人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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コリント人への手紙第一、14章

2018年04月30日 06時35分38秒 | パウロ書簡
パウロは、この14章において秩序づけられた礼拝の問題を取り上げる。パウロは、愛を追い求め、預言を熱心に求めるようにという。異言ではない。どうしてか。そもそも聖書で異言といった場合、それは外国語を指していたのは明らかである。使徒2章を読むと、それは「他国のことば(4節)」、「私たちめいめいの国の国語(8節)」、「私たちの国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは(11節)」である。それが教会史の中で解釈の変遷が起こったのであろう、これを「未知の言語」、あるいは「天上の言葉」と理解しているキリスト者も少なくない。しかし聖書が書かれた時代にあっては、これは通訳を必要とする外国語に過ぎないものであった。預言もよく誤解されているように未来や秘密を語る予告ではない。それは神の言葉の宣言であり告知である。
パウロが「異言」と「預言」をどう対比したかに注目しよう。22節、異言は「不信者のためのしるし(証し)」であり、預言は不信者ではく、信者のためのしるしである。異言は神に話すが、預言は人に話す(2節)。異言は、自分の霊で奥義を話すが、預言は人の徳を高め、勧め、慰めを与える(3節)。異言は、自分の徳を高めるが、預言は教会の徳を高める(4節)。異言が教会の徳を高めるのは、解き明かされる時である(5節)。
そこで21節において、パウロが引用しているのはイザヤ28:11である。ちょうど、アッシリヤ帝国の脅威にさらされて、もう一つの大国エジプトに頼ってその危機を乗り切ろうとした、南ユダ王国に対して、イザヤが語った警告の中の一文である。だから「この民」はというのは、文脈からすればユダヤ民族になる。つまりパウロは、言いたいことは、異邦人が異言を語る現象は、不信仰に陥っているユダヤ人へのしるしだ、ということだ。つまり、異言の主要な役割は証しであり、宣教である。それはよく言われるように「とりなし」とか「祈り」の手段ではない。だから当時の礼拝の中で、異言は外国語による証しとして位置づけられたのだから、解き明かす者、つまり通訳者が必要だ、ということなのである。
大切なのは、異言にしても、預言にしても、「人を育てる」(3節)、「教会を成長させる」(4、5、12、26節)という目的性を持つことなのだ。だから異言が妨げになるのなら、黙っていることも必要であるし、外国語である以上は、解き明かしをする人、つまり通訳を立てなさい、ということにもなる(27,28節)。神は混乱の神ではなく、平和の神であるから、教会の秩序を乱したり、教会が混乱したりするような賜物の使い方はないのだ、というわけである。
さて、パウロは、「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。」という。「語る」と訳されたギリシア語は「ラレオー」である。「ぺちゃくちゃしゃべること」、つまりお喋りを意味する。しかし同時に「説教をする」、「預言する」という意味でも使われることがあるので、説教を禁じている、と理解できなくもない。しかし、ここは、会衆の中の女性の無駄口について語ったものであろう。これまでの文脈からすれば、説教の最中に、女性が余計な口をはさむ問題があったのではあるまいか。パウロはそのような無神経な女性に異議を唱えたのである。それは礼拝秩序を乱すことである、と。神のことばが語られているのなら、それを尊重して最後まで聞き、質問があればとりあえず終わってから、家でしなさい、と。
結局問題の根は単純である。異言にしても、女性の発言にしても、根っこは自分を認めさせようとする肉の問題から発しているのだろう。結局、信仰を持っても、その人の性質が、信仰生活、教会生活であって問題になることが多い。育ちや、性癖が、妨げとなるのである。大事なことは、そのような自分の弱さに気づいているかである。温かく指摘し、気づかせてくれるような信仰の友達関係があるかである。教会というのは、病院のようなものであって、それぞれが信仰の課題に取り組み、成長していく場であり、完成されたような人がいるような場ではないのだから、お互いの弱さをみことばによる戒めと励ましによって、変えていける場であるかどうか、変えていこうとする意欲を支えられる場であるかどうかが大事なのだ。神よりも人の目を意識し過ぎる、あるいは、人の目を意識させられる教会であってはならないのだろう。いのちを与えるキリストとの関係が大事にされ、人が育ち、教会が成長する、そのようなことが熱心に求められる、そのような教会でありたいものだ。


