人の思考パータンは時代の変化に伴い
影響される受動態の性質を持つかもしれない。
Humans thought it might have a passive pattern
influenced by changing generations.
アナログ時計を見ると時間を示す針があって、
時間の流れが見える。
When looking at an analog clock,
there are hands for indicating the hour, minute, second,
and it shows the flow of time.
秒針が一秒一秒動くのを見ていると
一秒が案外長いなと感じて驚かされる。
Watching the hand moves from one second to another
makes me astonishing that the one second is unexpectedly longer than it is.
ところが、デジタル時計は秒と秒の間の動きが見えず、
突然のように現在の時刻が表示される。
However, a digital clock abruptly displays current clock time only
and it does not show the movement of second to seconds.
デジタル式には時間、分、秒が瞬時に表れて、
過ぎた時間は存在していなかったように完全に消えてしまう。
On the digital system, hour, minute, second is appear instantly
and they completely disappear like the passed time even never existed.
時間の経過が見えず、常にその時刻しか見せていない。
The passage of time invisible and shows only the current clock time.
私は便利なデジタル時計よりは、
時計らしいアナログ時計のほうが好きだ。
I prefer an analog-style clock than a convenient digital one
which is more suitable as a clock.
アナログ時計は12時間の経過がひと目で見えるし、
計画的に時間を使えるのに約立つからだ。
Because analog clock shows the passage of 12 hours at a glance
and useful for planning time to use.
たまに、時計の針が動くのをじっと見てしまう時がある。
Occasionally, I stare at the clock hand movement.
時計を眺めている1分がとても長く感じられるし、
1分1分がとても大切に思えるからでもある。
It is because as I look on the clock,
one minute comes to feel longer and
each of one minute becomes pretty precious.
私達の考えや意識もデジタル時計の時刻表示版のように、
突然現れては嘘のように消えてしまう。
Like the digital clock display,
our thoughts and consciousness also suddenly pop up
and be gone like a lie.
一つの考えに前後関連があるように思われても、
考え自体の全面像を巨視的に視ると
記憶の断片に過ぎないことが多い。
Even though a thought seems to be related consequences,
but it is often only a fragment of memory
as perspective it microbially
to grasp the whole picture of the thought.
過去のあるできごとが感情と強く結び付くと記憶に鮮明に残り、
意識されることが多くなる。
When a past episode combines with emotions strongly,
it remains vividly in-memory system and becoming more conscious.
その記憶が今の感情と更に結びつき、感覚の連鎖を作る。
Such memory knotted up with current emotions additionally,
creating chain reactions to sense.
私達の意識は時間の経過が基盤になって、
過去から残された記憶が空中に飛び交うイメージの世界に似ている。
Our consciousness is primarily based on the passage of time,
and it resembles the world of the image
in which the leftover memories from the past
flitting around in the space.
意識自体には秩序が無く、
ランダムに飛び跳ねては泡のように瞬時に消える。
In the consciousness has no order,
and it jumps and bouncing randomly
then disappearing instantly like bubbles.
意識は常にフルに可動している考えの工場かもしれない。
Consciousness maybe like a fully activated factory
that produces thoughts.
10年か前に、仕事絡みのストレスに潰れそうになった時があった。
Ten years or more than before,
I was almost crushed by work-related stresses.
そのストレスな状況は変えられなかったので、
何か自力でできることがあるだろうかと真剣に解決策を探した。
That kind of stress unchangeable so,
I seriously sought a solution to see if I could do anything by myself.
だが、大部分のストレスに関する情報は、
ストレスは何かを説明していて、
対処方法も漠然としていたので、私には効き目がなかった。
But most of the information about stress was
just define what stress is
and the way to deal with it was also indistinct
so those did not work for me.
効き目の無い知識は無用である。
If knowledge does not have efficacy it is useless.
そこで外部からの知識に頼ることをやめて、
ストレスの根源にある自分の意識について
考え直し始めたのである。
Therefore I quit relying on external knowledge
and began to reconsider my own consciousness
which brunched to stress.
意識は、自分の意識なのに常に部分しか見えない。
The consciousness can see only a part even though it belongs to me.
