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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ヨシュア記17章

2019年03月11日 07時08分39秒 | ヨシュア記
ヨシュア記17章
ヨシュア記17章 ヨセフ族の再挑戦
<要約>
おはようございます。マナセとエフライム、つまりヨセフ族の割り当てと、彼らのチャレンジが語られています。彼らに求められたことは、勇気と希望を持って、割り当てを自分のものとし、森を切り開いて、自分たちの国を開拓することでした。勇気と希望を持って踏み出さない限り、何も始まらないし、実際に踏み出してこそ獲得されるものもあることを覚えたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.割り当てを自分のものとする
16章に続いて、マナセとエフライムの相続地が取り上げられる。マナセの相続地はエフライムの北であったが、最初にヨルダン東部のバシャンとギルアデもまた彼の相続地となった経緯が説明される。「マキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった」(1節)。単純な書き方であるが、実に大切な真理を語る。マキルは割り当てを受けただけである。彼は神の約束の地を自分のものとしたのである。
ベテル神学校大学院の卒業式の前夜、教職員、卒業生、家族合同の聖餐式が持たれた。卒業生は壇上で、自分がお世話になった教授に挨拶し、聖餐を受けるのであるが、その時に、お世話になったウィルバー教授が、私をしっかり抱きしめて耳元でささやいた。「神があなたとともにおられる。未知の世界に踏み出す勇気を持て」と。勇気がないために、神の約束の地を自分のものにできないことがある。そういう意味で、このマナセ族の歴史は、私たちにいつでも希望と勇気を持って踏み出すことを教える。
2.勇気を持って踏み出す
次に3節、ツェロフハデには、息子がなく、生まれるのは娘ばかり5人、割り当ての相続地を削られる危機にあって、これが自分の罪のさばきとして受け入れる以外に道はないように思われたことだろう(民26:33)。しかし彼の死後娘たちは勇気をもって自分たちの相続を訴え、父の相続地を受け継ぐことが認められた(民27:1,7)。また、12節、マナセ族にはなかなか占領できない地があった。しかし彼らが「強くなってから」苦役を課したとある。勇気を持たねば始まらないことがある。神の戦士として、神の約束の地を確かに受ける者であろう。
3.自ら地を切り開く
さて14節、ヨセフ族は、くじで割り当てられた相続地では満足することができなかった。そこで、ヨシュアに、さらに多くの土地を求めたところ、ヨシュアは語った。「上って行って、そこを自分で切り開くがよい」(15節)。「あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。・・・切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。」(17,18節)。彼らは新たな開拓への挑戦を迫られたのである。
ここでヨセフ族という言い方がされたのは、先の勇気あるマナセの人たち、つまりマキルやツェロフハデの娘たちと区別するためなのであろう。彼ら以外の者たちは、実際には、自分たちの割り当ての領地が狭いとつぶやいた。しかし本当のところは、欲は深いが小心者だ、というだけのことに過ぎない。
私たちの人生には、呟こうものならいくらでも呟いて、後ろ向きになってしまうことはいくらでもある。強くてかなわぬと諦めてしまえば、それまでである。しかし、神が約束してくださった以上、自分で上って行って、切り開いて、追い払い、その終わる所まで、自分のものとするチャレンジに、神が加勢してくださらないはずがない。ヤコブは、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」(ヤコブ4:2)「神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます」(ヤコブ4:6)、と語った。自分自身が最大の敵である。「上って行って、切り開いて、追い払い、その終わる所まで、自分のものとする」神が約束されたのだからとしっかりとした志を持ちたいものである。主が私たちに与えられるのは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である(2テモテ1:7)。神が私たちに与えてくださった神の賜物を再び燃え立たせてくださるように。そして勇気をもって、未知の世界に踏み出し、占領する戦いへと送り出していただこう。

