Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

信頼、不信そのルーツThe root of trust, distrust

2019-12-27 | 心理学習

人格を決める根本的な種があるなら、

それは選択傾向であるだろう。

If there is a fundamental source that determines personality,

it will be a tendency of what to choose.

他人と自分を区別する根本的な違いは『何を選ぶか』かも知れない。

The fundamental difference that distingue self and others,

it may be “choose what”


動物にはその選択肢が自然の法則に基づき、

パータン化されているから、個性性が限られている。

Animals personalities are limited

because their choosing options are based on

the laws of nature and it is patterned.

人間は持って生まれた遺伝子情報、

置かれた環境が限られていても

それぞれ違う選択をしていく。

Each of human does different choose

even though with their given genetic information

and environmental states are limited.


ある人を信頼できるということは、

その人が選択することを信じられることと直結する。

Being able to trust someone is directly related

to a person’s belief in choosing.

逆にある人がある人を信じられないと感じる背景には、

その人が何を選ぶか分からない場合が多いだろう。

On the other hand, the background

where a person feels untrusty to one,

there are many cases to be found about

uncertain of what they would choose.


また、ある人を良い人だと判断する背景には、

その人が悪いことをしないと分かっていることに根拠づいているが、

悪い人だと感じる場合は

悪いことを平気で選ぶ人だと分かる場合いが多いかも知れない。

Also, the background of judging

whether someone is a good person or not,

it is based on the apprehending that

the good person never does a bad thing

but for the bad person would choose bad things without hesitating.


気品を感じさせる人に共通的に多く持っている特徴として

行いに裏腹が無いような感じを放つ人が多い。

People who have refinement,

their characteristic attitudes giving off feeling that

there is no behavioral reverse in common.

言っていることとしている行いが他でも変わりがなく、

一貫した態度があると見ている人はその人を良い人だと感じる。

People feel someone is a good person

when they find the one who has a uniformed attitude

and there is no difference between the one’s telling and doing.


だが、下品さを放つ人は、

言っていることにどこか無理強いがあって、

考え尽くされた打算的な行いをしている場合が多い。

However, someone who gives off vulgarity,

they looked impel by somewhat

and behaves mercenary which calculated as much as they get merit.

そのような下品な人は

自分がどのように見えたいかを考えに考えて、

良い人に共通する望ましい態度を演技し、

聞こえの良い話しをする。

Such vulgar people, they think much about

how they are seen as they desired

and act in a desirable manner

which borrowed by good people’s attitude samples,

telling sweet pieces of stuff to be heard.


その見せかけに騙される人は、

自分が信じたいことだけを信じる愚かな人が多い。

People who are fooled by the above kind,

mostly they are unwise because they believe in

only what they wanted to believe.

そんな愚かさの根本には、

都合に良い話に現を抜かされ、

簡単な方法で楽になりたがる性格傾向の持つことが多く見られる。

At the root of such foolishness,

they would be hooked by convenience

and their personalities tend to take easy in an easier way.



私が一番嫌いなことばに“私を信じて”というセリフがある。

One of the words I hate the most is the sheriff of “trust me”

その言葉には人の人格、自由意志、自由選択権を侵す暴力性がある。

In the word, it has violence that intrudes on one’s personality,

free will and assault the right to choose.


人が人を信じるには、

その人が今までに良い行いをしてきたとの確かさが必要である。

To believe in someone,

it requires a certainty that the one has been behaving well.

また、その確かさは強いられた感情選択肢からでなく、

自由に何となくそのように感じたような

理屈の無さが必要不可欠でもある。

Also, the certainty is not only from emotionally forced to feel,

but also need to be freed for feeling without reasonable baking up.


なので、人を信じる、信じないことの背景には

その人が何を選択するかに対する確かな信頼感覚が根源にある。

Therefore, at the bottom of trusting or untrusting,

there is a certain reliable sense of what the person would choose.

本当に信頼をおける人は、

もはや人から信じてもらう必要さえなく、

自らの選択肢に迷いさえ無い人かもしれない。

The meaning of a truly trusted person

is indicating someone who no longer needs to be trusted by others

and may not be confused at all what to choose.


信頼できる人は当たり前のように正しく選択し、

選択したことを最後まで全うする。

A person who can reliable

the one chose right like as it should be

and execute to be done for it.



