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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ネヘミヤ記5章

2013年02月11日 05時42分06秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション>
 城壁の工事に費やした期間は約2ヶ月弱であった。その間、ネヘミヤたちは、外からの攻撃に備えて、槍を片手にしながら突貫工事をしたのである。当然農作業や牧畜をする余裕はなかった。飢饉が生じ、それは深刻な生活の危機をもたらした。「食べて生きるために穀物を手にいれなければならない」「このききんに際し、穀物を手に入れるために、畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない」「税金のために、畑とぶどう畑をかたにして、金を借りなければならない」「今私たちは自分たちの息子や娘を奴隷に売らなければならない」彼らは窮状を訴えた。ところが、これが耐え難いものとなっていたのは、同胞の困窮した者たちに金を高利で貸して、搾取している者がいるという、社会悪のためであった。外敵の脅威ではない、内部からの危機が生じていた。ネヘミヤは怒った。
 神の共同体を建てあげるには、この世の感覚を捨て去らなければならないところがある。この世の感覚からすれば高利でお金を貸すというのは当たり前のことだろう。お金がないんだったら貸してあげましょう。利息はいくらです。世の中はそうやって動いている。しかし、神の共同体に世の中の考えを安易に持ち込むことは危険である。それは、しばしば世の中とは全く変わらない状況を生み出してしまう。お金を貸し付けることそれ自体は罪ではない。しかし、神の律法は、同胞の生活を守るために利息を取ることを禁じている(申命23:19-20)。貸付が困窮を強いるならば、それは非難されるべき罪である。神のみことばに従って、配慮すべき事柄がある。教会らしい考え方というものがある。
<夜のディボーション>
ヨハネは、晩年に書いた手紙の中で、兄弟が互いに愛し合うことを語っている。積極的に愛し合い、支え合い、仕え合うことを語っている。私たちは、同胞の必要を本当に知らなくてはならない。そして必要があれば、自分の利益を考えながら手を差し伸べるのでなく、本当に助けなくてはならない。まさに「私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を畏れながら歩むべきではないか」(9節)なのである。外部から教会に訪れた人たちが、教会に世の中と変わらぬ搾取を見たり、争いを見たりすることほど残念なことはない。やはり私たちは神を畏れている者として、それにふさわしい歩みをすべきであり、知らずに影響されている世的な考え方が自分の内にもあることに常に注意し、識別し、神の民の倫理と配慮に生きるべきであろう。
 ネヘミヤは経済的困窮のために売り飛ばされた家族を買い取った。そして負債を帳消しにすることを提案した。そしてイスラエルの全集団がそのことに主の前で合意し、主をほめたたえ、その約束を実行したという。ネヘミヤはこの期間、またネヘミヤの親類も総督としての手当も受けなかったという。
 ネヘミヤが自分自身のみならず親類をも犠牲にしたように、家族皆が犠牲になる、お金の問題ではない大変な苦労があったはずである。そういう苦労や心遣いに敏感な信仰者でありたい。必要があれば、配慮できる感性をもった信仰者でありたい。

ネヘミヤ記4章

2013年02月10日 06時02分27秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション>
 パウロの回心は、劇的である。ある意味で、人生の完全な方向転換がなされた、と思えるようなものである。しかし現実はそうではない。パウロは、ローマ書7章で、キリスト者の人生の複雑な葛藤を語っている。すっきりしているようですっきりしていない、現実というものがある。ある日綺麗さっぱりと人生が変わってしまった、というわけではなく、なかなか変わりにくい心、変わりにくい生活の現実の中で生きている、ということがある。それは、回心が生半可であった、不徹底、不完全であった、というわけではない。むしろ、肉なる性質と向かい合い戦う、ということが私たちの信仰の本質であったりするのである。 
そういう意味で、「この哀れな信仰者たちは、一体何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。1日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」(2節)と私たちの試みが、あざけられることもあるだろう。私たちの肉なる性質は、焼けてしまったものであり、ちりあくたの山である。しかも、それを再生する力もない。「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない」山をなしている肉の力の強さに、私たちは変われない、神に喜ばれる人生を歩むことは無理である、と思うことがあるだろう。しかし、あきらめてしまったらそれまでである。ネヘミヤはどのように立ち向かったのかに注目しよう。
<夜のディボーション>
 ネヘミヤは、まず神を見上げるように勧めた「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい」(14節)。肉の力に圧倒されておらず、助けてくださる主を覚えるべきである。すべてが主にかかっているかのように、主に声をあげるのだ。「私たちの神が私たちのために戦ってくださる」(20節)という確信をどこかで体験しなくてはいけない。
第二に、ヘブルの著者は、「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません(ヘブル12:4)」と語ったが、肉と徹底して戦う覚悟を決めることである。城壁を築く者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていたとされる(17節)。また、「夜明けから星の現れる時まで、槍を手に取っていた」(21節)、「私たちのうちのだれも、服を脱がず、それぞれ投げ槍を手にしていた」(23節)という記述も注目される。つまりは、変えられた人生には、緊張感がある。臨戦態勢にあって、自分を建てあげることを妨げるものへの警戒がある。私たちは真剣に自分の救いの達成に務めなくてはならないのである。
 そして第三に、「こうして、私たちはこの工事を進めた」(21節)とあるように、自らなすべき歩みを先に進めることである。敵を警戒し、敵と戦うことばかりを考えていてはだめである。自分を守ることだけではなく、信仰の道を先に進めることである。否定ではなく肯定していく。主の祝福に向かって突き進む気持ちが大切である。