意識の全貌を見渡すには意識自体の枠から出ないと意識が見えない。
To take an extensive view of the whole figure of consciousness,
it does not allow us to see unless we get out of the frame.
では、どうすれば意識の枠から出られるのだろうか。
Then, how can we get out of the conscious frame?
以下は、私が試したいくつかの方法である。
Below are some of the trials I experimented with.
①楽に座り、動作を止める
1st: sit comfortably and stop moving.
②座る動作を維持する
2nd: retain the sitting motion.
③座る動作に意識が向かなくなるまでじっと待つ
3rd: wait until the consciousness loses attention to the sitting motion.
④目で見えることに意識がどう反応しているかに意識を向ける
4th: direct conscious toward how it reacts to what you see with eyes.
⑤見ていることに慣れると過去のある記憶が突然表れる
5th: when adjusted to seeing,
a memory of the past suddenly popping up.
⑥その記憶にぐっついている感情が何かについて意識を向ける
6th: directing to the conscious to see what emotion is attached to the memory.
⑦その感情を最大に具体化する
7th: maximize the emotion to concrete.
⑧その感情に今も痛みが伴うならその痛みに直面する
8th: if the emotion still accompanies a pain then face to the pain directly.
⑨その痛みが架空の痛みなのか実感なのかを見極める
9th: make clearly sure the pain is a fictional or solid feeling.
⑩浮かんだイメージが記憶なのか今の事実なのかを見極める
10th: ascertain the popped-out image came from
wherein memory or it is the current fact.
⑪断片的に表れる記憶をただ再生させる
11th: let the partly appeared memories replaying.
⑫イメージが表れては消えるさまをただ観る
12th: just watch the shape of the image as it appears and disappears.
⑬記憶が見せる映像のようなイメージをただ眺める
13th: just look over scenery like the image that represented by memory.
⑭そのイメージが過去にあったことか今のことなのかを知る
14th: know the image is happened in the past or is in the present.
⑮いつ起きたかを判断することを止める
15th: stop judging when it happened.
⑯どっちなのかの識別することを止める
16th: stop distinguish which it is.
⑰思えてくることを判断することを止める
17th: stop judging what comes to mind.
⑱考えないようにすることすら止める
18th: stop even the try not to think.
⑲考えているか、考えていないかを確認することを止める
19th: stop checking out whether you are thinking or not.
⑳ただ、その瞬間にいる
20th: just be at the moment.
以上は意識を休ませる順序である。
The above are systematic sequences of resting consciousness.
人によって前後する箇所はあるかも知れないが、
意識を休ませることによって、
結果的にストレスから出られることになる。
Maybe a number of the list moves back or forth
depending on personal cases
but by resting consciousness,
it leads you to get out of being stressed.
要するに、時間の枠の中に閉じこもることから開放されるのである。
In other words, it frees you from stuck in the inside of the frame of time.
時間の外側に自分をおくことができるようになる。
It allows to enable to put yourself outside of the time.
アナログ的なエゴつまり、過去の鎖でつながれて、
自分のエゴの中でしか動かすことのできないことからも開放される。
An ego like an analogic system that chained with past
and mobilizes within one’s ego only, it also will be free.
デジタル的な考えつまり、瞬時に表れて
泡のようにあっけなく消える考えに
無駄なエネルギーを消耗することからも開放っされる。
A thought like a digital system that
appears instantly and vanishes abruptly like bubbles,
it allows you freed from wasting the energy.
アナログもデジタルも時間という現象を表示する方式にすぎない。
Either analog or digital are just ways of displaying the phenomenon of the time.
エゴも意識も生きている時に表れる泡のような現象かも知れない….
Maybe both ego and consciousness are bubble-like phenomena
that appearing while alive….
デジタルを経験したければ運転を他人に任せて助手席で寝ていればいいわけ。
目的地までの間における自分の意識はどうだったか?
