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コリント人への手紙第二、3章

2018年05月05日 06時56分56秒 | パウロ書簡
当時教会を巡回する教師には、推薦状とか、紹介状を持つ制度があった。いわゆる人物証明が必要だったのである。ここでパウロが推薦状についてあえてとりあげるのは、かつてのパウロのように最高法院からの正式紹介状を持ったユダヤ人教師のためであった。彼らはかつてパウロが教会をぶち壊そうとしたときのように、パウロの働きを破壊するためにやってきていたのである(使徒9:2)。実際、コリントのある人たちは、そんな彼らの活動に惑わされていた。パウロに敵対する者たちは、パウロを攻撃する材料として、推薦状がないことを問題にしたのだろう。
そこでパウロは、自分に推薦状は不要であると言う。そもそもコリントの教会を創設したのはパウロである。いまさら、何故推薦状が必要とされるのか、コリント教会の人々の性質と生活の変化を見れば、パウロが神に遣わされた働き人であることは一目瞭然ではないか、というわけだ(2節)。こうして、パウロは、自分には、最高法院ではない神によって与えられた推薦状がある、とする(4節)。
そしてパウロは、この議論を丁寧にまとめようとする。というのも、コリント人の回心と成長こそが、自分の推薦状であると語ることはいささか自画自賛のようにも受け止められかねない。推薦状などいらない、私の実力を見よ、と言っているかのようでもある。また2:6で、パウロは、「このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか」と質問をしている。当然、パウロの敵は、推薦状を持ちうるそれなりの人物の人と主張するだろう。そして今日のキリスト者の中にも同じように考える人も少なくないのではないか。ある程度の水準を持った神学校を出て、よく知られた教師の元で勉強をしている、などそのように考える傾向のある人はいる。しかし、パウロは、このような務めに対するふさわしさは、私たち自身の能力ではなく、神の力を受ける能力にある、とする。つまり、コリント人の回心と成長は、自分の実力によるものではなく、神が与えてくださった力によるものなのだ、と言い直しているのである。私たちは宣教を進めるために私たちの力の粋を尽くすのではない、御霊の力の粋が尽くされるように、御霊にただ仕えていくのである。私たちにもし、能力があるとしたら、それは、神が与えてくださったものであって、私たちのそれではない、というわけだ。
それにしても、こうした神の力を委ねられる、ことによって働きが進められるというのは、なんとも、身に余る光栄ではないだろうか。私たちはダビデのように何者なのか、と言わざるを得ない(詩篇8編)。そこで、パウロは、その身に余る光栄である新しい契約に仕える務めを、古い契約に仕える務めと対比して語ろうとする。今ある働きがいかに栄誉に富んだものであるかを語ろうとしているのである。
まず、最初の7-11節は、出エジプト34:29-32の解釈で、律法の付与とそれを伝えたモーセの栄光について触れている。つまり古い契約も輝きを持っていた、のである。しかし、太陽が昇れば、電気も要らないように、新しい契約はより大きな輝きを持っているとする。なぜなら、それは死に仕える働きではなくいのち御霊に仕える働きである(7節)。人を罪に定める働きではなく、人を義とする働きである(9節)。そして一時的な消え去る働きではなく永続的な働きである(11節)
続いて、12-18節においては、出エジプト33-35の解釈で、古い契約の時代には、モーセの顔に覆いをかけて、栄光が消え去るのを隠そうとしたが、今やその必要がないことを強調する。そして同時に、そこから連想して、神の栄光を見ることを妨げる覆い、つまり罪の障壁があることを指摘する。それは、キリストによって取り除かれるものだ(14節)。しかし、「人が主に立ち返るなら」と、主に注意を向けるように促している。
パウロの回心は、まさに神のあわれみによるもので、パウロがキリストに関心を持ち続けた、キリストのことを考え続けて生じたというものではない。しかし、パウロは自分の人生を振り返り、自分がいかに無知であり、愚かな敵対行為をしていたかを思わずにはいられなかったのだろう。パウロの心は敵対者と論争をしようというのではなく、敵対者に対する思いやりと愛に満ちている。彼もまた、かつての私であると。だから、私のように突っ走る前に、立ち止まって、主に立ち返って欲しい、この程度の警告で、キリストの新しい契約に仕える働きに目覚めて欲しい、ということではないか。
実に、人の心には、光を愛すると同時に、闇を愛する心がある。目があっても見ようとしない、問題がある。大切なのは、罪の赦しを語るイエスに心を向けなければ、神の救いの計画を知ることも受け入れることもできない。覆いを取り除くのは、キリストの御霊の働きであるが、本来人が気づくべきことである、悟るべきことである、とパウロは願うのである。御霊に仕える働きの戦列への招きの思いがそこにある。

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