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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ダニエル書6章

2020年10月28日 06時54分13秒 | ダニエル書
6章 獅子の穴に投げ込まれたダニエル
おはようございます。よく親しまれた旧約の物語です。これは、聖書で繰り返し取り上げられる、苦難におけるキリスト者の姿勢の模範となっていきます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.妬まれたダニエル
バビロンは、メディア・ペルシアの軍隊に征服され、ベルシャツァル王も殺されてしまいました(5:30-31)。その後は、「メディヤ人ダレイオスが、国を受け継いだ」とされます(5:31)。彼は、ペルシアのクロス大王の部下でした(9:1,11:1)さっそく彼は120人の太守を任命し、さらに「王が損害を受けないように」彼らの上に三人の大臣を置きました。政治的権力の濫用や歳入のごまかしを防ぐためでした。その一人がダニエルです(2節)。ダニエルは、既に80歳を優に過ぎていたと思われますが、頭に衰えはなく、その優秀さは、誰の目にも明らかであったのでしょう(3節)。ダリヨスは、ダニエルに全国を治めさせようと思ったのです。しかしそれは、他の大臣や太守の妬みを買いました。彼らはダニエルを失脚させる口実を見つけようとします。職場のみならず、私生活にも厳しい目が向けられ、粗探しが始まるのです。最終的に彼らが問題にしたのは、ダニエルの信仰でした。彼らは、ダニエルを陥れ、葬り去る法令を入念に作り、実行するのです(6-7節)。何とも理不尽なことと思いますが、これが人間社会の現実でしょう。ダニエルは窮地に立たされていきます。
2.窮地にあってもいつもどおりに
 しかしダニエルはいつも通りに行動しました。つまり、自分の神の前に祈って感謝をささげたのです(10節)。ダニエルは神の御心に自らを委ねました。ダニエルの屋上の部屋の窓は、エルサレムに向かって開いていたと言います。既に滅ぼされたエルサレムが特記されるのは、読者にソロモンの神殿奉献の祈りを思い起こさせるためでしょう。ソロモンは祈ったのです「捕らわれて行った捕囚の地で、心のすべて、たましいのすべてをもってあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮の方に向かって祈るなら、あなたの御座が据えられた場所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦してください」(2歴代6:36-39)一方、ダレイオスもまた嵌められていました。彼も立場上、一旦定めた法令を取り消すことはできなかったのです。こうしてダニエルは信仰のゆえに、獅子の穴に投げ込まれるのです(16節)。
しかし、ダニエルは救い出され、彼の信じる神が生きておられること、そしてその神の主権が認められていきます(25節)。エルサレムから遠く離れたペルシアでのこの出来事が、やがてキリストの降誕にあたり、東方の博士の物語を生み出すことになったのでしょう。また、後にヨハネが黙示録で、この章以降に描かれた奇怪な生き物を合体させた獣の幻を語ったのは、迫害下のクリスチャンに、いつもどおりに祈り忍んだダニエルの姿を思い起こさせるためであったことは想像に難くないのです。何が起きても動ぜずに主を信頼し、結果を先取りした感謝をもって歩ませていただきましょう。

