真空空間に時間は存在できるのだろうか。
I wonder what in the vacuum space, can time exist?
場の量子論によれば、力は必ず素粒子を伴うので、
力の場がある限り素粒子が全く存在しない真空状態は考えられないという。
According to the quantum field theory,
force always involves elementary particles,
so as long as there is a force field,
it can not be considered that
there is no vacuum state with nothing of particles.
よって、真空は負エネルギーが満ちた電子状態であるようだ。
So, the vacuum space seems to be an electronic state
full of negative energy.
仏語での真空とは、
あらゆる存在の個別的な特徴を完全に乗り越えた状態を指すようだ。
In Buddhism terminology,
the true empty space(the void) in the mind
seems to refer to a state that
completely overcame the individual peculiarity of all beings.
つまり、我とか実体に対しての究極に理解した状態でもあり、
その状態を真空妙有というらしい。
In other words, it is a state of ultimate understanding
to ego or an entity and calls it “peculiar void”
また、一切の迷いによって見られる相を離れている真如の理性を意味するようだ。
Also, it seems to mean the mentality of the obsolete reality
that is apart from aspects that are seen by any kind of ambivalence.
時間概念は人類によって定かになった感覚である。
The concept of time is a sense which has definite by mankind.
4次元の時空間もそれを感覚する対象が無ければ、只の次元にすぎない。
Even 4th-dimensional spacetime will be just one of the dimensions
if there is no object to sense it.
宇宙に人類がなければ、
宇宙を宇宙であるとみなす対象がないから、
宇宙は物質の固まりでしかないだろう。
If there is no mankind in-universe,
there will be no object to regard the universe as it is,
so the universe will only be a mass of substances.
人類が発生された以前から宇宙は既に発生されていた。
The universe had already been generated
far before mankind started to be being.
人類は発生されてきたから、
いつかはその成り行きで消滅される定めを有する。
Since mankind has been generated,
it has a course that will eventually disappear someday.
人類が消滅されたら、宇宙が存在してもしなくなっても、
存在の現象としてみなす主な対象が無いため存在の意味を失う。
When mankind is extinguished
the existence will be meaningless
whether the universe exists or not,
due to there is no main object to be equivalent
to the phenomenon of existence.
時間はアインシュタインが言ったように完璧に相対的だ。
Time is perfectly relative, as Einstein said.
私個人の一年の時間感覚も他人の感覚に比較して相対的である。
My personal sense of time for a year
also relative to compare with other's sensory.
一年間、季節は4回変化する。
Throughout one year, the season changes four times.
春になると種から花が咲き、
その花は一定のあいだ、自らの個性的な色を太陽の光に対し反射をする。
When spring comes flowers blossom from the seeds,
and the flowers reflect their own peculiar colors
against solar light for a certain period of time.
地球の軸が自転によって傾くと、
太陽からの熱エネルギーが届きにくくなり、温度が下がる。
When the earth’s axis tilts due to its rotation,
the heat energy from the sun becomes difficult to reach
so that the temperature gets down.
花が必要とする太陽エネルギー熱が下がると花は散る。
A flower scattered when the solar heat energy fell down
that the flower was in need to blossom.
花や木々は生まれて与えられた時間を生き、
臨床期が来るとその生きた時間は消える。
Flowers and trees live during their given time,
and when the clinical time comes
their lifetime will disappear.
人類の命もその花や木々がある期間を生きたように、
人類の命を生きては消えるだろう。
Just like flowers and trees lived their lives for a period,
the life of mankind would come and go.
一年という時間の箱の中には、その中にいる
人の数だけ違う時間概念がある。
In the box which one-year time in it,
there are different time concepts
as many as the numbers of people in the box.
速く渦巻く時間もあれば、
渦巻きの真ん中のように
時間が停滞したかのように感じられる空間もある。
There is a sample of time that swirls fast,
and they're also space makes feel like the time has stagnated
in the middle of the swirling.
速い渦巻きを見ている渦巻きの外側では
時間がゆっくりすぎているように感じるだろうが、
箱の中の時間は一定である。
Watching a fast swirling from the outside of the spinning,
it would make feel time passes slowly
but the time in the box is constant.
