HAZAMAN'S WORLD WEBLOG

自分が描く絵のことや、日々の暮らしの中でふと気付いたことなど・・・・

アメリカ向けテキスト2

2007年09月13日 | Weblog
さっきメールをチェックしたら、今回の交流展アメリカ編で、米国のアーティストが既に、日本から行くアーティストの歓迎パーティーの計画をしてくれているというメッセージがありました。嬉しいね、誰にも日本で会ってないんだけど。
それで、よく見ていると、ビバリーヒルズの何とかグリルって言う高そうなお店で、参加費用が$40らしいんです。参加費用???やっぱり世間は甘くない。

ところで、今日は日米交流展向けに書いた文章の第2弾です。なんでも翻訳をしてくれた友人〈相方〉によると、その翻訳したタイトルは、ずはり!!"I'm not illustrator"だそうです。聞いた瞬間「俺は昔の横尾忠則か!」と突っ込みかけていました。





田中慎平とイラストレーション

 田中慎平の作品を見た人から、「これはイラストですか」と質問を受けることがある。もちろんその人達は、ぼく達の作品を「イラストや漫画の類」として括りたいからそのような質問を発するのだろう。
 こちらからの答えはいつも「ぼく達の作品はイラストではありません絵画です」となる。簡単なことだが、作者であるぼく達が自分自身の作品を一般的に言う意味でのイラストとは考えていないからだ。結局それは、単に「似て非なるもの」ということ以外の何物でもない。表現形式が酷似していても、それを支える感性が全く異なるのだ。
 もう少し言えば、現在イラストレーションと言う時、それは主にグラフィックデザインや雑誌や新聞の挿絵など、商業的な用途に使われるものを指し示す、ごく狭い範囲のものを指してイラストレーションといっている。けれども本来イラストレーションとは、もっと広大な範囲のものだ。そもそもイラストレーションの語源が「明るみに出す」というところから来ている。今まで見えなかったものを想像図によって見えるようにしたり、自分たちの想像力に絵によって働きかける。それは決して絵画の独壇場ではなく、イラストレーションの機能そのものであり、個人的にはむしろ絵画がイラストレーションの一部だと思っている。
 少し方向を変えて形式的なところから見てみれば、日本の絵は、西洋絵画の技法が入ってくるまでは中国から渡来した漢画というスタイルと日本に以前からある大和絵という二つのスタイルとその折衷様式が中心となっていた。ここからはぼくの個人的な見解だが、たとえば鎌倉時代や室町時代に、画僧によって作り上げられた掛け軸などを見ていると、その表現方法などを見れば今の漫画などと、どれほどの違いがあるだろうかと思えてならない。そこにあるのは、それぞれの時代に応じた内容とモチーフという違いがあるだけではないだろうか。
 それに、日本の絵画の伝統にあるのは象徴化された表現だということである。例えば狩野派に代表される、粉本の描き写しという技術の養成方法は、アカデミックな西洋の技術養成方法とは相容れない。四季折々の事物が描かれていたとしても、それらは西洋絵画のようにカメラで写し取ったようにリアルなのではない。必ず戯画化あるいは象徴化されて描かれている。これもまた現代の漫画的表現へと明快に受け継がれている。このように、形式的な面から見れば、日本の絵の伝統は今のいわゆる「日本画」よりも漫画にこそ受け継がれていると思うのだ。
 それでは、形式以外のところで、今現在、絵とイラストや漫画を分けているものはなんだろうか。ここで最初の結論に戻ってしまうのだが、少し言い換えれば、ぼく自身は、それは産業として成立しているかどうかではないかと考えている。例えばイラストや漫画を考えれば、それらは最初から何かの商品の中に組み込まれる或いはそれ自身が商品となるべく計画されて作られる。実際にそれらは商品となって流通し、利益を生み出す元になる。それと比較すると日本は大半の美術作品は産業として成立できていないし、或いは成立することを最初から望んでいない場合もある。
 どちらが良いか悪いかということではない。そのどちらもが目指す方向が根本的に異なるのだ。ただ、それぞれがこれまでに生み出してきたものの価値を忘れてはならない。全ては人間の想像力に働きかけるためにあるのだから。



アメリカ向け文章〈自己紹介?〉

2007年09月12日 | Weblog
さて、19日からのアメリカの展覧会ですが、それに向けて自分の仕事がどんなものかということをざっくりと説明した文章を作り、さらに誰かが英訳したものを彼の地に持参することになりました。
せっかくなので、ここに掲載したいと思います。
ただ、相変わらず文才がないというか、普段何も考えていないから、いざというとときにしどろもどろになるのが文章にも出ていて恥ずかしいばかりです。