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コリント人への手紙第一、13章

2018年04月29日 06時02分28秒 | パウロ書簡
しばしば、「愛の賛歌」と呼ばれる章であるが、文脈は、12章から続き、「さらにまさる道」「よりすぐれた賜物」として語られる。つまり、教会で最も求められるべき賜物は、いやしでも、異言でも、預言でもなく、愛である、となる。なぜなら、第一に愛は働きに価値を加える(1-3)。パウロは、異言、預言、知識、信仰、そして分け与える賜物と五つの例をあげるが、どんなにこれらの賜物に優れ、それらを十二分に発揮したとしても、愛がないのなら何の値うちもない、とする。確かに真実なことばも、愛を持って語られればこそ人の心を打つものになる(エペソ4:15)。
4節から、パウロは、愛の15の特質を語っていく。しかしこれもまた、コリント教会の背景を踏まえて読むべきところだろう。というのも、コリントの人々は、まさにこの逆を行っていた。彼らは非寛容であり、不親切であり、妬み、自慢し、高慢で、礼儀に反し、自分の利益を求め、怒り、悪を追及し、不正を喜び、真理を喜ばなかった。我慢し、信じ、期待し、耐え忍ぶことがなかった。彼らの教会の秩序と品性を回復するには、まさに愛が必要とされた。彼らには、人に対して忍耐する力があること(寛容)、ひどい扱いがあっても善意で応じること(親切)、他人の成功に気分を害しないこと(妬まない)が必要であった。また、自分の足りなさを覚えて、遜りをよしとする意識(自慢せず)、自分の至らなさを覚えて、相手を満たそうとする関心(高慢にならない)、礼儀、礼節を尊ぶ態度(礼儀に反することをせず)、自分の権利よりも世間から受けた借りを忘れない心(自分の利益を求めず)、怒りを抱いても自分の心を抑えることのできる精神力(苛立たず)、悪を数え上げるのではない、忘却する度量(人がした悪を心に留めず)、闇よりも光を求める意思(不正を喜ばず)、真実に直面することをよしとする胆力(真理を喜ぶ)を持ち、いかなる侮辱、いかなる無礼、いかなる失望にも(耐え)、人をいつでも善意に解釈し(信じ)、失敗しても諦めたりせず、いつでも前を見て進もうとする「期待」が必要であった、不屈の精神をもって行動し続けること(忍び)が求められるのである。
愛は不滅であるが(8-13)、預言や、知識、異言はいつまでも続かない。預言と知識には同じ動詞(廃止される)が、受動態で使われているので、それらは(神によって)廃棄される、ことを意味している。異言は別の動詞(止む、中止する、抑制される)が、中間態で使われており、中間態は、「自ら~」を意味する用法であるから、異言はそれ自身でやむ、ひとりでに止む、という。確かに、今の時代において神は、私たちに不完全な啓示しか与えておられない。すべて地上において知られることは、一部に過ぎない。神については、多くは神秘やなぞに包まれた状態である。しかし、やがて私たちは神の臨在に触れ、完全にすべてを知るようになる。そうなれば、コリントの人たちが重きを置いていた預言も知識も異言の賜物もいずれ居場所を失うのである。12節前半も9節を繰り返し、今の私たちが、神に完全に知られている(髪の毛の数さえも数えられている)ように、やがて私たちも完全に知るようになる、という。パウロが、鏡を例に挙げたのは、コリントが鏡の生産で有名であったこと、その鏡が研磨された金属を用いたもので、良く映る上質な鏡はなかなか入手しにくかったことを踏まえている。つまりコリントの鏡は最高の品でも、不完全にしか物を映すことができなかったのである。ただここで、パウロが加える重要な視点は、11節、大人の考え方をしよう、ということだ。パウロは、「やめました」と言い、自ら決断して、子どもっぽい考え方を完全に終わりにした、と宣言する。預言、知識、異言に対する客観性を持つ大人になろうということだ。
13節も預言、知識、異言に対する対比で語られる。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛とある。信仰と希望と愛は、あの世においても存続すると読めそうである。しかし、対比のポイントは、「今」と「あの世」ではなく、「預言、異言、知識」に対して「信仰、希望、愛」である。また信仰と希望と愛を、パウロは、単数の一つの動詞で受けている。文法的には一番近い主語に動詞を合わせたに過ぎないかもしれないが、パウロは、信仰と希望と愛をほぼ同義、一体と見なしていることに注目すべきである。実際パウロは、愛することの中に、信じ、期待することを含めている(7節)。愛することと信頼し、期待することは切り離せないのだ。事実愛なき信仰は冷たく、愛なき希望は威圧的である。愛は信仰を燃やし、希望を現実に変えていく。だから愛は大いなるものなのである。


