Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

通訳者への道のりMy itinerary to become an interpreter

2020-01-09 | 日記

このブログは通訳者になるための土台で畑でもある。

This blog is for my groundwork and a field of my specialty

to become an interpreter.

2年半前に通訳者になろうと決めてから、

毎日実力をつけるための演習をしている。

Since I decided to become an interpreter two and a half years ago,

I have been practicing every day to improve my capability.


だが、やればやるほどもっと練習したくなり、

通訳を本業にできるまでの実力は永遠に持てない気になる。

However, the more I do it, the more I desire to practice,

and it has let me feel that I will never be capable of skillful

to be an interpreter as my future job.


練習や演習を只管するのは気楽で、

なんの危機感も無ければ、

戦う対象も無知だけなのでストレスが無い。

It is easy for me to do practice or my own ways of practicum

but there neither sense of crisis nor stress

because the target to fight is merely illiterate of mine.


安楽だが、人との約束を遂行できないでいる後ろめたさが心をチクチク刺す。

It is also carefree for me

but the incapability of carrying out promises with others

became qualms and it pierces my mind.


しかし、毎日チクチク刺されるとそれに慣れてしまい、

痛みに鈍感になる。

But if the stabbing pricks every day,

it makes insensitive to pain and gets used to it.


鈍感になるとそれに気楽に耐えるようになるから、

さらに怠けてしまう。

Once became insensible

it makes endure with easy, so lazier to become.


その生ぬるい鈍感の温度に慣れると、

刺激など必要なくなって

更に安楽な練習の悪循環にはまってしまう。

When getting used to the tepid temperature of the insensible,

the stimulus is not invited any more and

gets into a vicious cycle of practicing with no care.


つまり、私は堕落しているのだ。

In short, I am being degradation.


けれど、一旦、堕落し始めると

最低点まで落ちてみない限り、

自分が落ちてきたのかどうかが分からない。

However, once the depravity began

there is no clue whether you degraded or not

unless you fall to the lowest bottom.


とにかく、加速しているから

底辺に加速しているのか、

平面で加速しているかが分からない。

Anyway, when the accelerating is ongoing,

it is not clear where the accelerating towards

the bottom or on the plat.


なぜなら、何かに向かっている時は、

遠くで光る灯りだけが頼りで周りは暗黒だからだ。

Because when you are heading somewhere,

you can rely on a light only

which shines in the distance and

finding yourself surrounded in the dark.


堕落は楽だ。

Degradation is easy.


向上はきつい。

Rising is tough.


平面は安心感が持てる。

Plat makes feel security.


少なくても、私はまだ向上していない。

At least, I haven’t raised yet.


なぜなら、私の演習はきつくないからだ。

Because the practicing I have been doing is not tough.


私はまだ底辺に到達していない。

I have not yet reached the bottom.


だけど、もうすぐ着くと分かってきた。

But I became to sense I will be soon there.


空気抵抗が薄くなって、

もう随分落ちてきたからそろそろなのかなと…

The air resistance has become reduced and

I have been falling for a while

so I guess it would about the time…







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17 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (月さんへ)
2020-02-03 23:36:07
月さんのその画家の分析を読むと納得させられるものがありますね。
偉大な芸術家は時代を先駆ける先見性があって
時代の流れを感じさせないのがありますよね。

