Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

Dimensions of memories記憶の次元

2019-06-02 | 心理学習

過去の記憶は時間の経過によって変化していくようだ。

Memories do seem to change with the passage of time.

昔過ぎたことが新たな側面で表れる時がある。

At the moment an event occurs

it appears with a new side.


記憶は事実に基づいて、

当時の感情と結びつき、

記憶貯蔵庫にファイル化され保管される。

Depending on circumstances,

a memory tied up with emotions of the time

and it will be stored in the memory bank as files.

その記憶の貯蔵庫から記憶自体が

何かのきっかけで漏れだす時がある。

Sometimes the memory silently leaks from the memory storage

as something that triggers us.


意識を持って呼び戻された記憶とは違い、

意識を伴わないその記憶は

見る側の指定された視点を持たないため、

3次元的な性質を持つ。

Unlike consciously recalled memories,

it has three-dimensional properties

because it is not propagated with an only first-person perspective.  

 

一人の人の固有の視点を記憶を捉える視点として

1次元に置き換えて考えるなら、

相手、つまり他人の視点で記憶を見ることを

2次元に例えることができる。

If we consider one’s individual viewpoint of memory is as one-dimension,

seeing a memory with the opponent perspective

can be shifted as two-dimension.


そうすると、3次元というのは、

記憶の保有者(1次元)

関わった対象の他人(2次元)

それらの二つの構成要素が

一定の空間内に織り交ざっている状態を

3次元に取ることもできる。

The third dimension can be defined in a constant space

where those two components are interwoven,

with such the memory holder as one-dimension

and the involved opponent as two-dimension.  


その3次元の記憶は自分、

他分を基本要素にできたことが、

自動再生されていくような感じになる。

Such three-dimensional memory is can be played automatically

with the basic components of the self-role and others in it.

まるで、自分が映られている映像を

眺めるような感じになる。

It is like looking at a video in which

the memory holder is taking a role.


私だけの解釈や見方を持つ1次元的記憶は、

自分の眼が見える範囲のように視野が限られている。

The one-dimensional memory with a singular perspective

or interpretation is a limited visual field

just like the range of one’s own eyes.

人の視野は180度、

つまり全面、左右の90度角度までだ。

People’s all visible range is 180 degree

including both 90 degrees left and right.

なので、その180度以外の

背面の180度を見ることはできない。

Therefore, half of the ranges

are something people cannot see.


見えたことによる自分の感情だけが

記憶の全面像になる。

A memory becomes full face

only with emotion tied to the way we visualize it.  

相手の態度、相手に現れた感情解釈などと結びついて、

それら見えた映像が自分の感情に

再構成されていることは2次元記憶になる。

Two-dimensional memory is like

reconstructed interpretation

against one’s attitude to others

and others reflected emotions,

often appearing is knotted with our emotional response.

この2次元記憶も角度が180度を超えることができず、

見る側の1次元が相手に現れた1次元と

一方的な入力を持つだけなので、

記憶全面を見てはいない。

The two-dimensional memory of angle

cannot exceed more than 180 degrees 

and this one-dimension from the spectator

and the other opponent’s one-dimension

still only has one-way to input,

so they can’t perceive the entire memory.


それら1次元的な記憶、

2次元的な記憶は

その記憶を保有している所有者だけが再生したり、

しなかったりできる。

Those memories in one-dimension

or two-dimension can be recorded play or not,

but only by the owner who holds the memories.

しかし、自分、他分、ことの分の3つの側面をもつ3次元的な記憶は

ある記憶を上から眺めることになるので、

隠れていた背面も見ることができる。

However, three-dimensional memory

can see the hidden back side of memory

because it has three aspects that one-self,other-self, it-self

and with them can look on a certain memory from above.

自分だけの視角度の180度に、

残りの半分の180度が加わるので

見える角度が360度になる。

To the prospector’s angle of visibility of 180 degrees

will be added remaining angle of 180

so that the visual angle becomes 360 degrees.


ある記憶が全面、

全体を観察できるようになると、

1次元や2次元が持つ1人称観察者視点の限界を超えるようになる。

A memory observed on all sides

and entire shape can rise

beyond the limitation of the first-person observer’s viewpoint.

ある見方が3人称観察者視点になると、

感情の在りようも構成されている対象の一つになるので、

全体の部分になれる。

If a perspective begins to have third-person observer’s viewpoint,

the state of emotion will become one of the objects

that are constructed in parts to fit into a whole shape.


特定の感情が全体の部分になると、

特化された特異性の重さが無くなる。

When a particular emotion becomes part of the whole,

the weight of peculiarity that specialized can be lost.

その特定された記憶が重さを無くすと、

その記憶を飛ばすことができる。

If the specialized memory loses its heaviness,

then the memory can be lost.

重かった記憶が飛ばされると、

そこに余分の空間ができ、

新たな記憶が入れるようになる。

When the heavier memory is discharged,

there will be extra space to input a new memory.