日々を木々に囲まれて生きて、

TV画面の中でしか人波を観ることができない私にとっては,

いい人はどんな人か、悪い人はどんな人かなどの見方も

思案の一つでしかない。

For me, who spends daily life surrounded by trees

and only can watch waves of people on the TV screen,

so judging what kind of person is good or bad is just one of my considering.


だが、たまに言い出したことを結論で結ぶことや

根拠をしっかり示す説得力が煩わしく感じてくる時は、

想ったことを思い浮かんだままに書いてみるのも

思案のストレッチ運動になるのやらどうやら…

However, when I come to feel a nuisance

things for those making conclusions for what I started to write

or convincing with the logical ground,

maybe just write whatever as came up to my thoughts,

it will be good for my brain exercise to stretch…


補足:写真は先週の土曜、くるみ割りバレエを観にボストンに行った時撮ったものです。

   記事と関係ないのですが...


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33 Comments

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嬉しいです (のしてんてん)
2020-01-07 06:48:29
新年に入って、桂蓮様の「のしてんてん(心)」が手に届くように思えるほど近づいたように思えます。慶賀の極みです。
桂蓮様の結論こそ、私が伝えたかったことなのです。

自力を解放して100%の力を実現させる。これがすべてだとかねがね思っておりました。
人が一本の弦だとすれば、緩むと音が出ませんから、引っ張ることは正しいのですね。この思いが、限界を超える力信仰を生み出す。けれど引っ張りすぎるとどうなるでしょう。弦は音色を失い高い音を発するだけで、あげくは切れてしまいます。
弦がきれいな音色を発するのは、弦の本質が100%生きる瞬間にあるのですね。
私は甘い言葉をかけたつもりはありません。むしろ厳しいのです。それでなかな言えなかったことなのですが、桂蓮様自身の心の気付きが私にそれを言わせた。そうご理解下さい。
努力は、引っ張ることにあらず。
緩急の中心を訪ね己の真実のただ一点に立つこと。そこに100%がある。これ以上厳しいことはないと、私は絵を描きながらいつも思っております。
絵かきのたわごとで^す^
返信する
Unknown (To-栄久さん)
2020-01-07 03:15:27
バレエの妹さんとご一緒ですよね、羨ましい。

トランプ氏は本当に危ないですね。
賛成者と反対者が対立していて
南北戦争のようです。

今はトランプ反対者の力が弱いように見えますが、
次期大統領選挙で彼に勝てる人に大いに期待を寄せています。

それにしてもカリスマの無い候補者ばかりですけどね。

妹さんによろしく伝えてくださいね。
いつか、機会があったら会いたいとも伝えてください。
栄久さんに会いたい気持ちの次に会いたいです。
返信する
Unknown (榮久)
2020-01-07 02:28:51
此方こそよろしく願います。

辞書に思う
 
さて、ご存知のように日本語は概念規定が恣意的というのか当人の好き勝手で共通の土壌が無いように感じることがあります。

たぶん多言語を操る桂蓮さんの根っこにあるのかどうか解りませんが、私には国とか故郷とかへの想いは稀薄で、今居るそこが、暮らしのある場所が好きです。
そこの人間関係の大元であるその国の言語を体感として習得するように務めてきました。

結果としてか性格なのか私の身体辞書はバラバラで頭の中の回路もいい加減で仏語で思い付き日本語ではと再考したりで日本語表現のいい加減さと言うのか間接的で主語がハッキリしない・・・とかで時々仏語の方が思考に向いているようとも悩みます

こちらは夜中2時気温12度カーデガンを羽織るだけで暖房器具は無し、元旦以来好天気でしたが昨夕から雨模様です。
暮れから妹が来て好き勝手に居座っています。

トランプ氏が戦争を仕掛けているようですね、何千年もの間戦争の悲惨さに気付きながら再び争いを企てる空しさに年明け早々に落胆しています。
返信する
Unknown (To-栄久さん)
2020-01-07 00:42:43
言葉と信頼

その裏切り

私の父は私の生みの母が
生後2か月の私と2歳の姉を捨てて家出をしたことを
自分を裏切ったとよく言ってました。

私の中で裏切りという言葉は
私の生みの母が自分の幸せのために
正式な法律の段階を得ずして
自分の家族を要らないもののように捨てた、その行為に直接つながってしまったようです。