ダニエル書5章

2020年10月27日 06時42分33秒 | ダニエル書
5章 ベルシャツァルへのさばき
おはようございます。ITリテラシーがあるように、霊的なリテラシーもあります。霊的なリテラシーを高めるには、謙虚な心をもって、聖書を丹念に学ぶ他ありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.4章と5章の間のこと
5章に登場するのは、ベルシャツァル王、つまり、ダニエル書は4章から5章の間に多くの事を省略しています。1-4章の主役であったネブカドネツァル王の治世は43年、BC562年にその息子メロダクが後を継ぎ2年統治しました。そしてメロダクは義理の兄弟ネリグリッサロスに暗殺され、ネリグリッサロスがBC560 年から4年間国を支配しています。その後彼の子ラバシ・マルドゥクが数ヶ月国を治めますが、この若い王も暗殺され、バビロン帝国はネブカドネツァル王の二番目の妻の子ナボニドスによって統治されるようになります。ベルシャツァル王はその子どもで、共同統治者でした。22節で、ベルシャツァル王は、ネブカドネツァル王の子(11、22節)とされますが、厳密にはそうではありません。
2.ベルシャツァル王の見た幻
ともあれ1節、ベルシャツァル王が、大宴会を催したとされるのは、BC539年、ネブカデネザルの死後23年目のことです。宴会もたけなわとなったその時、ベルシャツァルは、エルサレムの神殿から没収した金の器で酒を酌み交わし、金や銀、青銅、鉄、木、石で作った偶像を賛美したと言います。恐らくイスラエルの神を侮蔑する思いがあったのでしょう。すると突然、人間の手の指が現れ、壁に字を書き始めたと言います。「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」。この文字を解釈するために呼び出されたのが、すでに相当の高齢となっていたダニエルでした。彼は、壁の文字を読みました。「メネ」は「数えられる」あるいは「定められる」の意味で、王の統治年数が数えられて定められた、つまり終わりが決定された、とします(26節)。また「テケル」は「量られる」「算定される」を意味し、ベルシャツァルが神の秤で量られて、基準に達しなかったとされます(27節)。「パルシン」は、「配分される」を意味し、バビロンがメディアとペルシアの二つの国に分割されることでした(28節)。そしてその夜、難攻不落と言われたバビロンは、一線を交えることもなくペルシヤ軍に征服されてしまいました。歴史家のヘロドトスによれば、ペルシアの軍隊がユーフラテス川の流れを変え、巨大な防衛線を突破して川床を歩いて渡り、防衛軍を奇襲したとされます。
3.テケル
ダニエルは、高慢に陥ったネブカドネツァル王が、どのようになったのかを思い起こさせています(17-21節)。人間の地位など、単なる巡り合わせや弾みによるもので、実力とは無関係であったりするものです。否、正確に言えば、「人の息をその手に握り、すべての道をご自分のものとされる」(23節)神が、それを許されたから得られるものであるのに、勘違いも甚だしい現実に人は生きてしまうのです。それは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石で出来たものを神として拝む霊的なリテラシーの低さのためでしょう。聖書を読まずして、まことの神を知ることはできません。