田中慎平について

 田中慎平とは、林知紀と間泰宏の二名のグループ名だが、この名前自体が普通は個人を示す名前だから、少し困ったことに誰もグループだとは気付かない。林が詩を書き間が絵を描く。そして二人の作品を組み合わせて一つにすることで、田中慎平の作品になる。
 この田中慎平という名前の由来は、2000年に二人で展覧会を行うために間が用意した絵を見た林が、その絵の中のキャラクターに「シンペー」と名付けた事にある。結局、その2000年に開催した展覧会は、この架空の存在である「シンペー」の個展として開催しようという計画になり、名前をより一人の作家らしくするために、「田中」という名字をつけた。これが田中慎平の始まりだった。
 林と間の出会いは、1987年に高校の同期として入学したところまで遡る。二人の関係は、お互いがアーティストとして関係を持つようになる以前に、友人として始まった。その後二人はそれぞれ京都の違う大学に進学した。林は既に高校在学中から独学で詩作を試みるようになっており、間は大学で油絵を専攻している。そして二人で作品を作る前段階として、1992年から『麒麟』という同人誌を刊行し、各自の詩文や作品論を展開するようになった。(この同人誌は『麒麟』という名前では1999年まで刊行されている)
 2人の作品を最初に発表したのは1992(1993?)年で、場所は間の在学していた大学のギャラリーにおいてである。この時は、まだ2人が作品をそれぞれ別に作っていた。林の詩をモチーフに間が絵を描き、その絵をモチーフの林が詩を書く。このように、作品の形態としてはそれぞれ独立していたが、作品の内容には連続性があるというものだった。その後、しばらく『キリン』刊行以外の活動はなく、1997年に、まったく同じ方法で作った作品を大阪で発表している。結局、現在のような、2人の作品が組み合わされて一つになるのは田中慎平になってからで、その後現在に至っている。
 詩と絵を分けることなく一つにするということは、二人の作家にとって作品の形式的な分類は意味がないということを表している。作り手として重要なのは、作ったものが誰の作品でどう分類されるかではなく、その作品に表れるイメージがいかに観客の想像力に働きかける力を持っているかということが一番大切だからである。
 そこから一つ言えることは、田中慎平の仕事は自己表現することを目指したり、自分探しをすることを目指したものではないということであり、それは基本的に間の共同制作に対する姿勢でもある。
 「シンペー」という架空の存在が制作発表するというモチーフ自体は、1969年に柏原えつとむ・小泉博夫・前川欣三の三氏が発表した「Mr.Xとは何か」という作品を下敷きにしている。この作品はMr.Xという架空の存在からの指示に従い、三人の作家が別々の場所でお互いに連絡を取り合うことなく、まったく同一の作品を作るということを試みたり、三人の写真を元に架空の人間像を合成したりするものだ。
 この「Mr.Xとは何か」に対する柏原えつとむ氏の言葉に、「一人ではできないことを三人で力を合わせて実行するのではなく、三人の作家が出会うことによって初めて生まれるものを見たい」という内容の言葉があり、この複数の作家が出会うことで初めて生まれるものを作るということが、田中慎平が制作することの動機であり目的である。
 こうして林と間の仕事から「シンペー」「天使」「ふわふわ島」というイメージが生まれた。これらは今もどんどん大きく膨らみ続けている。ちょうど2人の人間が誰も行ったこともない土地を冒険し、その土地の地図を作っていくような感じだ。私という個人ではなく、むしろ人間として限りなく想像力を広げていくこと。田中慎平とはそのような試みに対して与えられた名前でもある。


海外で・・・

2007年09月11日 | Weblog
ほとんどブログでも紹介していなかった日米国際作家交流展ですが、本日こちらから郵便局のEMSで送った作品が、アメリカのアートセンターに届いたという知らせがありました。

とりあえず、これで作家がいなくても何とかなります。

しかし本当のところを言うと、展覧会というのは作家が取り仕切ってはいけないなと、最近改めてそう思うようになりました。やはり、作る人間と見せる人間は別であるべきです。というよりも、アーティストがそのままディレクターの視点を持つことがほとんど不可能なのだと思うのです。

現実に、アメリカでは展覧会は展示には作家が関わらず、専門のスタッフが展示の計画と実際を取り仕切るそうです。

何もアメリカがすべて正しいとか、そのやり方がアーティストに負担が少ないからというのではありません。アーティストがすべてをやってしまうと、結局は自分のエゴだけで動いてしまうことがほとんどで、たいていが独り言みたいな展覧会になってしまうからです。

大学でお世話になった教授も、僕が卒業する前後、僕たち学生に向かって、しきりにディレクターの視点を持つようにしろと仰っていました。情けないことに、卒業して10年以上経って、ようやくその言葉の意味が体で納得できてきた気がしています。

制作とその作品をめぐる言説は、ほとんど強引な独り言であるかもしれません。けれど、プロとして自分の仕事を世に問うならば、むき出しのエゴのままに相手構わずぶつけたところで、相手には何も届きません。

来年は二つほど自分でグループ展を組織したいなと思っているのですが、出来ればディレクターを入れて、きちんと観客へ橋渡しできる仕事をしたい、そう思っています。