人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ヘブル人への手紙3章

2018年06月29日 07時16分20秒 | 一般書簡
 キリストが何をしてくださったのか。私たちを栄光に導くために、十字架の道を歩み、完全な贖いを成し遂げ、今や私たちのとりなし手となって、天の右の座に着いてくださっている。この天の召しに、私たちが与っていることを覚えて、主イエスに信頼しよう、とヘブルの著者は呼びかける。そして、み使いとイエスの比較において重要だったのは、その至高性にあったのだが、続いて、著者はモーセを取り上げ、その大祭司としての忠実性を比較し、イエスがモーセに勝る者であることを力説し、イエスに対する深い信頼を促すのである。
本来イスラエルの大祭司であったのは、モーセではなく兄のアロンであった。しかし、神の御前における真の弁護者として忠実にその使命を全うしたのはモーセである。金の子牛の偶像崇拝に陥った時にも、民をとりなし、民の為に嘆願したのはモーセであった。神はそのモーセの働きを忠実であると認め(民数12:7,8)、それゆえにイスラエル史の中においては、偉大な存在である。しかし、そのモーセとて、イエスの忠実さにはかなわないのである。モーセの役割は、約200万人とされるイスラエルの民を、エジプトから導き、約束の地カナンへと向かわせるために、神のしもべとして働くことであった。しかしイエスはそれ以上である。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟」という海辺の砂のような、数えきれない神の民を罪の滅びの淵より導きだし、新しい都エルサレム、永遠の安息へと向かわせるために、仕えておられる。そのイエスを認め、イエスの声をよく聞きなさい、ということになる。
私たちは、かつてモーセに導かれて荒野を彷徨っていたイスラエルの民同様に、今はまだその安息にはない。しかしやがて私たちはまったき安息を得る。それは、身体的、精神的、霊的、関係的な安息を得る素晴らしいものである(黙示録21:3,4)。かつてのイスラエル人は、その安息に入ることができず40年彷徨っていた。それは教訓とされなくてはいけない。同じ失敗を繰り返してはいけないのである。
 だから次の聖霊の警告に耳を傾けることにしよう。
(1)昔のイスラエル人のように心を閉ざしてはいけない。心を鋼鉄のように堅くして、神の導きに文句を言ったり、反抗したりしてはいけない(8節)。信仰を持って踏み出していながら、この歩みに主の祝福はない、間違った道を来てしまったなどと思うようなことがあってはいけないのである。
(2)不信仰に凝り固まって、イエスから離れることのないように、自分の心を見張りなさい(12節)。不信仰であってはならない、というのは、まさに今日、この日において、ということである。今日、この日、一瞬一瞬の積み重ねである。今不信仰に気づいたなら、その不信仰の連続性を断ち切らなければいけない。そして信仰の連続性に変えるのである。
(3)日々、互いに励まし合い(13節)。信仰は、個人的な営みでありながら、同時に、共同的な営みである。私たちはやはり互いの励ましを必要とする。互いに信仰を支え合う心を持たなければならない。互いに声を掛け合って、天の召しの素晴らしさへと向かっていくことが大事なのである。天国は一人で、自力で入れるところではない。
(4)最後まで忠実でありなさい(14節)。荒野の試練に疲れ果ててはならず、荒野の現実に目を奪われすぎてもいけない。私たちは今ここを通過しようとしているだけであり、約束の天の都に入ろうとしているだけなのだ。
(5)神を信頼しよう(19節)。今日、この日、神に聞き、従うという姿勢を大事にし、しなやかな心でもって信仰の歩みを前へと進めて行きたい。かつての荒野の民は失敗した、しかしあなたがたは神の召しに応じていくように、と語る。今気づかされたなら、今神に応じなさい、と。今日この場で、心を新たに、神の徒となる志を持たせて頂こう。