ダニエル書4章

2020年10月26日 07時03分55秒 | ダニエル書
4章 ネブカドネツァルへのさばき
おはようございます。ダニエル書は、なぜ記録されたのか。遠い昔のエピソードを読みながら、やはり現代に起こっている事柄に対して、信仰的な見通し、確信を持つことが大切です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.まことの神の永遠の主権
 先の出来事の後、ネブカドネツァルは壮大な建築プロジェクトを完成し、王家の繁栄を極めていました(4節)。そして王は、奇妙な夢を見るようになり、心を悩ますようになります。その夢は、天にも達する勢いを持った木が切り倒され、残された切り株に鉄と青銅の鎖がかけられ、天の露にさらされるものです。バビロンの呪法師、呪文師たちがこの夢を解き明かせなかったので、再びダニエルが呼び出されました。そして再び、神がダニエルにその秘密を明らかにするのです。それは、ネブカドネツァルの高慢を戒め、悔い改めを促すものでした(26節)。しかしネブカドネツァルに聞く耳はありません(30節)。結局神の支配とそのめぐみを否定し、自分の力を誇ったネブカドネツァルは、夢で見た通りの裁きを受けていくのです。王は、1年後、ダニエルが語ったように奇妙な病に冒され野獣のような時を過ごします(23節)。その期間が終わり、夢を与えられた天地創造の神を認めた時に、理性が回復し、神を賛美するに至りました(34節)。
バビロンの祭司ベロッソスは、ネブカドネツァルが、治世の晩年に突然病気になったと伝えています。しかし急激に発病し、人間扱いできない状況に置かれ、急激に回復するこの病は、一体何だったのか、と考えさせられるところです。不可解ではありますが、大切なことは、これが神のなさったことであるということです。神が、ネブカデネザルの高慢を思い知らせ、いかに全世界に主権を及ぼそうと、この世のまことの主権者は、天地創造のまことの神ただお一人であることを、御示しになるための病であったということです。ですから、ネブカドネツァルが神の主権を認めて、神の前に遜った時に、神はこれを回復させられました。
2.理性が戻る
示唆的なのは、人間が、ネブカドネツァルのように自分の力を誇る時に、具体的な病にかからずとも、人間社会から追い出すべき野獣のような生き方をしてしまうことでしょう。社会の中で、様々な組織の長を見ながら、誠実で信頼に足る人もいると思う一方、どうしてこのような不誠実で、乱暴な言動や考え持った人がトップに立ち続けられるのか、と不思議に思うようなことはあるものでしょう。そのために実害を被ることもあるでしょう。しかし信ずべきは、まことの神の主権です。まことに神がおられるならば、そのような権力者の座もいつまでも続かないのです。人間が造られた被造物であり、土の器に過ぎないことを忘れるならば、神にその人を地獄に引きずり下ろすことは容易いことです。
ネブカドネツァルに起こった出来事が、このように記録されたのは、その後の信徒に、社会の見通しを得させ、励ましを与えるためでしょう。高慢な者の繁栄とその暴虐に驚いて、弱り果ててはなりません。彼らは滑りやすい所に置かれ、一挙に突き落とされるような者に過ぎないのです(詩篇73:18)。神を信頼し、誠実さの中に生きることです。

ダニエル書3章

2020年10月25日 06時20分53秒 | ダニエル書
3章 金の像と火の燃える炉
おはようございます。信仰は、身をもって証される営みです。その人の行動を見ていれば、どのような性質の信仰を持っているのかは一目瞭然です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.金の像
ネブカデネザル王の治世の18年目、ダニエルとその3人の友人がバビロンに来てから約20年後の出来事です。ちょうど、ネブカドネツァル王がエルサレムを征服し、多くのユダヤ人がバビロンに捕虜として連れて来られた時代でした。そのような背景ですから、金の像の建立は、宗教的な統制を試みるものであったのでしょう。
その像は、高さ約27メートル、幅約2.7メートルの巨大なものでした。おおよそ9階建てのビルの高さと考えてよいでしょう。彫像というよりは方尖塔に似たもので、王の偉大さを誇示するものであったとされます。この奉献式に、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴも出席させられていました。ダニエルは不在でしたが、それは、エルサレム陥落と関係があったのかもしれません。ともあれ、彼らはひれ伏してこの像を拝礼するように求められたのです。しかし、天地創造の唯一まことの神を拝む彼らに、それはできないことでした(出エジプト20:2-5)。三人は、心で拝まなければよい、といった態度も取らず、王が死の罰を宣告しても、これを拒否したのです。本章で注目すべきは、彼らの信仰告白でしょう。
2.たとえそうでなくても
彼らは、神の全能性を、またネブカドネツァル王への優位性を信じました。また、それは基本的に神の主権を認めるものでした。ですから、彼らは、神がこの危機的状況から自分たちを救い出すことができると告白ましたし(17節)、「たとえそうでなくても」、神のみこころに服従するまでであるとの考え方を表明しました(18節)。
 神を信じないネブカドネツァル王にとって、彼らの態度は、侮辱以外の何物でもなかったことでしょう。ネブカドネツァル王は、シャデラク、メシャク、アベデネゴに、自分の力を思い知らせようと、火の燃える炉に彼らを投げ入れるのです。しかし、生けるまことの神が、三人の信仰を祝され、ただちにその危機の中に下りてこられ、その火炎から守り、救ってくださったわけです。
この物語は、ハッピーエンドで終わっています。しかし現実はしばしばそうはならないことが多いものでしょう。「たとえそうでなくても」と神の主権に従う以外に道はない事の方が多かったりします。しかし信仰は、神の主権を認めるところがそもそもの出発点です。ご利益信仰というのは、結局自分が中心の信仰ですが、まことの信仰は、神を中心とするものでしょう。人間は自分に都合のよい神を作り出し、その後利益を求めようとするところがありますが、まことに神を認める者は、神の主権に服するのです。それは、ネブカドネツァルの称賛のことばにあるように「自分たちのからだを差し出しても」(28節)という全身全霊の行為です。口先だけのことではなく、まさに身をもって示すものです。そうであればこそ、まことに人のたましいを打つ信仰の証も生じるのです。