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コリント人への手紙第一、12章

2018年04月28日 07時49分17秒 | パウロ書簡

「さて、~御霊の賜物についてですが」と、コリントの教会の人たちの質問にパウロは答えようとする。御霊を巡って、種々の混乱があったからである。古代世界では、神々と特別に深いかかわりを持つ人たちは、特別な霊的な賜物を持っていると考えられていた。しかし実際には、そこには本物の経験があると同時に、異常に興奮しただけの自己満足的な経験もありうることだろう。そこでパウロは、恍惚的な熱狂ぶりが、そのしるしであると見なす、教会の雰囲気に対して、本物の霊の賜物のしるしがどういうものであるかを語ろうとする。
その第一は、イエスの主権を認めることにある(3節)。どうやら、コリントの教会には「イエスはのろわれよ」と語る者がいたらしい。それは、回心する以前のパウロ的なユダヤ人であったのだろう(使徒26:11)。あるいは、私たちのためにのろわれたイエス・キリストを(ガラテヤ3:13)覚えて、陶酔と熱狂の最中でそのようにキリスト者が口走ったのかもしれない。しかし、パウロは、本当の霊性は、「イエスは主です」と告白するところに現れるのだ、それが正しいことである、と指摘する。
次に、御霊を与える主は一つであるが、御霊の現われ方は様々である、という(6、7節)。しかし、多様ではあるが、それは一つになり成熟するための分配である、という(12節)。パウロは、この考え方を他の書簡においても繰り返している。たとえば、ローマ人への手紙においては、一致(12:1-5)、多様性(12:6-8)、成熟(12:9-21)という形で、またエペソ人への手紙においても、一致(4:1-6)、多様性(4:7-12)、成熟(4:13-16)という形で、繰り返している。教会は、多様な賜物を持った人々の集まりであるが、それは、キリストにあって一致し、成熟しつつ神のみこころを実現していく場なのである。
人間にはそれぞれ親譲りの才能がある。蛙の子は蛙と言うが、スポーツや音楽、芸術、など、親譲りの才能が子どもに開花することがある。同じように、神を信じた時に、私たちは神の子とされるのだから、神譲りのもの、つまり御霊の賜物があって当然だろう。大切なのは、人はしばしば、才能を自己満足、自己顕示のために用いようとする。しかし、神によって与えられる賜物は、7節「みなの益となるために」とあるように、教会全体の益と喜びのために与えられ、用いるべきものだ、ということだ。御霊の賜物は、それぞれの霊的な成熟に役立つように神から与えられているのである。だからそれは神に奉仕するために用いられなければならない。
ところで勘違いしてはいけない。私たちは一致するが一様になるのではない(12:14-31)。異なった者でありながら一致していくのである。多様性のない一致は画一化に過ぎない。パウロは、人間の体を例に、キリストの体である教会の多様性について説明する。一つは、多様性は固有性であるという(14節)。キリスト教会は賜物をあまりにも狭く考え来た嫌いがある。それは、教会音楽であったり、説教であったりといわば非常に目立つ類のものに限られて考えられ、だから私には賜物がない、という議論もなされたりするところがある。しかし、物事を綺麗に整理したり、壊れたものを修理したり、いつも通りの環境を整えるいわば営繕の働きが苦なくできることも賜物であるし、俳優の世界には名わき役というものがあるように、人を支えることもまた賜物であるし、そう考えると、目立たないが、重要な賜物のある人はたくさんいるのであり、固有性ということの意味は、それぞれが違っている状況のままに、用いられるということでもあるのだ。確かに信者それぞれはキリストの体において固有の器官であり、まったく異なる存在である。一人一人の感じ方、性質、振る舞いのみならず、能力や技術もそれぞれが違う。違うからこそ互いに互いを必要とする。誰も皆、この箇所をよく読みながら、自分の教会における役割の重要さ、必要性を再認識すべきである。
そういうわけであるから多様性は必然的に協力を求める(21-26)。神の業は、互いに手を取り、互いに協力し合う共同体の中に表されるのである。賜物に優劣はない。そして最後に多様性は、単なる個性ではない、神に与えられる多様性である(27-31)。つまり神に起源を発しているのであるから、神の目的に沿って自分の役割を考え、他人の役割をサポートし、神の目的を実現するものである。だから、賜物にも秩序がある。使徒、預言者、教師、…とあるが、それは序列ではない。教会が神の目的に沿って機能するために、それぞれの立ち位置がある、ということだろう。そういう意味で、信仰を持ったら自己実現だけを考える人生から早く脱却しなくてはいけない。信仰者には、神の大目的を果たす使命が与えられている。クリスチャン一人ひとりが、自分の役割に目覚めていくならば、一つ一つの教会が祝福されるのである。


