11章は、文脈から言って7章4節につながるものであるとされる。つまり城壁や城門を修復した後、捕囚から帰国した者の出所を明らかにし(7:6-72)、律法の学びによって人心を刷新し(8-10章)、いよいよ、エルサレムの居住者を定め、町の再興を目指すということになったのだろう。エルサレムの居住者が決められていく。当時の首都エルサレムは、神殿があって宗教的な意義が大きいとしても、敵対者の攻撃による危険や、生活の手段となる畑が遠いなど不便であり、住みつくには困難な町であったようだ。しかし、そのような所に敢えて住んで、エルサレムの町を再興する者を、民は祝福した。3節以降は、帰還してエルサレムに住んだ人々の名簿となっている。多少の相違はあるが、1歴代誌9:2-21の名簿とほとんど同じである。ユダ族の指導者たち(4-6節)、ベニヤミン族の指導者たち(7-9節)、祭司たち(10-14節)、レビ人(15-18節)、神殿に仕える者(19-24節)という順にその名が記されている。合計約三千名の者が移住した。
しかしそれにしても一体誰が、このようにして町を再興することになると人々は予測していたことであろうか。彼らが、捕囚から連れ戻され、町を再興することは、遠い昔からすでに預言されていたことであるが、実際にそのようなことが起こるなど考えられもしないことだったろう。事実、どれほど多くの文明が、歴史上戦争に敗れて滅びていることか。しかしユダヤ人の国は、戦争に敗れて、他国への強制移住、雑婚、捕囚の苦難を通らされながらも、もう一度再興されるのである。
このような歴史を示しながら、聖書が私たちに語りかけてくるのは、神は真実であり、その預言のことばのすべてを成就されるということだろう。イエスの十字架による贖いもそうであり、となれば、まだ成就していないイエスの再臨にも注意せねばならない、ということにもなるだろうか。
ともあれ、歴史は動かぬ証拠を私たちに差し出してくる。その証拠の前に、私たちは、神への信頼を新たにし、進んで困難な町エルサレムに住むことを祝福として受け止めていく必要がある。あなたにとって困難な町エルサレムは何であろうか。信仰を持って将来を臨みつつ、移住すべき町エルサレムは何であろうか。先を見通された神の祝福の中にこそ、歩ませていただくこととしよう。