その新たに空いた空地は3次元になるので、

入れられる記憶の容量も従って増える。

As the newly opened free space becomes three-dimensional,

the packable storage increases accordingly.


それら記憶を次元的に分類し観察する方法を

学習の記憶法向上に活かすことができる。

The method of categorizing dimensionally

and observing memories

can be used to improve our learning capacity.

つまり、人が過去から引きずった記憶が溜まった

記憶貯蔵庫を再整備することによって、

容量をリサイクルしていく方法である。

In other words, it is a way of recycling memory capacity

by restoring memory storage dragged from the past.


人の記憶力には天才や秀才を除き、

容量が決まっている。

Human memory capacity is limited

except for the genius or brilliant.

その決まった容量に

過去のエピソード記憶が大部分を占めているため、

想い出以外は使い道がない。

The storage is mostly occupied by episodic memories

which happened in the past,

and there is no usage other than for nostalgia.


しかし、エピソード記憶が占めている空間を空ければ、

記憶の容量を増やすことができる。

But if able to clear out space

where episode memories are stocked,

the capacity can be increased.


先ずは、使い道の無い過去の記憶を一度全て開けだし、

捨てるものは捨て、

飛ばすことは飛ばし、

放つべきものは感情から放てる作業を始めることによって、

自分の潜在能力の容量を増やせる。

For the first step,

open up all the useless past memories,

abandon which should be thrown out;

send away which you should let go,

let out which should be released from emotion;

starting with such operations

one’s potential capacity can increase.

過ぎた記憶は善でも悪でも変えることはできないが、

それらを自由に放つことは今、できる。

Past memories cannot be changed

whether they are good or bad,

but in the now you CAN let them go

and free yourself simultaneously.


過去の苦しい記憶に対し、

今に癒されることを待つより、

自分ができることである『放つ』ことで能動的になれる。

Instead of waiting to be healed

for the painful past memories,

one can learn to be active and let it go.

Everyone is capable to do so.

つまり、記憶を3次元化にして

映像のように再生し、

再生できたらそれらにまつわる感情を放てる。

To sum up, break down memories into three dimensions

and replay them like a video,

and when it is playing release emotions that attached to it.


もしかしたら、この3次元的な記憶の放ち方は、

坐禅を行う時に現れる雑念を『追わない』ことと

根本原理が類似いるかも知れない。

Perhaps, this three-dimensional memory release technique

may be similar to a Zen teaching:

“Do not chase distraction” of worldly thoughts

that appears when doing meditation.


新たなことを手に入れたければ、

必ず、既に持っているものを手放さないと

他を持つことができない。

If someone wants to get something new,

inevitably they must be emptied from what they already have;

otherwise, they can’t hold a new one.


新たな記憶を入れるためにも必ず、

既に占拠している古い記憶を手放さなければならない。

To input a memory also we must let go of old memories

that already have occupied the brain.


目の前に現れた雑念を拾わなければ、

それは浮かんできたように自然に消えていく。

If you don’t pick up the worldly thoughts that appeared in front of you,

it will disappear naturally as it floats away.  



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23 Comments

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Unknown (蓮(月さんへ))
2019-06-19 15:48:05
迷っている人が腐らないのは、発酵するからでしょうかね?
思考が発酵すると漬け物のように
善玉菌が増えて
栄養源が増して
食べると体によくなりますもんね。

腐ったものは悪い菌が生えて
毒が増えて
食べると命にかかりますもんね。

悟りに入った人が腐らないのは
真空状態になるから、でしょうかね?
食べ物をビニルに入れて
空気を完全に抜くと
菌が生えなくなり
腐らなくなるのですよね。

食べ物が腐る要因として
湿気、空気、光が届かない大まかに3つでしょうか。
その3つが揃って時間が経過すると
間違いなく、新鮮なものも
黒く腐敗して悪臭を放ちますよね。