父が、あの裏切り者っと私の生みの母を指して
罵っていた時、
私や姉は無言で何も言わずで
ただ聞いていました。

姉と私は生みの母のその裏切りについて
一度も話したことが無いです。
2才と生後2か月の私達の記憶では
あの人の裏切りに対して
善とか悪だとかを判断する素材が全く持てなかったからだと思います。

信頼概念は約束を大前提にするでしょうね。
辞書的な意味も
人によってそれぞれ感じ取る幅が違って
言葉の解釈も、
経験によって違ってくるのが
言葉の脆さかなと思ったりしました。

栄久さんのコメントは
いつも私に違う風景を見せてくれますね。

今年も開けて始まってしまいましたね。
今年もよろしくお願いします。
図々しいようですが...
返信する
Unknown (To-zipさん)
2020-01-07 00:23:23
死の作用...
この表現は死の一部を見せることばかなと思いました。
死の可動範囲を表しているかもです。

おそらく、Zipさんは
私が部分的な観点に捕らわれている時
それを踏まえた上で
私が見えていない部分を見せてくれているのではと思ったりします。

強制性が無い分、障るところがないのですが、
関わる、関わらない選択肢を私に残してくれているのかなとも察せるところがあります。

それが私にとっては心地いいです。


追伸:大般若ってどんな会ですか?
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-05 20:02:16
アメリカ人であるとか、日本人であるとか、
女であるとか、男であるとか、
母であるとか、父であるとか、
責任とか、信頼とか、
義務や道徳、倫理や信念とか、
およそ客観的実在性を剥ぎ取られた元素は正気を失うことなく安定同位体でいられるかどうかはわかりません。
『死』という言葉で表された崩壊の作用は、その正気さえ貫くわけです。

今日は大般若に参加してきました。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-05 08:18:16
安定同位体は仏教の目指すところでは当然ないわけです。
言葉による核変換は、垂直の孤独時において安定同位体に更なる変換を与えるわけです。
責任が何の役にもたたない事態になるわけです。
返信する
Unknown (榮久)
2020-01-05 06:11:58
言葉 信頼

約束とは、すなわち言葉
言語的動物である人間、言葉によって為される約束。
約束は守られるという前提と信頼が時として裏切られることがある。
それは言葉は相手に伝わっているということとの信頼によるものであろう。
言葉によって為される約束というものの、最も社会的な形が法律で、たくさんの、べしとべからずが、言語によって列挙されている。

善と悪という言葉は人類が自らの辞書に所有しているのであろうと
人類が言葉との間で交わしてきた約束とは、このことに尽きると思われるのです。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-04 09:39:16
何故、信頼が必要とされるのか、自分を信じ、他人を信じようとするのは何故か手掛かりになるもの、拠り所になるものを必要とするのは何故か、

安定したいと思うからです。
安心したいと思うからです。
同一であり、普遍であり、変わらぬものを拠り所にしたいからです。

それが死の作用です。
返信する
Unknown (To-Zip)
2020-01-04 06:24:08
真珠の核の隠喩
真珠の異物質(≒信頼の動機、切っ掛け)
その核(≒結果、辿り着くところ)

元素≒イオンの結合が満たされたネオン原子のような安定安定同位体、つまり外からの結合をそれ以上必要としない原子構造を持つ状態
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-04 05:40:37
信頼のルーツは真珠の核の様なものだ、と思うことは分かりますが、それは一体何なのかということです。
信頼という安定同位体の元の元素は一体何か、
貴女には分かりますか?
返信する
Unknown (To-Zip)
2020-01-04 04:58:43
Zipさんの関係論、自意識の関連性は
パズルのように見えますね。
信頼のシステム構造図を見ている感じがします。

しかし、『~らしさ』という状態は可変する変数だと思えるので、
人格や性格の構成要因にはなりますが、
信頼される状態を構成するメイン要素にはなれないと思うのです。

一流の映画の役者は生まれ持ったような信頼感を演じ切ることができます。
その演技は彼の特性ではなく、
信頼される人の共通点を完璧に取り入れた借り物ですが、
観る人は演じる個人を見ているのでなく
見せようとする特性を見ているのです。