ヨシュア記16章

2019年03月10日 11時45分47秒 | ヨシュア記
ヨシュア記16章
ヨシュア記16章 ヨセフ族の相続地
<要約>
おはようございます。ユダ族に次いで、ヨセフ族の相続地の境界線が示されて行きます。単なる地理的境界の記述です。ここから何を読み取るのか。頭の中で聖書地理を整理し、理解していくこともよいのですが、そもそも、マナセとエフライムに対する祈りを覚え、彼らに与えられた祝福の性質について、思いをはせることが重要でしょう。目に見えない、形にならない祝福について、私たちはもっと理解を深める必要があります。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ヨセフ族の境界線
 ヤコブは、天に召される前に、ヨセフの子、マナセとエフライムを祝福している。マナセとエフライムを祝福することはヨセフを祝福することと同義であるとされているが、そこでヨセフは手を交差させ、弟のエフライムがより強くなる、と祝福した。ヤコブの祈りをみるならば、ヤコブがヨセフのために、つまりマナセとエフライムのために祈ったのは、単純な祝福である。豊かさである(創世記48:16)。また、ヤコブが12部族それぞれのために祈った時に、その祈りの中で祈られたことも、「その祝福は上よりの祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福」(創世記49:25)と語られるように、ひたすら「祝福」の一字となっている。
2.祝福の意味
 「祝福」とはよく口にすることばではあるが、一体何を意味するのか。また、エフライムはマナセよりも、大いなる者となる。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろうと語られるが、実際、この16章を読むと、エフライムが受けた相続地の大きさは、17章に描かれるマナセの相続地よりは小さい。マナセの領土は、ヨルダン川の東と西に分かれ、エフライムの7,8倍の大きさとなっている。祝福を単純に、この世での利益と考えれば、ヤコブの祈りは聞かれていない、ことになる。しかし、モーセはシナイの荒野で20歳以上の軍務につくことのできる男子を数え上げているが、そこでは、エフライム族はマナセ族よりも多くの勇士に恵まれていた(民数記1:33、35)。ただ第二回目の人口調査の時には、これが逆転しているものの、あくまでも一時的な現象で、旧約の歴史全体の流れの中では、エフライム族が人数的には勝っていたようである。相続地は小さいが、人には恵まれていた。しかし、それ以上に、やはりこの祝福は、霊的な遺産を相続する意味なのだろう。ヨシュアは、エフライム部族出身であったし、後に出てくるサムエルもそうである。つまり、信仰の精神を代々引き継がせていく要の部族というわけだ。
 そういう意味で、「祝福」は、何よりも土地や物ではなく、信仰の精神を受け継がせる重要な役割を担うことであって、それは、ヤコブが、イサクから受け継いだ長子の権利と祝福の祈りに通じる。ヤコブは、決して、エサウ以上に土地に恵まれたわけではない。しかし、全能の神と共に歩み、全能の神の祝福を祈る特権に与った。
3.祝福の根拠 
こうして考えてみると、私たちの祝福は、先の人々の祝福の結果である。私たちが祝福されるのは、私たちの業によるものではない。むしろ、私たちのために祈られた祝福に基づいて、神は私たちを祝福される。ヤコブの祝福はイサクの祈りによるものであり、イサクの祝福はアブラハムの祈りによる。またヨセフの祝福は、ヤコブの祈りによる。そして、私たちの祝福は、十字架上のイエスの祈りによる。となれば、私たちが子のために祈ることがいかに大切なことは言うまでもない。祝福は恵みによって受け継がれるものなのだから。また、イエスの故に、私たちは、神との関係において、決して断たれることのない祝福の中に入れられており、その祝福は、決して、地上の土地や物ではない。人々に、信仰の遺産があることを明確に示し、神との交わりの恵みを受け継がせていく祝福である。神があなたとともにいる。神があなたを救いだされる。神があなたを助けられる、と神を示すことができる祝福は何にも変えがたいものであろう。物を与える祝福はいずれ尽きてしまう。しかし、神の存在と恵みを分かち与える祝福は、決して尽きることがない豊かな祝福である。