腐る過程は醜いのですが、
腐り極まると無くなるのです。

質量保存の法則で
気体として空気中に留まるらしいですけどね。

腐る現象も奥深いですものね。
返信する
Unknown (月のような者)
2019-06-19 07:44:26
育てのお母さんにひどい目にあっても、それがいつの間にか風化していくというのは幸いな傾向ではないでしょうか。
はっきり言ってこの世界はあまりにも不幸に満ちています。安全地帯ではありません。そして善人も悪人も死にます。仏教とは、この世界をよく見ろということなのです。
善人。悪人。どっちも腐りますよ。それが良いものであれ、悪いものであれ、「手っ取り早い納得」を選んで迷いもしない人は腐っていきますよ。残酷な世界なんです。迷っている人間と、悟りに入った人間は腐らない。簡単なことですよ。坐禅や瞑想はあぐらで座るけど、心はあぐらをかいてはいけないんです。
水木しげるの「怪奇猫娘」が最高なのは(絵柄は簡単すぎるが)、人生というより「命」が描かれているからですよ。水木先生みたいにあまりにも奇々怪々な人間の生態を見て(押し付けられて)きた人はその境地に至るんですね。なにが「人生」だと。
命というバイブレーションとはなんと悲しく、しかし必然的に救いを想起させるものであるか。単に水木先生からのメッセージではなく、猫娘的な物語にまつわるもっと昔からの重要なメッセージをキャッチしている状態なんですよ。
返信する
Unknown (りひと)
2019-06-18 20:53:52
人の様子はとにかく観察するのが好きなので、そう暗さは確かに分かりますね。で分かりやすいってとてもいい事ですよね、それを感じて声かけたり出来る何かヘルプしてもらったりできます。元気の無さは、子供だと凄く気になりますよ。でアクションしてその対応で自分に何か出来る場合は少しチャレンジします。

ただ日本ってお節介とか人のうちの事とか線引いたり自分所は違うって無理する事多いんで、貧乏神も付いているのが分かりやすい方が変化しやすいように思いますね。子供の病気とかも大抵分かってしまうんで検査するのが早すぎたりもあるけど、お医者さんと大抵揉めても検査してもらっちゃいます。インフルエンザは日本ではそうであるなら学校へも通学は控えるようになってますので一般的症状が軽い場合でも時間を待って白黒付けるようにしています。
色々と気付くと気になる事も多いのでさじ加減は本当難しいです。ただ本人の為早くなら早めに伝えて相手の反応見守ります。時期やタイミングがとっても大事だと思いますので。気付かない方が楽な場合も多いので鈍感力もとっても大事に思いますね。

そうそう、それよりダンスの件ですけど日本では大学までは超真面目だったんで日本でもディスコも行った事なく踊るって事はした事なかったです。ちょっと上の世代はまさにバブルの世でしたので相当みんな行っていたでしょう。

でドイツでは同じ時期に行っていた友人でやはり現地の友人に誘われて行っていた子もいたようですよ。おまけに日本よりも普通にみんな行ってるように聞いていました。日本で育っているのと体験していなかったのでもしも誘われても行かないって行っていたでしょうね。

ただダンスの環境としては、ドイツでは面白かったのがビアホールです。日本でおじいちゃんおばあちゃんが仲良く踊ってるなんてあり得ない光景ですけど普通に大人が踊っています。また隣あった人同士で肩組んで揺れながら大きなジョッキを片手に踊ったり、またわけ分からないけど引っ張られて一緒に踊ったりして楽しかった記憶あります。踊りはとても大人には身近な物のように思いましたよ。

踊りが出るなら酔い方のように感じました。年配の方は本当可愛らしく素直に楽しんいるのが魅力でしたね。

日本もそうなるといいのに。
踊りって感情の素直な表現、それにより感情が晴れるというかうまくかわせる事ってありそうですね。
神社とかの祭りでもまた継承だけでなく大事な意味合いあるように思います。今舞いについてもかなり気になっています、得意な民族もいそうですよ。
返信する
Unknown (蓮の花(りひとさんへ))
2019-06-17 15:44:06
貧乏神がついた人は
兎に角、くら~い感じがします。
暗いんです。
目つきも暗いし、
表情も暗い、
言い方も暗いわ
態度も暗い、
歩き方も暗い、
行いも暗い。

その暗いのは黒色系ではなく、
汚くて重い感じの暗さなのです。

塾をやってた時に
周りで資金難で苦しむ人は
上記のような暗さがありましたね。

金持ち神がついている人には
その暗さが無かったので
まあ、貧乏神は暗い人が好きでついてしまうんでしょうね。

暗い人は肌の色が黒いとかの感じでなく、
むしろ肌が白く蒼白な人が多かった感じがします。

貧乏神がついている人に会うと
その暗い気が移って
私も結構へっこんでましたね。

その時は、一人で
90年代のDISCO音楽を掛けて
気違いのようなダンスを踊りまぐりましたね。

そういえば、最近はそのダンスをしていないな、
話しながら、それに気が付きました。

ドイツにいた時、ダンスに出かけたことあります?
返信する
Unknown (りひと)
2019-06-17 15:08:03
本当温かい、ありがとうございます。
川越、地図みてみますね。最近大塚も結構行きますよ。

そうそう貧乏神って確かに見えるかも?
今本当困ってるのが、子供に貧乏神つかないようにと。日本は家から出ないんです、成人しても。なのでドイツでもびっくりしたんで見習って成人するかきちんと仕事をするようになったら独立して少し親のありがたみに気付く機会作らないといけないと思ってます。
なんせ夫婦二人でも2,000万円足りないなら貧乏神次第でもっと足りないはずですので。