デジタルでは持続性は感じられないはず。
何故なら、今と今のあいだ、即ち、その都度その都度注意を向けるという意識が身体の操作と伴っていないからだ。
つまり秒針という意識が欠けているが故に、時間は流れていないということ。
坐禅は意識を無くすのではなく自意識の解体、つまり自意識を拡張させることで境界をなくすこと。
車両感覚は、車と同じ大きさに自意識を拡張できればこそ身につくということ。
一度身についた車両感覚によって、ぶつけたり擦ったりすることはまず殆ど無いはず。
苦い味がメインで
稀に甘い味が隠れたりしますよね。
その苦さも薬系の苦味で飲むのに困るし、
だけど、
私は何でも辛口派で
常にさらなる激辛に挑戦するタイプだから
まあ、大した辛さでもないですけどね。
そう言えるのはなぜなのか
「出発点が間違っている」
表現の「難解」の向こうに
思念自体の持つ難解とも
言うべきものがある
「宇宙とはそもそも
何だったのか」
人生が何がしかのもので
なければならない理由など
どこにもなかったのに
在ることの非意味
その退屈
歴史は事実の記録帳ではない
直線的な時間感覚から
相反して立ち上がる意識
榮久さんは哲学的に巨視的にものを考える習慣が定着しまったようで、自分の文の難易度について、他人の視点からあまり考えたことが無かったかのように思えます。
私の知識体系が農家であれば、
榮久さんのはお城かもです。
難攻不落のお城みたいな、
貴族だけが住んでいるお城
それも格好いいし、
私の農家もそれなりに小粋だと思ったりしますが。
確かに、榮久さんの文は私のブログの品を格上げしてくれますよね。
その面にはいつも感謝しております。
宇宙の始まりについては
狂ったように知ろうとした時があって、
まだ満足いけるような理論に出会えていないため、
まだまだ言えるようなレベルではないのが残念です。
今週に入って、なぜか返事することが億劫に感じなくなりました。
体調戻りつつあります。
妹さんのバレエスクールはまだまだ再開できないでしょうね?
いつも、目から鱗がおちるような投稿に感心しつつ、投稿を読ませて頂いております。
そして、私の拙いブログを度々訪れてくださり、足跡を残してくださること、本当にありがとうございます。
今日は、アメリカ合衆国在住のあなた様に、今、日本に住んでる101000dotlineこと、私から、ひとつだけ聞きたいことが見つかったので質問しますね。回答は、しなくてもいいし、どちらでも構いませんので、宜しくお願いします。
最初にお断りをしておきますが、私は、あなたの現状打破の力に、少しでもなりたいと思っているので、不快に思われたなら、このコメントを無視してくださって差し支えありません。
それでは、質問しますね。
あなたは、
他人をほめることと
他人をけなすこと
の2択だと、
どちらが楽ですか?
一応、私の家族にも先に直に聞いてみました。
答えは、
最初に書いた方で、即答でした。
私の回答は、やはり最初に書いた方です。
世界情勢がこのような状況になっていることで、日本でも、日本以外の国でも、自らの祖国でも、赴任先でも、あらゆる国々が疑心暗鬼と、自粛生活のストレスで、揺らいでいることと思います。
でも、そういう時にでも、太陽は地上を照らしてくれるし
飛行機に乗ってみたら、厚い梅雨の雲の上には青空や夜空が広がっています。
月も、満ち潮と引き潮によっても、地球を動かす助けになってくれています。
1人では誰も生きていかれないけれど
1人になりたい時もあるのが
わたしたち
「人」
ではないかな?と思います。
無理だけは、お互いにしないように、パートナーと、その周辺の人々に感謝しつつ、今日も生き抜いてみせましょう。
応援しています。
令和2年6月11日 木曜日 101000dotline より
選択しようとも思わないのが、身についてしまったからかもしれません。
ですが、家の夫にはブッラクジョークのように
蔑んだ皮肉な表現をして二人で笑ったりすることはありますが、
基本的には人を否定するような表現はしません。
第一、自分が貶されていい気分になれないから
他人もそうでしょうね。
心理学を専攻していた時、
恩師から、形式的にただ褒めることは失礼になるかも、と教われましたね。
