HAZAMAN'S WORLD WEBLOG

自分が描く絵のことや、日々の暮らしの中でふと気付いたことなど・・・・

個展の紹介です

2005年11月29日 | Weblog
一日分の仕事が終わって、本来なら会社まで戻らなければならないところですが、どうしてもお尻の辺りがムズムズして、会社に戻る気がしなかったもんだから、大阪の画廊へ、知り合いの個展を見に行きました。

作家は女性です。確か元々は、陶芸を勉強していた人だと記憶しています。それがいつの頃からか、所謂パフォーマンスというものを演ずるようになった人です。

彼女は二パフというパフォーマンスアーティストのグループに参加していて、世界各地のパフォーマンスアートのフェスティバルなどに、積極的に参加しています。

つい最近も、中南米の国へ行っていたそうで、現地では、日本と比べてパフォーマンスの認知度も高く、観客が実に熱心に見てくれたと、久々にそんな報告を熱く語ってくれました。

ぼく自身、パフォーマンスについては本で読んだ程度の知識しかなく、この女性作家を含め、ごくわずかな数のアーティストの仕事をほんの数回、見たことがあるに過ぎません。

そんな、かじった程度にしか知らないパフォーマンスのことを何やら語るのもおこがましいですが、久々に彼女の仕事を見る機会に恵まれたので、ちょっと書いてみたいと思います。

数年前に、初めて彼女の仕事を見たときからずっと思っていたのは、「パフォーマンスって、やっぱりなんやねん!!」ということです。

演劇でもない、ダンスでもない。表現するための特定の形式があるわけではないのですが、明らかにそのためだけに生み出された特有の動き、道具立てなどで、束の間の時間を彼女は黙々と織り上げていく。

でも、結局それが何なのかは分かりません。恐らく意味もメッセージもないんだろうなぁという、不可思議さと分からなさが渾然一体となった状況を、彼女は一身に体現しているんです。

以前は、単に彼女に演ずる力が足りていないだけなのだろうなと、失礼ながらそう思っていました。でも、どうやらそういうわけでもないようなんですね。

今回彼女は、10個の生卵それぞれに、小さな鈴を結び付けた細い糸を貼り付け、それをごろごろ引っ張りながら、犬の散歩よろしく画廊の中を練り歩いたのです。
なんでしょうか。卵を引っ張る彼女を見ながら、ぼくは、子供がそこら辺にあるもので見事な遊びを作り出していく自在さに似た何かを彼女に感じたんです。

思うに、人間って日常のどこかでは、こういう、なんとも形容しがたい時間の過ごし方が必要なんではないでしょうか。そんな風に感じたんです。

多分、まったくわけの分からないことをやれる人間が堂々と生きていける世の中って、少なくともまだ健全な部分が残っていると思うのです。

過労死だとか、中高年の自殺とか、くそまじめに生きる社会はかなり崖っぷちな感じがしますし、お隣韓国でも大学生の自殺が頻発しているそうですね。

とりあえず生活できる程度に働く、ということを遥かに超えて、働くために生きているような状態になってしまった社会では、やはり人間には不自然なんでしょう。
でなければ、自殺がそうそうあるとは思えないのです。

硬直して、崩壊しかかっているぼく達のこの精神を、揉みほぐしてくれるもの。その一つの例が彼女のパフォーマンスではないかと思うのです。

素晴らしいもの、何かありがたいものや、特別なものを期待して見に行くと、多分機嫌を損ねて帰ることになると思います。何も期待せず、あるがままに、今目の前で起こることを見つめ経験する。これが彼女の仕事との上手な向き合い方だと思います。

ちょっと最近テンパッテてやばいな、と思っている人にはお勧め。ぜひ見てもらいたいものです。

パフォーマンスのほかにも、会場にはちょっとほくそえんでしまうようなオブジェがいくつかあります。こちらもなかなかでした。

その個展の詳細は以下の通りです。

大橋 範子 展

会期 2005年11月28日~12月3日 
時間 11時~19時(最終日~17時)
会場 信濃橋画廊
所在 〒550-0005 大阪市西区西本町1-3-4 陶磁器会館地下
   地下鉄四つ橋線本町駅下車20番出口より徒歩3分程度。
電話 06-6532-4359