個人的に人の縁はとても偉大だと思っています。温かく見守って頂き感謝しています。そう最新記事で記念の日数達成なのですね!おめでとうございます。

コツコツ出来る方って本当尊敬です!
益々のご活躍応援しております。
返信する
Unknown (蓮(月のような者さんへ))
2019-06-17 08:46:19
そういえば、悪い奴(女)、と言える人が身近にいましたね。
私の生後から18才まで
ありとあらゆる生地獄を味わせてくれた継母

自立できるようになってからは
あの悪質から解放されましたが、
幼児期から虐待を超えるほどの虐めを受けましたね。

けれど彼女は極めて幸せに生きた人で、
彼女の二人の異母兄弟にとっては
彼女は無くてはならない大切な母親なわけです。

今も生きているかどうか分かりませんが、
私の姉と私には汚い悪女でしかなりません。

彼女に効いた仏教思想は
自分の子には慈愛を
他人の子は勝手に生きろ、ですかね。

でも、あんなに汚い悪女だったのに、
何故か、今になって
彼女が作ってくれたキムチが食べたくなって
びっくり仰天したことがあります。

悪女も善女も
死ぬことは変わらないのかな。
生き残った人の感情だけが異なるでしょうね。

何故か、月さんの文から
彼女への記憶がよみがえました。
別に思い出して今は何ともないのですが、
言いたいのは、あんなに嫌った感情も
年と共に褪せていく場合もあるね、ということかな。



返信する
Unknown (月のような者)
2019-06-15 21:59:43
大したことがない記憶は相対化するのが賢いですが、破壊力の大きい記憶はどうせ一生消えないと思いますよ。明らかに悪質なことをやれば一生その記憶から逃げられずに後悔するか、自分を正当化してバカとして生きるか、どちらかしか選択肢がないと思います。
あれは悪い奴なのに罰が当たらないのはなぜだ、とよく言っていますが、他人から見ればもう暗い人生を歩いているじゃないですか。綱渡りに突入しちゃっているよと。途中で落っこちなくても、死ぬ時は完全に自分をごまかせなくなって一番悲惨なことになりますし。そこに明るいビジョンはなにもないと。
自分が大打撃を受けた場合はそれこそ仏教が助けになります。この世界は無責任でバカで野蛮な摂理で、人間はだんだん干からびて死んでいくだけという事実をまず見なさいということです。我々の最大の不幸は生まれた時から、いや生まれる前から「幸せ病」に取り憑かれていることだよと。打撃を受けたあなたはその病から離脱するきっかけを得たのだ、という理屈が成り立つのです。「汚れ必至の幸せ」に依存しない境地を見据える道に歩みを切り換えることが自分と他者への最大の誠意ともなることを君は看破できるかと。それは死ぬ時も明らかな境涯の違いとなって現れるのだと。
じゃあ自分の子供を赤ん坊の時から殴って育てればいいのか、というのはただのバカな話です。そんなものはどうせ幸せ病の歪んだ症例に過ぎないのです。まともな人間こそが高くまで飛ぶのであり、殴られて育ってもまともな人間はまともだけど、良心的な育児こそが最も良質な人間を形成する方法であると判断されるのは当たり前のことなのです。余計なことは考えなくていいのです。
完全に客観的な視点は成り立ちません。それは人間の視点ではないのです。だからといって悪事を正当化できないのは先に書いた通りです。正当化に取り憑かれ結局主観に溺れて視野狭窄になり、しかし正当化しきれないことにやがて気付くので、地獄から突き上げを喰らうというビジョンしか見えなくなって死にます。
基本的に人間は相対的な世界でゆらゆら生きているカゲロウみたいな存在です。明治時代の人々の映像を見るのは好きだけど、あくまでこれは懐かしくもなんともない、ヘドロの川と変わらないという認識も持っています。
返信する
Unknown (桂蓮(りひとさんへ))
2019-06-14 13:42:54
川越では南大塚駅の北口近くに住んでいました。
一駅先が終点の本川越駅でしたね。
そういえば、川越に20年くらい住んでましたね。
所沢に4年、東京の大塚あたりで何年か住んで、

私は日本の神社について
建築物の美しさに惹かれますが、
神的な超自然的な現象には疎しいです。

というか、神を感じたことが無かったでしたね。
鈍感でしょうね。
神社に行っても、建築の美しか見ないので、
お化けや祟りなどには関心が無かったです。

ですが、偶に
貧乏神がついた人を見かけましたね。
お金持ち神がついている人も見ましたし、
そういう世欲的なことには敏感でしたから
私も骨まで現実的な人でしょうね。

住まいに関しては、私に知らせなど気に掛けないでくださいね。
個人情報をどうかしたいわけではないので、
只のどこのあたりでいるのかなみたいな程度ですかね。



返信する
Unknown (りひと)
2019-06-12 15:04:51
ご紹介のテストやってみたらそう出来なかったです。
でも質問がまた面白かったですよ、迷う所も選ぶのがないと思うところもあっていい勉強になりました。

