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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ネヘミヤ記11章

2009年11月15日 06時11分08秒 | ネヘミヤ記

 11章は、文脈から言って7章4節につながるものであるとされる。つまり城壁や城門を修復した後、捕囚から帰国した者の出所を明らかにし(7:6-72)、律法の学びによって人心を刷新し(8-10章)、いよいよ、エルサレムの居住者を定め、町の再興を目指すということになったのだろう。エルサレムの居住者が決められていく。当時の首都エルサレムは、神殿があって宗教的な意義が大きいとしても、敵対者の攻撃による危険や、生活の手段となる畑が遠いなど不便であり、住みつくには困難な町であったようだ。しかし、そのような所に敢えて住んで、エルサレムの町を再興する者を、民は祝福した。3節以降は、帰還してエルサレムに住んだ人々の名簿となっている。多少の相違はあるが、1歴代誌9:2-21の名簿とほとんど同じである。ユダ族の指導者たち(4-6節)、ベニヤミン族の指導者たち(7-9節)、祭司たち(10-14節)、レビ人(15-18節)、神殿に仕える者(19-24節)という順にその名が記されている。合計約三千名の者が移住した。
 しかしそれにしても一体誰が、このようにして町を再興することになると人々は予測していたことであろうか。彼らが、捕囚から連れ戻され、町を再興することは、遠い昔からすでに預言されていたことであるが、実際にそのようなことが起こるなど考えられもしないことだったろう。事実、どれほど多くの文明が、歴史上戦争に敗れて滅びていることか。しかしユダヤ人の国は、戦争に敗れて、他国への強制移住、雑婚、捕囚の苦難を通らされながらも、もう一度再興されるのである。
 このような歴史を示しながら、聖書が私たちに語りかけてくるのは、神は真実であり、その預言のことばのすべてを成就されるということだろう。イエスの十字架による贖いもそうであり、となれば、まだ成就していないイエスの再臨にも注意せねばならない、ということにもなるだろうか。
 ともあれ、歴史は動かぬ証拠を私たちに差し出してくる。その証拠の前に、私たちは、神への信頼を新たにし、進んで困難な町エルサレムに住むことを祝福として受け止めていく必要がある。あなたにとって困難な町エルサレムは何であろうか。信仰を持って将来を臨みつつ、移住すべき町エルサレムは何であろうか。先を見通された神の祝福の中にこそ、歩ませていただくこととしよう。


