エステルは、神に用いられて自らの命を助け、ユダヤ人の命をも助けることになった。しかし、王の命令が取り消されることはなかった。王は、ジレンマをどのように解決したか。王は、新しい法令を出す。それは、ユダヤ人を攻撃する者に対して対抗しうる権利をユダヤ人に与えるものである。まさに「目には目を、歯には歯を」というべきか、根絶やしにしようとする者を根絶やしにし、殺害しようとする者を殺害し、滅ぼそうとするものを滅ぼし、家財をかすめ奪おうとする者をかすめ奪うことを許すものであった。つまり、ユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、家財をかすめ奪えという先の法令はあってなきものである。法令は取り消されずにして元の状況を取り戻したというべきだろう。
ここに、神が罪人を救いに導かれた十字架の思想がよくあらわされているようにも思う。神は罪人を罰するというその律法を変えることはない。一度出した律法は永遠に変えられることはないのである。神の決定は永遠に有効である。しかし神は、イエスにおいて律法の要求を満たし、イエスにおいて罪人のすべての咎と罪を罰せられたのである。法令は取り消されずにして、罪人は救われるという道が開かれている。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)エステル記が、メシヤ性を示しているとすれば、実にこの章がその性質をよくものがたっているのではないだろうか。すべての罪人は神の律法のもとに罪人であると明確に宣言され、律法の死の要求のもとに置かれている。しかし、この律法の要求を満たす者は誰もおらず、律法が変えられることもない。ただ律法の要求を、私たちの身代わりに満たした方がおられることによって、その方のゆえに、私たちは救われるのである。
また、救いに与った私たちは、王の急使に重ね合わせられるであろう。私たちが主の救いに与るということは、「光と、喜びと、楽しみと、栄誉」に与ることにほかならず、私たちはイエスの十字架の愛を独り占めにしてはならないのである。あるいは、自分の光と喜びと楽しみと栄誉に安堵してしまうということは、結局、神の救いの素晴らしさの半分も理解していないということになるのではないだろうか。私たちは、神の命令によってせきたてられ、急いで出ていく、急使と同じであって、自分の救いの恵みを分かち合わなくてはならない。私たちがなすべきことは皆キリストがやってくださった。私たちはキリストの十字架の恵みによって、今、光と喜びと楽しみと栄誉にあるとしたら、その恵みを急いで語り伝えなくてはならないのである。パウロは「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ」(1コリント9:16)と語っている。福音を伝えるということは、どうしてもしなければならないことである。そうしなければ災いですらある。というのも、私たちは、罪の滅びから、恵みによって救われたからである。今日もこの恵みを語り伝える機会が与えられることを祈り、機会に応じて語ることとしよう。
ここに、神が罪人を救いに導かれた十字架の思想がよくあらわされているようにも思う。神は罪人を罰するというその律法を変えることはない。一度出した律法は永遠に変えられることはないのである。神の決定は永遠に有効である。しかし神は、イエスにおいて律法の要求を満たし、イエスにおいて罪人のすべての咎と罪を罰せられたのである。法令は取り消されずにして、罪人は救われるという道が開かれている。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)エステル記が、メシヤ性を示しているとすれば、実にこの章がその性質をよくものがたっているのではないだろうか。すべての罪人は神の律法のもとに罪人であると明確に宣言され、律法の死の要求のもとに置かれている。しかし、この律法の要求を満たす者は誰もおらず、律法が変えられることもない。ただ律法の要求を、私たちの身代わりに満たした方がおられることによって、その方のゆえに、私たちは救われるのである。
また、救いに与った私たちは、王の急使に重ね合わせられるであろう。私たちが主の救いに与るということは、「光と、喜びと、楽しみと、栄誉」に与ることにほかならず、私たちはイエスの十字架の愛を独り占めにしてはならないのである。あるいは、自分の光と喜びと楽しみと栄誉に安堵してしまうということは、結局、神の救いの素晴らしさの半分も理解していないということになるのではないだろうか。私たちは、神の命令によってせきたてられ、急いで出ていく、急使と同じであって、自分の救いの恵みを分かち合わなくてはならない。私たちがなすべきことは皆キリストがやってくださった。私たちはキリストの十字架の恵みによって、今、光と喜びと楽しみと栄誉にあるとしたら、その恵みを急いで語り伝えなくてはならないのである。パウロは「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ」(1コリント9:16)と語っている。福音を伝えるということは、どうしてもしなければならないことである。そうしなければ災いですらある。というのも、私たちは、罪の滅びから、恵みによって救われたからである。今日もこの恵みを語り伝える機会が与えられることを祈り、機会に応じて語ることとしよう。