グランピー調べてみますね。森林あってヨーロッパって多分私も好きなので足が動くうちに今から旅行計画してみます。ドイツ人みたいにお散歩が趣味って言えるような環境にいつか住むつもりでいます。で私の方ですけど、今日本は正念場なので個人的にはすぐにでもお知らせしたいのですが。もう少しお待ち下さいね。地元の神様ともどうも反りが合わずなのでそこが解消されたら日本のことはおいておいてお知らせ出来るとも思っています。

特に好きなのが今は千代田区です、住んでいないんですけどね。それから川越と聞いて6/7〜ずっと気になっていまして気になる神社も意識していたんですよ。
でそれもかなり相性悪い神社として意識していた所が思い浮かんでたんですけど蓮の花さんが住んでいたならちょっと心開いてみようかと、チャレンジしてみたんですよ。そしたらとってもなんか通じましてそこからまた連動する神社にも無事に行けて携帯も電源なくなって調子悪かったんですけど見事うまくいってしまいました。そんなんでまた川越調べたら結構縁ありそうな方が関わるようなのと、現世でも川越さんにはとてもお世話になっているなあと実感した所です。
そんなんで川越は夏休みにでも行ってみたいと思ってます。特に江戸時代はとても重要な場所だったと思うんですけど、個人的にはもっと古い古代からなにかあると思うんですよね。またそれがきっと千代田区や私の今住んでいる所と関係してくるんだろうなあと深読みしています。地形的要因がありそうですね。

何事も人からのたわいもない話の中での情報って本から頂く情報以上に私には重要です、私には。
なので信用出来る方の言葉には宝がいっぱいあるんです。本当にありがとうございます。

自分が今存在している事、過去の記憶にもきっと新しい情報が入って来てくれる事でキラキラと見えてくるかもしれません。ありがとうございます。

バレエでくたくたって本当素敵です。集中していないと出来ない自分の生を感じれる機会でしょうね。
今私は膝がおかしいので今まで普通の事が出来なくなってきているのでその凄さって本当素敵に思いますよ。治る事はないのならやっている方を応援して感情移入する事で楽しめます。今後もいい先生とバレエとのお付き合い楽しんで下さいね。

川越は以前大変助けられた方の件で気になっていましたが再度急上昇、今とってもいいタイミングでのヒントになりそうですよ。ありがとうございます。
返信する
Unknown (明晰)
2019-06-12 04:04:56
透視

人の物質体系から透かして見えたもの
それは気の魂である。

その気の魂は物質量を持つのだろうか?

エレクトロンのみで構成されているなら
納得のいく説明ができる。

人は知識のフィルターを通して
思考を結晶化する。

雪の結晶が全部異なるように
思考の結晶も全部異なる。

明晰とは
思考の結晶が透き通っていて
物質を貫き、
思考フィルターで分解されない明を指す。

栄久さんにその明りの晰をみる。
返信する
素晴らしいです (のしてんてん)
2019-06-09 10:00:42
記憶を放つというイメージはよく分かります。
自分なりのですが、過去のトラウマは、きっとその記憶に対して、自分では見えなかった記憶を補てん出来れば、自然に消えていくという事なんだと思いました。

戦争もそれぞれの視野からの記憶のぶつかり合いと考えれば、その記憶の融合こそ、平和への道筋があるという事でしょうね。単なる分捕り合いでなければの話しですが。

記憶は、体験と考え方(概念)の産物だと考えれば、360度の視野を持つ概念は空(間)に行き着くのではないかと思えます。

禅の境地なのかもしれませんね。
返信する
Unknown (榮久)
2019-06-08 07:57:26
透視

いまここに
「居る」という端的にして
目をそむけ得ない事実を
そのまま
不思議と問い始めるならば
次々と展かれゆく不可解なことどもに
しばし茫然自失するだろう。

何故
考えられるのか
何を
考えているのか

倦まず狂わず絶え間なく
考え続けて根源の
一へと至り行ったとき
意識に与えられる
あらゆる事象は
自身の新たな認識の糧となる

せめひしぎ合っている諸現象の背後に
それらがそこから派生し来たった
ところの統一的な一を
再び透視し得るのだ

一即多即一とはまやかしではない
明晰の極みである。
返信する
Unknown (飛翔)
2019-06-08 03:13:54
考えを見ることは瞬間ではあるが、
視覚化できる。

座って、
可動領域を最小限しした時、
エネルギーの流れが
動けるところに集中する。

そのエネルギーは
ただの動きに過ぎない。

それを雑念の気流と言うのであれば、
その雑念は
気体のようなものであろう。

気体は拡散する性質がある。
拡散を防ぐことがなければ、
拡散し続けることができる。

それが無字

気体は拡散している時は
視覚に現れるが、
拡散運動が広がれば、
眼に見えなくなる。

考えもいずれ
眼には見えなくなる。

返信する
飛翔 (榮久)
2019-06-07 23:01:36
考えられることしか
考えられないという
この論理
この思考形式を不自由と感じるとき
考えられないことをも
考えてしまったかのように
見えないものをも
見てしまったかのように
そこに表象し得るのは
おそらく詩学のみだろう。