それが特殊相対性の性質かもしれない。
That may be the special theory of relativity.
私個人の一年、それが相対的に短ったか長かったかは
それを眺めている他人にとっては意味がない。
In my case of one-year,
whether it was relatively short or long,
it doesn’t mean for others who are looking at it.
私が見ている他人の時間の渦巻きが
どれほど早かったかどうかも私は絶対に体験できない。
As the way it is,
I never get experienced other’s speed of swirling
which was I looked at it.
それぞれの与えられた一定の時間を生き、
それぞれ違う感覚を選択し、
ある程度決まった個人の命を生きる、
それが人類の定めであり本質であろう。
Live in the constant time zone
that is given to each of us,
each of us chooses the different sense of time,
and live an individual life for a certain period,
those may be the destiny for mankind and the principle.
一般的に何の変化も無い時が「間」として理解されるものではあるけれど、実は事象が間であって時を刻んでいるといった方が時間の相対性を理解するには都合が良いわけです。
一年間という音楽を桂蓮さんが奏でることによって関わる人にタイミングやリズムが生じるわけです。
合理的な欧米人には、なんとなく「the vacuum space=空気の無い宇宙空間(場)」の意味以外には解釈できないような気がします。「Kuu(空)」をそのまま英語で再定義して説明した方が良いような気もします。
つまり、「Kuu」は、場ではないので時空間は存在しない。有るのは「無意識」。
ノイズではなく、リズムと言ってもらって
気分が和みますね。
ありがとうございます。
『the true empty space(the void) in the mind』
に直してみました。
元々真空妙有を
“peculiar void”と訳しておいたのでしたが、
明らかに真空をVacuumの単語とは区別して使うべきでしたね。
訳をするときは単語一つ一つに最大の注意を払っているのですが、
たまに文脈より文法に注意がいってしまう時があります。
注意が足りなかったのですね。
兎に角、指摘ありがたく受取りました。
彼は成瀬巳喜男の映画などにコメディリリーフ的な役で出ていたと思います。「はたらく一家」という成瀬映画は忘れがたい貧乏家族の映画で、この前初めて読んだこうの史代さんの「この世界の片隅に」に匹敵するぐらい昔と今を繋げてくれる、それだけになんとも複雑な気分にもなる名作なのですが、そこでひょうきんな次男を演じて「俺は海軍に志願するんだ」と言っていた彼が本当に戦死していたのです…。青木富夫さんは生きて帰ってきたのに…。
「この世界の片隅に」の感想としても語られることが多かった、「戦時中にも平和な時代と変わらない日常があった」ということは確かに事実でしょうが、あれだけ人間的な血の通った芝居を見せてくれた彼らが戦後の日常を知ることはなかったという事実を考えると、歴史の断絶感が追憶の不思議さえ見せつけながら迫ってくるのです。
ネット上で語られる仏教のほとんどが、出家在家を問わず「小市民仏教」なのです。自分の人生を仏教によって認めてもらいたいのです。現代人にとって仏教がどうのこうのと言っていますが、現代人のどこがどう偉いんですか。昔も今も、人が人であることを背負いきれないし、しかし人をやめることもできないのです。地獄です。地獄から脱け出すためには昔も今も事実を見るしかないんです。宇宙が始まって以来、一歩たりとも歩けた人はただの一人も存在しないのです。それが事実です。無常であり無我であることを突き詰めると結論はそうなるのです。無言の夢のように破壊再生流転する定まった視点の確認できない世界で心を持つのが生物です(ちなみに心の始まりに辿り着くことも絶対にできません)。心という認識作用ゆえに苦しみがあります。心は自分ではないから心に無常を分からせることに苦労するのです。心に分からせようとしているあなたは誰かって、それも心だけど、結果的なメカニズムの問題だから「特に気にしなくてもいい」と思います。事実をとことん見る先に安寧があるというブッダの言葉を「信じる」必要はないと思います。他に身の処し方はないからです。
その🌙さんのことばは心に刺さりますね。
刺されて痛くはないのですが、
考えが一瞬止まったような感じがしました。
赤ちゃんの心はいつから始まるのですかね。
生きる本能とは区別されるー心の働きとしての、心的情動はいつ始まるのですかね。
心、つまり情動的な意味での心の作用
私が意識と弁えて使っている『心』の背景には
昔塾を経営していた時の経験によるものが多いです。
毎日、生徒、講師、保護者と話をしていたから
心の情動運用の不具合によって生じた問題に直面させられたことが結構ありました。
私が書いているのは
もし、誰かが心の運用に負担があるなら
私の事例的なブログや哲学的なコメンテーター方の見方を読むことで
少しは視点転換に役たつのではと思い、いや期待して書いています。
>心に分からせようとしているあなたは<
おっしゃっているように
そお、その面もあります。
戦う必要がないのに戦わざるを得ない人がいたら
月さんやZIPさんのコメントで息がしやすくなるかもと思ったりします。
ちなみに、昭和物語りというアニメ観たことありますか?