或いは、無人島に一人だけいて
他人との関係性がゼロで
『らしさ』を認識する必要も無い状況でも
信頼がある、或いは無い状態が持てるでしょう。

言いたいのは変数によって
可変する要素としての信頼因子でなく
真珠のように
一つの異物から成り立った珠緒のような性質が
底辺にある、ということです。
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-04 00:56:47
組織においては、元から責任を有している者同士が関係し合う、という前提で任務の遂行がなされるわけですが、その責任はその人の役割において期待される行為の遂行を義務として元々保持していること、を前提にしているわけです。
遂行する義務が元々その人にあると見做す、つまり、その人の人格や性格に由来するのではなく、その人の役割が信頼の根拠になっているということに他ならないわけです。
その役割においてのみ個人として見做される、役割を遂行する限りにおいてのみの個人であり個人が役割に収束されるというわけです。
ということは、その人自身の人格や性格が信頼を構成するわけではなく、その人らしさとして責任を含めた人格や性格がその人にあると『自分』が思えるから信頼が構成されたり、されなかったりするわけです。
厳密に言えば、関係に関係する関係があればこそ、その人らしさを感得できるわけです。
自分を、関係に関係する作用と見做す、即ち、関係の持続作用として自分を見做すことができなければ自分や他人の「心に沿う」ことは不可能というわけです。
仏教における『縁起』とはそういう意味に他ならなず、ただ個人と個人の間で起きている関係ではないわけです。
返信する
Unknown (To-ケンスケさん)
2020-01-04 00:00:31
そうですね、既存の考え方に違う角度からものことを視るーこれが私のコンセプトでもありますので
書き手の本質を読める才能をお持ちのようですね。
的確なコメントありがたくいただきました。


返信する
Unknown (To-赤ずきんさん)
2020-01-03 23:52:56
コメントを頂きありがとうございます。

信頼が分からないとおっしゃる背景には
それについて考える必要のない恵まれた環境があるからかなと思います。
責任感はそうですね。
根本的な根源でしょうね。
返信する
Unknown (To-のしてんてん)
2020-01-03 23:48:11
甘やかしてもらったようで嬉しいです。
優しい返事を読んでから
どう応えたらいいか、考え込んでしまいました。

私のサガは自分が発したことばに囚われるがちな面だと思ってはいましたが、
それを把握できなかったのでした。
今回、それについて気がつけました。

自分の言葉に囚われるのは
結構、自分からはどうもできない厄介もんです。
他人に言われて、その殻に気づけるものだったのねと、やっと問題に自覚できましたね。
ありがとうございます。

返信する
Unknown (ケンスケ)
2020-01-02 09:21:34
明けましておめでとうございます
素敵な内容の記事に読む俺に新たな考えをもたらして頂いております
有難うございます
これからも学ばさせて頂きます
有難うございます
今年も宜しくお願い申し上げます
どうぞ良いお年をお過ごしくださいね
返信する
( ゜▽゜)/コンバンハ、かな? (赤ずきん)
2020-01-02 05:22:52
桂蓮さん。
明けましておめでとうございます。

信頼できるかできないか。
あまり難しいことはよくわかりませんが、責任感があるかどうかでしょうか。
無責任な人は信頼できませんw

今年もよろしくお願いします^-^
返信する
新年おめでとうございます (のしてんてん)
2020-01-01 17:33:29
径蓮様、私のことで気を遣っていただきありがとうございます。

「私は自分が言ったことに半分もまだ責任を負っていないので、来年は新たな覚悟で全う決心もしました。
まだ実行していない宣言など
来年中に実践できるよう感張ります。」

この言葉はとてもありがたいことなのですが、私の桂蓮様への信頼感というのは決してそういうことを求めるものではありません。私が言いたかったのは、互いに交わした言葉に責任を持つという事ではありません。そう言う形で信頼関係をつくるというのではなく、私が言いたかったのは、いかに自分の心に沿って真摯に生きるのかという事なのです。
桂蓮様は、そんなことに責任を感じて御自分を縛らなくても、充分にご自分の心を生きようとされている。そう思えることが私には嬉しいのですから。

自分が自分のことを無条件で信頼できるようになったら、私達は別々の道を歩みながら、きっといつか一つの共通した境地に行き着く。そう思えるような仲間と思える人。
私は桂蓮様をそう思っていると言いたかったのです。

言ったことばに責任を持つという事は、政治の上では大事かもしれませんが、心の世界では囚われになることが多々あります。そのことが気になりましたので、追伸いたしました。


