Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

A good ballet teacher良いバレエの先生

2019-05-09 | バレエ

この世で、運ぶのに一番重いものは

自らの体なのだろう。

I assume that the heaviest thing to carry in this world

would be one’s own body.

50代で始めたバレエ稽古をやっていると

私の体が如何に硬く、また重いかを切実に分かってくる。

When practicing ballet, a training I started in my 50’s,

I sincerely can find how my body is hard and heavy.


昨日は、バレエのレッスン日だった。

Yesterday was the day of ballet lesson.

片道30分かかるカントンという町に

私が通うバレエスクールがあって

夫がいつも私を連れていってくれる。

My ballet school is in Canton,

30 minutes from home and

my husband always takes me by car.


毎週水曜に、成人バレエ基礎と中級クラスを

連続して2コマ取っている。

Every Wednesday,

I consecutively take two adult ballet lessons,

basic and intermediate classes.

メッサチュセッツ州に住んでいた時は、

ホーリーオックという町のバレエアカデミーまで

約1時間かけて通っていた。

When I lived in Massachusetts,

I used to attend a ballet academy in Holyoke

and it took around one hour to get there.


2年前にコネチカット州のグランビ―に引っ越してきてから、

バレエスクールが見つからず、

練習もしなくなり、体重も10キロほど増えてしまっていた。

Since we moved to Granby, Connecticut two years ago,

I couldn’t find a ballet school,

so it gave me a reason not to exercise,

with the resulting weight gain of 20 pounds.

でも諦めず、調べ続けていたら

運よく今のスクールを見つけたのである。

But I did not give up looking for it,

and I was lucky enough to find the school.


私がバレエを初めて習い始めたのは

日本に住んでいた時であった。

It was in Japan when I began

to learn ballet as the first try.

アメリカ移住のため長年やっていた塾を閉めて、

まともな時間ができた時、

そうだ!今までやり残している夢リストを制覇しよう!

と決心したのがバレエを始めた切っ掛けだった。

I closed my private school

which I administered for many years

and immigrated to USA,

which afforded me enough time to pursue my “dream list”.

At a moment, I made up my mind to conquer

those left behind unfinished dreams.

Yes, that’s it!

It is time to do it!

That moment I was truly motivated to learning ballet.


バレエは子供の時から憧れていたから、

自分が実際習えるかどうかは全く考えず、ただ始めた。

Ballet has been longing from my childhood,

so I just started without thinking

whether I was actually capable to learn or not.

始めはジムのバレエクラスを受けて、

またバレエスクールを二つ掛け持っていた。

In the beginning,

I took a ballet class at a gym and then

attended two schools.

自分ができているかどうかに関係なく、

自分が学びたかったことを学ぶ喜びが好きで、

只管やっていた。

Regardless of whether I can do it or not,

I kept doing because I liked the delightedness

that came from what I had been wanted to learn.


年を取って何かを学ぶと、

頭脳や才能といった生まれ持った才能より、

体の条件や限界具合が根本的な問題になる。

Learning something at an ‘advanced’ aged,

the physical condition becomes a fundamental issue

above natural capability or well-functioning brain.

身体条件の限定性は練習を重ねても乗り越えられないが、

反面欠けている条件をどのように攻略できるかを示してくれる。

Such limitations of physical conditions cannot be overcome

by repeating practice,

but on the other hand,

it indicates how to conquer the lacking conditions.


手足が短ければ、細かく機敏な動きで補えるし、

If one’s limbs are short,

it can be compensated with exquisitely agile movement.

体が硬く柔軟性が無ければ、

どの部位をどうストレッチングすればいいのかが

はっきり分かるようになる。

If one’s body is stiff and inflexible,

it is pointing out to be able to know

which body part is in need to stretch out and how to do it.

だから、私の身長が低くても高齢で体が硬直していても、

基本さえ中々できなくても

それに引きずられなく学びを継続できた。

So, I was able to keep learning

without being dragged in it,

although I could not do basics

and I am short with an aging stiff body.


しかし、そんな明るいポジティブ精神の持ち主にも関わらず、

一つだけ心が晴れない暗い悩みがあった。

However, despite being a positive minded person,

there was a darkness over my thoughts.

それは、“振り付けが覚えられない”ことだった。

The darkness was  thought of

“I can’t remember the choreography”


先生が振り付けの見本を見せてくれていると、

私は“そんな難しい手順を覚えるわけがない”と自信なく思えてきて、

“私よりできる人の動きを見てやればいい”とかの

依存心で心がいっぱいであった。

When the teacher showed me a form of choreography,

my mind filled with thoughts of

“no way I can remember such difficult procedures” with diffident feelings

or clingy minded “follow others who do better than I do”.

そんな雑念に気づくと自分が情けなく思えてきて、

先生が何を言っていたか

短期記憶蔵庫から消えてしまうのであった。

When I realize such distractions in my mind,

I felt miserable for myself,

and what the teacher said disappeared

from my short-term memory.


特に、バーレッスンが終わって、

センターでコンボをやる時は

“見てもついていけない”と始めから思って

気が滅入ってその時間が非常に嫌いだった。

Particularly, I hated most when I have to dance combo

at the center of the room

after barre lesson because I felt sag with the thought that

“I will not be able to catch up even I watch teaching”


そのような心の中の否定的な念は

意志で簡単に取り除けるものでない。

Such negative attention in mind,

it cannot be easily removed by will.

その否定的な思いを無くそうとする対抗した考えを

必要とするからだ。

It needs opponent ideas to remove negative thinking.


否定的な考えは肯定的な考えでは破れない。

Negative thinking can’t be breaking down by positive thinking.

ただ、想いに他の考えが憑き加わるだけなので、

考えの悪循環にはまってしまう。

Merely it makes a bad circle of an idea

due to adding other thoughts on the very thought.


だが、それらの否定的な想いの悩みが

ついに今のバレエスクールの先生、

リンダ・プレスンヤコバに習い始めてから

解決への糸口が見つかったのである。

But finally, I found a clue

to solve the negatively attached problem in my mind

when I started to learn from LINDA PRESNYAKOVA,

who is my teacher at ballet school.


彼女はバレエを学ぶ際の障害になる余計な考えを

断ち切ることができると感じさせてくれた。

She could let me feel that

I might be able to cut off

those useless obstacles thoughts

when I learn ballet.

彼女の教えは、

生徒に習えなくてはならないと思うストレスを植え付けない。

Her teachings do not install a stressful thought for her students

or make them think about what of they MUST learn.


覚えなくてはならないという心理的な負担が無いようにさせる。

She can let her student unburden

from a mental obligation that they MUST remember.


ただ教えるだけでなく、

彼女も私達と一緒に踊って、

私達に『正しくあるべき』という暗黙の要求をしない。

Not only just teaching

but also she dances with us

and doesn’t imply to us such as should be righteous.


毎回、何か新しいバレエテクニックを

普段やっている基本に織り交ぜて加える。

Every time she adds and interweaving

some newer ballet technics on basics that usually do.

その結果、私はバレエをやっていると実感できるようになる。

As a result, I come to actually feel that I am doing ballet.


彼女の見本を見ていると

何を教えようとしているかが伝わってくる。

Looking at her instruction

can convey what she tries to teach us.

なので、レッスンが終わると本当に教わった感じで、

自分が前回より進歩していることが実感できる。

Therefore, when a lesson is over,

I feel that I am really taught

and can also feel that I am improved than last time.


彼女に出会う前は、

否定的な心の悩みを坐禅の教えの一つである

『念を追わない』ことで補おうとしていた。

Before I met her,

I just tried to cover those negative troublesome thoughts

with one of Zen-teaching

which 'do not go after the thought'

だが、そう試みると追わないようにしようとする他の新たな念が加わることになり、

余計に雑念が増えるだけだったような気がする。

But even when I tried to keep track of it,

such way of try-not-to-think

adds another thought so that

an extra useless thought just added up.