ダニエル書2章

2020年10月24日 06時51分13秒 | ダニエル書
2章 王の夢と解き明かし
おはようございます。ネブカドネツァルの見た夢を言い当て、解き明かす、無理難題。しかし、神の助けによって動ぜずに対応するダニエルに教えられるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ネブカドネツァルの夢
ネブカドネツァル王の統治期間は、BC605~562年です。その治世の第二年目のこと(BC604)、王は、繰り返し不可解な夢を見ました。王は、呪法師、呪文師、またカルデア人(「占星師」「学者」)を集めて夢の解き明かしを求めます。そしてただ夢を解き明かすのではなく、見た夢を言い当てるように求めるのです。これは至極難題です。実際、誰一人、そのような要求に応じることのできる者はいませんでした。国中の知者たちがすべて滅ぼされようとする(12節)危機的状況の中にダニエルが登場します(14節)。20-22節は、ヘブル詩独特の形式、交差配列法が使われています。つまり、詩人の一番言いたいことが、詩の真ん中(21、22節)に来る構成法です。そこでダニエルは、ヨセフのごとく、「私ではなく、神が」(創世記41:16)その夢をネブカドネツァルに示し、その夢の秘密を私に明かしてくれた」と強調しているのです。
2.神の計画
実際その夢は、ネブカドネツァル以降の王国の盛衰を語り、やがてそれらのすべてが打ち壊され、聖なる神の御国にとって代えられる、という壮大な神のご計画を語るものでした。純金の頭は、バビロンを象徴(37、38節)、銀の胸と両腕は、バビロンを滅ぼすメド・ペルシヤ帝国を象徴しました(5:28、31)。そして、青銅の腹とももに象徴され、「全地を治めるようになる」国はギリシアです(2:39、8:21)。BC 334年の初め、アレクサンダー大王の勢力は、東方のインド西部にまで及ぶ広大なものでした。しかし支配期間が短かかったので、政治的影響力はペルシャに劣ったのです。「鉄のように強い国」はローマ帝国を意味しました。事実、ローマ帝国は、エジプト、シリア、マケドニヤを一つの国に融合しようと試みましたが、それは粘土と鉄を混ぜるようなものでした(41-43節)。AD 395年、ローマ帝国は東西に分裂し、東側は約1000年に渡る中世の歴史を築きますが、西側は100年も持たず、AD 476年ゲルマン民族に滅ぼされていきます。人手によらずに切り出された一つの石は、イエス・キリストの再臨とその統治を意味します(詩篇2:9)。この地上の帝国主義体制が打ち壊され(46節)、全く新しい神の王国が樹立されるのです。
この神のご計画については、さらに7章においては四つの獣のたとえ、8章では、雄羊と雄やぎのたとえ、9章に70週、11章に北方の王と南方の王の戦いとして繰り返し語られます。大切なのは、今の地上の王国がすべてではなく、これはやがて、人手によらずに切り出された一つの石、つまりイエスの支配で永遠に消滅してしまう、ということです。確かに2000年前のイエスの十字架の死と復活は、私たちに神の御国の希望を与えました。
ただ本章が私たちに語り掛けることは、ダニエルのように、神の主権と支配に目を開いて生きるなら、どんな難題にも動じることはない、ということです。主に心を向けましょう。