返信する
Unknown (To-のしてんてんさまへ)
2020-01-01 11:26:57
のしてんてん様が描いた依頼した絵をもらった時、
なぜに私がのしてんてん様に信頼を感じていたかが
分かりましたね。
言葉では言い表すことができなかったのでしたが、
信頼とは、感覚なのかなと思えました。

絵を依頼して発送されるまで
その過程は正に信頼そのものでした。
他人にはご自身のことばを果たすより遥かに真剣に責任を全うする人だと感じさせる誠実さがありました。

信頼に値するかどうかは
自分が決めることでなく
他人が決めてくれる評価かなとも思います。

私は自分が言ったことに半分もまだ責任を負っていないので、
来年は新たな覚悟で全う決心もしました。

まだ実行していない宣言など
来年中に実践できるよう感張ります。

今年はお世話になりました。
来年もよろしくお願いします。
返信する
Unknown (To-🌙さん)
2020-01-01 11:12:18
ここはまだ2019年です。
日本はもう新年明けたのでしたね。

月さんのコメントは風情的なものは土台がにていますが、
ものをみる視点が私と全く違ったので
コメントで学ぶものが結構ありました。

コメントを書くために
窓の外の遠くを見ながら
書いたのだろうと、そんな感じがありましたね。

常に平行した距離感が私にはここと良かったのです。
『その他』を示してもらい、それらをありがたくいただいてました。

コメントでお世話になりましたね。
来年もよろしくお願いします。
返信する
Unknown (月のような者)
2019-12-31 23:54:24
「銀河鉄道の夜」は宮沢賢治の中では決して完成されてはいなかったと思います。現在の我々に提示されているのはあくまで賢治の「迷い」です。今も、そして未来にも彼以上に繊細でお人好しな人々が確実に存在することでしょう。彼らは最も苦しい、針のムシロの上で生きています。彼らと本当に向き合えるのはおそらく仏教だけです。君はしょせん俗物だと本当のことを言うのが慈悲というものです。どうせなら、苦しみから苦しみへ、それが宇宙の姿であると他人に言えるお人好しになってみたら、ということです。どれだけ有り難い言葉かをあなたなら理解できるはずだと。仏教の提案とはそういうものです。

今年もコメントさせていただきありがとうございました。来年は自分にとって特別な年にしたいなと思っています。それではよいお年を!
返信する
2019年ありがとうございました (のしてんてん)
2019-12-31 20:26:09
私にとって信頼できる人とは、桂蓮様です。
もちろんあなた様だけではありませんが、懸命に自分と向き合っている人が大好きで、つまり信じられる人という事になるのでしょうか。
逆に信頼できない人というのは、自分にかかわらないで正義を振りかざす人ですね。
そんな人には欺瞞を感じます。聖典にはこう書いている、哲人はこういっていると、己の学をひからかすだけで、自分はこう思うという意見を言わない人は、私には興味がなく、つまり信頼できない人という事です。
信頼という言葉で自分を振り返ってみると、実は最も信頼していないのは自分自身だという想いに至りました。
自分がいかに自分を正当付けして日々を送っていたのかが分かると、恰好ばかりを追っている自分のその恥ずかしい姿が成長の糧になるというのもまた面白い経験でした。
今回の記事はそんな思いを私の中に湧き立たせてくれました。
ありがとうございました。

良き新年をお迎えください。
返信する
Unknown (月のような者)
2019-12-30 23:40:28
私は仏教を選んだけど、「選んだ」という感覚はないですよ。答え合わせみたいな感覚で仏教に触れましたから。どれが本物でどれが偽物かは自然に分かりました。本物を本物ではないと言っている人はそれが本物であることを本当は知っているんです。でも自分の小市民的な世界観(過去の積み重ね)が崩壊することを恐れて目を逸らしているんです。そのような回避行動に意味があるのか?と疑問に思っても無駄です。世界観が崩れる恐怖は体がガタガタ震えて立っていることも難しくなる程なのです。新興宗教に嵌る人が晒されている不安感とは崖から押し出されるようなかなり切迫したものであることを忘れてはいけないのです。その崖から暗闇の底に飛ぶことが仏教を選ぶということです。私は自分自身を木刀で殴って「頭から行けこの野郎」と発破をかけたものです。宇宙自体が絶対に気付かないであろう疑問や不信が閃いてしまった以上、お前はどうごまかしても崖にいるのだと。仏教を選んで頭がおかしくなるのならそれはしょうがないという最終判断だったのです。
飛んでみてどうだったかというと、私は稀に見る幸せ者だったということです。この宇宙にはノッペラ坊も存在しないという事実を受け入れられる自分(比喩としての自分)を発見していました。心というコピー現象は「誰」ではありません。つまり我々は心の始まりにも終わりにもたどり着けません。涅槃寂滅という「理に適った本音、終わり」を別にすれば。宇宙も家の中も自分の体も表裏のない「現象」です。遠い銀河の真ん中に「本当の幸い」を想定する必要はありません。
返信する
Unknown (To-栄久さん)
2019-12-30 15:50:40
>礼儀なき宗教、カリスマなき宗教、教養なき宗教<
宗教の現代的弊害みたいだと
読みながら思いました。