その坐禅の教えも事柄によっては

実に効き目があるだろうが、

バレエ稽古場では五分五分だったかも知れない。

Such Zen-teaching may be quite effective depending on circumstances,

but for ballet practicing it is hot or miss, at best.


何しろ、良い先生に出会うのは

本当に宝くじが当たる確率のようかもしれないが、

当たった時に掴み放さないようにしないと、

せっかくの宝も持ち腐れになるだろう。

In any case,

meet a good teacher may be like hit rate of a lottery ticket,

but worth the time to find.

Unless you grasp not to lose the opportunity,

or it will spill out from hands.


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42 Comments

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Unknown (桂蓮(月のような者さんへ))
2019-05-30 01:24:44
『ノレン押し』という心理用語があります。

ノレンのように
押したのに押し応え(堪え)がないことです。
ノレンはいつまでも容易く潜ることができます。
過ぎたのに
通ってきた後がまるで無い。
そんな問いに応えが無い状態をノレン押しというのです。

日本での一番苦しかったこと、
それがノレン押しだったのです。

誰も私に応えてくれる人がいない。
答えはいくらでもありましたが、
全て、ノレン潜りだったのです。

私も粒が小さかったから
門の間を通っただけだったかも知れませんが、
何かを開けて
他の部屋に入れた感覚が持てなかったです。

あれは苦しかったですね。

あの時に月さんのお返し(帰えり≒対応)を持ってたら、
ある意味、怖くて逃げたかな。
当時はノレン押しに慣れていたから
こんなに深く
手ごたえで受け取ったもらった感を
処理できなかったから怖くなった(なるかも)はずです。

水は石も切れます。
時間はかかりますが、

太宰と三島さんの共通点は
直視、でしょうかね。
見たく無いのも視る(見る)
残酷でも見るべきものは見る。
いうべきことは言う、その姿勢でしょうね。

しかし、その二人は
全く行動様式が異なります。
異様な風景を見た時、
二人が撮る態度は違います。

三島はそれに向かって
素手で真っすぐ、
太宰は周り道をして結局は行く。
だから、かれは生きられなかったでしょう。
その事実に耐えられなく
何かに、頼っているしかなかった。
それが、さらに苦痛になり、
結局は死に逃げた、でしょうか。

三島や太宰の本を読んでた時の
あの、鬼になったように
眠れず、本をめくっていたことを
思い出しました。

私の深層はそう深くはないかもしれませんが、
深さを知るためにも
潜っていけたいものです。

返信する
Unknown (月のような者)
2019-05-28 23:10:10
三島さんの叫びとは、俺を太宰と一緒にしないでくれってことかもしれませんね。でも本当は自分が川端さんよりも太宰治に似ていることを知っていたのでしょう。しかも自分は太宰よりも粒が小さいと。太宰と自分の必死の差別化が三島さんを文豪に押し上げたことは事実でしょう。そして例の切腹によって三島さんは乃木将軍と同じ系統の日本的偶像になることに成功しました。三島さんのユーモアの欠如も高度経済成長期の洒脱ではない空気もそのための助けになりました。太宰を超えられないどん臭い人が遂にクリスタルな偶像にまで上り詰めるというプロセスは、乃木将軍と同様正しく日本的サムライ的な昇華の姿として激賞される出来事なのです。結局日本人の間にはそういった価値観が存在し続けるのです。

考え過ぎて私の文章が濁っているかは分かりませんが、仏教には濁りがなさすぎて嫌がる人がいるかもしれませんね。
仏教とは宗教でも権威でもありません。ギロチンで首を跳ねられた後の闇も、跳ねられる前の明かりも、どちらも幻という事実そのものの指摘です。そして人間の執着こそが事実を見ることを忌避させている事実を見せるものです。事実をよく見れば、本音なんてないのが事実です、というのが仏教です。
人生とは、意識することのないこの瞬間の死です。人生の終わりとは、意識せざるを得ない死です。人生の後とは、恐れの抜け殻です。
死ぬ前にやりたいことが破壊であるなら、その人は執着に取り付かれただらしない人なのです。

こちらこそ、何度もコメントを返していただき感謝いたします。
返信する
Unknown (月さんへ)
2019-05-28 06:13:05
文流、文脈、文が指し示すことなどは
教育によって、養える後天的な付加価値でしょう。
三島さんが叫んだのは
そのような二次的な理解系ではなかったような気がします。

そんな頭でっかちでできることなら
腹を切った必要もなかったでしょう。


月さんは、なんでしょうか、
泥水のような、
考えすぎて書いた文には
その泥水的な濁り感がありますが、

次第に泥が下に沈んで
キレイな水になっていくような感じがしますね。

今まで読んだ中で
上記の文が一番濁った感じがしなかったです。

泥水、
泥と水を分離させるためには
時間を持つことだと思うのです。

沈むものは沈んで
浮くものは浮く。
そのために『時間を与える』ことだと思うのです。

考えで心を泥にしない。
何かの思想で汚さない、ことでしょうかね。

私は何もかもを
宗教や偉人の教えで片付けたいと思いません。
それは簡単な方法ではありますが、
それが正解でも、誤問でもないからです。

答えを決めつけないことで
見えるなにか、
それに託したいだけです。


この月さんとのやり取りの中で
私の泥水も少しは沈んでいける感じがしました。

深いところまで私に寄り添って頂き感謝いたします。
返信する
Unknown (月のような者)
2019-05-26 11:21:16
まさに知識や知性の鎧を解体していくのが仏道でしょうね。鎧を脱ぐのが怖くてブルブル震えるほどだけど、鎧の中には本当は何もないという。自分を観察すると必死で拳を握って開けないようにしているけど、手の中に自分なんてないですよと。手の中に自分があると思い込むことが、自我を維持しているということなんです。刻一刻と「自分が汚れる」のではありません。「汚れる」という現象が自分なんです。まあ「進化」という言葉を当てはめてもいいのですが。しかし自我の有無について恐怖を感じる人がいたとしても、自分がいるという実感はどこかに飛んでいくことはないので安心してください。
死んだ後もすぐにどこかで目を覚ますだろうと思っています。途中で何億年空いてもすぐです。今も私は死んで生まれています。理屈では有り得ないことが現に起きていますから、死後にも想像をはるかに超える可能性が広がっているのではないでしょうか。宇宙が終わってもまた一から始まります。

三島さんが自分の文学的命題を読者に対して正確に読み取ってほしいと欲していたということですか?三島さんのテーマは比較的分かりやすい部類だと思うのでファンの人には割と伝わっているのではないでしょうか。11歳の時の作文を読むと文章力は天才ですよ。文学者としてはドストエフスキーに勝てる訳がないけど、ある種オブジェ的な美文家としての才能を以て文豪レベルにまで突き抜けたところに三島さんの面目があり異様なカタルシスが誘発される訳ですね。日本的(サムライ的)な美とはこれであると。

私は読者にこういう効果を与えたいなという中心テーマは持っていますが、それが外れたとしても他のテーマに引っかかればいいと思っています。もともと多面的に書いているつもりです。作品は私の命題を伝える器であると同時に、文化が煮立つ「鍋」でもあるのです。文学の伝統とはそういうものだったはずです。私の最大テーマが分からなくても日本の美や「かわいい」やおかしみや人間の深淵を手渡すことができれば上々なのです。
返信する
Unknown (桂蓮(月のような者さんへ))
2019-05-25 12:40:50
三島由紀夫が『私を読め』みたいなことを言ったようですね。
自分を読んでくれる人がいない、そのことの孤独
私が初めて、『私を読んでくれ』と言った三島さんの叫びを知ったのは19才か20才の時でした。

私以外にも読んでくれないことに孤独を感じる人がいたんだと思って、脱力感を感じたことがありましたね。

月さんを読める人はいないでしょう。
月さんが書いた本を通読したとしても
その経緯は分かるとしても
どのように反応するかは全く推測できないでしょう。

反応が推測できたら
それは読まれている証かもしれません。

大学院進学のために研究生生活をしたことがあります。
その時に、担当の教授が
教育分析を受けたことの話をしてました。
『魂が抜けた抜け殻』分析を受けた後
そのように抜け殻になるようです。