ヨシュア記15章

2019年03月10日 11時45分17秒 | ヨシュア記
ヨシュア記15章
ヨシュア記15章 ユダ族の占領地
<要約>
おはようございます。ユダ族の占領地についての記録です。その中に、カレブの娘アクサのエピソードが挿入されています。彼女は、父親に相続を求め、二倍のもの、上の泉と下の泉を与えられているのです。私たちもまた霊の父である神に相続を求めるべきでしょう。それはキリスト者が世の光として輝くためです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ユダ族の相続
14章に続き、ユダ族の相続地の境界(15:1-12)と、境界に属する、占領した町々(15:20-62)が記される。南部の荒野から始まり、西、東、北、それぞれの境界が細かに記されるが、広大な地である。12部族の中では、東ヨルダンと西ヨルダンの二カ所を相続したマナセに次ぐ大きさである。占領した町の数も約110以上である。カレブとカレブの協力者であるユダ部族が、主に従い通した結果がそこに表わされているのだろう。
キルヤテ・セフェルを打つ者には、自分の娘を妻とするということばに、カレブの兄弟オテニエルが立ち上がったとされる。そのようにして、カレブのみならず、カレブに協力する者がこれを手にしていったのだろう。
そういう意味では、教会全体が一丸となって、神の約束を信じ、神の約束に立って、教会を建て上げる戦いを一緒に戦い抜いていく心が必要である。牧師だけではなく、信徒も心を一つにして神が与えられた教区を自分たちのものとしていく。そうであればこそ、教会が建てあがって行く。教会の成長は、教会全体の戦いである。
2.アクサの上の泉、下の泉 
ところで、ここに挿入されたカレブの娘アクサの物語に注目したい。このエピソードは士師記1章に再録されている。そして士師記3章には、オテニエルは、ヨシュアの死後、第一の士師としてイスラエルを救出し、約束の地カナンでの40年間の平和を導いた人物として記録されている(8-11節)。
このオテニエル、アクサを妻としてもらうことになったが、アクサは、オテニエルに、自分の父に畑を求めるように、しきりに促している。古代イスラエルにおいては、妻となる女性が持参金を求める習慣があったので、それは自然な要求であった。ただ、カレブの娘アクサの本当の願いは、畑地ではなく泉であった。カレブやユダ部族が相続した土地は、広大とはいえ、ユダの荒野と呼ばれたところである。そこは今でも、荒涼とした岩だらけの荒れ地である。その地で生き延びるのみならず繁栄するためには、泉が必要とされたのだ。カレブもそのことは重々承知だったのだろう。カレブは、娘の要求に対して、上の泉と下の泉、つまり倍の持参金を与えている。カレブは、信仰の士師オテニエルに相応しい、倍の祝福を与えることをよしとしたのである。それは、主に従う者への象徴的なエピソードである。
というのも私たちの人生は荒野に、何事かを建てあげるようなものかもしれない。しかし神はこれからの繁栄のために、と上の泉と下の泉を下さる。それは具体的にイエスご自身である。イエスは「私を信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:38)と言った。今の、混とんとした世の中において、最も宝とされるものは、命の泉のごとくと称される人だろう。つまり、慰めの人、光の人、愛の人、塩気のある人、神は、私たちを世の上の泉、下の泉とされるのである。
3.ユダの町のリスト
20節からは、ユダの町のリストになっている。全部で11の地区に分かれている。第一の地区はベエル・シェバを中心とした南部の広い区域で、36の町が含まれる(21-32節)。32節には29の町というが実際にあげられているのは36である。新改訳第三版の聖書では覧外注でそのあたりの矛盾を解こうとしているが、結局よくわからない(新改訳2017では削除されている)。つまりヘブル語聖書のギリシャ語訳(七十人訳)では、これらの町々の中からハツォル(23節)、ハツォル・ハダタ(25節)、へシュモン(27節)、アイン(32節)が欠落しており、イテナンとジフ(23、24節)をイテナンジフと読んでいる。またビズヨテヤ(28節)を「それらの村々と農地」と読み替えるので、全部で6つ町が減って30になる。七十人訳で読むと数が32節の合計に大分近いのであるが、いずれにしても、聖書本文が不完全な部分であることを思わされるところである。
第二地区から第五地区までは低地の町々と村々で、第二地区(33-36節)でも、14の町と言われるが実際には15の町の名があげられている。七十人訳では、ゲデロタイム(36節)が、牧場と訳されて数が調整されているが、新改訳にはその説明がない。第三地区は37-41節、第四地区は42-44節、第五地区は45-47節となる。第六地区(48-51節)からが山地の町々とされ、第七地区(52-54節)、第八地区(55-57節)、第九地区(58-59節)、第十地区(60節)そして最後の第十一地区は荒野(61-62節)となる。
こうして見るとユダ族はかなり戦略的に占領地を捉え、これを征服していったと思わされるとろである。私たちの宣教は、教会にいかにして人を引き込むかを考えやすいが、彼らは出て行ってこれを占領することに専心した。宣教は外に出て行く戦いである。それは、協力であると同時に戦略による。神が私たちに協力を得させ、戦略を明らかにしてくださるように祈りたいところであるし、何よりも、それは、自らが散らされた場で、世の人々の泉として喜ばれることにある。心に抱くイエスを世に指し示し、その恵みの泉に与らせていく戦いである。