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コリント人への手紙第一、11章

2018年04月27日 06時09分37秒 | パウロ書簡
1節は、どうも10章につながっているのだろう。神のみこころに生きることについては、キリストがその模範である。私もそれに倣っている、という。
さて2節からは、教会における諸活動をめぐって、秩序化していく内容となっている。それらは、礼拝の服装(11:2-16)、礼拝と共に行われる愛餐(11:17-23)、聖餐(11:24-34)、賜物の活用(12章)、愛による調和(13章)、異言の問題(14:1-23)、礼拝秩序(14:23-33)、礼拝における女性の立場(14:34-36)に触れている。
最初に女性の服装の問題。特に女性が公的礼拝の場でかぶり物をするか否かの問題である。当時のユダヤ人女性たちは、公の場では必ずベールをかぶっていた。しかしその礼儀作法を乱す女性たちがおり、パウロはこの問題に答えようとする。信仰を持つことは、常識的ではありえないが、非常識になることでもない。習慣化した慣例を簡単に否定してはならないのである。ただ、その問題への回答として、パウロは、ユダヤ人の習慣を肯定、支持したというよりも、これを聖書の規範に照らして説明している。教会の秩序の問題を扱う時に、聖書がこれをどう教えているかに読者の注意を向けるのである。
そこでパウロが示したのは創造の秩序であった。創造において、女は男を起源とした(創世記2:21-22)。そして、男はキリスト、キリストは神を頭としている(3、7節)。これは、男は「神のかたちであり、神の栄光の現れ」であるが、女は、「男の栄光の現れ」である。だから女は男への服従のしるしである覆いをつけている。これは、前近代的な価値観として、なんとも受け入れがたい女性観だと思う人もいるだろう。だがパウロは、ここでそれ以上のことを言っている。つまり、神を礼拝することにおいて、覆いをかぶることはもっと積極的な意味を持つ。つまり、女は、神の臨在の前で、自分が「男の栄光の現れ」である必要はない。むしろ、「男の栄光の現れ」を覆い隠して神の前に出なければいけないのである。となれば、かぶり物は、誰かの下にある「服従のしるし」ではなく、男の栄光の現れを覆い隠して神の前に出る「権威のしるし」でもあるのだ。だから男は、神の栄光の現れとして神の前に出、女は、「男の栄光の現れ」を覆い隠して、神の前に出ることが正しいとなる。神の御使いたちが見ている前では、そのように霊的な意味を理解して、その作法を重んじるべきだ(10節)、となる。ユダヤ人の古い文化に、聖書的な新しい意味付けをして、現状の調和を計ったよい例と言えるだろう。
ルターは、宗教改革の際に、信仰の本質に関わらない事柄は、極力カトリック的なものを引き継いだと言われる。その後、カルヴァンの時代になると、カトリック的なものは徹底的に排除されていくのであるが、ある意味で、時代の流れとともに物事が変化していくことはやむを得ないもので、過渡期的な時代には、秩序を考えた時に、それを全く否定すべきものと、ある程度、その意味を聖書的に再解釈して、しばらくそのままにしておくべきこともあるだろう。
だから今日この箇所について言えば、必ずしも文字通りこの聖書的原則を当てはめることが聖書的、信仰的だというのではなくて、むしろ、ここで教えられているのは、公私を区別し、服装は自由であるが、他人の礼拝の妨げにならない、場を弁えた配慮ができるかである。だから、その共通理解をもって、それにふさわしいあり方を教会で決定していくことがよいのだろう。そして、習慣を大事にしたいという考え方で教会が分裂しそうな問題があるのなら、パウロのようにそれを聖書的に再解釈して、分裂を避ける方が賢明なのである。なお14-16節は、補足説明であるが、風俗習慣という観点から自然な行動を取るように、と念を押す内容になっている。
さて公的礼拝の第二の問題についてパウロは、愛餐の問題を取り上げる(17-22節)。愛餐は、コリントの教会では礼拝の一部だった。しかし、教会の分裂によって、信者はめいめい群れて食べ、貧しい者には食事も回らず、神の家族として交わる状況も失われていたのであろう。愛餐の目的は、愛の分かち合いであったが、全くその機能を果たしていなかったのである。
しかしここでパウロが問題にしているのは、配慮だけの問題ではない、愛餐と聖餐の区別である。礼拝でまず大事にされるべきは聖餐である。教会でパンとぶどう酒が分かち合われたのは、キリストを覚えた交わりをするところにあった。腹を満たすためではない。皆でキリストを分かち合うことにある。キリストとのいのちある関係に皆の心が向けられ、霊的なものが分かち合われていく、それこそ教会の場に求められることなのである。コリントの教会では、そのようなキリストに向かう聖餐と、共同の食事である愛餐が混同されていた。聖餐は、主が制定された厳粛な式である。だから聖餐は、それにふさわしく、吟味をもって、敬虔に守られなくてはいけない。だから空腹ならば家で食べなさい。共同の食事を目的とするならそれは愛の配慮をもって家で大事にしなさい。そして礼拝をするならば、キリストを中心にキリストと共によい時を過ごすことであると言うのである。