あの話を聞いた時、恐怖を感じました。
魂が抜けるほどの分析をされる、それが怖かったです。

私は心理相談は受けたり、したりしたことはありましたが、
教育分析は受けたことがありません。

なぜ、この話をするかというと
月さんがもし、教育分析を受けたら
どうなるだろうかとふっと疑問になったからです。

知識や知性で徹底して武装している月さんが
その鎧が解体された時、
果たして今と同じ状態でいられるか、です。

知識や知性は武器ではないですし、
防衛機制でもないです。

一度は自分を囲んでいる鎧を見てみるのも損ではないでしょう。

因みに、私は私を読める人に出会えました。
今はここでコメントしなくなりましたが、
Tというニックの方です。
彼との約2年間のコメントのやり取りで
読んでもらいたかった願望が全部焼却されました。

一度、その経験があると、
自分に対する執着ももう薄くなれましたね。

月さんにも、月さんを読める人が現れることを祈っています。
でも、このコメント欄で月さんの言葉から
私も深層心理に探れていける気がします。

探っていくものが何なのかわからないのですが、
思いついたことをただ書くことで
潜って行ってみたいものです。
返信する
Unknown (月のような者)
2019-05-25 08:05:49
再びご心配いただきありがとうございます。
ほぼ万人が多かれ少なかれ抑圧された感情を思考で抑え込んでいるのではないでしょうか。一つの部屋に閉じこもっていない人を見たことがありません。つまり不憫な人しか見たことがありません。でも自分には他人に対する人情があることを発見します。私は普通の人間ということです。
人間はうまく行かないことがあると不発弾が爆発することを子供の頃から知っています。おそらく通常以上という意味での「爆弾を抱えている」というご指摘を肝に銘じたいと思います。爆弾を有効なエネルギーとして善用いたします。
おそらく私は人に受容されたという経験が乏しく宇宙に不信感を持っていたために仏教の価値を理解したのではないかと思います。仏教を理解するとは、大げさに言うと宇宙そのものが私に不安や苦しさを打ち明けることでもあります。そのために私の苦しみが仕組まれていたような気もします。子供の頃から宇宙に対する不信感の裏に不思議な信頼感が同居していたことも事実です。今となってはそのことについて妙に納得するのです。
仏教とは宗教でも理屈でも偉人の名言でも最先端の浅知恵でもありません。聖人のような人が、もう限界だから自分が死ぬことを許してほしいけど、とてもそんなことは言えないんだという状態ならば、そのことをブッダに打ち明けてください、というものです。硬くても柔らかくても嬉しくても悲しくても、結局苦しいってことを仏教には正直に言っても大丈夫です。
人の究極の本音とは、受容される人も受容する人もいらないぐらい「ただ溶けてしまいたい(ある種の表現)」ということです。そしてその本音にも寂しさを覚えながら生きるのが人間です。仏教徒ならばその寂しさが決して悪くないことを知っています。真理、誠意、根絶された絶望、ブッダ(嘘を打ちのめして生命の幸福を本当に要求した人)に触れているサインです。時として自分と世界の間に静謐な慈愛が存在するような気がします。
返信する
Unknown (To Moon-san)
2019-05-24 12:35:27
月さんを本質から理解することは私には不可能だと思いますが、
思考過程には何となくついていける感じがします。

過去、現在、未来の出来ことが月さんの気持ちの中で
一つの川のようになっているようですね。

昔、心理学を学んでた時、
恩師が
”気持ちと思いを分離してごらん”と言われました。

実際、言われてから
そのようにしようと挑みましたが、
案外、難しいものです。

月さんの文章には
想いや思考、抑圧された感情が調和されてはいますが、
一つの部屋に籠った感じがします。

抑圧された感情を思考で更に封じる感じがするのです。
感情に対して不、否のような働きが
無意識に働いているかも知れません。

問題なのはそれらが
無意識に徹底して囲まれていて
意識が届かないところです。

これは検証できない私の感覚上の仮説にすぎませんが、
塞がっている何かの蓋を開けないと
意識と無意識のつり合いが合わなくなります。

今は無理に健常な状態を保っているようですが、
爆弾を秘めている感じがするのです。

感情を言語化にするといって
それが蓋を開けることにはなりませんが、
何か気に成ることとか
すっきりできない何かとか
それらを回りくどい方法でいいから
書き残してみてください。

月さんの文章から
私の影のようなものが見えたりしますが、
それは私の思い込みでしょう。

私が精神的な苦しみに死にかけていた時、
誰か、一人の完全な受容が
私を救ってくれました。

学識や宗教でなかったです。
教えでも偉大な人の名言でもなかったです。

人を精神の苦しみから救えるのは
人の無条件的な受容かも知れません。
返信する
Unknown (月のような者)
2019-05-24 02:14:03
あなたは意外と運がいいじゃないかと思われかねないかもしれませんが、才能や努力に見合った結果が普通に現れることを運がいいと言うのです。「俗物的なプラス思考」を蔑む傾向を持ちながらも、「俺は運がいいぞ、運がいいぞ」と猛烈に頭の中で唱えなければ気が済まないのが私のありのままの姿なのです。
私がスランプを脱するためには仏教の導入と、それに伴う作品世界の再構築というプロセスが必要だったんです。夜道で銭湯の煙突から出る湯気のようなものを見ても、昔のようには「自然と遊ぶことができない」のです。自然と一体化した私の作品に対して、宇宙は裏切りを突き付けてきたのですから。楽しさが憤りに変わってしまうのです。全てが止まってしまったのか?という気がしました。昔と同じようなスタイルであっても、そこに宇宙からの解脱という視点が加わらなければ、昔と同レベルかそれ以上の説得力が自分の中で生命力を持たなくなったのです(読者の理解の範囲外だったとしても)。
しかしその再構築が今ようやく一応の成就に向かいつつあります。この「楽しさ」は実に16、7年ぶりぐらいの感覚です。この新しい視点による「宇宙の読み直し」によって、失われた時間を取り戻す以上の飛躍を手に入れたいと思っています。これからもう一つ「技入神」の段階が上がっていくのではないかとも思います。
返信する
Unknown (月のような者)
2019-05-23 08:40:04
いや、ご心配いただきありがとうございます。少なくとも今の自分は前向きな状態だと言えます。昔のその出来事も結果的には実害は少なかったと言えます。あの時点では実害の過大視や精神的な打撃は避けられなかったことだと思いますが、今はそれらもだいたい整理できています。もし私の方が表現スタイルを真似していると勘違いされればそれも否定すればいいだけです。今になってみれば善因善果、悪因悪果をもっと信じてもいいという教訓も得られましたから。結果的に時間を失ってしまう一因になりましたが、その不条理は、そのまま「不条理」ということです。宇宙は不条理なものです。それをなんとか避ける知恵は経験的に生まれるものです。
私は精神的な困難に直面した時、その困難を解決したという前提で、いかに乗り越えたか、乗り越えるべきか、を誰かに説明している場面をよく想像したものです。その説明(想像)している相手は小さい女の子だったりします。「自分のショックよりも小さいあなたのショックを恐れたから自分は発狂しなかったらしい」と。そうやってバランスを取っていました。
苦しみの渦中にいる人に対して私が言える精一杯のことは、「不条理なこの世界にいる無防備な他人って、自分よりかわいそうに見えないか?」ということです。同じような意味で、歴史上の超絶的な天才よりも、生まれて間もない赤ん坊の方が命が重いと思える人間は、まさに最も生きる価値があると。あなたがそうであってほしい、ということが精一杯の言葉です。
返信する
Unknown (To Moon-san)
2019-05-20 23:16:52
読みながら、痛みが伝わりました。
私も似たような経験はありましたが、
私のアイデンティティまで及んだほどの無い軽いまねっこでしたから、
不愉快感だけで、後は曖昧に消えていった類でした。