ネヘミヤ記3章

2013年02月09日 06時30分43秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション。
 エルサレムの城壁再建が始まる。まず羊の門の再建(1節)。これは、北東に位置し、神殿と神殿の供え物の市場がこの近くにあった。メアのやぐら、ハナヌエルのやぐら、そして魚の門に進んだ(2-3節)。魚の門は現在のダマスコ門の位置にあった。ともあれ、北側の城壁を羊の門から西に向かって順に修復していったことになる。次にエシャナの門、新共同訳や口語訳では「古い門」となっているが、恐らく、北の城壁東右角で、エレミヤが預言をした「隅の門」(エレミヤ31:38)なのだろう。一度東側に戻った形であるが、続いて、ハルマフの子エダヤが自分の家に面する所(10節)、谷の門(13節)と続くあたり、そのまま北側から西に折れて南下し、西側の城壁が修復された。谷の門は、ネヘミヤがエルサレム城壁の修復のために、夜中に起きて探索を開始した場所である。ネヘミヤは、西側の中程にあった城壁の門からヒノムの谷に沿って南下し、南の城壁で折り返し、東側の城壁をケデロンの谷に沿って北上するのであるが、途中道が悪いので獣から降りて、ちょうど谷の門の反対側にあった泉の門のあたりまで、徒歩で歩いて引き返している(2:12-15)。このネヘミヤの探索の順に沿うかのように、北側→西側→南側→東側へと城壁の修復は進んだ。16節、ダビデの墓地、人口貯水池、勇士たちの家は今では所在不明である。恐らくケデロンの谷に沿った南側のダビデの旧都に位置したのかもしれない。最後に、城壁の修復は、水の門(26節)から馬の門(28節)、東の門(29節)、招集の門(31節)、羊の門(32節)と東側に位置する門とその周囲を北上して修理される。こうして、エルサレムの城壁はぐるりと一巡して再建されていく。
<夜のディボーション>
 再建の事業には、大祭司(1節)、半区の長(12-19節)、金細工人(8節)、女性たち(12節)、そして外の人、つまり外国人たちも(2,5,7節)皆加わった。しかしそこには協力しようとしない人もいた(5節)。教会の建設も同じである。牧師も信徒も、才能のある者もない者も、女も子どもも、皆共同して当たらなくてはならない。しかし現実には、皆の苦労に手を貸そうとしない人がいるのは、驚くことではない。ただ、城壁の再建によってイスラエルの人々が神の栄光が表されることを願ったように、教会というのは、神の栄光が証されることを願い、自らの手を汚す人々によって再建されていくのである。北側から西側、南側から東側へとぐるりと一巡する働きには時間もかかるし、労力も多い。しかしそれらを黙々とやり遂げる人たちによって、教会は建てあげられていく。要するに教会が建つか建たないかは、その教会を担う人々の責任感と耐性、そして協調性と実行力にかかっているのである。そして、教会が建てあげられるためには、まず彼らがそうしたように自分の家に面するところ、つまり自分自身の事柄から再建する必要がある。自分の信仰生活、教会生活がしゃんとせずに、教会の働きを勧めても、それは見せかけで偽りに過ぎない。自らを再建し、教会において神の栄光を見ることを望みとし喜びとして、建てあげる者として、教会の働きに関わっていく者であろう。