ミシンとコウモリ傘が
手術台の上で出会うことも
そこにおいては
確かにリアルで全てが可能だ

それを敢えて「自由」と
名付けるならば
それ以上の自由はなく
あらゆるヴァリエーションの
上空を意識は軽々と飛翔し
言葉と言葉の支配で
その花園に百花を繚乱させるだろう

ただし
とは言え表象し得るもののみを
意識は表象しているのだと
そのとき醒めることさえなければ。
返信する
Unknown (桂蓮(補足))
2019-06-07 04:58:45
すみません、上記に添付したサイトですが、
コメントを投稿してから
トライしてみたのですが、
設問に答えて、最後の時にエラーがでました。
時間の無駄サイトでした。
手数かけてすみませんが、そこにリンクしないようお願いします。
返信する
Unknown (To-りひと(桂蓮))
2019-06-07 04:46:15
ミックスですか、そうかもですね。
男性脳、女性脳を調べるテストがありますよ。
興味本位にデザインされたテストですが、
傾向を知るにはいいかもです。

http://ex.senmasa.com/brain/
参考までに

以前、結構そのような性格診断テストやってみました。
私の場合は男子55%、女子45%で
常に男子優位の結果でしたね。
色んなテストを受けたから
平均的にみて、
りひとさんももしかしたら、
男子優位タイプかもですね。

昨日は、バレエのレッスンでへとへとでしたんで、
ブログ開けず、寝ちゃいました。

ところでりひとさんはどこのお住まいですか?
ここはNYから3時間離れているコネチカット州の
グランビ―市です。

グランビ―は州全体がヨロッパ風で
とても伝統的な国です。
どこも森林に囲まれて、
美しい街並みで、この季節になると、
ドライブに最適なのです。

日本に住んでた時は
埼玉県の川越市に住んでました。
返信する
Unknown (りひと)
2019-06-05 22:35:06
なんかそこが大事に思うんですよね。
日本は特に女だから男だからで全て線が引かれていました。けどいざオープンになると大学のサークル女友達(先輩も後輩も含め)総合職だと男より断然負担が多いんです。もちろん結婚出産でやめてしまっているようですから本当凄い優秀でも環境が合わなかったようです。
あとそもそも対等の職種ですから男性からの妬みもあるんじゃないかな?これは自分が入った会社からでも想像出来ますね。その後は地域総合職など条件を変えているような事もやってはいますね。

そこで大事なのは男だから男っぽいでは分からない事は男だけど女っぽい方なら分かるはずで、女だから女っぽいから分からない事は女だけど男っぽいならお互いの考え方や違いが分かるはずなんです。両方分かるミックスですから。

そうそう私AB型の人も好きなんです、物事によって極端に違ったりするので。

日本での生活等を味わっている方がきっと日本の良さも悪さも指摘出来る役割が出てくると思うんですよね。
ある意味ミックス。

何事も決めつけないでただただ色んな方の意見が聞けるといい事いっぱいあるんではないかな?

男としての理想も男っぽい方と女っぽい方では違うと思いますよね。なので適性も男女で決めるのもおかしいです。

日本では医学部の問題でも窓口から違うと大変な損失になりのちには医学の劣化になる可能性もありますよね。

そう思うとミックスは、きっと何かいい知恵を見出せる可能性ありそうに思いますよ。
道元様も期待してくれてると思いますよ。
今後もよろしくお願いいたします。
返信する
Unknown (桂蓮(りひとさんへ))
2019-06-05 09:34:59
なんと!
びっくり、(;゚Д゚)

私も男子脳の男勝る人ですが、
りひとさんは遺伝子レベルの男子系ですね。

私は女子中高、女子短大、女子大出身で
女子からあにき体質だと言われてきて
女子からかっこいいなど言われて、
男からも男らしい女だと、
女の気がしないと、

それなのに、りひとさんには一本取られましたね。
まいりました。

ところで、私も女子付き合いが苦手で
常に、兄貴になってしまうから
女子との関係は希薄なのです。
私より、男子系が強くないと
私が付き合えないので、
その強気、男子系のりひとさんが
とても魅力的に見えますね。

私は男を奴隷にまで使って
必要無くなったらポイする悪極まる面もありますが、
それでも訴えられた(?)ことは無かったです。ひひひ


まあ、りひとさんと友達になれそうですね。
私と同質みたいだし、

今までは男だと思って
気を使ったのでしたが、
もう、似た者同士、素でいきましょう。
返信する
Unknown (りひと)
2019-06-05 07:49:36
ふふふ、そうですよ。
けど男気質。女に生まれちゃって多分困ってるんでしょうね。女性同士のお話もそもそも解決目指していないお互いの聞いて聞いてが苦手です。意味ないじゃん。何か解決法探して動いた方がいいのにって助言するとそんなつもりじゃあってなる。

男性だったらとっくにもういないと思います。女性で生まれたので少し長く生きれてるのでしょうからありがたく人生を楽しんでいます。

適性に合わない子育てと家事、けど今世は楽しんで生きてみようと。今後もよろしくお願いいたします。
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Unknown (急遽(りひとさんへ))
2019-06-05 06:54:50
もしかして、
りひとさんは母?っていうことは女性?
マジですか?