この前、図書館の古本セールで
ピカソの本を買いまして、
家で読んでみたら
彼の単純な線はどの精密画よりも正確だったから
びっくり仰天したことがあります。

一画の線に全ての線が凝縮されていて
無駄な線は全て省略されていたのです。

ルソーの絵にも単純化されている顔の表情に
人類のさだめみたいな
乗り越えられない人間の限界なものが凝縮されているような気がします。

月さんの読みも結構私と似通っている部分がありますが、
私なら面倒で見逃すところを
月さんは細かく見ているのですね。

ところで、この頃鬱気味がまだ再発されたようで
あまりブログ更新もしないで
怠けてばかりでいます。
鬱の時は月さんの何かを探る見方が力になってくるから不思議ですね。
返信する
Unknown (月のような者)
2020-02-01 23:41:08
ルソー本人の写真を見ていると怖くなる時があるんです。結局この人も19世紀から20世紀にかけての悲惨で凄まじいヨーロッパ人の一人なんだなと。サイボーグみたいな悲劇性が見えるんですね。ルソーが死んだのは1910年だけど、この人の絵にはその後の第一次世界大戦の惨禍の予感が映ってますよね。ルソー風の絵を描く人とルソー本人を隔絶させている要素の一つがそれだと思います。ヒトラーの絵にはヨーロッパの破壊が映り、ルソーの絵にはヨーロッパの憂愁が映る。正直この二人は似てると思いますよ。方向性はなにもかも反対だけど、近代ヨーロッパの根源を体現しているという意味では似ています。
近代的な戦争はあらゆる理屈を吹き飛ばします。本物のゼロ戦を見ると、ドン引きするぐらい大きいです。あれが撃墜されて住宅街に落ちるだけでもとんでもないことになりますし、あのごつい機銃で撃たれれば体が千切れるなんてものではありません。近代戦のエネルギーの大きさを推し量ることができます。ルソーは戦争が嫌いでした。戦場経験はないけど間接的に戦争の現実は知っていたと思われます。ヒトラーは戦争中毒です。第一次世界大戦の戦場で巨大ハンマーで叩かれ続けて、あろうことか戦争の虜になったのです。でもそれは弱さゆえなのです。なにがつらいって、ヒトラーのような悪魔が生まれた原因もまた「ごくありふれた人間の弱さ」であることです。そういった理由しか見つからない。あくまでヒトラーもルソーも残酷な近代の鉄片に映った「悲劇のヨーロッパ人」なのです。人間が直面してきた「砲弾の威力」とはたやすく人の一生を規定させてしまいかねない有無を言わさぬパワーそのものです。ルソーの絵の奥には地鳴りが響いているんですね。同時に近代と対峙するルソーの正体不明の本能の姿もそこに存在するのです。
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Unknown (月のような者)
2020-01-28 08:39:22
山下清にもルソーにも生き様と呼べるほどのものはないんですよ。ルソーなんかはあくまで凡百の俗物なんです。承認欲求が強くて権威主義的で死ぬまで恋愛依存的で自分の子供には嫌悪されていました。知性にも疑問符が付きます。はっきり言ってろくに芸術を語ることもできなかったし自分の絵がどのように良いのかすら批評的に理解することもできなかったと思います。にも関わらず完成された自分の絵の価値の大きさは直感的に知っていたのです。偶然確立された自分の方法論に聖性を付与していた気配すら感じるのです。そしてそれはある意味で正しかったのです。常識的な見地から判断すればなにもかもズレているその方法論は、しかし正しく達人技の佇まいなのです。それはルソーに極めてエキサイティングでスリリングで、そして聖なる時間を与え続けていたと思われます。そう、ルソーや山下清の作品の誕生過程には極めてストレートな「善」が仮託されていたのです。座頭市の孤独な(暗闇の)居合抜きの瞬間に仮託されていく善…切っ先に乗っている世界…の如く。彼らほど「自分の絵しか描けない」画家はいないけど、最も無駄のない意味のある人生を生きた効率的な画家だったとも言えるわけです。私はルソーの(なんらかの力による)善の希求に親しみの思いを認めざるを得ないのです。彼は感動的な裸の王様なのです。

人間は一人で生まれて一人で死にまーす。早めに仏教を知った私は最も楽ができる幸せ者、とだけ言っておきますか…(笑)
返信する
Unknown (月さんへ)
2020-01-26 16:21:33
山下清さんとアンリ・ルソーの絵はGoogleってみました。