月さんの場合は
相手が月さんのアイデアを着服し、
その利得を盗み取った感じですね。

盗む人は、道徳やモラルをあざ笑いします。
簡単に盗めることを自らの自負心にまで持っていて
盗まれた人の痛みを見て楽しむような傾向があります。
そうでないと、そのような卑怯なことが
いとも簡単にできないわけです。

問題は盗まれた側の姿勢です。
盗んだ人は
盗む技術まで盗まれないと
その痛みや不道徳さが分かりません。

また、その痛みが分かったとして
盗みを辞めることにも繋がらないです。
彼らはただ、その過程を楽しむだけです。

なので、盗み自体はこの世から消えません。
元々、オリジナルであるアイデアを
日つけと独自な発表であったことを
証明しなければならないのです。

盗んだアイデアは継続できないので、
似たような発想を続けることは不可能です。

ですが、そこに盗みに長けた人の場合、
類似性を新しく創作できる才能があるので、
そこから、自分のもののように『特集化』できてしまうのです。

そうなると
苦しいのは盗まれた人の心の問題だけ残りますよね。
あざ笑う相手は、手が届かないところにいるし、
オリジナルは姿を変えて
その人のもののように変わってしまったから
取り戻せないものになっているわけです。

二重の苦しみだけ残るわけです。
どうすればいいでしょう。

相手を悪者にしても
自分が受けた被害は無くなりませんから
自分がいくら正当でも
相手は月さんから
何らかの利得を得て
逃げてしまったわけですよね?

取り残されたのは
月さんだけです。
善悪で裁いても
盗まれたことは消えないので、
また、痛みや苦痛が無くなるわけでもない...

どうすればいいのか、
そのことに長い時間がかかってしまっているし、
現実的には苦しみだけ、

解決方法は無いかもです。
解決されては、長年の足跡さえ消えて
自分が選択して
歩んできた道のりもバブルの泡のように消えてしまうかも知れません。

私も実際、多くの詐欺にあってきました。
肉体的な損失、金、時間など
失ったものも結構ありました。

偶に、その失ったことやものが未だに失った状態で
私の記憶にあることに
驚く時もあります。

ですが、事実は変わりません。
無くなったものは無くなってしまったわけです。
その時は、
私が誰かのものやことを盗んだことは無かったのだろうかと
人の立場から考えるようにしています。

この世を生きていると
解決されない問題や被害を受けたままになっていることが多くあります。

どうにもならないこと、
どうにかなったとしても
もう時間がかかってしまっていること、

それらのだた起きることに
私たちはただ受けるしかないかもです。

それに、書いておくことで
誰か、それに共感する、
共に痛み、共に考える、
これしかしてあげることはないのですが、


あまり役に立つレスポンスでないかも知れませんが、
思い立ったことを
指がいくままに打ってみました。

瓶の中に何かが
長い間、塞がれてしまうと
必ず腐敗します。

その瓶の蓋を開けて
中身を取り出し、
その瓶を洗い、
また使えるものしたいものです。




返信する
Unknown (月のような者)
2019-05-20 18:58:07
あの人は結局もっとまずいことをやっていましたから、もはやまともな目で見られてはいません。訳の分からない理屈で自分を正当化しているようです。それもまた論点の無視と非常識な内容ぶりで困ってしまうのですが…。
今の私ならば、その当時人間不信の塊になってしまった私をどのように導くことができるだろうかと考えます。現在ひどい状態にある特に若い人を説得することが困難を極めることを思えば、当時の私自身に対しても特効薬はなかったと言えるのかもしれません。まして当時の私は健康(精神面も含めた)不安や人類の未来への絶望など何重もの苦しみを抱えていたので、ポジティブ思考などという無意味な逃避手段に興味は持てませんでした(無理)。結局この宇宙の「真意」や、「やる気」を確認したかったのです。そのポイントを衝く教えを探し求めるのは必然でした。やはり無師独道という状態が相応しく、かける言葉はないのかもしれません。
結局この宇宙の玄妙な働き(志ある者への協力)に気付くことと、仏教によって人間の本音が宇宙からの解放(無我の理解)にまで及ぶことの確認に至ったのです。
なにもヒントがなかったことがよかったのです。当時の迷いの中にいた私に言うべきことは、「そんな中途半端な答えは割れ物だ。君はエゴイストになりたいのかね(未来の人に投げかける正当なエゴイズムはない)。もっと悩みたまえ」と尻を叩くことなのです。
返信する
Unknown (月のような者)
2019-05-19 14:48:24
許されない状況というのも当然ありますから。私はまじめな動機ではっきりいろんな意見を伝えるぐらいには向こうを信頼していましたが、向こうははじめからこっちのものをかすめ取ってやろうという気が満々だったわけですね。それを許容範囲を超えるレベルでやったわけです。まあ私は人を見る目がなかったということですね。信頼を踏みにじられることはやはり辛いのです。
不幸中の幸いだったのは向こうが思ったほど才能がなくて高いレベルで私の作風を真似できなかったことですが、私の方が二番煎じだと勘違いする人もいるだろうと思うと耐え難い不快感が湧き上がりました。もっとも、後にあれはあの人(私)をパクっているのではないかと指摘する意見も目にしたので、分かる人はちゃんと分かっていたんだなと安堵しましたが。
今、これを書きながらも自分に厳しく問うているのは、読者への愛情の所在です。私が恐れていたパクられることで懸念される個々の読者に与える新鮮味という問題も、本来全ての芸術家に当てはまることなのに、私は読者への愛情を覆い隠してしまうほど、その問題に自分の頭を占領させてしまったどす黒い時期があったのです。それは駄目だと自分に言いたいです。私がここまで何十年も匍匐前進を続けて来たのはそれなりの使命感があったからなのです。人間の文化への崇拝、読者への愛情だったはずです。
返信する
Unknown (To-のしてんてんさま)
2019-05-19 00:49:11
ボーリングですねえ。
短大の時、体育の必修がボーリングでした。

大学が落合にあったから
体育の時間は高田馬場駅まで
電車で行き、ボウリング授業を『する』ことをしてました。

あんなに嫌だったか、ボウリングが死ぬほど嫌でしたね。
今もボウリングは絶対にしません。

あんなに嫌なボウリングを
趣味でやっているのしてんてんさまが
羨ましいです。
成績と関係ないのに、ね。

170点に成れることを祈っています。

書きながら思い出したことが...
あんなに嫌だったのに
私の成績は案外悪くなかったです。
当たるかどうか関係なく
ただ、卒業するためにボウリングをやっただけでしたのに、
結構、当たりましたね、なんでなんだろう。
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Unknown (To Moon-san)
2019-05-19 00:41:50
月さんへ
『富田木歩』
>ひだるさに夜明け待たるる蟲の声

紋帳吊るも寒さしのぎや蟲の宿

己が影を踏みもどる児よ夕蜻蛉

こほろぎや仮の枕のくされ本

冬の夜やいさゝか足らぬ米の銭<

ウィキペディアで調べたら
富田さんに関する記事に木歩70句の中で
案外風勢が伝わった句をコピペしてみました。

道しるべとなる人がいると
行く道が定まる感じですよね。

思ってみれば
私の道しるべはカンデンスキーだったのではと、
彼の色彩論を17の時に読んで
急に色が私に活き活きしてきましたね。


以後、彼の色彩論を読んでいないのですが、
16才に受けた感銘は未だに心に残っています。

人が月さんのことをTakenしてしまったようですね。
世に何かを言うときは
根底にTake,Took,Takenされても
それに構うことないとの心構えが要るのだと思います。
Giveをしたのなら
どのようにTakenされても
甘んじて受けるべきでしょう。
少なくても、私はそう決めています。

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Unknown (Toーりひと)
2019-05-19 00:21:28
りひとさんの見方の焦点は
もしかしたら、『極限に感じる』ことなのかなと
絵を見る視点や芸術を捉える観点などに因んで
考えてみました。