文体からみてずっと男子だと思ってましたので、
上記の文からだと
母親?ですが?
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Unknown (りひと)
2019-06-05 00:23:21
日本では今過保護な親の問題と自己肯定感の無い子供の問題にやっと気付いたようですよ。
日本の子供達が伸びない理由と若者が育たない理由、そして子供がいつまで経っても親や権力者の傘の中にいる事を自由がなくてもったいないとも思っていない事でいつまでも達成感なく依存している事をお互い両者が気付いてしまったようですね。

親としたらいつまでも子供ですし、子供としたら力がなくなっても親なんですけどね。ありのままでその時々の相手の具合で判断して素直にただ対処するだけなはずです。

日本はそれが出来ないようですよね、ずっと同じ関係を望むというかそれが安心なんでしょうね。

本来男の子も小さいうちは父が怖くて逆らえずで、ある時体も力も大きくなり逆転してお互いがその変化を実感出来ていたはずなんです。ただそれがどうも父はどんなに衰えても自分に自信持ちたい力じゃないものも使い勝ちに執着し、息子は絶対の父を目指すどころかそれを維持する事で楽なんだと思います。

でもね、長い視点で考えるとそのままのわけがない。
高齢ドライバーの事故もそう、身体の変化と加齢は人間の定め潔く祓わないといけないはず。自分でね。

組織で定年長くするって方針ももっと悪化させる事想像しないのか?絶対の上が変わらないとその時代やその年代の人間に合わせた物は生まれないから時代遅れの法律もそのまま。就職氷河期の年代の積極雇用なんてまたびっくりしちゃいますよ。だってその上がバブル世代の先輩たちその先が絶対的で潔く下の成長の為の祓えない椅子にしがみついた方ばかり。今は働いていけないですよ、身体のためにも。
それぞれみんな自分で考えて行動すべきで、人や年齢や前例に合わせる必要なしですよね。外国じゃびっくりしちゃうんじゃないかな?欲しい人財は年齢じゃなく仕事ぶりで会社ごと延長決めればいいし、それをみんなで合わせるのも職種にも違いあるし、タクシーの運転主の定年を上げるように線を引くなら手間がかからない楽なだけですよね。

子供もそう、ひきこもの理由もいじめの理由もそれぞれ違うのに同じように評価するのもその子本人も相当辛い事なはずです。

日本のおかしさってそろそろ気付いてきたんでしょうね。

同じ事をしたら若い方でも貢献度大きい方でも子供でも同じ対応で良いはずです。子供だからと甘やかし、権力あるからいいなりでならいつまで経っても変わらないでしょう。子供でも赤ちゃんでも同じ事をやったら同じ対応をしていたらいいと思います。

自分の子だから怒らないで他の子だから怒る人おおいんですよね。その子への愛情って長い目でみたらどっちが愛情あるんでしょうか?ね。
自分の子を怒ってくれたらありがたい、って思えるといいのに。それは出来ないにしても理想は同じ行動で同じ対応がベスト。審判も警察も相手みないで判断出来るようになるといいですね!

これもきっと感情のある同じ領域の中でみたら出来ない事で、一旦自分の感情を置いておいて遠ざけ俯瞰でみるとその先の未来を考えての行動も理解できてくるのでしょうね。

我が子は多分冷たい親だと思ってますよ、なのでいつ出されるか?いつ母一人で好きな事するっていなくなるか?びくびくしていると思いますよ、きっと。
親子だけど感情どうこうではなく、同じ人間として子供だとも思わず接してます。その子によりその気持ちの入り方は違う風に感じているとも思いますし、性格的だけでなく素材としての相性もそれぞれあるので均一にはならずだと思います。
ただ戻ってきたらありのまま受け入れる、少なくても自分が産んだので。立派でもボロボロでも慕ってきたら何か出来る事はしたいですよね、他の子供でもね。