*パフォーマンスは最終日12月3日15時からあります。
 

やだなぁ・・・

2005年11月28日 | Weblog
以前、カレンダーを作るのがどうのこうのという話を書いていましたが、あれはまだ続いています。

昼間の仕事が忙しく、なかなか進まないうちに、11月も終わろうとしているわけです。

それで今日は久々にその続きをやっていたわけですが、もう絵は12枚出来上がっています。後はドローソフトを使って、文字部分を作って絵とくっつけるだけ。割と簡単にいきそうな作業です。

しかし、ぼくのパソコンはやってくれました。10月ぐらいまで文字の部分も景気良く行っていたのに、そろそろ上書き保存しようかなって、ちょっといじったら、うんともすんとも言わなくなったんです。

今使っているのはウィンドウズのマシンですが、友人の自作物です。数年前に、それまで使っていたマックがあまりにも頻繁にフリーズするからいらいらしていたら、やっぱウィンドウズだよ、と作ってくれたのが始まりでした。

ところが自作なせいか、小さな事故はないんですが、いったん駄目になるともう再起不能で、今使っているのは二代目なんです。

しかしながら、初代と違ってこいつは元から体が弱いらしく、でっかい病気はしない割にはマック並みに寝こみがちなんです。

パソコンも人間みたいに個体差があるんですね。

そんなわけで、機械に全幅の信頼は寄せないと思いながらも、やはりころっと忘れていたら、久々にデータ全消しという大技をかけられました。

それでも救いなのは、会社の仕事と違って、やりたくてやっていることだから疲れないし、仮に失敗しても穏やかな気持ちでいられるってことですよね。

また明日出直しです。


今日の絵は、以前紹介したカラーで描いたブタさんの後姿、そのモノクロバージョンですね。

早起きしました

2005年11月26日 | Weblog
今朝、仕事の都合で5時半過ぎに自宅を出ました。

やっぱり冬かなと、改めて感じたのは、ふと見上げる空が真っ暗で、まだまだ星が輝いていたからでした。

特に、寒くなればなるほど空気が透き通るのか、夜明け頃というのは春や夏のそれには見られない、独特の澄み切った新鮮さが辺りに漂っています。

まだ暗い道を歩きながら、どうしてだか僕はふと、この夏訪れたイタリアの町を思い出しました。

ぼく自身は、イタリアの京都だと思っている町フィレンツェ。その町の鉄道の中心とも言えるサンタ・マリア・ノヴェッラ駅の前にある一際目を引く教会が、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会です。

もちろん、この教会も多くの美術作品を所蔵しています。その中でも目玉といえるのは、ジョットーが若かりし頃に描いた、キリストの磔刑図でしょう。

無数の名作と、敬虔な沈黙に包まれたこの教会の天井の一角に、ウルトラマリンブルーで塗りこめた中に、金で描いた無数の星が輝きながらちりばめられた、満天の星空みたいな一角があります。

駅までの道を歩きながらそのことを思い出し、きっと、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会にあのフレスコが描かれた時代には、満天の星空が町から見えたんだろうなと、ふと想像してしまったんです。

多分、今ぼく自身が夜空を壁画に描いたとしたら、隙間なく星を描くようなことはしないと思います。

だって、そんな星空は、父や祖父の時代の思い出話でしかないし、なんと言っても、見えない星のほうが多い夜空を見つめて今日まで生きてきたのですから。

けれど、満天の星空を知らないわけではないのです。去年の夏訪れた石垣島。町から遠く離れた、人気のないビーチで、夜、カヌーに乗る機会がありました。

夜光虫がきらきらと、オールにまとわりつく海に、小さなカヌーで揺られながら見上げた空は何も視界を遮るものはなく、息が詰まりそうなぐらいの満天の星空で、その中心には、一際濃い白色に輝く天の川がありました。

その日、ぼくは、初めて天の川を見たのです。



今日の絵は、タイトルは無いのですが、どこかの誰かさんみたいにやたらと吠えまくっている犬でしょうか・・・・



紅葉も終わりかけですが・・・

2005年11月25日 | Weblog
日本に生まれ育ったからだと思いますが、季節ごと、見事に変わっていく周辺の色彩の変化を目の当たりにするたびに、「やっぱ日本って、えぇなぁ~」なんて思ってしまいます。