もしかしたら『極限に捉える』ことかも、ですね。

書いた文章に隠れていることを
私なりの解釈法で推測しただけなので
間違って当然かも知れませんが、
ことばの奥に
そのような何かの『極限』を求める姿勢が表れています。

私がフランスのルーブル美術館で
ゴッホとゴギャンの絵を直接見た時、
なぜ、ゴッホがゴギャンとの喧嘩で
自らの耳を切り落としたかが
切実に伝わりましたね。

二人は絶対に相いれない仲であったと
実感もできました。

本物の絵を本当の眼で観ることは
何百の本を読むよりリアルです。

NYの美術館に行った時も
実の絵を見ることと
パンプレットで見た時の感じと
かけ離れた感覚がありましたね。

いつか、叶えたいと願えば
いつかはきっと叶えられると思います。
りひとさんとの縁も、そうですね。
ほぼ、不可能な確率であったから
いつかはきっと一緒に美術館に行って
思ったことや感じたことを
なんの計算しないで、そのまま言える時が
きっとくるでしょうね。
返信する
Unknown (りひと)
2019-05-18 01:08:57
芸術分野は、生活していると全くその時間も気力も起こらずでしたのでお礼を言いたいくらいです。
セガンティーニの作品は、チューリッヒとそのすぐ近くの町でも観ていたかもです。目の前にあの絵があるととにかく明るいんですよ、こんな作品あるんだとびっくりしました。とても人生落ち着いた方が描いたんだろうと思ってましたけど、なんと壮絶な人生だったとびっくりしましたよ。その他日本でもどうも修学旅行で倉敷にも行ったので日本でも大原美術館で出会ってたかも?と思うと自分の人生も認識していた人生に更に付加価値付いてしまいました。過去の事も知識で彩りが増す事もあるんですね。作品の中では木の上の母子の絵がまた私の好みに合致していて更に気になり始めましたよ。ラファエロがとにかく好きでして。
出雲旅行している時にバスか何かで島根の美術館の看板でセガンティーニの文字の衝撃をたまたまピナバウシュが琵琶湖の方にも来ているとの事実で偶然思い出したんですよね。東京でも凄い作品数の展示があったようです、それにもびっくりです。

でスイスのサンモーリッツのセガンティーニ美術館に行きましょうね。全てが落ち着いた時、行けるのだろうと信じてますよ。

ピナの作品も意識的に観るようになるんでしょうね。色々と興味が瞬時に移動してしまう私には動機が必要ですとてもありがたいお返事でしたよ。

日本の神についても色々と関わっているように思うような縁やキーワードなども不思議に出てきちゃってます。

私にとっての蓮の花さんはやっぱり神様みたいです。
出会えてだけで感謝です。

バレエで身体を温かいご家族や好みの絵画で心を整えてくださいね。セガンティーニでは、サンモーリッツか倉敷に行ける日を夢見ております。実物の衝撃は凄いですね、彼の絵は光を感じるんですよ、山の上の光を浴びているように。

そう日本は、有名な絵画はいっぱいやってきますので日本の美術館めぐりはとてもいいとは思いますね、恵まれています。ただヨーロッパはまた美術館の規模や数も違いますし、日本では画家のレパートリーもやはり偏ってるようにも思いますね。なのであとはタイミングです。蓮の花さんが日本に遊びに来た際、どんな展示が外国各地からやってきてるか?楽しみですよ。
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Unknown (月のような者)
2019-05-18 01:05:20
論外な自己利益のために、私が苦言を呈したにもかかわらず、真似を繰り返して自分の手柄のような顔をするおかしな人もいれば、私への感銘を表すためにあえて真似をした人もいます。その違いは明白なのです。

これまで様々な打撃を受けたことで私が失った時間はざっと15年ぐらいでしょうか。世の中を呪う気力まで失ったこともあります。
今現在私の作品レベルは2003年頃の水準を取り戻しつつあります。十代の頃からの理想の境地はまだ先だとはいえ、そこに着くまでは夢多き可能性がもっと花開いたってよかったんじゃないのか、そこからゴールに至る道だってあるだろうと、なぜ茨の道でなければいけないんだと言いたくもなるのです。そんな時に私を蘇生してくれるのはあらゆる遅咲きの、そして夭折した「芸術家」の存在なのです。「全ての偉大な芸術家もまた、ほとんどの才能と可能性を取りこぼした」という事実なのです。やはり先人はかけがえのない、ありがたい道しるべです。富田木歩先生が私をぶちのめしてくれることが嬉しいです。心が浄化されます。
返信する
おはようございます (のしてんてん)
2019-05-16 11:24:15

「この世で、運ぶのに一番重いものは

自らの体なのだろう。」

この一言がすべてを物語っているように思えて、襟を正して坐りなおすと同時に、クスっと笑ったりして、人柄を感じさせていただきました。

ボーリングが下手で、100点を出すのがやっとなのですが、その原因を一番リアルに見せられるものの一つです。

ボールを持って投げるまでの動作の間、隙間なく自分をコントロールしようと働いている自分が一番よく見えるスポーツなんですね・・・

せめて170点ぐらい出して見たいもので^す^;
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Unknown (To-Rihito)
2019-05-16 04:27:45
Pina Bauschは全く聞いたことが無かったので、
私の知識の狭さを実感できました。

以下は2時間の彼女のOrpheus and Eurydiceです。

https://www.youtube.com/watch?v=pcaZwls1i14

もしかしたら、もうご覧になっているかもですね。

他の彼女振り付けの3分以内のビデオは観ましたが
上記に添付した動画は
今観ているところです。


http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/1011871494.html
セガンティーニの作品も今まで知らなったので、
ウェブで結構しました。
1860年代に描いたのに
今の時代にも古くない感じがしますね。

お陰様で全く知らなかった分野をに接することができて、大変参考になりました。

そうですね、私が日本でやり残していることがあるなら、
日本の美術館にあまり行けなかったことです。
説明してくれる人と一緒なら
自分では見えなかったことなどに気が向けるから
ぜひ、機会があったら供したいです。

これを書きながら、ちらほらPinaの作品も観ているのですが、
ドイツ的ですね。
真剣で、極めて真面目な姿勢がうかがえますね。

アメリカ人の振付師なら
同じ音楽でも
全く違う解釈になったと思います。

これから、バレエレッスンにいくところです。
帰宅して残りの作品を全部観てまた何か書いておきますね。

彼女の映画はアマゾンで有料になってました。
それも機会があれば観てみたいと思います。


追伸
アウシュビッツのことは生々しい感じがして
歴史上のなんていうか、人間の残酷の破片というか、
歴史の流れに人が巻き込まれてしまう、そんな感じですね。
未だに、その空気が残っているのは
亡き人の霊魂の気でしょうかね。







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Unknown (りひと)
2019-05-14 11:12:50
さすが、その通りなんですよ。
何事も一通りしっかり出来てきたから次に行けるんです。クラッシックが出来てのコンテンポラリーなのでしょう。私は踊りは覚える事も大変なのでその世界では無理と判断は出来ますので足は突っ込まず子供に機会をと思ってやらせてました。で一度やめたのですけどやり続けてこれたのもとてもさっぱりしたいい先生のおかげなんですよね、意志で動ける今でもまだ続けられてます。この先表現分野のコンテンポラリーの分野へとの外野(母)の野望がありそうですね、自分の。

ピナ・バウシュさんが数年前に話題になっていましたね。〜ティアーターだったのでひょっとしたら?と記憶はたどってます。2008年の琵琶湖にいらしてるのもなんか深読みしてます。2009亡くなったようですけど日本にも影響与えているのでしょう、ちょうど10年ですよ。日本でもピナ・バウシュさんのような方が出てくるといいなあと。
米津さんのlemonの動画でも踊る女性の姿にもなんか魅力感じますよね、バレエ以外でも少し幅の広い演舞の分野に魅力感じてしまってます。