20代の頃、この世で生きる上での
苦痛など抱えることができなかったから
宿命的な宗教があるだろうと
いろんな宗教に転々したことがあります。

極めて真剣だったから
洗礼とかも受けました。

私が宗教の檻に入らずに済んだのは
私が『ある宗教に入った後何が起こるか』を重視したからです。
彼らが約束する後世の幸せとか、
癒やしてくれる全知全能の神とか、
罪を許してくれる神とか、などなど
それらにはあまり興味が無かったでしたね。

ただ、私の気が許せる宗教に身を任せたかったのでしたが、
結局はどこにもそのような団体は無かったのでした。

今も坐禅さえ最後の安楽処だと思ってないのです。
宗教を持つには残っている時間がもう短くなりましたね。


栄久さんのいう宗教が誕生する前の意識の状態は、
恐らく太陽を全知全能だと思ってましたかね?
私も疑問に思い出しました。
返信する
Unknown (榮久)
2019-12-30 11:15:04
間に

人と人との「間」を意識する視点
人と人との間にあるもの・・・

個は個に対(つい)することによって個

「美しくある」美的であることが倫理的であると万葉集以来続いていた倫理観は明治期から徐々に薄れていったようだ

万物に生命が宿っていると、我もまたひとつの命、天地万物もそれぞれひとつの命、攻撃的な世界からの解放の基にとは儚い夢かも知れない。

礼儀なき宗教、カリスマなき宗教、教養なき宗教・・・歴史的な宗教といっても、たかだか二千五百年程、それ以前の状態の意識とは如何なるものであったのだろうか
と寒空の下落ち葉を掃きながら考えています。
返信する
Unknown (To-zipさん)
2019-12-30 10:01:47
本山のお風呂エピソードはどうも私とは関係がないかもです。

でも似たような経験をしていたので
お風呂にあんな数だけいけば
似たようなことが起きるのかあと思いました。

日本にいた時は
一週間に2~3回温泉に行ってました。
一旦行くと4~5時間、水風呂サウナ繰り返しして
すると、毎回会う人がいて
挨拶したりしてました。

ここに来る前に
温泉行かなくなるともう終わりだと思ってましたけど、
無ければ無いだけで、他の策がとれましたね。

私は人を私より汚れたと思ったことがあまりないです。
垢でコーティングされている人が銭湯にきたら
まあ、背中流しましょうか?と声かけるくらいかな。

ZIPさんが私へのメンバーだと思えた背景には
人種が異なる国で
一人孤独に生きるあの人が私にオバーラップして、
南師のあの時の単純な生活日常も
どこか通じていると思ったからでしょうんねえ。

まあ、あのエピソード場面は
まるで私が経験したかのように
全くイメージできますけどね。

ところで、昨日は
朝からボストンに行きました。
ボストンに韓国人がやっている歯科があって
地元のインプラント価格より半値なので
3時間かけて行っています。
設備も最先でスタッフと医者も親切で礼儀正しく
不愉快な思いも全くないので
夫もそこで治療を受ける予定です。

インプラントの予備段階で
昨日は穴を開けてねじを入れてくれました。
ドリルが回る音を聞きながら
バレエのクラスで習った振り付けを思い出したりしたから
まま、有益な時間にできましたね。