二人は違う画風ですが、輪郭を明確に描く技法は通じているところがありますね。
その画風から勇気をもらっていることは
絵そのものより、その二人が生きた生きざまからですかね。
二人は美を捉える視点が売れっ子の画家と違って、
自らの信念を貫いた感じがします。

そのような信念や覚悟が月さんの生きざまとリンクしているかも知れません。

今回のコメントから、
以前に恐山ブログで散々ダメ出しされた理由が分かったような気がしました。
知識を自慢する人達には月さんの生き方が理解できないかも知れません。
知識の枠から柄破りしようとする試みは私と根本的に似ているかなと、勝手に通訳しましたけどね。

月さんの行く道は険しいですね。
一人でしかいけない道でしょうけど、
遠くでですが、応援しています。
返信する
Unknown (月のような者)
2020-01-24 23:48:34
私は文学という道具で仏教を翻訳するつもりです。俺は仏教文学の人間だぞと。すぐに風雪に晒される私のヘボレベルの仏教に多少の自負心があるようです(笑)普段は面倒くさいことは適当なことを言って誤魔化すし酒も飲めるし、しかも日本で生きているなら仕方ないと正当化しているぐらいですから程度が知れるというものですが。本当の仏教や悟りの基準は厳しいものです。
人間は何が怖いってそれこそ平常心を失うから怖いわけです。平常心を失わせる原因はやはり執着というものですね。私が精神的な危機にまで陥ったのは生来の自己執着の強さゆえですよ。社会が成り立つのも執着ゆえだけど放っておけばぐらぐら揺れて落っこちるのが人間だとも言えるわけです。落ちれば自殺したくなるほど耐え難い怖い領域があるわけです。そして落ちるのが怖いから落ちるんです。落ちたくなければ全部が幻だと了解することですね。自分の中にも外にも嘘、幻が続くことを目の当たりにしているのが人生であり輪廻です。信じられるのは自分だけ?自分も自分を狙ってくる意味不明の敵ですよ(笑)世界はただ暗黒の幻と知ることが真の善なる道なのです。それだけです。「ただの気色悪い暗黒世界」から「消えて脱出したい」と願うことに異論は必要でしょうか。そういった「正道」はなんの疑いもなく可視化できるほどはっきりと了解できるはずです。釈尊という最大限の善良で倫理的な「生命の友」が明かりを手にして待っていてくれます。ただ私が修行の進まないヘボなだけです。暗黒世界なんて信じられないと思うのはたまたま「健康で人生がノッてるから」です。それだけです。齟齬が生じてとんでもない苦しみと恐怖に支配されながら死に至った人は星の数ほどいるのです。
私も悟れないまま死ぬかもしれません。でも山下清やアンリ・ルソーの絵が私に勇気を与えてくれるんですね。なにか透徹した仏教的な視点を感じるのでしょうが、人間でいることを好きでいさせてくれるビジョンだとも言えるでしょうね。そういうものを見ていると仏教は素晴らしいと言いたくなるだけではなく、仏教に会うまでの苦しみの日々も仏教がもたらされた際の荒川の土手の空気も劇的な生命感を伴って懐かしく甦ってくるのです。
伝えたいのは仏教の救いだとしてもそのまま書けばいいというものではないんです。文学ならば悟れない人にもなにか救いが残るように書かなければいけないんです。
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Unknown (To-朱夏)
2020-01-17 13:12:10
Whatever you fight, I feel like it must be righteous, I can tell by the judgment that you have been writing to me.

Plagiarism's winning point is "the start point"
I think if the secondary fake cannot be linked to the start point, it can prove which is fake or not.

The original idea can be the past, future, and present but most of the copying lacks the time relations.

The problem is the opponent is the large company, the weak point of large scale is detail.
On the other hands the minority group's strong point is subtle, how much can be detailed.

Think from the opponent's view then you can see the wide landscape.