それにしても、何故ぼく達は自然を美しいと感じるのでしょう。もちろん、自然といっても、全てが美しいばかりではありませんし、日常目にする自然が、例えば人工的に作られた公園の中の「自然」であったりもするわけですが。

自然を前に美しいと言うとき、その美しさとは、ぼく達が日常目にする人工的な物、デザインを含む工業製品や芸術の美しさや良さとは、当たり前でしょうが、明らかに違うところがあります。

勝手な想像ですが、ぼく達人間が本を正せば土の中から生まれたようなもの、つまり、どちらかといえば根本的に自然の産物に近いということから来る、自然への生理的な親近感が、僕たちをして自然を「美しい」と思わせるのではないでしょうか。

それからもう一つ、人間の作り出したものは人間のスケール感で見えてしまう意図のようなものが明らかにあるからではないか。そんな風に思うのです。その代表的なものがデザインだと思うのですが、あるデザインされたものにはもちろんデザイナーがいて、その人なりの意図がもちろんあるでしょうし、比較的楽にその意図を読み取ることもできるように思うのです。

けれど、自然には人間のスケール感でそれと分かる様な意図が存在しないのではないでしょうか。しかも自然のスケール感は、人工的なものとは違って古くなってみすぼらしくなると言う事がないと思うのです。

それはどこか普遍的な何かからやってくる美しさであるのではないでしょうか。そして命ある全てのものはどこかでつながっている。だから、一見まったく異質としか思えないようなものにも、美しさを感じることができるのではないでしょうか。

思えば、僕たちの祖先は大地を「母」と呼んでいました。
その母が垣間見せてくれる美は、多分、途方もない何かの片鱗なのではないか。そんな風に考えるだけで、なんだかわくわくしてくるのです。

今日の一枚は「ペパミント・グリーン」というタイトルです。




音楽にできること2

2005年11月24日 | Weblog
昨日は本当に寝てしまいました。

余談ですが、今仕事の関係でアスベスト除去作業の現場に出入りしています。
もちろん現場では厳重な管理の下作業をしているようですが、そのアスベストを取り除く下準備のための作業で、石膏ボードそのほかの建材から出る粉塵だらけになっている職人さんを見ていると、人間てのは兎角厄介なものを作るもんだなと、辛い気持ちになってしまいます。

さて、今日もぼんやりと考えていたのですが、音楽の魅力とは、音が持つ抽象性と、にもかかわらず様々な感情を伝えられる具体性という、正反対にも思える性格を何の矛盾もなく持ち合わせていることではないかと思うのです。

そして音楽とは、今の時代には珍しく、多くの人々が同時に共有できるという特性があると思うのです。コンサートなどはそのさいたる物で、コンサート会場で観客が生み出す熱気は、美術館ではどうしたって見ることはできません。

しかも、このリアルな感動というものも、不思議なことにコンサートを録音(録画)したものからは絶対に味わうことができない。なぜなんでしょう。

神戸にとても大きなジャズ喫茶があって、そこでは時折ライブ版の演奏を収めたレコードを掛ける訳ですが、どんなに面白くてもどこか冷静になってしまいます。

ミュージシャンはまずその自らの技術を磨きます。そしていつも同じ局を演奏しても退屈しないように多大な努力をします。ぼく達がコンサートである曲を聞くのは一瞬ですが、その一極の背後には、ちょっと驚くような密度の努力が傾けられているのではないでしょうか。

なんだか焦点の定まらない、変な話になりました。唯一ついえることは、CDを何回も聞くのも良いけれど、生で聞いてみてほしい。そういうことです。あの圧倒的な説明的な言葉の一切ない説得力。これは経験するしかありません。

さて、最近紹介している白黒の絵ですが、これらはすべてB5サイズで、今年の2月から3月にかけて制作されたシリーズです。

音楽にできること

2005年11月23日 | Weblog
忙しさにかまけていたら、一週間もあいていました。

もう一つ理由があって、終わってしまったコンサートの話なんて、書いて何か意味があるのだろうかって、終わってしまって二度と見れない展覧会の感想でも書くようで、なんともいえない歯切れの悪さとにらめっこしていたら、あっという間に時間が過ぎたわけです。

そんなわけで遠まわしな話しを。

いわゆる生楽器というのは、当たり前ですが、その演奏する人の音がします。音の良し悪しとか言うものは、その多くは楽器そのものの出来にもよるのでしょうが、弾く人の色味が絶対的に出てきますよね。

