-30 17:31:33 | 文学からみた介護
“人生の短さ”と老人介護(1)
 セネカ著、茂手木元蔵訳『人生の短さについて』岩波文庫

(1)
哲学者ハイデガーは、
「今此処に生きている」
自分とは一体何者なのか。

生きているかどうか意識しようが意識しまいが、
自分はこうしていま「存在」している事実は否定することができない。
その「存在」は、“いま(現在)”という「時間」に在る。
ハイデガーは「存在」と「時間」という二つのキーワードから
人生について内なる対話を展開。

ハイデガーと同じく、
セネカも、人生において「時間」のもつ意味が如何に重要であるか、
書物『人生の短さについて』を通し後世に遺している。
今回はセネカの思想から
人生の短さと老人介護との関連づけながら
「読書ノート」を書いていくとしよう。
喉頭癌により人生にピリオドを打った
作家高見順の詩集『死の淵より』のなかに、
ある詩の一節を思い出した。
指のすきまから砂がこぼれるように時間が流れていく
(blogのなかで何度か引用した)、
普段私たちは時間に対しては無頓着であり、
時間は永遠に在るものとして意識することもなく過ごしているのではないだろうか。
介護施設でよく介護者は
「忙しくて時間がない」とつい口にしがちである。
よくよく考えてみると
「時間がない」のは、
介護者ではなく死期が迫っている老人の方である。

その「時間」というものについて、
私たち介護者はどう捉えなければならないのか。
自分自身の人生の在り方そのものを考え直し、
セネカが語っている「人生の短さ」とは何を意味するのか、
探っていきたい。

348;本当に辛かった・・・・・

2017-08-30 08:37:48 | 老いの光影
本当に辛かった・・・・・

外陰癌の真知子さん
(#344、#346 参照)
本当に辛く、不安であった、ことを思うと切なくなってしまう
T大学附属病院婦人科医師の話では
今年の1月には外陰癌の兆候はみられ、進行性の癌でもあった
婦人科に受診することもなく 家に閉じこもりのまま
腫瘍は成長し、とてつもない大きさまで膨らんでしまった
小児の頭部位の大きさになり、股間に垂れ下がっているような状態
出血もひどく、歩くことも儘ならず
家のなかでは「いざり」ながら移動するから
余計腫瘍の箇所が擦れ出血は続いていた
家のなかは血生臭かった
彼女は約8ヶ月間入浴していず
首の周りはチョコレートを薄く塗りつぶしたような色になり
髪の毛もごわごわ、爪は血も混じり真っ黒。
満足な食事も摂れてはいず、
入院時痩せすぎ腋下に体温計がはさまらず、
抑えていなければならなかった
入院時、余りの貧血で医師も驚き輸血の処置を行ったほどであった
従弟の嫁が 時折様子を見にいき
地域包括支援センターに相談したり
受診を促したりしていたが
彼女は介護も医療も拒否。
このまま死んでしまう、気持ちでいたのか

従弟の嫁の娘(私の妻)に
説得され、ようやく救急車に乗り、H日赤病院に向かうも受診拒否され、
T大学附属病院の救急外来での受診となった
彼女の自宅からは40㎞も離れており
無理にお願いし入院となった。(一安心した)

11階は癌病棟で、主治医からは
81歳でもあることから、手術により腫瘍を切除することはできない
このままの状態で治療を続けていく以外にない
彼女の外陰癌は300例あるなかで1例しかない癌である、と言われ
8,9人の医師がかけつけてきた

真知子さんは、今年の1月には
自分の生命が長くない事を悟っていたのではないか。
両親、弟、妹は他界し
いま、家族はなく一人暮らし
唯一頼りにしているのが従弟夫婦である。
亡き後の家屋敷の処分や自分の遺骨を納める墓地など
弁護士を通じ、それらの案件を解決し終えた。

もう自宅に帰ることは出来ないが
一人寂しく孤独死するよりは
病院で・・・・・、と思う。

347;若くはない

2017-08-30 07:02:09 | 老いびとの聲
いつまでも若くはない 

心が疲れると
身体までが気怠さを覚える

心地よい身体の疲れは
良く眠れる

老いてからの寝不足は
頭も身体も重くなり
いつまでも疲れを引きずる

いつまでも若くはない
子どもに限らず
よく寝る老人は
元気なのかもしれない