ヨシュア記14章

2019年03月10日 11時44分24秒 | ヨシュア記
ヨシュア記14章
ヨシュア記14章 カレブの相続
<要約>
おはようございます。今日はカレブの信仰に教えられるところです。まさに神以外に頼るところのない人生を歩んできたカレブが、神の約束に信頼し、相続地を自分のものとする戦いに出ていきます。信仰に次ぐ信仰の歩みこそ求められているものでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

 カナンの地での相続地の割り当てが進められる。9部族半の部族がまだ相続地を受け取っていなかったからである。彼らは籤でその割り当てを決めた(3節)。彼らはそのような方法に神の導きを見出したのである。ともあれ、東側の相続は簡単に要約され、6節から、ユダ族を初め順番に相続地が決定された経緯が記録されている。
1.カレブの相続地
まず、カレブがその筆頭であった。カレブは、かつてカナンに民が侵入するように、ヨシュアと共にこれを求めた者であった。その様子は、民数記13-14章に詳しい。だがその後は、イスラエルの荒野の歴史の中ですっかり埋もれてしまった人物である。しかし彼は神の約束は変わらず生きており、それが実現し自分たちのものとなるまで、40年間忍耐深く待ち続け、ここでもう一度皆の信仰を引っ張りあげる者として再登場する。
彼は語った。かつて彼と共に上って行った者たちは「民の心をくじいた」と。しかし「私は私の神、主に従い通しました」と。大切なのは、彼がどのように従い通したかである。彼は、モーセを通して語られた神の約束と神の誠実さについて述べている(9、10節)。つまり、神の約束と神の誠実さに彼は守られたのである。信仰は自分で自分を鼓舞して持ち続けるようなものではない。やはり神の約束と神の誠実さにこそ、支えられるものであろう。
そもそも、カレブという名は、「犬」を意味した。あまりよい意味ではない。カレブは、その誕生が望まれない子であったのかもしれない。昔ラケルがひどい陣痛で苦しみ、死に臨んだ際に、生まれた息子に「ベン・オニ」(私の苦しみの子)と名付け、ヤコブがこれを「ベニヤミン」(右手の子)と改名したが、そんな改名すら配慮されなかった子どもだったのかもしれない。そんな人生の中で、カレブは、神に結びついて生きた人だったのであろう。彼は生きていくためには、神を必要とした。ただ神の助けを必要とした。神以外に彼を助ける者はありえなかった。だからただひたすらに神の約束と神の誠実さに期待した。そんな40年間の人生の積み重ねが、かつて、皆が「できない」と語るような時にも、ヨシュアと共に、「できる」と語らせたのだろう。85歳になったカレブは、「今なお、壮健で、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐える」と告白している。85歳は85歳であって、45歳とは異なっている。だからその意味は、85歳の下り坂にあっても、年齢相応に壮健であるということだろう。
つまり、「戦争にも」というのは、若者と同様、自分を取り囲む敵を相手に刀を振るい百人切りが出来るということではなく、むしろ、部族の長として、戦場に赴いて、陣頭指揮を執りうる程度に頭がはっきりとし、自分のこともしっかり自分でできるということであったのではあるまいか。カレブはユダ族にあって、なおも信仰の賜物を働かせ、リーダーとしての責任を果たしたのである。
カレブは語った。「主が約束されたこの山地を与えてください。主が私とともにいてくだされば、追い払うことができるでしょう」(12節)。ヨシュアは、カレブを祝福し、ヘブロンを相続地として与えた。しかしそれは勝ち取って得る相続地である。だから著者は、へブロンがカレブの相続地になったのは、「彼がイスラエルの神、主に従い通したからである」と書き加えている。信仰を持って神に近づき、神に従い通していく、そこに、私たちの祝福がある。信仰は一度限りの行為ではない。信じ続けて、従い通す、これに尽きるのである。