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Unknown (To-zipさん)
2020-01-17 12:55:26
羅針盤は既に持って出発してました。
要は手に持った、捕った獲物が少ないので、
行けるところに行けない不甲斐なさです。

私の手だけで
職人さんのように
通訳の器を練り上げて
焼いて
描いて
言葉を盛れる器を作りたいですけどね。

今は誰かが採っておいた物に頼っているので、
仕事を始めるより
仕事を耕しているところです。
それが堕落なほど自分と妥協している、それが問題でもある、という自堕落なのです。

ですが、Zipさんのお察しのように
行けるところまで一息かもしれません。
返信する
Unknown (朱夏)
2020-01-17 12:21:37
Hello! Every action has a “time”. If it is not during that time, efforts will not succeed. Even if our ability is not enough, when the time comes, we must act.
I am now fighting about the issue of plagiarism in our work. The enemy is a large company. Can I win? But this is my time. I hope you give me courage!
返信する
Unknown (ZIP)
2020-01-16 00:11:11
羅針盤を探す船のようですね。
ブログのやりとりで、そういう人だと思ってはいました。
返信する
Unknown (To-栄久さん)
2020-01-13 23:16:02
だからか、
栄久さんの言葉には世欲性が無く
人工的な汚れがないのですね。

何ていうか、
子どもの時から言葉に敏感で
言うのも言われるのも
根気が要りましてね。
今のところで言う『自閉症』そっくりでした。

家でも学校でもとにかく喋らなかったです。

それが14才か13才か
暴力を振った父に立ち向かってから
言葉が流れ出しました。
けれど、長年のサガっていうか、
言葉は今でも疲れるものです。

夫は『24時間営業、セブンイレブン』だと私が名付けた通り
見た即話す派なんです。
常にジョークか
お喋りか、口が達者で
ただ聞いていることに疲れたら
彼の頭を手打ちでパーンと叩くのです。
”Don't ask why you gou it"
というと彼はゲラゲラ笑って
自動喋りが止まって
私も笑ってお終いになるのです。

そうですね。
私はどこの地でも
ここが骨を埋めるところっていう感覚が無かったです。
いつもここがその処か?みたいな
疑問形が付きまとうのです。

私は他人の国を転々する、客ですかね。
招かざるの客...
過客より鬱陶しいかも...
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Unknown (榮久)
2020-01-13 14:47:28
>フランス語を話す時に
ご自身の中の何を重視しているのですか。>

そうですね
どの地でも、
例えば実家でも幼き頃より、
旅人のような
馴染み客のような、
なにか他所余所(ヨソヨソ)しい
違和感が常に付き纏い、
お行儀の良い人を演じるのが
日常化し身に付いているようにも

言葉にしても
背後から別の解釈や概念が浮かび
多重人格か分裂気味な感覚が時々あり

人混みは苦手で仕事も
自己完結型の特殊機械の保守修理を
担当し
プロジェクトを組む事は
出来るだけ少なくて
過ごして来ました。

今も田舎で独り暮らし
草花や風景などが相手で
TVは持たず
新聞は購読せず
読書が生活の一部ですね
「変わり者」と囁かれているようです。
その通りすね

ただ其処を通り過ぎるだけの
まさに過客の人でしょうか
返信する
Unknown (月さんへ)
2020-01-13 06:54:48
完璧な推敲が訪れるといいですね。
そうですね。
単一の言語だけなら完璧性を追えるのも道のりになれるでしょうね。

日本語は完璧性を狙えると、未熟ながら
思ったりします。

韓国語は日本語から視て
感情的だから、理性の極致を極めるような性質は持たないです。
英語はその完璧さがあまりにも多様で
読む対象を絞らないと
完璧さが替えて邪魔になるのかな。