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ヘブル人への手紙2章

2018年06月28日 07時18分24秒 | 一般書簡
「聞いたことに心を留めよ」という。それは、キリストのみ使いに勝る高さを覚えるからこそである。古い啓示である旧約の律法は、み使いの仲介によって伝えられたが、神の最終的な啓示は、御子イエスによって与えられたのであるから、それ相応しい応答が必要なのである。実際、福音の真理や教えは、生死にかかわる最も重要なものである。実際、旧約の律法に対する違反と不従順は、厳しい処罰を伴った。となれば、ましてみ使いに勝るキリストの救いの言葉をないがしろにするなら、その当然の結果を受けることになるだろう、というわけである。
 日本人の信仰は二階建て信仰であるという。二階は牧師の書斎であって、牧師が学んだことを分かち合う場である、あるいは礼拝の場であるという。そして信徒は一階に住んでいて、一階と二階には、細い階段があるのだという。だから毎週日曜日になると二階に上って行って、そこで牧師の説教を聞き、ああいいことを聞いたと一階に下りて行くやいなや、二階とは全く別の日常生活が始まってしまうのだという。聞いたことが心に留められない。そんな現実がある。聞いたことは聞いたでよしとするのだが、普段の生活はその聞いたこととはまったく別の原理で動いてしまうのである。聞いたことをしっかり心に留め、押し流されないようにする自覚的、意識的信仰が私たちに求められていることである。
福音は主によって語られ、聖霊をもって証しされた。まさに、ペンテコステの時に、また、初代教会の宣教の働きの中で、その福音のメッセージは確かなものとして使徒たちによって証されたものである(3,4節)。神が全霊を注いで伝えようとされたものであるが故に、私たちはこれに真摯に向かい合わなくてはならない。
 そこでヘブルの著者は、5節から、キリストのみ使いに対する優越性について、さらに述べていく。先の1章では、キリストは神の子であり、み使いは、キリストに仕える者と定められていたことを語っていたが、ここでは、キリストが世界の統治者であることを明言している。旧約時代において、世界の統治はみ使いに任されていたことを私たちは思い起こさねばならない(申命32:8)のである。しかし、新約の時代に入り、それは、しばし低くされた方、イエスに帰せられたのであり、万物がイエスに従うものとされている。
大切なのは、その万物の支配者であり、創造主であるイエスが自らを低くされたことの意味である。それは、語られただけではなく、実際に、獲得された救いである。つまり、イエスはマリヤより生まれ、私たちと同じ血と肉をとり、私たちの生活を味わい、十字架にかかられ、低くされた。そして、語られた通りの罪人の贖いを成し遂げてくださったのである。しかもその福音は、罪人がキリストの恵みにより、兄弟姉妹として迎えられイエスの高さに引き上げることを明らかにしている。み使いではない。キリストが低くしてくださったところから再び戻られる同じ高さに、私たちも引き上げられ、キリストの栄光に与るのである。キリストの救いは、それほどに素晴らしい内容を持っているのである。
十字架の話はよく聞く。復活する話もよく聞く。しかし高挙された話はあまりされない。イースターにおいて大切なのは、復活し、高挙されたこと。神が栄光と誉れの冠を授けられて神の右の座にあること。勝利者となったこと。しかしその勝利者であるイエスが、その高さに、私たちを招いてくださっていることに、そのさらなる素晴らしい福音のメッセージがある。
実にイエスは、その高さに戻られながら、私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされないとも言う。
 また、イエスが自らを低くされたと言う時には、私たちの敗北の低さに立ってくださったということでもある。完全に、私たちの敗北の状況に降りてきてくださった。そこから復活の道があることを示してくださったということが大切だ。神が助けてくださるのは、アブラハムの子孫である。試みられている者である。弱く、敵対し、罪人とされている者である。神に対する信仰や忠実さを捨て去るように試みを受ける中で、卑しめられ、弱くされている状況にあって、この自らを低くし、勝利をもって、私たちをとりなしてくださっている方を覚えることは、実に大いなる励ましとなることである。今日も私たちには、主の大いなる関心と深い愛が注がれていることを覚えて歩ませていただこう。