ネヘミヤ記10章

2009年11月14日 06時23分22秒 | ネヘミヤ記
 イスラエルの国が再興されるにあたり、イスラエルの人々がなしたことは、主との正しい関係を持つという堅い盟約を結ぶことであった。彼らは具体的に署名をした。また、実際に律法に従って歩む生活を始めるにあたって、彼らが決断していったことは、次の三つである。
1) 宗教的な純粋性を保つ(異宗教の人とは結婚をしない)(30節)。
2) 安息日を守る(安息日の売り買いをしない)(31節)
3) ささげ物を携えて礼拝を守る(シェケルの三分の一、初物、十分の一)(32-29節)
 宗教的な純粋性を保つことは、彼らが、イスラエルの神を中心とするにあたり、まず最優先されるべきことであった。実際、結婚というのは生涯にわたる連帯であるから、異なる宗教を持ちながらその関係を維持するのは大変なことである。若い時は、先を見通すことが難しくて、失敗してしまうということもあるだろう。聖書は最初から答えを出してしまっているから、逆になかなかそのことに素直に従えないということがあるものだが、やはり、人間の歴史を通して、人々が最初から最良の道として結論した知恵が反映されているのだろう。しかしそのことで、思慮が足りず失敗してしまったとしても、私は人生を諦める必要はないのだと思う。失敗で物事を諦めてしまうのは、やはり世俗性の影響なのだと思う。日本の社会というのは、失敗が赦されないところがあったりする。そういう精神性が教会の中にも入り込んでしまうところがあるのだが、教会は、十字架の赦しの光に照らされているところであるのだから、気づかされたところで、神に立ち返り、神に期待し、神の導きを祈り続けることが大切ではなかろうかと思う。パウロは、「召された時のままの状態で歩むべきことを語る(1コリント7:17)。異宗教の伴侶を持ちながら、信仰の純粋性を保つことは、難しい事であることに間違いはない。しかし、神が自分を初穂としてくださったという信仰を持ち、歩むことが大切なのだろう。
 また安息日を守るということ、それは「しない」ということの消極性のみならず、「ささげる」という積極性の両面から語られている。日本人のクリスチャンにとっても、最も大きな生活変化は、毎週の安息を守るということではないだろうか。それまで日曜日は、自分の体を休め、自分の好きなことをし、自分の好きな人たちと集まりあって時を過ごすということをしていたのが、日曜日ごとに、神に召し集められ、特に趣味が合うわけでもない、相性が合うわけでもないけれども、イエス・キリストを信じるという一点で、集まりあい、礼拝をし、神にささげものをする。これは、全く大きな生活変化であると言わなくてはならない。こういう生活習慣は、人間のがんばりでそんなに長くは続かない。なんやかんやで遅かれ早かれ元の生活に戻ってしまい、気づいたら、教会から離れていたということになるものだろう。しかしクリスチャンにとって礼拝は信仰の本質である。礼拝というのは、神を第一とする行為である。だから週の初めの日に、一切の仕事を止めて、神の前にひれ伏すことからはじめていく。だから、神に自分の収穫の中の初物を捧げていく、ということが起こってくるわけである。献金というのはお賽銭のようなものではなく、まさに神を第一としている信仰の行為であるということができる。
ただこの個所は、後半、ほとんどがささげものについてしるされている。そこにはもう一つの意味がある。つまり、彼らがペルシヤ帝国から帰還し、自分たちの国を再興していくにあたり、経済的な自立をまず願ったということの表れでもある。彼らはペルシヤ帝国の支配を受けていたのだから、ペルシヤ帝国にいつまでも経済的な支援を期待することができたことだろう。しかし、彼らはそうはしなかった。むしろ、精神的のみならず、経済的にも自立した歩みをすることを願い、自らささげあったのである。
教会の働きというのは、誰かが支えてくれる、というものではない。教会を構成するメンバーの一人一人が、その教会の必要というものを理解しなくてはいけない。関心をもってかかわり、教会を支えていくことを考えなくてはならない。日本の国家も、日本人一人一人が支えていくものだろう。税金の使われ方ばかりに神経をとがらせるようなことではなく、日本の将来を考えて、日本のミッションを支えていくという国民意識が養われなくてはならないのだろうが、それは教会も同じである。教会の財政に対して、使われ方のみならず、捧げて支えていくことに対して、しっかりとした理解を持っていく必要があるだろう。教会財政に無関心であってはならない。自分の教会がどのように支えられているかということについては、理解をしなくてはならないし、その経済的自立性が脅かされている時には、そのことに重荷を持っていならなくてはならない。そして、まず自分が、初物を捧げているだろうか、十分の一をささげているであろうか、その新しい信仰者としての習慣を実践しているかどうかを問わなくてはならないと思う。主に救いだされた者として、聖書の教えに従う歩みをしっかりと踏ませていただくこととしよう。