基本子供は素直で変化起こり易いので好きですし、トラブルや思うようにならない事を攻略するのも楽しいんですよね。

今世は子育てしようと生きてますけど、冷たい母で好きな事してやらなきゃいけない事しかやらないのできっと子供が自分でやらねばと自覚するしかない状況ですね。

父が天国から見てたらおまえはどうしようもない奴だって怒ってるとは思いますよ。そのビクビクも適度にきいてるはずです。ただ現世で同じ次元で見ていた景色とは今は違う私の頭の中の思考や想定も理解してくれたら娘の過去の評価も少し変わってきて新しい評価を入れてくれる容量も出来ると思います。追善供養して評価変えて貰おうとしているのかもしれませんね。
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Unknown (桂蓮(りひとさんへ))
2019-06-04 12:45:59
書きながら、読み手はきっと難しく受け取るだろうなあと思ってましたので、
りひとさんの分かり易いという文は私を励ましてくれました。
激励のことばを頂いた感じで、少し安堵感を持てました。
ありがとうございます。

このアイデアは編み物をしている時に浮かびました。
編み物は中学の家庭時間で課題としてやっただけでしたが、
先月、買い物に行った際に、
ふっと、マフラーを編んでみようと思い立ったのでした。

編み物をしていると、
過去の記憶が浮かんでは消えて、
また現れ、その記憶に伴い、感情も変化したので、
結構、その現象に考え込んでしまったのです。

私はある記憶に長年、苦しまれてきて、
カウンセラーに打ち明けたこともありましたが、
それがどうもならなかったでした。
他にもアドバイスを求めて
できることはしてみたのでしたが、
根っこまで取り除けるような影響力はなかったです。

ですが、記憶そのものを
全体像として捉えてみたら、
案外、感情を切り離すことができたので、
驚きましたね。

その感じを書いてみたのでしたが、
りひとさんが共感して下さって、
書いた涯がありますね。

りひとさんは父の責任感が一倍強い方かなと思います。
きっとお子様はりひとさんを信じて頼っているのでしょうね。
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Unknown (りひと)
2019-06-03 14:32:22
凄い!とっても分かり易いですし、未来への希望も感じます。でとても大事なのは、これが出来るのは本人のみです。他の誰か手を貸してくれても出来るものではなく自分だから出来る事。

この前映画観て思ったのが、一人の人間が体験するのは一つの側面のみだけど映画では両方がそれぞれその当事者を主人公に両方を観せられた気がしたんです。それで相対する者のそれぞれの想いが見えて敵味方ではなく同じ人間としての想いが湧いてきました。どんな事があっても闘ってはいけない事を。同じ人間、それぞれの立場はありますが、お互いを傷付けてはいけない事を。それは人間の普遍的な感情でもあるはずと信じたいですね。日本は両方味わっているだけに出来る役目もあるはずです。

また物理的な場所でもそんな凄い事が起こっている場面と全く呑気に日常を普通に過ごしている場所の対比も自分がその中にいたら両方は見えないのだとも。

記憶という側面ではその通り自分の想いが全面にあってあたりまえ。以前親子関係でお話した方との話でも親と子の視点は絶対的に違う。なので子供が大人になってももちろんそれを引きずるんです。けど同じくらいの年齢になると理解する事もきっとあるはず、そのちょっとした理解の出来た容量を捨ててその分の容量を違う所に活かせたらいいですね。それを続けていたらもしかしたら思い出の色合いが変わるはずですね。

何が大事かと言えばきっと一番対角の意見や到底受け入れられないと思うような事だと思っても聞いて見る耳や姿勢があると自分に変化が起こる可能性は、一番あるように思います。

古代史もどうしてこんな表現をしているんだろう?と疑問に思っていた事もそれを知る事で書き手の想いも感じると実は書き手と対角の想いもしれますし、またそれを両方並べて俯瞰的にもみれます。で実際どっちか選ぶのは両方を並べてから人間として命を大事にする立場としていい判断が出来るのかな?と思いましたよ。

もちろん自分のエゴや甘さや失敗もいっぱい出てくるとは思いますが、それが分かってから反省し行動する事を改める事が出来るのは人間だけだと思います。

そう思うと自分の感情もまずフラットにしないと相手の意見を聞くことも出来ないはず。ただそれが出来ると自分の祓いも出来るようになるように思います。

痛みをずっと抱えている方がこんな素敵な記事をみて、少しずつでも変化が起こるといいですね。

日本の神の世界では、これを少し目指しています。全く受け入れられないくらい酷い目にあった神がいたらやってしまった方から少しずつ違う側面を見せて少しずつ変化が記憶の容量の一部に変化が起こるといいなあと思います。神そのもの自浄変化が起こるといいなあと。人間が格一的にどの時代も同じ人間の考えではない事を神が感じて頂けると助かります。

自分の目では見えない側面がある事それをみんなが感じていると他人を受け容れられる側面も出てくるはずです。

父とは多分現世では出来なかったので同じ次元では出来にくいはずです。なので同じ次元のうちに出来たらもっと親子誤解なく過ごせたはずです。その後悔もあるんですよね。

日本の神さまも、この記事みてくれると嬉しいですよ。
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