帰ってから、モールに2か所も回った疲労が一気にきて寝ちゃいました。
今日も眠くもないのに疲れて一日ちゅう寝てました。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-12-30 02:23:12
本山の記事は貴女へのメッセージですね。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-12-28 22:11:25
まさに『必ず何かと交換ができる』と思わせることがお金の作用というわけです。
この思わせる作用によって、思ってしまう、信じてしまう、その作用を受ける『人』が即ち、信じるに値しないものというわけです。
人によって作られた、メモ用紙にさえ使えないような紙切れに、見事に思い込まされ信じてしまうといった一連の関係性はまさに矛盾しているわけです。
この矛盾を可能にするものが『言葉』であることに間違いはないでしょう。
『言葉』の作用はお金と同じです。
返信する
Unknown (To-zipさん)
2019-12-28 17:19:43
お金は厄介ですよね。
お金から解放される有一な方法は、
それを十分に持つことだと思います。
十分に持つためには、
ある期間、確かな犠牲を払わなければ持つことができないです。
私の青春はそれを持つために犠牲にされました。
遊んだことも無く、只管勉強と仕事だけでしたね。

お金はもう大丈夫だと思えた時は
32才か31才の時でしたね。
お金の用意を全て済ませて
勉強だけに専念できました。

勉強が終わってからは
仕事だけの日々でしたね。

やりたい勉強を気が済むまでできたのは
お金を用意しておいたからです。
以後、お金に困ったことは無かったです。

私はお金に対して哲学的に捉えません。
それを持つためには引き換えに何かを犠牲しなければならない交換性のあるものだと思っています。

プライドまで犠牲にしなければならない厄介なものですが、
正直な性質もありますよね。

自分が作ったお金の量で家を3回現金で買えた時、
自分が払った犠牲の価値を実感しました。

私がお金に信用をおくのは
それは必ず何かを交換を要求するとのことです。

返信する
Unknown (ZIP)
2019-12-28 10:59:34
この世で信用してはならないものの一つとして
該当するものが『お金』でしょう。

お金は物事の複雑さを縮減すると共に、物事の単純さを逆に複雑にさせる働きを併せ持つものです。
それらの作用のによって人は右往左往することになるわけです。
お金には、それを使用することによってその人らしさといったものが現れたり、また消されたりもするわけです。

しかし、そのお金を使用できることに信頼を持たなければ、人は何を手掛かりに生きていけるのか分からなくなるわけです。
そういう意味で『人』は、信用できないものに信頼を寄せることができる矛盾律を内に秘めた複雑性を兼ね備えた、最も信用できない生き物であるというわけです。
返信する
Unknown (To-zipさん)
2019-12-28 03:49:37
Zipさんは人を納得させる説得力がありますね。
私が言いたかったことの背面まで視ているから
角度が広いですよね。
透視されてもそれでいいみたいな感じがします。

そうですね。
信頼は手間暇かかる手作業ですよね。

この記事を書いた理由は
8年か前にネット詐欺にあって
50万くらい詐欺師に払ってしまった恥ずかしい前歴があって
それが今になって記憶に鮮明に浮かんできたからです。

その時、人は金のために人を騙すと疑っていたら
或いは、今の記事に書いたような信頼の背景を知っていたら
きっと、最後の一歩で送金をキャンセルできたかもしれません。

誰か、信じるかどうか悩む人がいて
私の今回の記事を読んで
しかもこのコメント欄まできて
Zipさんのコメントも読んで
判断する視野が広がれば、
それで書いた涯があるでしょうね。

恥ずかしことだから隠し通したかったのですが、
言っても言わなくてもどっちみち不快な記憶なので
書いておくことにしました。
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Unknown (ZIP)
2019-12-28 02:31:34
行いの良し悪しというよりは、いかにもその人らしさが感じられるということが、ある意味において信用できることになるのではないかと思います。
善悪といった倫理的な行いというよりは、
『あの人だったらきっとそう思い、きっとそう言うに違いない、また、きっとそう振る舞うに違いない』という具合に、その人の複雑性がお互いに縮減できたならば、それが信じることのルーツに繋がるのではないかと思います。
二人のあいだの関係が、たまたま良好であるといった行為的な一側面よりも、その人を、その人たらしめている、その人の背後にある関わり方の方程式が理解できたなら、それがその人らしさとして信じるに値することになるわけです。

そういう意味で『信頼』は手間も時間もかかるわけです。
何もかもが品行方正で、隙さえ無い人に惹かれることは先ずあまり無いと思います。
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