日本語は完璧さを追える言語だと言えるのは
その言葉に段級があって
読む相手が級によって絞れるという特徴を持つからです。

和歌、短歌、文学、口語、文語、記録語
伝達語、会話など
それぞれの断層で
それぞれ弁えられた言葉が使われているから
格層に合わせてそれなりの完璧性の基準がありますよね。

英語は日本語のようないい品のいい切り分け、
段級への割合が無いのです。

どっちがいいのかは私には分かりませんが、
いただきに至ろうとする志は
きっと人の心を動かせると思っています。

望むところにいつか着けるといいですね。
返信する
Unknown (To-栄久さん)
2020-01-13 06:32:44
日本で韓国語を使った時はあまり無かったです。
姉を電話する時とか、
友達との電話とか、
そうすると、頭を日本語に切り替えているから
気持ちが乗らないと
頭の中で母国語を考えるようになるのです。

日本語も言葉に注意を払う必要がある時は
文法が先に行ってしまう感じかな。

だから、気持ちが乗らない人とは
韓国語でも日本語でも英語にしても
喋らなくなりました。

ここのコメント欄でも
義理でコメントをしていているところでも
気分が乗らないと絶対に言葉を打ちこまないようにしているのです。

栄久さんはフランス語を話す時に
ご自身の中の何を重視しているのですか。


返信する
Unknown (To-zipさん)
2020-01-13 06:24:16
『舟を編む』というアニメを思い出しました。
辞書は言葉の海を渡る舟だとか。

アマゾンプライムに載っていたから
繰り返して観ています。

その一息までがいつになるのやら。

だけど、リズム感は取れつつあります。
言葉のリズム、日本語と英語の。
返信する
Unknown (月のような者)
2020-01-13 00:11:27
鬼のごとき推敲を四年近く繰り返しています。というか今まで適当なものを書こうなんて一度も思ったことがありません。もっといくらでも掘り下げたいのですが、やはりどこかで切り上げなければなりません。断腸の思いですが仕上げに入る時期かと思っています。「でもこれじゃまずい!やばいよ!」という思いはあるのですが、「答え」「あるべき一挙手一投足」は初めから内在しているとも言えるのですから。推敲とは心技体の一致に至る過程なのであり、神聖な「戯れ」でさえあり、差し挟まれる欠落こそが濃密な過程を生かす、響かせるための作法なのですよ。噛まずに飲んでもうどんはうどん。と伝えつつ消化作用を助けるのが作家の仕事のはず。妥協なき推敲の末ならば、才能とは言外にありが結論でもいいではないかと。
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Unknown (榮久)
2020-01-12 04:30:37
ことば 

昨年夏亡き妻の兄の葬儀に間に合うようにと
急ぎパリまで行くことになり約20時間程で
オルリー空港に着き入国審査で、 
はた!!と
「覚えていたはずなのに、知っていた言葉が
・・・自らの記憶の悪さに」
即答出来ずに、
数分後に単語や語形が少しずつ修復されて
記憶のひだの上にほこりをかぶっていた
名詞が形容詞や活用変化がくっつき始めて、
やっと返答できるまでのプロセスに年月を感じ、
動脈硬化症にはまだ早いと、幾分ガッカリし

空港からはトラムと地下鉄で安く市内まで
何とかホテルに着いて兄嫁に到着を連絡し、
やっと一息つき

日常生活上、何年間も使用していなかった
言葉が浮かんで来るものだなと我ながら驚き、
オレもそう捨てたもんじゃないぜと・・・
自惚れながら眠りました。

通訳者には口頭発言の理解力、口頭発言能力、文章力、等々と合わせて相手の文化習慣への配慮、
様々な習得時間を要しますね。
勉強は楽しみの一つでも有りましょうから
楽しんで下さい。
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Unknown (ZIP)
2020-01-11 21:00:55
目に見えないもの、観察不可能なものを伝えることの難しさは「海」に喩えられるのかもしれませんね。
フルデプスまであともう一息、といったところでしょうか。
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