ネヘミヤ記2章

2013年02月08日 05時59分33秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション>
 エルサレムの窮状を嘆き、これを何とかしたいと願ったネヘミヤであるが、彼は即座に、献酌官を辞めて出て行ったわけではなかった。彼は、祈りならが、神の時を待ったのであろう。しかし、何かが起こるという保障もなかった。時は、容赦なく過ぎて行った。
そんなネヘミヤの変化にアルタシャスタ王が気づいた。献酌官ともあろう者が、王の前に、悲しい顔つきで出ていることは、王にとっても心穏やかならぬことであったことだろう。しかしそれは演技ではなく、真の悲しさを伝えるものであり、さらにネヘミヤを信頼する王としては親身に聞きたいと願うことであった。ただそのように、心を開いてくれる王に対して、率直に自分の心の内、ことに政治的なユダヤの町の再建を願う思いを語ることは誤解されかねないことであり、まして王に心配されるということは、ネヘミヤにとっては恐れを抱くことであったのだろう。ネヘミヤは、「天の神に祈ってから」答えている。
聖書の神は「天の神」として語られる。単に神ではない。それは、イスラエルのみならず、ペルシャにおいても、あらゆる民族の上にある天の神である。すなわちアルタシャスタの思いすらも、導かれる神である。その神が、語る一つ一つのことばを、王に納得させてくださるようにという思いからであろう。王はそれを受け止めた。祈りが、私たちのことばを導き、ことばを納得させ、物事を動くように導いていくのである。
<夜のディボーション>
こうしてネヘミヤはエルサレムにやってきた。あるとき、彼は夜中に起きた。一人、エルサレムの廃墟の中を歩き回った。崩れた城壁を巡り、泉の門と王の池の方に進んだがそこには通れる場所がなかった。彼は、一人で町を巡りながら、心の底で神に祈る思いであったことだろう。しかしそればかりではない。ネヘミヤは、考えたのであろう。何をどのようにすべきか、どこからどのように手をつけるべきか。神は私たちに考える頭を与えてくださった。祈るだけではない。具体的に物事を考え抜いていくところに、私たちの道も開かれていく。だから、自分に不都合が生じたとすれば、どうしたらこの不都合を生じさせなくてすむべきかを考えて行けばいいことである。また、自分が失敗してしまったとしたら、どうしたらこの失敗を起こさなくてすむようになるかを考えて行けばいいことである。祈りと思慮をもって、明晰に物事を考えて、物事を整理して、物事にあたっていくのである。
 こうしてネヘミヤは必要を確かめた(11節)。そしてなすべきことを、代表者たちに訴えた。「さあ、再建にとりかかろう」と言って、その良い仕事に着手したという。神を信じる者は、慌てずに物事に取り組んでいく。神がなさろうとしていることは、実現していくのであるから、じっくり腰を据えて取り組んだらよいのである。神が私たちの働きを導かれる。神の御心をなしていると思えばこそ、神の先導を覚えて、神の熱心さがこれを成し遂げると思い、なすべきことをなすまでである。落胆したり、不安になったりするのは、どこか自分の思いを成し遂げようとするからなのだろう。神の働きに取り組もう。

ネヘミヤ記1章

2013年02月07日 05時40分09秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション>
ネヘミヤ記は、アルタシャスタ1世の第20年(BC445年)であるから時間順から言えば、エステル、エズラの後ということになる。また1:1「キスレウの月」というのは、現在の11-12月頃になる。しかし、2:1、第20年の「ニサンの月」というのは、現在の3-4月頃になるので、順序が逆で1:1は、アルタシャスタ1世の第19年のことではないか、つまり筆写上の誤りがあるのではないかと言われている。しかし、チスリの月(現在の9-10月頃)を年の初めとする考え方によれば、この順序でよいことになる。
 ネヘミヤはこの時シュシャンにいた。ペルシャの王は、シュシャンを春の王宮にしていた。ネヘミヤは王の献酌官、つまり王の給仕をする王の酒の毒味役であった。それは、王の命のみならず、政治的な相談役としても重要な役割であったようだ。
 そこに、親類のひとりハナニがやってきた。ユダから来た数人の者と一緒に、やってきて、エルサレムの窮状について聞かされた。城壁の破壊は、ネブカデネザル王時代のバビロン軍によるものではなく、むしろエズラ4:7-23に描かれた、神殿再建の途上で起こったものであるとされる。ネヘミヤが、深い悲しみをもってその報告を受け止めたのは、それがつい近頃の出来事であり、同時代の同胞の苦しみを聞かされたからなのだろう。そこでネヘミヤは、一人神の前に出て、神に祈り求めた。ネヘミヤの信仰を知るところである。
<夜のディボーション>
まずネヘミヤは自分も自分の先祖も罪を犯したと告白している。自らの非を率直に認めている。私たちに足らないのは、自らの現実を直視することだろう。なかなか自分自身の問題を素直に認め、ここに問題がある、ここが悔い改めなければならないところであると、自分自身に向かい合うことができない。しかしそこが、神の回復に与る第一歩である。
次に、ネヘミヤは、モーセに対する約束を取り上げて、信頼をもって祈っている。たとえ私たちが神に裁かれ、散らされ、回復の見込みなしと思われる状況にあっても、神の前に悔い改める時に、神はこれを回復されるという約束を取り上げている。私たちの祈りに希望があるとすれば、それは、自分ではなく、アブラハム、モーセ、またイエスに対して神が約束されたことを思い起こすところにある。モーセに対する約束は、私たちのものであり、イエスに対する約束も、私たちのものであるという信仰に立つことにある。ネヘミヤは、モーセに対する約束を自分自身に対する約束として取り上げた。「立ち返り、命令を守り行うなら」(9節)、いつでも、主は私たちに心を開かれると約束されたそのことばをそのまま取り上げて、信頼して祈った。
そして最後に、ネヘミヤは、自分たちが贖われた者であるという信仰に立っている。私たちに神の特別な恩恵があるとするならば、それは、私たちが、イエスの十字架の血潮という尊い代価によって贖われた者という事実にある。誰でも、イエスの十字架を自分の罪の赦しのためであり、神との和解のためであると受け入れる者は、贖われた者である。特別な神の愛顧を受けるようにされた者である。神に期待を寄せて歩ませていただこう。