ヨシュア記13章

2019年03月10日 02時49分46秒 | ヨシュア記
ヨシュア記13章
ヨシュア記13章 残された地と東岸の分配
<要約>
おはようございます。老いたヨシュアに配慮し、ねぎらいのことばをかけ、老いに相応しい働きを加えてくださる主の愛情が伺えるところです。また、無意味なカタカナの地名の羅列に、約束通りにパレスチナの地を与えてくださった神の誠実さを思わされるところです。神を深く味わい知る、それこそ日々の聖書通読の喜びでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨシュアへのねぎらい
 ヨシュアは年を重ねて老人になった。そんなヨシュアに神が語られる。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。」(1節)。神は副将のヨシュアに共に戦った過ぎる時を振り返り、ねぎらいの言葉を書けると同時に、さらなるご自身のビジョンを分かち合っている。しかしヨシュアは、神とは違う時間軸に生きている。彼は確かに年を重ね、彼の意欲は明らかに減退し、身体はもちろん精神活動も弱くなっていたのである。人間には限界がある。だから神はヨシュアにもはや戦闘の前面に出ることよりも、戦略的に土地を分割する仕事を割り当てておられる。神は老いた者にさらに叱咤激励して、全力を尽くすように語るようなお方ではない。しかし一方でもうお役目は終わったのだ、と時期早々に肩を叩いて背を向けられるような方でもない。労をねぎらい、共に戦った時の思い出を共有し、その老いに相応しい働きを、加えてくださるお方である。神は愛である、というのは、こういうことだろう。
2.さらなるチャレンジ
それにしても、神の計画は、実に1人の人間が成し遂げることを超えている。6節、主将の神は「わたしは彼らをイスラエルの子らの前から追い払う」と、老いたヨシュアになおも前へ進もうとするご自身の決意を示されている。人は老い、その働きを次の世代へと委ねていく。しかし神は決して老いることも、疲れることもない。神は永遠に変わることはない。
そういう意味では、私たちが行っていることというのは、本当に小さなものであり、神のご計画の一端を担っているに過ぎない。人の働きを見ていて、ある者は大きな足跡を残し、ある者は小さな足跡を残した、と思うこともあるものだが、実際には、皆主将の神がお進めになった働きであって、あの人もこの人も副将、彼らの業績ではないのである。「わたしは…追い払う」と語る主の働きなのである。そのように皆で主の働きに参加している、主の働きに携わっている、という意識をもって、主を中心としてお仕えしていくことが、何よりも大事になるのだろう。
3.征服地の確認
これまでの流れを振り返れば、第1部の土地の征服(2-12章)の記録があり、大まかにパレスチナが占領され、戦争が終わると第2部の土地の分与(13-22章)の記録に入る。8節からは、その部族名と地名が長々と羅列された土地相続の記録である。読みにくいカタカナの地名が書き連ねられ、それはどこなのだろうか、とよくわからない感じである。
しかし、丁寧に読んでみると、2節から7節が一区切りで、ヨルダン川西側のパレスチナ全土を概観している。8節から13節は、ヨルダン川東側の占領地全体を北から南へと概観している。つまり13節までは全般的な記述。後半は、部族ごとの具体的な分割地について述べられている。たとえば、15から23節は、ヨルダン川東側の南、ルベン部族の土地、24節から28節は、ガドに割り当てられた地域、そして29節から31節は、マナセの半部族への割り当てが述べられている。
そのように読み、創世記からの流れを思い起こしてみると、これは、アブラハムたち族長に約束された地が、その子孫に確かに分け与えられたという神との契約の成就を確認している記述であることがわかる。つまりこの13章以降は、今の私たちにとっては、意味不明のカタカナの羅列に過ぎないとしても、当時の読者にとっては、確かに主は生きておられる、確かに主は力強く言葉通りに追い払ってくださった、と感慨深く、主の誠実さを思わせる箇所であり、また更なる信仰を鼓舞されるところでもあるのだ。
なおレビ人は、主への奉仕に献身した者として選ばれ、彼らに相続地はない。「イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であった」(14、33節)とされる。こうしてレビ人は、イスラエルの全土に散らされた。しかしそれによって神を礼拝する民としてのイスラエルの一致が守られていく。不思議なことである。神は今日も同じように、町ごとに長老(牧師)を任じておられる。それによって神の民としての統一が守られている。神にとってルーテルもカルヴァンもウェスレーも副将に過ぎない。色々な教派がありながらも、主への奉仕に献身した者が選ばれ配置されることによって、普遍的な主の教会が導かれている。地に相続地を持たない主の働き人の大切さはそこにある。主将である主に仕える働きこそ、大事にされるべきものである。