ネヘミヤ記9章

2009年11月13日 06時19分13秒 | ネヘミヤ記
 イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった。自分たちの罪と先祖の咎を告白した。立ったままで昼の四分の一は律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神主を礼拝した。
 大いなる悔改めの日が起こったというべきか。続く記述はイスラエルに対する神の関わりの要約である。著者はイスラエルの歴史を振り返り、そこにあらわされた神の恵みと忍耐と祝福について語っている。しかしなぜ、一日中、聖書を読み、告白し、礼拝するようなことが起こったのか。それは、60年ぶりに、イスラエルが再興されたことの故であり、神が真実を尽くしてくれて、自分たちを回復させてくださったことを心から味わったが故であったのだろう。
 どんなに頑張っても、神が不真実であると思うところに悔改めが起こることはない。神が不誠実であると思うところに、真の礼拝はない。しかし、イスラエルの人々は、ペルシヤに捕囚の身であり、奴隷であり、もはや自分たちの国エルサレムが再興されることも、城壁や神殿が再建させられることも、さらには、自分たちの主への礼拝が、このように再生させられて、イスラエルの民の自治が赦されることも考えられなかったことであった。その考えられないことが現に起こったのだが、それは、神の約束の実現ということであって、自分たちが頑張ったことでも、世界がただそのように動いたということでもなかったということを、イスラエルのエジプト脱出の歴史に重ねて語っているのである。
こうして見ると、イスラエルのエジプト脱出というテーマは、聖書に繰り返し語られていることを思わされるところである。ヨハネの黙示録も、やはり新しいエジプト脱出を物語っているように、聖書は苦難する者に、アブラハムとの契約に基づく、脱出の恵みを約束している。今の私たちに対して言えばイエスの十字架の契約に基づく脱出の道について語ることである。問題はこれをどこまで信じていくかということであり、また、順調に物事が進んでいる時に、あわれみ深い神の恵みのもとに、どこまで真実に、神を礼拝しつつ、歩ませていただけるかということであろうかと思う。しかし私たちの現実は、苦難の時には、神の約束を信じ続けることができないし、一息つく順調な時には、神に背を向けて、神の前に悪事を行うということになる。しかしそのような不真実な私たち、あくまでも自分に都合よく生きてしまう私たちに対して、神は、決して約束を変えられることはなく、神の命令を守り、神に聞き従う時に、私たちが苦悩の中にあれば必ず救い出すのみならず、大いなる恵みを与え、神の恵みを思い通りに扱うことができるまでにもされる、ということはイスラエルの歴史を通して証明されてきたことであるというわけである。
だが考えてみれば、神は契約と恵みを守られるというが、神の前に真実に歩んできていると思う者にとっては、今のこの苦難というのは何なのかということがあろうかと思う。神は真実であると教えられても、なんとなく、自分に対してはそうは思えなくて、心に響いてこないということがあるだろう。大切なのは、神は、イスラエルの民を愛されたということではないか。私をも愛しておられるが、実際にはイスラエルの民全体を愛しておられる。そして今の私の苦難は、私の罪の故ではなく、イスラエル民の不真実の故であるということもあるだろう。神は、不公平ではないか。真実な者を祝され、不真実な者をのみ切り捨てられたらよいのではないか。不真実な者を守り救い、あわれみを注ごうとするあまりに、誠実な者を犠牲にされるのではないか、そんな風に思われることがあるのではないだろうか。
しかし、神はそのようにしてまでも一人の罪人が悔い改めることを期待されている。イエスの十字架の愛というのはまさにそういうことだろう。一人の誠実で真実な人のいのちが犠牲にされて、悪者が赦されるということであるのだから。
本当に神の心を自分の心としない限りこういう十字架の愛に生きることはできない。せいぜい、神は不公平であると思ってしまうのがおちである。だが、親の忍耐によって子どもは育てられるし、上司の忍耐によって部下も生かされる。またリーダーの忍耐と熟慮によって、組織も再生される。そういうことを思えば、今の自分に世間的な意味での幸いがなくても、今の自分の家族がやがて贖われるならば、あるいは、組織が救われるならば、あるいはこの日本が神に贖われるならば、その時が来るならば神は約束を果たしてくださったと、思うことができるのではないだろうか。天地万物のまことの神を信じるクリスチャンとして生きるということは、自分の幸せ云々の問題ではない。全人類の罪の赦しのために死んでくださった十字架のイエスを仰いで生きることは、世の罪をその背に負い、自分のみならず世の中が贖われることを願いつつ生きることでもある。神の恵みの広さというものに、目を開かせていただき、神の恵みの深さに生きる者とさせていただこう。

ネヘミヤ記8章

2009年11月12日 06時18分37秒 | ネヘミヤ記

 城壁が完成したのは、第六の月。そしてエズラを中心に律法を朗読するために、民が集まり合ってきたのは、第七の月である。それはイスラエルにとっては、年の初めの月であり、第1日はラッパを吹き鳴らす日(レビ23:34)、10日は贖罪の日(レビ23:27)、15日から一週間は仮庵の祭り(レビ23:34)が行われる日である。
 贖罪の日というのは、断食をし、全ての仕事をやめて完全な安息を守る日である。民の一年間の罪が赦され、きよめられる(レビ16章)日であり、そのために民のすべての咎とそむきの罪を負うとされるアザゼルのやぎを荒野に放つ儀式が執り行われる。仮庵の祭りは、収穫祭とも呼ばれ(出エジプト23:16)、ユダヤ人の三大祭りの一つでもある。その名は、その祭りの7日間、木々の大枝となつめやしの小枝からできた仮小屋に住むように命じられているところから来ている(レビ23:42)。イスラエルのエジプトからの脱出を記念誌、荒野における放浪と仮小屋での居住を記念する意味をもっている(レビ23:43)。
 この日、エズラは、律法を朗読し、解説するために呼び出され、民の前で律法をはっきりと呼んで説明したとされる。民は律法の書に耳を傾け、読まれたことをはっきり理解したという。
 神学校時代、ある教師が、この箇所を引用して、聖書を知的に理解できない人々の救いについて自分の考えを述べたことを思い出す。「男も女も、すべて聞いて理解出来る人たちからなる集団の前で」(2節)とあるように、いわゆる信仰告白というのは、聖書のことばを聞いて理解できることが前提であると。だから、聖書を読んで知的に理解できない人たちの救いについて一緒に考えることはできない、というわけである。要するに、私たちが通常、救いの基準としてみなす、イエスの十字架が自分の罪の赦しのためであるという信仰告白ができないからといって、その人が救われていないということもできないし、そもそもそういう信仰告白に基づいて救いを論議してもあまり意味がない場合がある。むしろ、そのような人の救いについては、ローマ書2章の原則、つまり「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」(12節)に基づいて、いわゆる聖書を理解できないならば理解できないなりに、その救いについて神にゆだねていかなくてはいけない部分があるということであった。確かにその通りであると思う。聖書を聞いて理解できる、ということに基づいて、聖書は語られている。
 さて、聖書は朗読され(7節)、説明された(8節)。おそらくそれは、ヘブル語から当時の言語であったアラム語に翻訳され、また解説されたのであろう。明解な解き明かしのもと、イスラエルの民は、神の前に自分たちの罪を覚えさせられたのではないだろうか。悲しむ民に対して、ネヘミヤたちは、この日が、贖罪の日、つまり神の恵みの赦しを覚える日であるから、喜ぶようにと諭すのである(9-11節)。それは祝宴の時だからである。そういう意味で、私たちは、聖書の朗読において、自分の罪を自覚することも大切であるし、自分の足りなさ、欠けを覚えさせられることも大切であるが、同時に必ずやその罪が神に赦されているし、またこのように欠けだらけの者でも愛されており、祝福に導かれていることを覚えて喜ぶということも忘れてはならないのであろう。聖書を読み、自分を責めるような読み方をするのではなく、積極的にその十字架の恵みを受け入れ、神の赦しのもとに、新しい一歩を踏み出す様な読み方をしていくことが大切である。
13節以降は、仮庵の祭りについての記録であるが、実際にヨシュアの時代からこの日まで守られていなかったというわけではない(17節)それは、ソロモンの時代にも(2歴代誌8:13)、ヒゼキヤの時代にも(2歴代誌31:3)守られている。ただしこれほどの喜びと感動を持って、新しい出発を期して行われたことは、イスラエルが約束の地に入った時代以来なかった、ということであろう。信仰の感動は失せやすい。しかしいつでも、聖書のみことばに、自分たちの再出発を思い起こし、新しい歩みを積み重ねる者でありたい。