前のブログで紹介した川門正彦さんという人は、まるでパーカッションみたいな響きで三線を弾きます。一般的に良く使う、水牛の角を使ったバチではなく、ギターのピックを使うせいでしょうが、それ加えて、どうも胴を押さえる手元で音を少しミュートさせているようなんですね。そのせいで余計にポコポコした音になってくるみたいです。

そして、観客は彼の演奏の前で熱狂的に踊り狂います。まーちゃん、という、同じく沖縄出身の三線弾きの人がいますが、その人のライブでも同じで、本当に踊るんです。それもみんな好き勝手な振り付けで。そして最後にはステージにまで上がっていってしまう。

今日の沖縄民謡、というか沖縄歌謡でしょうか。それには限りない熱狂があります。具体的に肉体を突き動かすエネルギーとでも言えるものが。だから、観客が熱狂してくると、観客は参加者というか、主役になってしまっているような気がするんです。

これはアートにはちょっと真似できないことです。特に絵画なんて、静止状態の極みですから、熱狂時という形容も当てはまりにくいでしょうし、何よりも観客の集中ぶりは、熱いながらも静か、というのが一般的ではないでしょうか。

ちょっと眠くなってきたので、この続きは明日にでも・・・・




昨日の続き・・・・

2005年11月16日 | Weblog
絵を描く人と、それを見る人や、受け止める人とのことについて、昨日はなんともあやふやな話をしてしまいました。ぼくの頭ではあまり難しいことを考えられないので、申し訳ない限りです。

一つだけいえることは、観客に絵の内容にまで立ち入らせてはいけない、あるいは絵の具体的なことのついて、意見を言ってもらう必要は無いということです。なんといっても、自分は自分の絵のプロフェッショナルじゃないですか。観客はあくまで見ることに通じてはいても、作ることに通じているとは限らないのです。

あくまで今は作る個人が主体の時代です。だから自分で責任といらないと。仮に一枚の絵の背景を赤く塗ったとして、その理由を聞かれた時に「いや、○○さんに言われたんで・・・」などという言葉出てはいけないでしょう。

昨日の話と矛盾しているかもしれませんが、作家には譲ってはいけない何かがある。まぁ、当然ですよね。

話はまったく変わりますが、一昨日家で飼っていたインコが亡くなりました。その前の日の晩までは元気だったのに、朝になって覆いをとってみたら、籠の中で冷たくなっていたそうです。

2年ほどしか生きなかった子ですが、手乗りで家族みんなになついていて、多分自分を鳥だなんて思ってなかったのでしょう。たまに家族の会話に混じってくるんです。

学生の頃、当時犬を買っていた同級生がいて、私の犬は人間の言うことが分かるという話をされ、そんなはずはないと激しく反論した記憶がありますが、今からでもその同級生に謝りたいぐらいです。分かっているみたいですね。家のインコを見ていて実感しました。

で、奴は家族がデザートやおやつを食べていると、手元までやってきて、バックリと銜えると、少し逃げて食べているんですね。甘いものに目がなかったんです。しかも憎たらしいことに、汚れた嘴を人の洋服で拭くんです。

小さな生き物でも、2年も一緒に暮らせば立派な家族です。それがいきなりいなくなって、家の中がほんの少し静かになると、以前はうるさいと思っていたのは実はそうではなく、賑やかさだったんだなと、改めて感じます。

あいつとは、またいつかぼくが死んだ時に三途の川の向こうで会えるんだろうなと、そう思っています。

それまでは、たくさんの大小様々な喜びや悲しみ苦しみを味わいながら、自分という人間を豊かに磨き上げなけれればならない。そんな風に思います。

それではおやすみなさい





絵というのは何がなんだか・・・

2005年11月15日 | Weblog
よく分からないです。
のっけからこんなことですいません。

自作のカレンダー作りもなんとなく先が見えてきたかなと思う今日この頃。絵が12枚できたところで、家族やら知り合いなんかに見せてみたのですが、意外と反応が悪いんです。

まず色々過去の作品も混ぜてと思い、3点ほど去年のもので今と描き方が違うものを混ぜておいたら、まずその時点で「なんか変」とストレートな意見が・・・。自分でも薄々「もしかしたら・・・」なんて思っていた辺りのことなんでかなり赤面です。

