<朝のディボーション>
城壁の工事に費やした期間は約2ヶ月弱であった。その間、ネヘミヤたちは、外からの攻撃に備えて、槍を片手にしながら突貫工事をしたのである。当然農作業や牧畜をする余裕はなかった。飢饉が生じ、それは深刻な生活の危機をもたらした。「食べて生きるために穀物を手にいれなければならない」「このききんに際し、穀物を手に入れるために、畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない」「税金のために、畑とぶどう畑をかたにして、金を借りなければならない」「今私たちは自分たちの息子や娘を奴隷に売らなければならない」彼らは窮状を訴えた。ところが、これが耐え難いものとなっていたのは、同胞の困窮した者たちに金を高利で貸して、搾取している者がいるという、社会悪のためであった。外敵の脅威ではない、内部からの危機が生じていた。ネヘミヤは怒った。
神の共同体を建てあげるには、この世の感覚を捨て去らなければならないところがある。この世の感覚からすれば高利でお金を貸すというのは当たり前のことだろう。お金がないんだったら貸してあげましょう。利息はいくらです。世の中はそうやって動いている。しかし、神の共同体に世の中の考えを安易に持ち込むことは危険である。それは、しばしば世の中とは全く変わらない状況を生み出してしまう。お金を貸し付けることそれ自体は罪ではない。しかし、神の律法は、同胞の生活を守るために利息を取ることを禁じている(申命23:19-20)。貸付が困窮を強いるならば、それは非難されるべき罪である。神のみことばに従って、配慮すべき事柄がある。教会らしい考え方というものがある。
<夜のディボーション>
ヨハネは、晩年に書いた手紙の中で、兄弟が互いに愛し合うことを語っている。積極的に愛し合い、支え合い、仕え合うことを語っている。私たちは、同胞の必要を本当に知らなくてはならない。そして必要があれば、自分の利益を考えながら手を差し伸べるのでなく、本当に助けなくてはならない。まさに「私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を畏れながら歩むべきではないか」(9節)なのである。外部から教会に訪れた人たちが、教会に世の中と変わらぬ搾取を見たり、争いを見たりすることほど残念なことはない。やはり私たちは神を畏れている者として、それにふさわしい歩みをすべきであり、知らずに影響されている世的な考え方が自分の内にもあることに常に注意し、識別し、神の民の倫理と配慮に生きるべきであろう。
ネヘミヤは経済的困窮のために売り飛ばされた家族を買い取った。そして負債を帳消しにすることを提案した。そしてイスラエルの全集団がそのことに主の前で合意し、主をほめたたえ、その約束を実行したという。ネヘミヤはこの期間、またネヘミヤの親類も総督としての手当も受けなかったという。
ネヘミヤが自分自身のみならず親類をも犠牲にしたように、家族皆が犠牲になる、お金の問題ではない大変な苦労があったはずである。そういう苦労や心遣いに敏感な信仰者でありたい。必要があれば、配慮できる感性をもった信仰者でありたい。
城壁の工事に費やした期間は約2ヶ月弱であった。その間、ネヘミヤたちは、外からの攻撃に備えて、槍を片手にしながら突貫工事をしたのである。当然農作業や牧畜をする余裕はなかった。飢饉が生じ、それは深刻な生活の危機をもたらした。「食べて生きるために穀物を手にいれなければならない」「このききんに際し、穀物を手に入れるために、畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない」「税金のために、畑とぶどう畑をかたにして、金を借りなければならない」「今私たちは自分たちの息子や娘を奴隷に売らなければならない」彼らは窮状を訴えた。ところが、これが耐え難いものとなっていたのは、同胞の困窮した者たちに金を高利で貸して、搾取している者がいるという、社会悪のためであった。外敵の脅威ではない、内部からの危機が生じていた。ネヘミヤは怒った。
神の共同体を建てあげるには、この世の感覚を捨て去らなければならないところがある。この世の感覚からすれば高利でお金を貸すというのは当たり前のことだろう。お金がないんだったら貸してあげましょう。利息はいくらです。世の中はそうやって動いている。しかし、神の共同体に世の中の考えを安易に持ち込むことは危険である。それは、しばしば世の中とは全く変わらない状況を生み出してしまう。お金を貸し付けることそれ自体は罪ではない。しかし、神の律法は、同胞の生活を守るために利息を取ることを禁じている(申命23:19-20)。貸付が困窮を強いるならば、それは非難されるべき罪である。神のみことばに従って、配慮すべき事柄がある。教会らしい考え方というものがある。
<夜のディボーション>
ヨハネは、晩年に書いた手紙の中で、兄弟が互いに愛し合うことを語っている。積極的に愛し合い、支え合い、仕え合うことを語っている。私たちは、同胞の必要を本当に知らなくてはならない。そして必要があれば、自分の利益を考えながら手を差し伸べるのでなく、本当に助けなくてはならない。まさに「私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を畏れながら歩むべきではないか」(9節)なのである。外部から教会に訪れた人たちが、教会に世の中と変わらぬ搾取を見たり、争いを見たりすることほど残念なことはない。やはり私たちは神を畏れている者として、それにふさわしい歩みをすべきであり、知らずに影響されている世的な考え方が自分の内にもあることに常に注意し、識別し、神の民の倫理と配慮に生きるべきであろう。
ネヘミヤは経済的困窮のために売り飛ばされた家族を買い取った。そして負債を帳消しにすることを提案した。そしてイスラエルの全集団がそのことに主の前で合意し、主をほめたたえ、その約束を実行したという。ネヘミヤはこの期間、またネヘミヤの親類も総督としての手当も受けなかったという。
ネヘミヤが自分自身のみならず親類をも犠牲にしたように、家族皆が犠牲になる、お金の問題ではない大変な苦労があったはずである。そういう苦労や心遣いに敏感な信仰者でありたい。必要があれば、配慮できる感性をもった信仰者でありたい。