褒めることは認めることだと教えてもらいました。
人を正しく理解してないのに
ただ褒めると、それは無礼になる可能性もあります。
私が日本に留学し始めたころ、
人は私を褒めて褒めてくれました。
あの時、褒められて寂しかったです。
偉いと言われて、すごく嫌でした。
だから、人を褒めるときは
その人を分かって、理解してから
未来に向けて開けることを願って
肯定的に言っています。
褒めることは難しいのです。
貶すことは簡単かもです。
しかし、人への理解無しに
決まりきった褒め方をすると
それは貶すこととそう変わらないと思います。
その人を理解するには
その人を正しく読まなければなりません。
人を正しく読むには
その人を判定することをやめないとできないでしょう。
説教調になりましたが、
褒める、貶すことに敏感なので、
思いつくままを書いてみました。
失礼な言い方や傲慢に思える表現があったなら
お詫びしたいです。
「褒めることは難しい
貶すことは簡単かもしれない」
という表現、具体例を挙げて書いてくださったので、わかりやすかったです。
有難うございました。私も、自分に置き換えて考えてみました。
メールや手紙などの文字の文章ではなくて、直接会ったり
電話だったり、今でいうとインターネットを使っての所謂ビデオ通話(相手の顔を画面で見ながらのリモート通話)
と褒める手段も貶す手段も多々あると思います。
数年前に、夫をあることで怒らせてしまい、LINEに、写真で「ごめんなさい」という思いで頭を下げて、それを自撮りし、送ったことが一度あります。
そのときは、夫をますます苛つかせることになり、逆効果でした。
会って話して謝ると、ゆるしてもらえました。
その画像を撮っている時点、その画像を送ろうとしている時点での、私のあざとさ、こざかしさが
彼には透けて見えたからなのかな
と思い、それからはそういう方法はやめました。
家族ですので
「ブラックジョーク」っぽいやり取りは、うちでも頻繁にありますよ。
でも、それを、夫の母や弟と一緒の車で出掛けた時に同じようにしてしまうと、
「(息子/兄)のことを、けなしている」
「聞き苦しい、聞いていられない」
「馬鹿にした物言いに聞こえて不快だ」
という意味のことを言われました。
因みに、陰口ではなく、直接その時に言われました。
私達夫婦は
「俺たち/私達はこれで上手くいっていて楽しいんだからいいんだよ♪」
と、その時は2人とも言ったのですが、
やっぱり、
わきまえて
家庭内での顔と、
義理でも自身でも親兄弟姉妹との顔は、
使い分けたほうが、お互いにとってbetterな選択なのだろうな、と、その後に思いました。
あなたさまの表現で、気になる部分は
政治的なことに関して一国の大統領について書かれている部分のところで、少しありました。
アメリカ合衆国では
共和党政権と民主党政権があり
今は共和党政権のトップである彼が大統領ですよね。
私は、日本国民なので、アメリカの選挙権はないため、自由に発言できるのかもしれませんが、どちらかと言えば、民主党を応援しています。直接的には何もアクションは起こしていませんよ、念のため。
その上で、です。
結局、
人を、人が、裁いたり決めつけたりすることは、仕方がない事だとおもいます。
今までの私の経験上で選択した、怒らない方法、怒りを鎮める方法としてひとつだけ言えることは
「他人さまを裁いたら負け」
ということです。
何故かというと「裁いたときに出した自分の負の波動は、必ず自分に返ってくる」と、知っているからです。そこに気がついてからも、裁いてしまうことはありますが、最近では、「今、自分が何かを裁いたな、決めつけたな」と気がついたときに、即座に神様に「ごめんなさい。今、○○のことを裁く波動(=気)を出してしまいました。もうしわけありません」と謝ることにしています。
○○は、必ずしも人間ではなく、例えば草引きをしていて、抜けにくい草があった時にも、対立の思いで無理やり引こうとするのではなく「草さん有難う。今までこの庭で光合成をしてくれて、いい空気を作ってくれたんだね。感謝しかないよ。ありがとうね。今日は、ひかせていただくね」と声を掛けたり頭の中で念じて優しく扱うと、雑草も思いの外スルッと抜けてくれたりします。