ネヘミヤ記7章

2009年11月11日 05時54分19秒 | ネヘミヤ記
 城壁再建の後、ネヘミヤがなしたことは、エルサレムを治めるリーダーを任じることである。ちょうど、パウロがテトスに、町ごとに長老たちを任命することを命じていた(テトス1:5)ことを思い起こさせる箇所である。群れが出来たら、そのリーダーを任じる。それは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建てあげるため」(エペソ4:12)であった。その際に、ネヘミヤが基準となしたのは、誠実さと神を畏れる心の態度であった。パウロも、長老たちの基準を明確にしている。「非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であるうことが条件である」(テトス1:6)と。言わんとしていることは共通している。神の民を治める働きにふさわしいのは、誠実さを持っている人、神を畏れる心を持っている人である。
 城壁を建てあげたとしても戦いが終わったわけではない。外からの敵に備えて内側を整えていくために、働き人が必要なのである。そういう意味では、教会も会堂が建て上がったとしても、問題は集う人であって、人が整えられていく必要がある。そのために、いかなる指導者が選ばれていくかは重要であろう。
 次にエルサレムに住む人々の名簿が取り上げられる。この名簿は基本的にエズラ記2章の内容と一致している。問題は、ネヘミヤは出所を明らかにして、純粋なユダヤ人のみにエルサレムに住むべき人を明確にした、ということであろう。そういう意味では、教会も、同じで、全ての人にその門戸は開かれているが、教会のメンバーとなるのは、出所の明らかな人、つまりはキリストの新生に拠っている人に限られている。イエス・キリストが自分の救い主であり、主であることを明確にしている人である。イエスを救い主として感謝して受け止めているだけではない、イエスを自分の主として、自分はイエスのしもべであるとはっきりイエスの権威のもとに遜っている人が教会のメンバーとして加えられる。求道者というのは、イエスを自分の主とするかどうかで迷っている人のことであるし、イエスの存在について理解しようとしている人である。ここがはっきりしていないと、その集まりは何の集まりなのかがわからなくなってしまう。
 私たちは、教会のメンバーとして自分が、キリストにあって新生していることを証明できなくてはいけない。資格があることを示せなくてはいけない。交わりにおける信仰の純粋さということは、はっきりと意識されるべきことではないだろうか。いわゆるキリスト教同好会を作っているわけではない。教会は、キリストを主とし、キリストに従う者の集まりである。アンテオケにおいてイエスの弟子たちが初めてクリスチャンと呼ばれるようになったのも、そのような彼らのアイデンティティが明確であったからだろう。それまでのユダヤ人の宗教とも違う。聖書を用いているが、はっきりと十字架のイエスを中心とする群れであり、復活のイエスを喜びをもって証する群れである、その特徴が、教会を教会たらしめるものなのだと言える。
 今日も、自分が、キリストのしもべであることをはっきりとさせるような歩みをさせていただこう。