それから、見てくれた人達の年齢や趣味思考、生活振りなんてものも反映されてくると思うのですが、その時々の季節に応じた絵柄が入っていないと、ぴんと来ない人が多いんですね。

多分ぼくがとんでもないぐらいの巨匠だったら、みんな何を出しても有難がってくれるでしょうが、いかんせん無名なもんでそうは行きません。それでまた少し何枚か描き直している最中ですが、このスタンスって言うのは、職人的ですね。買ってくれると言っている人達の希望を、ぼくにできる限りでかなえていく。

やっていると気付いたのですが、これは決して自分を押し殺してやっているわけではないんです。もちろんいわゆる「自分全開120%」みたいなことでもありえません。

最初は自分全開みたいな感じでやっていたのが、人の声を聞くうちにちょっとづつ修正されてよそ行きの顔になってきた、そんな感じに捉えています。多分このあり方は、いわゆる画家ではなく、イラストレーターに近いものなんだろうなって思うんですね。もちろん、今回描いている絵は自分にとってはいわゆる「作品」とは思っていません。ちょっと違うんです。

100%自分のやりたい放題ではなくって、人の好みに合わせながら、そこにいかに自分のセンスやメッセージを織り込んでいくのか。それが今回の楽しみなんですね。

でも、考えたら、昔の画家なんてみんなそうですよね。パトロンの好みに合わせながら、そこに自分の意思を込めていく。ルネサンス期辺りのイタリア絵画など見ているとそんなのばっかりだし、むしろそれが長く当然だった。

誰にも頼まれていないのに、作家自らの個人的意思に従って描く。これは18世紀にヨーロッパで起こったいわゆる「ロマン派」から始まったのあり方ですよね。まだ300年も経験していないんですね。

今の日本はやっぱりアートには???な感じが大勢でしょうから、やはり絵を描くことや見ること、受け入れることといった様々な関係は、どこかいびつなのかもしれないなという気がするのです。

それにとても素朴な意見ですが、あんなの描いてという人に、まぁどうにかそれらしく描き上げた物を見せてあげたときの嬉しそうな顔は、こっちが嬉しくもなります。

絵画だイラストだといって、本当はできそうにない線引きをぼく達は色々試みるわけですが、この勝負どこで決着が付くやら、いつまでも「絵って分からねぇ」と言ってそうな気もします。

さて今日の一枚は「後ろの正面だあれ」です。ブタを描いたのも初めてなら、それをいきなり後姿からというのもなかなかです。個人的には気に入っています。

11月19日といえば・・・

2005年11月10日 | Weblog
沖縄好きにはたまらないイベントが大阪でありますよね。
イベントというかライブですが。

川門正彦(かわじょうまさひこ)さんという、三線の早弾き日本一みたいな人がいます。石垣島出身の人で、石垣島の市街地の民謡酒場「琉歌」をホームグランドに、毎年全国で精力的な活動を展開している人です。

この川門さんのライブ「はい祭でぃー祭2005」が19日午後7時から大阪バナナホールで開催です。このライブハウスは割りとよく沖縄系のイベントがあるようで、ライブハウスのすぐ隣には泡盛専門のバーもあるので、島好きにはたまらない場所ですね。

ところで、この人の演奏と初めて出会ったのは確か2年ほど前ですが、とある沖縄系ライブイベントで、三線の早弾きとして紹介されて出てきたのですが、まぁ、速いだけなら別にどうってことないんですよね。

なんというか、存在感があるんです。川門さんがステージに上がったとたん、場の空気がわっと明るくなって、「あ、こいつなんかやらかすぞ!」って期待させるんですね。

それでいて、演奏も歌もトークも期待に違わず、ばっちりなんです。話も面白いけど、どっかの歌手みたいにトークが9割、歌が1割みたいな配分てことはありません。そして三線の弾くのが速い速い。まさにジェットフィンガー状態。そんなに速くしなくても時間あるって、と突っ込みたくなるぐらい速いんです。

ライブは毎回BIGINの「島人ぬ宝」の川門バージョンで終わるのですが、これがまた感動物です。三線の、どうしようもなく人を惹きつける乾いた音とリズム。毎回それが存分に味わえますね。