オススメの絵画もありますよ。
琵琶湖で思い出したんですけど、絵の分野でも琵琶湖にやってきていた大好きなアーティストさんの作品があります。多分心も癒される絵画なので是非、画像等でも探してみてください。セガンティーニです、スイスで見たびっくりしました。私好きな山の上の湖の景色で牛とか牧歌的な絵画で点描のような下地の黄色みたいな点の効果が物凄いんです。あのような自然の明るい絵は嫌いな方はいないと思うので是非心の健康おために観てみてくださいね。体調に効果あると思いますよ。アルプスの風景ですね。

強制収容所はダッハウという場所なのでかなり規模は小さいのかもしれませんが衝撃でした。その佇まいと風の吹き抜ける様子だけでも重く感じました。また博物館の説明でも星のマークとかあったように思います。各部屋に用途により説明もあったと思います。
高い建物もない遠くを見渡せるような棘のような仕切りと溝が掘ってあったので砂が風で舞い上がっているそんな感じもあったように思います。当時は予備知識もまた人生経験もなかったのでもっと知識を得て次回また何かを感じる経験をしに行きたいと思います。映画ではシンドラーのリストもその後観に行きそこでまた知識と映像による刺激を受けたはずです。岐阜県八百津町出身の日本人外交官梅原千畝さんのような方が歴史の中にいて少し日本人として良かったと思いますね。

なんとなくお返事書きながらとても自分にも意味があるコメントのように感じます。すっかり忘れていた事も再認識して当時とは全く違う連動性も感じてしまいました。知識レベルも薄っぺらですけど、今後も勉強していきたいと思います。

体調重視してお過ごし下さいね。
セガンティーニは是非心の回復に利用してくださいね、いつの日か私が行きたいセガンティーニ博物館に一緒に観にいきましょうよ。本物のパワーもあると思いますので、それまでお互い体調整えましょうね。

そうアップル+バウムで、とっても嬉しく思いましたよ。
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Unknown (To zip-san)
2019-05-14 01:27:17
私の場合は
身内や近い人にコメントを遥かに超える範囲で
正直話しています。

コメントは普通の言い方に比べて
言いたいことの半分も言えていないです。

その面からみて
ブログ記事も実は厳密に言いたいことを避けて
公的な範囲に収まる程度に書いていますから
打算てきかも知れません。

Zipさんがこれまで書いてきたことが
普段のレベルより濃いと感じられた背景には
日本社会の閉鎖的な風潮があるからだと思います。

日本では私もその閉め切り的な性質に
本当の孤独を感じていました。
だから、言える仲では
思ったことを何も計算せず
そのまま言えてたと思います。

Zipさんに濃いと思う範囲は
日本外ではそれほど探ってもなく
只の意見に過ぎない例にもなりかねます。

しかし、感じる感覚差は
その範囲、或いは外枠を超えてみないと
絶対に感覚内に入ってこれないと思います。

日本の社会通念を超えたからと言って
それが日本では
『出る釘は打たれる』対象になるかも知れませんが、
日本を超えてみると
その出た釘は
出るいるべきである場合も多くあるのでは、と思うのです。

私が例のブログコメント欄に興味を失ったのも
あまりにも日本的で
狭く、それが息苦しく感じたからでもあります。

そんなのが無かったら
人に来るなと言われても
めげずコメントしたと思います。

ここで住んで驚くことは
アメリカの人は
人の顔を伺わず
自分の意見を真っすぐに言えることです。

それに驚くのは
聞く人はその人以上に真っすぐに対応できることです。
それで、お終いになるのです。
決して、意見で関係が拗れることは無かったと思います。

私の夫にも私は正直極まる話をしますが、
夫はそれにがっかりはしても
それを関係破裂につなげないです。

意見を言い合って
それでお互いを理解して
それで関係が為るのです。

関係は作ろうとして作れません。
が、切ろうとすれば切れます。
けれど、言葉で斬れない関係もあるから
それがまた、例外性で
面白いですよね。

今回のZipさんのコメント卒業宣言が
今までのコメントの中で
一番、正直な感じを受けたのも
皮肉かもしれませんが、
どこかで身を退ける時は
理を残してから
丁寧に去る、これが正に
教育を受けた人の行いでしょう。

いつか、最後の最後
その最後が新たな始まりに繋がれることを
私は願望しています。


返信する
Unknown (ZIP)
2019-05-13 23:50:01
最後に思うことが一つあります。

コメントを投稿することで、人間関係を築こうと思っていたわけではないのですが、普段、自分のことを知っている人達と話すよりも、はるかに思ったことを言ってしまう自分に、自分が恐ろしくなったというわけです。
身内や知り合いに対して、普段では決して言わないことを言ってしまうこの様な関係は癖になりますね。
おそらく、それだけ密度の濃すぎる関係だということでしょう。
返信する
Unknown (To zip-san)
2019-05-13 22:55:15
コメントするのをやめる、残念極まりますね。
寂しくなりますよ。

私も例の本山であの件以来、全くコメント欄を開きもしなくなりましたね。
読む気にもならなくなりましたが、
毎日、記事は読んでいます。

ですが、Zipさんがご自身のことで
いっぱいになったら
もう他人のことが自分に入れなくなりますよね。

いつか、そのいっぱいが溢れて
流されて、消えた時に
また、コメント残してください。

何か書きたくなった時に
書けるように
私もブログを継続できていられるように
諦めず、頑張ってみます。

そうですねえー
コメントをもらって
生き方や考え方が変わるーそれが人様の意見の威力でしょうね。
知性を見せびらかすためでなく、
積極的に人と関わる、それがコメントの本意でしょう。

その本意の面から考えて
Zipさんが私に問いかけてくれたいくつかのことで
私も、結構考え方が変わってきました。

中では、Zipさんのことばそのままが
記憶に刻まれているのもあって
偶に思い返したりしてもいます。

今まで私もコメントでお世話になりました。
いつかまた世話になりたいと願っております。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-05-13 22:13:57
もうコメントはやめようと思います。
元々自分が知りたくて始めたことですから、人様にあれこれ教える立場ではないわけです。
自分のことで精一杯というわけです。
本山でもコメントはもうしないと思います。
普段思っていても言えないことが言える場所を提供して頂きありがとうございます。
返信する
Unknown (Keiren)
2019-05-13 20:57:58
通りすがりの者さんへ

思うに通りすがりの者さんは
心理学の真髄を心得ている方かなと思うところがありますね。

私の中心点に真っすぐに対面できるかたかなと、
以前に、私の心が我欲で曇っている時に
明るい陽射しで曇りをぬぐいてくれましたね。

私の気分が汚れている時も
雨のように、キレイに洗ってもらった感じもありますし、
本当に慈愛に満ちている方だと思っております。

深い慈愛を頂き、書いた涯があります。
返信する
Unknown (Keiren)
2019-05-13 20:49:05
月さんのセオリーはそうですねえー
ユニークですよね。
その見方は真似る事柄ではないと思いますけどね。
真似るとしたら、
月さんの解釈法だったのかしらね。

人格からくる色彩感は真似ることはできますが、
そのDetailは誤魔化すこと無しでは
完璧に真似ることはできないと思います。

私は文から真意性を見つけることを
趣味としていますが、
いくら格好良く書いたとしても
その根源が他人の見方から起因している借り物だったら、気分が悪くなるので
感覚的に見別けることができます。

犬のように
文から人格の匂いを判別できる素質を持っているので、私に
『嘘の知性』は通用しないです。

月さんのことばを真似て
自分のもののように盗んだ人は
表面的なことで騙されやすい人達でようね。

騙されるのは、騙すより厄介です。
兎に角、人が盗むことのできない自らの世界を
より強く磨いてくださいね。

私のブログも部分的に盗用されたことはありましたが、あくまでも部分であって、
逆にそれが切っ掛けで
盗まれない記事を書けるようになりました。

女子大に通っていた時も
私のスタイルを真似られてましたけど、
人が私と同じ格好をすると
私はすぐ、他に変換しまうので
結局、私について来れなくなりましたね。

だから、常にユニークでいられました。
彼女らに文句つけたことは一度も無かったです。

ついて来るのが嫌ならば
より速くいけばいいだけのことです。

返信する
To zip (Keiren)
2019-05-13 20:26:57
Zip さんへ
非知について教えてください。
単に知識ではないことを指すので無いと思いますし、
他の説明はくどいので、読みたくもないですが、
Zipさんなら、論調も詩的でCoolなので
読みたくなるのです。