因みに、女性は男性と違って、心は老いることが無いように思えます。
ボケても男性よりずっと情緒が保たれているのは明白な事実です。
地上の現象 ー 利害、欲得、策略、殺戮等などで
たち騒ぐ愚かしい私たち
「在る」ことに苛まれる私たちの意識を
時間の果ての消失点へと誘う。
宗教は、少なくとも人格的な神を戴く宗教は、
二千年でその務めを果たし終わりを告げた。
学問の体裁をもつ形而上学には限界があるうえ、
この国には馴染まない。
「無限」、「存在」、「無」、「私」とかの言葉、
そう名付けた瞬間の発語の必然性は何だったのか、
ないものは認識できないのに何故「無」という
言葉があるのか。
「迷妄の領域」に最初にある宗教は、
「言葉の罠」に存在をおとしこむ、
無限とか零とかいう言葉をつくりだした。
宗教はそれらをうまく使ったが
哲学は、困惑し、混乱した。
ヨーロッパでは瞬間ごとに神様が世界を創ってはこわし、創ってはこわすという連続創造説ようだが、
仏教はその神様は誰が創ったかと考える。
ご存知かも知れませんが仏教の時間の問題は有部の思想、三世実有・法体恒有といい、過去と現在と未来という
三世が横に並んであると、
縦の場合は過去・現在・未来が、
その接点に私たちがいると。
刹那滅、刹那刹那に断滅しながら
相続しているというのが刹那滅、
一見すると世界が持続しているように見えるけど、
本当は断滅していると説いている。
アビダルマの一派では、現在しかなく。
過去、未来というのはないというふうにして、
時間があるという一つのポイントが否定された。
もう一つは龍樹の時間論があるが、
時間というものと存在というものとが
切り離しては考えられない、
道元の有時の思想も同様である。
美しい思索のように感じられて
何回も読んでみました。
三世実有
法体恒有
刹那滅
有時など、言葉の意味を説明されたら
言葉の息吹を殺すことになったでしょうね。
機械的に言葉の意味を添付されても
その言葉を咲かせる命が無いと
ハードウェアにすぎないですもんね。
知識は偶に、咲いている花を生き殺す時もあります。
概念や現象が生きて飛んでいるなら
飛んで、散らばっている状態を楽しみたいものです。
AはBでなくCであると言われても
そのCがAにとって異物的なら
栄久さんのように
それらを描くことで
より幅を広げられると思います。
栄久様以上の詩は描けなかったので
読んで感じたことを書いてみました。
仏教用語は
読んで理解しても
その知識に力は無いと思ってます。
溝口健二の「浪華悲歌(なにわエレジー)」などはある意味で市民ケーンよりすごい映画でビックリするんですよ。でもノスタルジーを求めて見る人はこんなの1936年の映画じゃないよと不満を持つんだと思いますよ(笑)これは山田五十鈴じゃない、梅村蓉子じゃないと(笑)
まあ私はロマンチックとリアルが補完し合っているような丁度いい映画とかマンガが好きですけどね。村田安司さんが「のらくろ」をアニメ化した時に原作の田河水泡が自分にはあの背中は描けないと言ったんですよ。もはや犬なのか人間なのか分からなくなってるところがいいなぁと思いました(笑)