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ヘブル人への手紙1章

2018年06月27日 07時19分20秒 | パウロ書簡
 神が本当におられるとしたら、私たちは何によって知るであろうか。実際、人間をお造りになり、天地万物を創造した神がいるとしても、その神についてどんなに想像を膨らませたところで知り様がない。人間は造られた有限の者であれば、これをお造りになった無限のお方を知るというのは、ありえないことである。神ご自身が、ご自分について、何等かの方法で明らかにしてくださるのでなければ、私たちは、神について知りえない。逆に言えば、神が沈黙されるなら、私たちは、神を知りたくても知りえない、堂々巡りの思索の迷路にはまり込むだけである。
ヘブルの著者は、神は昔、預言者たちによって、ご自分について語られたが、この終わりの時、つまり今の私たちの時代にあっては、御子によって語られた、という(1、2節)。これは、専門的に特別啓示と言われる。つまり旧約聖書と新約聖書によって神は、ご自身を知りたいという人々に、そのなんであるかを明らかにされたという。だから、私たちが神について知ろうとするならば、まず、神の啓示のことば、聖書に向かわなくてはならない。神は、神秘的な思索の中にではなく、体験的な何かの中にでもなく、聖書を読み解くことによってこそ知られるのである。そして旧約聖書と新約聖書は、約束と成就の関係において読み解くことができるのであり、それは、キリストを中心としている。
では、このイエス・キリストという方はどういう方なのか。ヘブルの著者は、以降、キリスト論を展開するが、まずその初めからイエスの神性について説明しようとする。キリストは、
1)万物の相続者、創造者(2節)
2)神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ(3節)つまり、人格と行動すべてにおいて神であることを示された方である。実際「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)」とイエスの言葉が聖書には収録されている。
3)万物の保持者(3節)、つまり宇宙を統御しておられる
4)贖罪を成し遂げ高挙されている(3節)つまり、私たちの一切の罪の罰を帳消しにし、天に戻られた。
しかし、御子についてこのような信仰を持つというのはいったいどのような意味を持つのだろうか。実のところ私たちは、日曜日ごとにイエスを賛美しイエスを愛している、信じていると信仰告白をする。しかし、イエスが神であるというのは、イエスを自らの主とすることである。つまり、イエスを何者にも勝る存在として認めることに他ならない。だが、しばしば私たちはイエスをそのようには見ていない。それは当時のヘブルの著者も同様だったのだろう。だから、ヘブルの著者は、当時の読者が価値を置き、尊崇する事柄を一つ一つ取り上げ、それらに勝るキリストを5節以降語ろうとするのである。
その第一に、ヘブルの著者はみ使いを取り上げる。イエスは御使いに勝る存在である、と(4-14節)。当時のユダヤ人は天使を崇敬した。彼らは、天使は神の敵を罰し、神の裁きを執行する恐るべき存在であり、かつ信者を守る存在であると考え、そのような天使を敬ったのである。しかし、人間を超えるそのような存在よりもはるかに勝る存在がイエス・キリストであり、キリストをこそ敬い、畏れるべきであるとする。実際、旧約聖書によれば、御使いがイエス・キリストを礼拝したではないか、と論じている(6節)。御使いは霊的な存在であるが、イエスのしもべに過ぎなかった(14節)。日本人なら御使いよりは、死者の霊、あるいは先祖を崇敬するところだろう。しかし先祖に勝る崇敬すべき存在があると敷衍して考えたいところである。
また、イエス・キリストの様々な奇跡や教えを見聞きした人の中には、イエスを御使いのような超自然的な存在であると考える人たちもいただろう。そのような人々に、この手紙の著者は言う。御子イエスは、御使いよりも勝る存在である、と。この世には、本当に恐れるべき、敬うべき唯一の超自然的な存在があるという。私たちが恐れるべき超自然的な存在は唯一イエス・キリストである。そしてそのキリストが、神について私たちの知を満たし、私たちの信仰を導く伝達者となられたのである。キリストにこそ耳を傾けていきたい。
 