質問しないで、Zipさんが自発?的に補足して下さると期待しておりましたが、
問わないと流されてしまいそうでききます。

返信する
Unknown (ZIP)
2019-05-13 12:00:49
また余計なことを言いましたね。
気持ちが分からないわけではありませんが、関わらずにはいられない性分なので、仕方がないと言えば仕方がないのでしょうね。
そこがいかにも貴女らしいと思うわけです。

自分という存在に、何らかの方向性を見出そうとする思いの次元が、時間という四次元的世界なわけです。
時間次元に自分を持ち込むことで、生きることに実績とか可能性とかいった様な価値や目的を自分に持たせたいと思うわけです。
自分に痕跡や意味を残そうとする自我の働きであると言って差し支えないと思います。
返信する
Unknown (通りすがりの者)
2019-05-13 09:16:36
気持ちのいい記事をありがとうございます。
すがすがしい気持ちになれました。

学びたいことを学び、やりたいことをやる、為の努力を続けること。
身体を動かし、心を動かし、体験してつかみ取っていくこと。

生きている。
そんな実感が行間から伝わってくるように感じました。
相性の良い先生と出会えて、良かったですね。



返信する
自分に置き換えてみると (月のような者)
2019-05-12 18:21:34
私がずっとやっていることには師匠がいません。独学です。文学で師弟関係というのは現代ではあまりないのではないでしょうか。自分であらゆるものを読んだり見たりして養分にするんですよ(私の吸収量は大したことはないと思うけど)。森羅万象あらゆるものが師匠と言ってもいいかもしれませんね(笑)
文学の場合はセミナー的なものに参加しても「マズくならないセオリー」は学べると思いますが(一応それも重要ではあるが)、才能自体は伝授されませんから。結局自分でしょうね。まあ私はそういうところに行って学んだことはありませんね。
私はよく真似されたけど、誰かの真似をしたことはないですね。例えば俳句や短歌や詩なんかだと他人の真似はしきれないと思いますよ。ポイントも分からないしそれぞれの本質も違うし、そういったものは特に根底の才能で成立させないとメッキが剥がれちゃう難しい世界ですよ。自分と違うものを不自然に真似しようとすればガタガタになるだけです。
昔あちこちの投稿場所でよく名前を見た人達はどうしているのだろう。有名になった人もいるけど辞めた人も多いのだろうなと。私の名前を知っている人にとっては私こそが消えちゃった人になるんだろうけど、実はまだやってますと(笑)
スランプからの脱出過程を体験してみると、私のような者であっても自分の作品世界がいかに一筋縄ではいかない複雑な構築物であったかを痛感しますね。継続しないと錆び付きますね。
返信する
Unknown (Keiren)
2019-05-12 06:57:34
栄久さんへ

添付された宮本むさしさんの文を読むと
彼は教え方の根本を心得ていると思えてきます。

Interior(Exteriorも含め)やGate(入り方)は
一度説明したら、その効き目が無くなるのですが、
基本定理を生徒が納得できるまで
説明すると、忘れることなく
その根本的な仕組みが身に定着できると思います。

教え方のいい例を紹介してくださって
ありがとうございます。

日本でのジムのバレエ先生がそのようなタイプでした。
彼女の説明は今でも忘れてないです。

アメリカで経験した4人のバレエ先生は
そこまで細かく生徒に関与する人はいなかったです。
表面的で技術伝授中心みたいな感じでした。
なので、
その先生たちが教えてくれないことは
自力で学ぶしかなかったので
ある意味、自律心を養えることにはなりましたね。

本文中のリンダ先生は
生徒と関与していくプロセスが他の先生に比べて
直接でしたね。
ロシア人だからですかね。
返信する
Unknown (榮久)
2019-05-12 05:20:17
srt of war → art of war 「兵法」に訂正して下さい
返信する
Unknown (榮久)
2019-05-12 05:17:06
Miyamoto Musash

The artistic accomplishments usually claim surface meaning,
and inner meaning (secret tradition) or “interior” and “gate(approach)”,
but in my way of strategy(srt of war),there is no “interior”, nor “surface”.
In combat there is no such thing as fighting on the surface,
or cutting with the interior when I teach my way,
I first train pupils in techniques that are easy for them to understand,
and gradually endeavor to explain the deep principles,
according to the pupil’s progress
返信する
Unknown (Keiren)
2019-05-12 02:31:21
りひとさんへ
ドイツでのステイ想い出を興味深々で読みました。

アウシュビッツ見学での感想はぜひ教えてください。

夫はユダヤ系なので、ホロコーストについては
真剣に取り扱いながら話しています。
まあ、ユダヤだと言っても
3代目以前の先祖がアメリカに移住してきたようで
ドイツのユダヤ迫害を直接受けたことではないようです。

ケイレン アップルバウムのApplebaumは
Apple+Baum(treeのドイツ語)で
夫の母親がドイツ人で、
夫の父方の先祖がドイツで付けられた苗字が
Applebaumなのです。
(ロシアからドイツを経由してアメリカ移住した際に)

因みに、ここはドイツは歴史上の敵国、
日本も敵国だったことがあって
ドイツの車が少ないです。
日本の車は結構上位圏で多いのですが、
電気製品とかは
韓国製が単突多いです。
サムソンがほぼ圧巻している感じです。


誤字脱字は心配なさらないでくださいね。
今までのところ無かったです。
文流が口語体だから、読みながら言い方に沿っていけますので、割と読みやすいです。

私は長い文を読むのが好きです。
読みながら、内容により深く探っていけるし、
書いた人の感情移入の仕方を感じ取れるのもあって
長い文を書ける人を『リスペクト』してます。

コンテンポラリーが嫌いな理由は
クラシックに徹することができないダンサーが
逃げ道のように
コンテンポラリーダンスに流れる傾向があるからです。
でも、中にはクラシックに徹底した上での
コンテンポラリーをやっているダンサーもいるので
それは見れば分かります。
そんなダンサーは基本が美しく、
動きも切れがいいです。

だが、逃げ道でコンテンポラリーをやっている人は
どこか雑で、誤魔化しがあるように感じとれる時も
ありますしね。


まあ、コンテンポラリーもバレエスクールでは
必修科目みたいですけどね。

うちの夫は家事を結構やってくれています。
トイレの掃除担当とか、洗濯とか、
庭の手入れは彼専用だし、
食事後はいつも
美味しい料理を作ってくれてありがとうと言ってくますし。

買い物は常に一緒だし、
荷物持ちで徹してくれるわで結構つぐタイプです。


返信する
Unknown (りひと)
2019-05-12 00:10:26
ホームステイの件ですけど、生活の中での事いっぱいびっくりしましたよ。素敵に思ったのが、寝かしつけと家事を夫婦で日により交代もして寝た後にお茶しながら二人で話しているのが素敵だなあとかんじました。あと危ない事、例えば3歳くらいの子がハサミ使ってましたけど日本だったら取り上げちゃうんですよ。けどやらせてあげて見守り安全な使用を監視していざという時は手を出すのを見ていてなんかいいなあと。持ち方とかなどでも。自分が子供だったら絶対その方が気持ちいいだろうなあと。
それと子供の意見や言い分もちゃんと聞くんですよ、また政治とか子供とはまだ時期が早いかな?と思うことも話し合えるんです。子供として相手していないで同じ人間として接して意見も聞いてるのを実感しましたよ。
7、5、3歳くらいの姉妹さんのお宅で受け入れて頂きました。当時は大学生でしたけど確かお母さんをお休みして強制収容所の見学も連れて行って頂いたような記憶があります。ヒッチハイクもしたような?とにかく全てが今の日常から考えるとびっくりの連続で自分の常識との違いも感じましたけどそれを受け入れる事でいっぱい楽しめましたよ。
大学での勉強でも学んだのがやはり子供を小さな大人と解釈している所をホームステイで実感出来たのでこれは日本に帰っても役に立っています。日本ではどんな立場の方が言ったかで評価が変わってしまう。今で思えば自分の子以外もみんな子供のが良い事いうんで参考にしていますよ。子供の言うことでしょ?って子供の先生に言われた事もあり、あらら?もったいないって思いました。ちゃんと一人の個人の言い分として聞いてくれてないのならそれ以上を求める事もしないで済みましたね。