日本に「北風と太陽」という絵本?童話?がありますが、それと似ているのかなと、よく思ったりします。
とりとめのない文章になり、申し訳ありませんでした。思うとことが少しでも届くといいなと思い、敢えて発信させて頂きました。
気にかけてしまいましたね。
ブログでもFacebookでも、政治関係に触れないようにしていますが、抑圧の度がすぎると漏れて出る時があります。
それが人様の気にふれることにもなるかと思います。
不愉快な思いをさせたならお詫びします。
文章を読んで、厳しい人間関係の中で
正気を保っているけなげなさが伝わってきました。
皮肉やジョークが通じないと
それは、話が通じないことより苦しく感じてきますよね。
私も結構、素が短気なので、
夫にすぐ怒って、挙げ句は手を出したりします。
その度に、夫はジョークで私を救ってくれています。
本気で怒っているのに、控えめにジョークを言われると
私も怒っていられなくなって、
笑っちゃうのです。
まあ、家の事情はその程度なのですが、
Dotlineさんの事情は
権力欲じみた(失礼しました)厳格なまじめさが強いられる環境のようですね。
笑えない状況ですよね。
本音を言っては関係が壊れる危機
まあ、そんな感じがしますね。
本音を言ってはいけない、わらってはいけないような状況だと、逃げるところは
自分の中だけになりますかね。
寂しくなりますよね。
人から自分を守るために
自分を強く保てなければならない状況に置かれると
人は『生きている心地がしない』ようになるかなと思います。
言うこと、言いたいことを
いちいち考えなければならない状況は
あまり望ましくないですよね。
もし、よろしければ、
言いたいことを何も考えないで
ここでただ書いてください。
私は返事したくないと思ったら
絶対返事返さないし
返事したくなれば、何が有っても返事はするので、
私の気分や社交辞令など考えないで
思いついたままを書いていいです。
出るべきものが全部出たら
ことは済むようになるので
何でも思いつくまま書いてみてください。
私も指が動くままに
深く考えずに、書いています。
しかし、文章からだと
相当な重荷を抱えているように感じ取れますね。
根が結構深いようですね。
ちなみに私は自分が書いた文章を再度確認せず
そのまま勢いで投稿します。
後で誤字脱字、文法ミスなど散々見つかっても
そのまま、放置して
人様がその失敗を笑いたければ笑わせるように
しておくのです。
人の失敗や欠点を笑う者も結構いますよね。
それはそれで生き方だからしようがないですけどね。
「時」の捉え方を考えてしまいます
でも、
何時も周りから指摘される
難しく考える癖「漢字で考えると」ね
異なった言語を知ることは
異なった世界の見え方を会得することだと
イヌイットには白色に相当する
何十もの言葉が
私には単色の北極圏世界が
彼らには多彩に感じられるのでしょうか
バレエ教室は少人数での
レッスンでスタッフの方々が
妹も時々覗いているよう
体育館の様な規模でも
再開に苦心している現況では
まだまだ先の開始でしょうね
無収入でも4~5年はスタッフを
支えていけると話していましたから
閉ざすつもりは無いようです
難しいことを簡単にする、ことだと思っています。
ですが、訓練の一つ道具として
易しい問題を難しく考える時もあります。
例えば、次元とか超紐理論とか、化学式とか。
そうすると思考の紐解きみたいなワクワク感があって、
意外な横道、逸れた道を発見できますしね。
塾をやってた時、
子供達はみんな難しさを嫌って
少しでも分からないと
もう目を開けたまま、ポカーンとなります。
自分が言っていることの難易度は
子供が一番詳細に教えてくれましたね。
その癖があって、
何でも優しくしないと自分が嫌な感じになり
自分の考えを簡単にまとめるためにも
夫に解説したりしてます。
何を言おうとしているのかというと
榮久さんは
『難しいことを通した』または
とおしても良かった地位 があったとのことです。
それ、贅沢ですよね。
難しいままにいられること
人に媚びなくていいとの地位を持っていたことですからね。
私も塾やってなかったら
自分の難しさを紐解かず
そのままを楽しんだと思います。
人に合わせる必要ない、これ贅沢ですよね。
私にはその贅沢さが持てなかったな。