さっきメールをチェックしたら、今回の交流展アメリカ編で、米国のアーティストが既に、日本から行くアーティストの歓迎パーティーの計画をしてくれているというメッセージがありました。嬉しいね、誰にも日本で会ってないんだけど。
それで、よく見ていると、ビバリーヒルズの何とかグリルって言う高そうなお店で、参加費用が$40らしいんです。参加費用???やっぱり世間は甘くない。
ところで、今日は日米交流展向けに書いた文章の第2弾です。なんでも翻訳をしてくれた友人〈相方〉によると、その翻訳したタイトルは、ずはり!!"I'm not illustrator"だそうです。聞いた瞬間「俺は昔の横尾忠則か!」と突っ込みかけていました。
田中慎平とイラストレーション
田中慎平の作品を見た人から、「これはイラストですか」と質問を受けることがある。もちろんその人達は、ぼく達の作品を「イラストや漫画の類」として括りたいからそのような質問を発するのだろう。
こちらからの答えはいつも「ぼく達の作品はイラストではありません絵画です」となる。簡単なことだが、作者であるぼく達が自分自身の作品を一般的に言う意味でのイラストとは考えていないからだ。結局それは、単に「似て非なるもの」ということ以外の何物でもない。表現形式が酷似していても、それを支える感性が全く異なるのだ。
もう少し言えば、現在イラストレーションと言う時、それは主にグラフィックデザインや雑誌や新聞の挿絵など、商業的な用途に使われるものを指し示す、ごく狭い範囲のものを指してイラストレーションといっている。けれども本来イラストレーションとは、もっと広大な範囲のものだ。そもそもイラストレーションの語源が「明るみに出す」というところから来ている。今まで見えなかったものを想像図によって見えるようにしたり、自分たちの想像力に絵によって働きかける。それは決して絵画の独壇場ではなく、イラストレーションの機能そのものであり、個人的にはむしろ絵画がイラストレーションの一部だと思っている。
少し方向を変えて形式的なところから見てみれば、日本の絵は、西洋絵画の技法が入ってくるまでは中国から渡来した漢画というスタイルと日本に以前からある大和絵という二つのスタイルとその折衷様式が中心となっていた。ここからはぼくの個人的な見解だが、たとえば鎌倉時代や室町時代に、画僧によって作り上げられた掛け軸などを見ていると、その表現方法などを見れば今の漫画などと、どれほどの違いがあるだろうかと思えてならない。そこにあるのは、それぞれの時代に応じた内容とモチーフという違いがあるだけではないだろうか。
それに、日本の絵画の伝統にあるのは象徴化された表現だということである。例えば狩野派に代表される、粉本の描き写しという技術の養成方法は、アカデミックな西洋の技術養成方法とは相容れない。四季折々の事物が描かれていたとしても、それらは西洋絵画のようにカメラで写し取ったようにリアルなのではない。必ず戯画化あるいは象徴化されて描かれている。これもまた現代の漫画的表現へと明快に受け継がれている。このように、形式的な面から見れば、日本の絵の伝統は今のいわゆる「日本画」よりも漫画にこそ受け継がれていると思うのだ。
それでは、形式以外のところで、今現在、絵とイラストや漫画を分けているものはなんだろうか。ここで最初の結論に戻ってしまうのだが、少し言い換えれば、ぼく自身は、それは産業として成立しているかどうかではないかと考えている。例えばイラストや漫画を考えれば、それらは最初から何かの商品の中に組み込まれる或いはそれ自身が商品となるべく計画されて作られる。実際にそれらは商品となって流通し、利益を生み出す元になる。それと比較すると日本は大半の美術作品は産業として成立できていないし、或いは成立することを最初から望んでいない場合もある。
どちらが良いか悪いかということではない。そのどちらもが目指す方向が根本的に異なるのだ。ただ、それぞれがこれまでに生み出してきたものの価値を忘れてはならない。全ては人間の想像力に働きかけるためにあるのだから。
それで、よく見ていると、ビバリーヒルズの何とかグリルって言う高そうなお店で、参加費用が$40らしいんです。参加費用???やっぱり世間は甘くない。
ところで、今日は日米交流展向けに書いた文章の第2弾です。なんでも翻訳をしてくれた友人〈相方〉によると、その翻訳したタイトルは、ずはり!!"I'm not illustrator"だそうです。聞いた瞬間「俺は昔の横尾忠則か!」と突っ込みかけていました。
田中慎平とイラストレーション
田中慎平の作品を見た人から、「これはイラストですか」と質問を受けることがある。もちろんその人達は、ぼく達の作品を「イラストや漫画の類」として括りたいからそのような質問を発するのだろう。
こちらからの答えはいつも「ぼく達の作品はイラストではありません絵画です」となる。簡単なことだが、作者であるぼく達が自分自身の作品を一般的に言う意味でのイラストとは考えていないからだ。結局それは、単に「似て非なるもの」ということ以外の何物でもない。表現形式が酷似していても、それを支える感性が全く異なるのだ。
もう少し言えば、現在イラストレーションと言う時、それは主にグラフィックデザインや雑誌や新聞の挿絵など、商業的な用途に使われるものを指し示す、ごく狭い範囲のものを指してイラストレーションといっている。けれども本来イラストレーションとは、もっと広大な範囲のものだ。そもそもイラストレーションの語源が「明るみに出す」というところから来ている。今まで見えなかったものを想像図によって見えるようにしたり、自分たちの想像力に絵によって働きかける。それは決して絵画の独壇場ではなく、イラストレーションの機能そのものであり、個人的にはむしろ絵画がイラストレーションの一部だと思っている。
少し方向を変えて形式的なところから見てみれば、日本の絵は、西洋絵画の技法が入ってくるまでは中国から渡来した漢画というスタイルと日本に以前からある大和絵という二つのスタイルとその折衷様式が中心となっていた。ここからはぼくの個人的な見解だが、たとえば鎌倉時代や室町時代に、画僧によって作り上げられた掛け軸などを見ていると、その表現方法などを見れば今の漫画などと、どれほどの違いがあるだろうかと思えてならない。そこにあるのは、それぞれの時代に応じた内容とモチーフという違いがあるだけではないだろうか。
それに、日本の絵画の伝統にあるのは象徴化された表現だということである。例えば狩野派に代表される、粉本の描き写しという技術の養成方法は、アカデミックな西洋の技術養成方法とは相容れない。四季折々の事物が描かれていたとしても、それらは西洋絵画のようにカメラで写し取ったようにリアルなのではない。必ず戯画化あるいは象徴化されて描かれている。これもまた現代の漫画的表現へと明快に受け継がれている。このように、形式的な面から見れば、日本の絵の伝統は今のいわゆる「日本画」よりも漫画にこそ受け継がれていると思うのだ。
それでは、形式以外のところで、今現在、絵とイラストや漫画を分けているものはなんだろうか。ここで最初の結論に戻ってしまうのだが、少し言い換えれば、ぼく自身は、それは産業として成立しているかどうかではないかと考えている。例えばイラストや漫画を考えれば、それらは最初から何かの商品の中に組み込まれる或いはそれ自身が商品となるべく計画されて作られる。実際にそれらは商品となって流通し、利益を生み出す元になる。それと比較すると日本は大半の美術作品は産業として成立できていないし、或いは成立することを最初から望んでいない場合もある。
どちらが良いか悪いかということではない。そのどちらもが目指す方向が根本的に異なるのだ。ただ、それぞれがこれまでに生み出してきたものの価値を忘れてはならない。全ては人間の想像力に働きかけるためにあるのだから。