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ピレモンへの手紙

2018年06月26日 08時33分03秒 | パウロ書簡
 この時パウロは、ローマで囚人となっていた。友のピレモンはコロサイにおり、オネシモと呼ばれる逃亡奴隷によって彼らは結ばれることになった。詳細はわかっていないが、オネシモは主人から何かを盗み、ローマに逃亡し、都会の雑踏の中に紛れ込もうとしていたのだろう。しかし、神の摂理により、捕らえられ、投獄されているパウロのもとへと送り込まれ、パウロと出会い回心に導かれ、キリスト者となっていたようだ。
 パウロは、挨拶を書き送るが、個人的な書簡であるにもかかわらず、そこにテモテの名を加えている。パウロはテモテを自分の牧会チームの一人として見なしていたのであろう。
さてパウロは、ピレモンをキリストへの信仰に導いていたようである(19)。しかし、ピレモンが所属していたコロサイの教会は、パウロが設立したものではなかった(コロサイ1:1-8、2:1)。それはエペソ伝道の働きの結果として始まり(使徒19,10,20,26)、エパフラスによって設立されている(23)。集会は、ピレモンとその妻アピヤの家で持たれ、アルキポは、彼らの息子あるいは長老と考えられている。
パウロは、ピレモンに挨拶を送る。その中で、パウロは、ピレモンが、イエス・キリストと神の民の双方に対して愛と信仰を抱いている人であると評価している。ピレモンの愛は実際的で、ことばと行いを持って聖徒を力づけるものであった。
そこで8節からパウロはその愛に、懇願し、パウロは要件へと筆を進めていくのである。つまり、本来なら役に立ち、自分の世話のために側に留めておきたいオネシモを、主人の下に送り返すことについての相談であった。当時、約6千万人の奴隷がローマ帝国にいたという。普通の奴隷は、500デナリ(1デナリは一日分の賃金)で売られたが、教養や手職のある奴隷は5万デナリと高価であった。だから奴隷が逃げ出すことがあれば、主人は奴隷の名前と人相書きを登録し、指名手配の対象としたのである。奴隷は、高価で有用な個人財産であり、失うことは高くついたし、逃亡奴隷を、勝手に利用することもできなかった。ただ、逃亡奴隷は機械的に戻されたわけでもない。それは買い戻されなければならず、またローマの法律は逃亡奴隷の処刑を認めていた。だからしばしばそれは残虐な結果になることもあったようだ。
ピレモンにオネシモを送り返そうとするパウロは、まず、ピレモンの人間としての評判から始めている。もはやピレモンは、かつての奴隷ではない、キリストの救いを受け入れ、新しい心を持った、パウロにもピレモンにも役立つ者となっている、と。オネシモは、ギリシャ語で「有益な」を意味する。つまり11節のピレモンと対になった言葉遊びがある。ピレモンという名は、「愛情のこもった」あるいは「親切な人」を意味する。だから、奴隷が自分の名(有益な)に込められた意味に応えることが期待されるとしたら、ピレモン(愛情のこもった)もそうだ、ということだ。パウロは、ピレモンがオネシモを、愛情をもって再び受け入れることを期待している。
だから、パウロは、オネシモが、奴隷としてローマへ逃れたものの、コロサイに兄弟として送り返されることを強調する。彼はかつて主人を裏切った不従順な奴隷であったかもしれない。そして今も奴隷であることに変わりはないが、同時に、彼は愛されるべき主にある兄弟となったのである、と。もちろん、ピレモンにとってオネシモを受け入れることはそう簡単ではなかったはずである。というのも、もし、逃亡奴隷のオネシモに安易な態度を取れば、他の奴隷たちは「クリスチャンになる」ことで全ては穏便に解決されると安易に考えたかもしれない。しかしもし彼が手厳しい態度を取れば、コロサイでのピレモンの証と働きに影響を及ぼすことになっただろう。パウロはそのジレンマを見事に解決した。それは、間に入ったパウロ自身がその代価を支払うことであった。18節、「彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。私が償います」と。イエス・キリストが私たちにしてくださったことを、これほどによく描いた事例はないだろう。神が罪人である私たちを罰し、かつ私たちに愛情を注ぎ、ご自身の子としてくださるために、イエス・キリストが間に入って代価を支払ってくださったのである。問題を解決するには犠牲を支払う愛が必要なのである。
しかしながら、パウロはなぜ、ここで奴隷制度を非難しなかったのだろうか。これは奴隷制そのものを批判する理想的な機会だったのではないだろうか。それは、キリスト教のメッセージが、主として個人に対するもので、社会に対しては二義的なものだったからなのだろう。またそれは、精神的な事柄や道徳感情に働きかけたのであり、その後で結果として行為や制度に働きかけようとするものだった。さらにキリスト教のメッセージは暴力を好まなかった。むしろ良心が啓発されて物事が解決されることを信頼したのである。だから、政治的なことや社会的な制度を直接いじくりまわすのではなく、心に働きかけることをよしとしたのである。クリスチャンは地の塩であり、世の光である。その変化は、まず人の心の内側から起きなくてはならなかった。制度が廃止されるために、人間の考え方が変わらなくてはならなかったのである。
 パウロは、ピレモンのキリスト者の良心に期待して、終わりの挨拶へと入る。ヨハネ・マルコは、パウロとともにいた(コロサイ4:10)、この青年は第一次伝道旅行においてパウロと同行することに失敗した人である(使徒12:12,25;15:36-41)。今やパウロは、マルコを赦し、彼の忠実な働きを喜んでいる(Ⅱテモテ4:11)。デマスは、パウロ書簡には3度出てくる。「私の同労者のデマス」(ピレモン24)、「デマス」(コロサイ4:14)、「デマスは今の世を愛し、私を捨てて」(Ⅱテモテ4:10)、と。ヨハネ・マルコは失敗したが回復された。デマスは、パウロの同労者としてうまくやっていたようであったが、躓いてしまった。人間は変わっていくものである。しかし、キリストの恵みによって、オネシモのように、ヨハネ・マルコのように、良き歩みへと変えられていく者でありたいものだ。