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コリント人への手紙第一、10章

2018年04月26日 06時04分26秒 | パウロ書簡
パウロは、旧約時代を振り返っている。そこには一つの比喩がある。キリスト者がキリストにつくバプテスマを受けたように、モーセと共に海を通ってエジプトを脱出したイスラエルは、モーセにつくバプテスマを受けたのと同じである。またキリスト者が、常にキリストのいのちで生かされていくように、彼らも天来のマナで養われたのである。「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。」(6節)と語る。つまり、そのような恵みと特権を受けた彼らが堕落した時にどうなったのか、「歴史的教訓」に学べ、というわけである。
パウロは昔のイスラエルの民が、目に見えぬ神を見える形、つまり金の子牛にして拝んだ問題を取り上げている。そして彼らは姦淫の罪を犯した(8節)、モアブの女たちによってイスラエルが誘惑され偶像崇拝に加担するようになった時、約24000人の者が神に裁かれて疫病で死んだことを思い起こさせている(民数25章)。パウロは、23000人としているが、人数の違いは、パウロの記憶による引用のためなのだろう。そして主を試みた(9節)。これは食べ物や水のことで呟いた民数記21章4-9節を背景としており、それは、神を信頼せず、繰り返し神の心を痛めることを言っている。そして民数記14、16章の事件にあるように、新しいカナンの地を占領せよと、神のチャレンジを受けながら、自分たちにはできないとぶつぶつ不平をならしながら、尻込み、結局神に与えられた機会を、不信仰によって失ったのである。
これらすべては、私たちに対する警告であり、教訓である。私にそんなことはないから大丈夫だ、と思っている人ほど、その慢心に注意しなければならない(12節)。人生何が起こるかわからないものだし、試練は必ず起こりうるものだから。自分に厳しさを失わず、信仰の道をしっかり歩もうとする者は、たとえ試練にさらされようとも、その試練からの脱出の道が必ず備えられると約束される(13節)。
そしてむしろ、パウロはキリスト者が、キリストの血とからだにあずかる民であるという(16節)。キリスト者は、キリストとのいのちある関係の中に生きる者である。実際かつての民が偶像崇拝で犯した罪の本質は、金の子牛を拝んだことよりも、集会の名のもとに偶像の祭壇の交わりにあずかり、乱痴気騒ぎをしたことであった。つまり、パウロが戒めているポイントは、「悪霊と交わる」(20節)ことである。確かにコリントの教会の問題も、8章にあるように、偶像礼拝そのものよりも、偶像に献げた肉を大盤振る舞いし、乱痴気騒ぎを起こす無節操さにあった。それは結局偶像ではなく、悪霊との宴に興じることなのである。そして、偶像は、人間が時間と思いと精力のすべてをささげるものであるとするならば、今日の私たちも、直接神の形に模ったものを拝む偶像礼拝をしていることはないとしても、自分が手をかけているものに全てを注力し、それにうつつを抜かす人生を生きているとしたら同じである。それは、悪霊に献げられた人生なのである(20節)。キリストの血潮に触れたなら、もはや後戻りはできない。キリストの食卓に与りながら、今なお、物欲の食卓に与り続けることはできない。それは主の妬みを引き起こすことである、と(22節)。
 パウロは、キリスト者の生き方の本質を述べた後、再び弱い者への配慮ある行動を勧める。23節「すべてのことが許されている」、しかしだからといって、仲間に対する関心や配慮を欠くふるまいは許されない。心得るべき行動原則がある。一つは自由を原則としながらも、弱い良心を持った人に配慮し自制することである(27節)。また、何をするにもただ神の素晴らしさが現されるように行動すること(31節)、また弱い人のつまずきや誤解を避けること(32節)、そして人々の救いにプラスになることを考えて行動することである。キリスト者の成熟は、他者を思いやりながら行動できることにある。物事を深く考え、色々な事柄に細やかに配慮出来る人になることに他ならないのである。

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