詳しくは川門さんのホームページで知ることができます。
http://www/kawajo.jp/

自分もこんな風に問答無用で人のハートを鷲掴みにする作品を作りたい。のほほんとした絵ですが、いつもそう思っています。

最後になりましたが、今作っている最中のカレンダーです。結局一月1枚で12枚セット。絵も旧作を色々使おうかと思いましたが、結局気に入らず、9枚はまったくの新作です。予定では今週末のサンプルをあげてしまうつもりですが・・・

さて、今日の作品です。タイトルは「いや、ほんとに惜しかったんだ・・・」緑色のネズミ君が、お友達の野ネズミ君と獲物の大きさの話をしています。今年3月の作品です。


好奇心というもの

2005年11月07日 | Weblog
絵を描くことを自分の仕事にしようなどという人間は、たいていスケッチブックだのメモ帳だのを持ち歩くものです。それで、いつもきれいなものを持っている人というのは、常に何かを描いている人で、ぼろぼろになって味が出た表紙の物を持っている人というのは、一見玄人じみて見えますが、何のことはない、全く使わないから、いつまで経っても同じ物を持っているだけのことなんですね。

ぼくも、いつでもアイデアが浮かんだらメモできるようにと、数年前からスケッチブックではなく、小さな手のひらサイズのメモ帳を使っています。オレンジ色の表紙の、RHODIAという名前のもので、なんでもポール・スミスも大のお気に入りらしいですね。ぼくの場合は、プレゼントにそのオレンジの手帳とカバーを頂いたのがきっかけで使い始めたのですが、これが使い出すといい物で、ハッと思いついたら描きとめるということを繰り返すうちに、多分もう100冊ぐらいは溜まっているんじゃないかと思います。

まぁ、こんなメモ帳の数を言ったところで何の自慢にもならないのですが、見直すと色々と見えてきて、今回急にカレンダーを作り始めたわけですが、結構助けられたりもしています。それに、年単位でメモ帳が溜まってくると、その時々に、自分が何に興味を持っていたかが改めて見えてくるので非常に面白いです。特にぼくのように、自分のことを整理しない人間にとっては、まさに宝箱です。

こうして振り返って改めて思うのが、自分というのは、好奇心についてはかなり視野の狭い人間なんだなということです。メモのあちらこちらで、あえて普段気にしないものをテーマに集中してドローイングする訓練のようなことを、度々やっているからです。

それにしても、今回のカレンダー作りに挑戦したことでも思い知ったのは、いかに自分が普段カレンダーなんて見ていないかということです。だいたい昔から半年続けてめくったら立派なもんだと思ったし、3年前の未年の日めくりなどは、表紙からきれいに365日分、都合366枚でしょうか。手付かずで置いてあります。

だいたいからして、そんなぼくがいきなり作り始めたわけですから順風満帆とはいきません。それで人に会うとついぽろっと「いやぁ大変なんですよ」みたいなことを言ってしまいます。けれど時々実に含蓄のある意見を聞けることがあって、どんな風な物が使いやすいだとか、どんなところに掛けるから大きさはどんなのがいいだのと、いろいろと教えてくれるわけです。

おかげで、この頃何とか形が見え始めてきました。初めて作るというのはとても面白いものですね。しかも、やはりこういうことからでも、自分のあり様というものが滲み出てしまうんですね。あとはとにかく一日も早く完成させるだけです。明らかにスタートが遅いですから。

最後にメモの話に戻りますが、また折々取り出しては見つめて、その時々にメモの方から呼びかけてくれるようであれば、改めて形にしていきたいなと思っています。それに、例えば、作品をぼく達が生きる世界という海に浮かぶ氷山だとすれば、このメモ達は水面下にあって遥かに大きな存在として作品を支える、氷山の本体みたいなものではないでしょうか。人間の想像力の広がりを経験したいならば、何も特別な道具などいりません。なんでもない一本の鉛筆と一冊の手帳、一枚の紙があればいつでも挑戦できるのです。

さて今日の絵は、3年前ぐらいから登場した緑色のネズミです。無表情な割には愛嬌があってお気に入りです。この作品は今年の2月頃に描いたものですね。タイトルは「GOOD DREAMS」。最初にルースターズが歌って、数年前にピローズがカバーしていた曲から頂きました。