ホームステイで一番嬉しかったのは、相手をリスペクトしていたらいいアイデアも得られるんだと知った事です。なので逆に聞いてない方にはこちらからもそれ以上を話さないです。聞く耳持つか?で判断しています。実は厄介な相手の方が自分にはいい勉強になるって思ってトラブル回避するのも精神的にはとてもいいようです。

感情表現がダイレクトな中にいると、それもありなんだと思いましたね。日本だとダメと感情を押し殺して生きてましたのでびっくりでした。けど分かりやすく個人的に合ってました。
それから人の様子も銀行とかでも気分も分かりやすいのでなんかトラブルになりそうな予感の所は避けて混んでいてもこの人ならという列で並んでましたよ。道を聞いたりするのもアジア人だとどうも嘘つかれたりもしたんで出来るだけ信用出来そうな方を探してました。今で役立ってますね。お店とかでも超上の階とかに案内されたり、けどそれならいいですって断れるようにもなれました。

日本の伝説でもあるんですけど、みすぼらしくてもまた汚くてもまた病気でも同じ人間として受け入れてなんとかしようとした方はあとで王子になったり恩返ししてくれたりそんな話ありますよね。それが妥当です。

そして逆に、ちょっと迷惑な希望を出してもそれに対応してくれた方に感謝をするのもとっても楽しかったです。チップがありますので。日本でも可能ならしちゃったりします、許される時は本当の満足の気持ちをお金というのはあまり気が進みませんけどね。

ひどい文章力や誤字脱字でもあればそこにこだわる方は読まないはず、読んでくれた方には何かいい効果があればとコメントしています。あと誤解もそう思ったのならそれも受け入れます、信用がなかったんだとも。

相手がどう思うかは行動してみないとわからないし、相手に決定権があります。なのでこちらは想像して悩まず、相手からの行動から反応で反省するなりしてみたいですね。

そうそうコンテンポラリーのバレエですけど、好みはありますよね。好みじゃなかったんですね。けど知っているのもさすがと思いました。私がドイツで観たのもバレエじゃないのかも?確か場所がメッセ会場のような特設の会場だったようにも思いますので。
今回のこのやりとりを活かす意味でもちゃんとコンテンポラリーの予備知識を持っておこうと思いました。

書くことで思い出したりした事もあります。
そうでした、バレエの基本は大事でクラシックなしにコンテンポラリーはないのではないかな?と反省しましたよ。ただ、感情を出し慣れている方がスムーズに移行出来そうには思います。そして逆にそれを要求されない物の方がルールや規定の中での入れ物の中の表現のがしやすい方もいます。好みは自分で決める物ですのでお互いこっちのが好きと言い合える関係もとてもありがたいです。
今いる国はとても自分の好みを主張するのも気を遣う。どこの国の方でも親子でも希望を言い合ってこその信頼って素敵ですよね。
なので桂蓮さんのご夫婦も素敵ですよね。
返信する
Unknown (Eric)
2019-05-11 05:23:46
Keiren really works hard on her ballet.
And, she made me watch ballet on TV, and go to live ballet performances in Boston and New Haven and Stamford....
And I really like ballet...
I went to one of her classes in Japan and participated. I was not good.
返信する
Unknown (Linda)
2019-05-11 05:21:50
This is the biggest reward for a dance teacher to get such a post.
返信する
Unknown (Keiren)
2019-05-11 00:15:09
りひとさんへ

私はコンテンポラリーが嫌いであまり観ていませんが、
夫の兄弟の娘さんがNYでそれをやっています。
私は只管、クラシック派なので、
音楽もバレエもクラシックに拘っています。

自由な表現に強い抵抗感があるからかもしれませんえ。
形式の中での自由なら
マトモだと思うのですが、
やけに伝統を破って
自由、自由というのは
気に障る感じがするのです。

と言っても、ドイツ人のコンテンポラリーを観てもいないので、
文句付ける立場ではないでしょう。
機会があったら
ドイツのダンスを観てみますね。

クラシックにしろ、近代ダンスにしろ、
肝心なことは
『人に伝えるものが何か』だと思うのです。

今になって
日本でのバレエスクールとここのスクールを比較してみると、
日本の方が厳格だったと思います。
ここは気楽な感じで授業が行われているから
どうも私はそれが愉快になりませんけどね。

りひとがドイツ語の光のようですね?
ドイツでのホームステイのことを
気が向きましたら、教えてくださいね。
聞きたいです。
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Unknown (ZIP)
2019-05-11 00:08:19
バタイユを参考にしてます。
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疑問(ToーZip) (Keiren)
2019-05-11 00:00:59
非知とは
『ジョルジュ・バタイユの「非-知 閉じざる思考」』のことですかね?

「知が無いということについての知」
「知ら不る(ざる)ということについての知」
「知に非ざる(あらざる)ものについての知」
「未だ知らないということについての知」
ソクラテスの知ですかね?


貴重な出逢いです。
ロシア人の先生ですからね。
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Unknown (りひと)
2019-05-10 16:19:36
良かったですね。
良く神社で神様にお願いするのが、その縁結びです。
子供の進学となると大変で本人にとっていい学校でいい先生でいい友達でいい部活でいい仲間とかお願いしちゃいます。お金積んでも得られない幸せってありがたいですね。けどそこに本人の努力と塾考とあと自分での実感がないと気付かないで過ごしそうですよね。

ドイツでバレエだとホームステイ先のお母さんに連れ貰って見た踊りは日本では出会えない衝撃がありました。身体での自己表現のバレエ、コンテンポラリーとかいうんですかね?あれを子供に早くやらせたいです。
おそらく指導方法も違うでしょうから。本人がルールや見え方にビクビクしていたらまず出来ないバレエですので。ただ日本でそれを教えられる先生ってそういないと思いますよ、なのでアメリカなら可能性は増えそうですけどそれでも個人的ない相性もあるでしょう。

今回の記事の言葉見ていたら、コンテンポラリーのバレエをうまく引き出せる先生だろうなあとちょっと思ってしまいましたよ。その生徒に合った自己表現にも間口が広がっていて、その中で自分で模索しながら努力しているのを見守れる先生でしょうね。

日本の中では先生が引っ張るみたいな常識ありますけど、外国ではなんかもっと違う。先生と生徒との立場が違ってもその中でお互いの楽器が奏でるコラボみたいなのものへの寛容さがありますよね。日本では一つの容器に入れたがるけど、もっと大きい領域を用意してくれてるんでしょう。その領域の中で努力したり自分に変化させようと考えたり出来る生徒しか身にならないとも思います。なので蓮の花さんにはぴったりではないかと思いました。日本のスポーツも少しそんな兆し出ても来てますね、どちらが伸びるか?は生徒を見ていれば分かるでしょうね。

多分お互いのリスペクトを感じれるんだと思います。
素敵な関係、本当奇跡、それがその人の徳に由来しているととても世の中安心ですよね。
お金を得てお金の亡者になっちゃう前にお金で買えない自分だけの幸せがあるのを子供達には気付かせたいですね、自分で楽しみながら見つけるからこそ満足感もあり他の人の事も気にならなくなるんでしょうね。
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Unknown (ZIP)
2019-05-10 12:18:10
それが非知ということです。
貴重な出逢いをされましたね。
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