<朝のディボーション>
国家の再興にあたり、まずイスラエル人が始めたことは、主との正しい関係を持つ盟約を堅く結ぶことであった。彼らは具体的に署名をした。また、実際に律法に従って歩む生活を始めるにあたり三つのことを決断した。
1) 宗教的な純粋性を保つ(異宗教の人とは結婚をしない)(30節)。
2) 安息日を守る(安息日の売り買いをせず、安息年の規定を守る)(31節)
3) ささげ物を携えて礼拝を守る(シェケルの三分の一、初物、十分の一)(32-29節)
宗教的な純粋性を保つことは、彼らが、イスラエルの神を中心とするにあたり、まず最優先されるべきことであった。実際、結婚は生涯にわたる連帯であるから、異なる宗教を持ちながらその関係を維持するのは大変なことである。若い時は、先を見通すことが難しく、結婚に失敗することがある。聖書は初めから正解を出すので、素直に従えないことがあるものだが、やはり、それは知恵ある神のことばである。ともあれ、失敗したとしても人生を諦める必要はない。社会にそういう風潮があったとしても、聖書は、悔い改めを促している。失敗に気づいたら、神に立ち返り、神の回復を祈ることが大切なのだ。異宗教の伴侶を持ちながら、信仰の純粋性を保つことは、難しい事であることに間違いはないが、神が自分を初穂としてくださったという信仰を持ち、歩む知恵を持とう。
<夜のディボーション>
また安息日を守ること、それは「しない」消極面のみならず、「ささげる」積極面の二つの面から語られている。日本人がクリスチャンになったら、最も大きく変化する生活は、毎週の安息を守ることである。それまで日曜日は、自分の体を休め、好きなことをし、好きな人たちと集まりあって時を過ごしていたのが、日曜日ごとに、神に召し集められ、イエス・キリストを信じる一点で集まりあい、礼拝をし、神にささげものをするようになる。大きな生活変化である。礼拝は、神を認め神を第一とする行為である。人間の頑張りで続くような生活ではない。
後半は、ほとんどがささげものについての記述である。そこにはもう一つの意味がある。つまり、彼らはペルシヤ帝国から帰還し、自分たちの国を再興していくにあたり、経済的な自立をまず願ったのである。彼らはペルシヤ帝国の支配を受けていたのだから、いつまでもその経済的な支援を期待することができた。しかし、そうはしなかった。むしろ、精神的のみならず、経済的にも自立した歩みをすることを願い、自らささげあった。
教会財政に無関心であってはならない。教会を構成するメンバーの一人一人が教会の必要を理解し、教会を支えていくことを考えなくてはならない。日本の国家も、日本人一人一人が支えていくものだろう。税金の使われ方ばかりに神経をとがらせるのではなく、日本の将来を考えて、日本のミッションを支えていく国民意識が養われなくてはならないのだろうが、それは教会も同じである。まず自分が、初物を捧げる。十分の一をささげる。信仰者としての習慣を実践していくことが大事なのである。
国家の再興にあたり、まずイスラエル人が始めたことは、主との正しい関係を持つ盟約を堅く結ぶことであった。彼らは具体的に署名をした。また、実際に律法に従って歩む生活を始めるにあたり三つのことを決断した。
1) 宗教的な純粋性を保つ(異宗教の人とは結婚をしない)(30節)。
2) 安息日を守る(安息日の売り買いをせず、安息年の規定を守る)(31節)
3) ささげ物を携えて礼拝を守る(シェケルの三分の一、初物、十分の一)(32-29節)
宗教的な純粋性を保つことは、彼らが、イスラエルの神を中心とするにあたり、まず最優先されるべきことであった。実際、結婚は生涯にわたる連帯であるから、異なる宗教を持ちながらその関係を維持するのは大変なことである。若い時は、先を見通すことが難しく、結婚に失敗することがある。聖書は初めから正解を出すので、素直に従えないことがあるものだが、やはり、それは知恵ある神のことばである。ともあれ、失敗したとしても人生を諦める必要はない。社会にそういう風潮があったとしても、聖書は、悔い改めを促している。失敗に気づいたら、神に立ち返り、神の回復を祈ることが大切なのだ。異宗教の伴侶を持ちながら、信仰の純粋性を保つことは、難しい事であることに間違いはないが、神が自分を初穂としてくださったという信仰を持ち、歩む知恵を持とう。
<夜のディボーション>
また安息日を守ること、それは「しない」消極面のみならず、「ささげる」積極面の二つの面から語られている。日本人がクリスチャンになったら、最も大きく変化する生活は、毎週の安息を守ることである。それまで日曜日は、自分の体を休め、好きなことをし、好きな人たちと集まりあって時を過ごしていたのが、日曜日ごとに、神に召し集められ、イエス・キリストを信じる一点で集まりあい、礼拝をし、神にささげものをするようになる。大きな生活変化である。礼拝は、神を認め神を第一とする行為である。人間の頑張りで続くような生活ではない。
後半は、ほとんどがささげものについての記述である。そこにはもう一つの意味がある。つまり、彼らはペルシヤ帝国から帰還し、自分たちの国を再興していくにあたり、経済的な自立をまず願ったのである。彼らはペルシヤ帝国の支配を受けていたのだから、いつまでもその経済的な支援を期待することができた。しかし、そうはしなかった。むしろ、精神的のみならず、経済的にも自立した歩みをすることを願い、自らささげあった。
教会財政に無関心であってはならない。教会を構成するメンバーの一人一人が教会の必要を理解し、教会を支えていくことを考えなくてはならない。日本の国家も、日本人一人一人が支えていくものだろう。税金の使われ方ばかりに神経をとがらせるのではなく、日本の将来を考えて、日本のミッションを支えていく国民意識が養われなくてはならないのだろうが、それは教会も同じである。まず自分が、初物を捧げる。十分の一をささげる。信仰者としての習慣を実践していくことが大事なのである。