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テトスへの手紙3章

2018年06月25日 08時00分23秒 | パウロ書簡
パウロは言う。権威を認めて、権威に服従し、よい業に進むように、と。いやいやながらではなく、進んでなされるよい業が奨励される。つまり、信じていることと実際の行動が結び付けられるように、と教えられている。イエスが十字架にかかったのは、私たちをすべての不法から贖い出し、よいわざに熱心なご自分の民をきよめるためだったからである。
だから4節は革命的な「しかし」である。というのも(3節)「以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした」と、キリストにある今とそうでなかった時の有り様が劇的に対比されるからである。「以前」と比較して「今」の自分がどうであるかが問われているのだ。以前は本当に愚かな人間であった。迷いと、欲望と、憎しみに絡めとられながら生きていた。しかし、今、私はそこから神の限りないいつくしみ、つまり本来は受けるはずのない愛を受けて、その現実に気づかされ、解放へと導かれた、ということである。
大切なのは5節、「聖霊」による再生と刷新の洗いである。キリスト者に必要なのは、聖書の規範を手に、自分の行動を自分で律することではない。何とかいい人に思われようと思い切り背伸びをして、結局偽善的な生き方をすることではない。聖霊の業を受けることである。聖霊に変えられることである。神が注いでくださっている聖霊によって、新しい人生に導かれることである。そのように、キリストに与えられた新しいいのちに心を集中させ、そのいのちに生きるように、助けていただくことである。ただひたすら神の恵みとあわれみの中に生きることである。そうすれば、自分がそういう罪の性質から解放されていることに、いつしか気づかざるを得ない。
やはりキリスト者になった以上は、相手をまず信頼してあげる、よい方向で物事を受け止めてあげる、そんな気質と行動が身につくことが大切である。不信感をもって人を見、物事を悪く受け止める、という気質や行動は、罪の性質から自然に出てくる人間の性である。そういう私たちにとって当たり前のことが変えられて行くためには、聖霊の再生と刷新に日々触れることが大切なのだ。
10節「分派」は、は異端とも訳せることばである。彼らは、愚かな議論、系図、口論、律法についての争いにあけくれていた。人々に有益で信頼できることばこそ語るべきで、無益でむだな議論を避けるように教えている。彼らは1,2度戒めてから除名しなさい、という。それは惑わされているというよりは、自ら積極的にそのような罪を犯しているからである(11節)。
続いて、テトスに対して個人的な指示を与える。一つは、ニコポリにいるパウロの下に来るようにという指示。テトスの代わりに、アルテマスかテキコを送ることにしていると語る。テキコは、ローマの獄中でもパウロに仕え、パウロの使者として、エペソやコロサイの教会に手紙を持ち運んだ(エペソ6:21-22、コロサイ4:7-8、2テモテ4:12)。もう一つは、クレテに滞在中のゼナスとアポロが旅行に出られるように世話をすること。律法学者ゼナスは、ユダヤの律法学者ではなくローマの法律家の意味である。アポロと共に伝道旅行をしていたようだ。パウロがアポロを気遣っているのは、パウロとアポロが良好な協力関係にあったことを意味する。
 最後の指示は、神の働き人全体に対する指示である。自分も含めて、正しい仕事に励むように勧めている。信者によい業に励むように教えるだけではなく、自らも正しい仕事に励むように教えられなければならない。それは実を結ぶ者となるためである。実に、実を結ぶ人生こそ望ましい。実を生み出す歩みをするように、パウロの同労者として名を連ねる者とならせていただこう。



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