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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ネヘミヤ記10章

2013年02月16日 05時49分02秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション>
 国家の再興にあたり、まずイスラエル人が始めたことは、主との正しい関係を持つ盟約を堅く結ぶことであった。彼らは具体的に署名をした。また、実際に律法に従って歩む生活を始めるにあたり三つのことを決断した。
1) 宗教的な純粋性を保つ(異宗教の人とは結婚をしない)(30節)。
2) 安息日を守る(安息日の売り買いをせず、安息年の規定を守る)(31節)
3) ささげ物を携えて礼拝を守る(シェケルの三分の一、初物、十分の一)(32-29節)
 宗教的な純粋性を保つことは、彼らが、イスラエルの神を中心とするにあたり、まず最優先されるべきことであった。実際、結婚は生涯にわたる連帯であるから、異なる宗教を持ちながらその関係を維持するのは大変なことである。若い時は、先を見通すことが難しく、結婚に失敗することがある。聖書は初めから正解を出すので、素直に従えないことがあるものだが、やはり、それは知恵ある神のことばである。ともあれ、失敗したとしても人生を諦める必要はない。社会にそういう風潮があったとしても、聖書は、悔い改めを促している。失敗に気づいたら、神に立ち返り、神の回復を祈ることが大切なのだ。異宗教の伴侶を持ちながら、信仰の純粋性を保つことは、難しい事であることに間違いはないが、神が自分を初穂としてくださったという信仰を持ち、歩む知恵を持とう。
<夜のディボーション>
また安息日を守ること、それは「しない」消極面のみならず、「ささげる」積極面の二つの面から語られている。日本人がクリスチャンになったら、最も大きく変化する生活は、毎週の安息を守ることである。それまで日曜日は、自分の体を休め、好きなことをし、好きな人たちと集まりあって時を過ごしていたのが、日曜日ごとに、神に召し集められ、イエス・キリストを信じる一点で集まりあい、礼拝をし、神にささげものをするようになる。大きな生活変化である。礼拝は、神を認め神を第一とする行為である。人間の頑張りで続くような生活ではない。
後半は、ほとんどがささげものについての記述である。そこにはもう一つの意味がある。つまり、彼らはペルシヤ帝国から帰還し、自分たちの国を再興していくにあたり、経済的な自立をまず願ったのである。彼らはペルシヤ帝国の支配を受けていたのだから、いつまでもその経済的な支援を期待することができた。しかし、そうはしなかった。むしろ、精神的のみならず、経済的にも自立した歩みをすることを願い、自らささげあった。
教会財政に無関心であってはならない。教会を構成するメンバーの一人一人が教会の必要を理解し、教会を支えていくことを考えなくてはならない。日本の国家も、日本人一人一人が支えていくものだろう。税金の使われ方ばかりに神経をとがらせるのではなく、日本の将来を考えて、日本のミッションを支えていく国民意識が養われなくてはならないのだろうが、それは教会も同じである。まず自分が、初物を捧げる。十分の一をささげる。信仰者としての習慣を実践していくことが大事なのである。

ネヘミヤ記9章

2013年02月15日 06時33分52秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション> 
 イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった。自分たちの罪と先祖の咎を告白した。立ったままで昼の四分の一は律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神主を礼拝した。
 大いなる悔改めが起こった。彼らはイスラエルの歴史を振り返り、そこにあらわされた神の恵みと忍耐と祝福について語っている。しかしなぜ、一日中、聖書を読み、告白し、礼拝するようなことが起こったのか。それは、60年ぶりに、イスラエルが再興された事実、神が真実を尽くし、自分たちを回復させてくれた事実を認めざるを得なかったためなのだろう。
 確かに、捕囚によって奴隷となった彼らに、祖国エルサレムの城壁や神殿を再建し、主への礼拝を復興する望みはありえなかった。しかしそれが起こった。神は、彼らを滅ぼし尽くさず、あわれみを示された。主は契約と恵みを守り、彼らを再生し、ご自身の真実を示されたのである。神を不真実と思うところに悔改めは起こらない。神を不誠実と思うところに真の礼拝はない。神の真実さを認めていくところに、礼拝が生じる。
<夜のディボーション>
 6節以降、彼らが具体的にどのように神を認めたのかを教えられる祈りである。彼らは自分たちの歴史の中に、神を認めた。神は創造の神である(6節)。また神は選びの神である(7節)。そして神は契約を結び、約束を果たされる神である(8節)。それは具体的にまず出エジプトという歴史的な出来事を通じて現された(9-23節)。カナンの地への入植は、まさに、神の約束の実現に他ならない。私たちの神は、「契約と恵みを守られる、大いなる、力強い、恐るべき神」(32節)なのである。
だが、私たちはそうではない。イスラエルの歴史がそうであるように、苦難が襲い掛かれば、私たちは神の約束を信じ続けることができない。一息つく順調な時には、神に背を向けて、神の前に悪事を行ってしまう(28節)。私たちは、不真実であり、自分に都合よく神を利用する者である。
その現実をはっきり認めて、神の前にひれ伏し、自分を無にするのが礼拝である。今彼らは、礼拝を再興し、イスラエルの民としての歩みを再出発しようとしていた。しかしそれが始まりであり、これからが神のあわれみと力を必要とするところであった。だから彼らは祈る。私たちは今、非常な苦しみの中にいる、と。彼らはすでに解放されたわけではない。依然として苦しみの中に置かれていた。苦しみから解放されるのは、まだ先のことである。だからこそ神のあわれみと力を祈り求めたのでる。
ただ興味深いことに、そこで彼らは、いよいよ具体的に解放されることを祈っているわけではない。むしろ、自らの不義と苦しみを認め、いよいよ神との堅い盟約に生きることを決意している。救いを願っている間は、まだ本当の悔い改めではないのだろう。真の悔い改めはまず、主への従順を決意し、自らの命を主に委ねるのである。

ネヘミヤ記8章

2013年02月14日 06時26分08秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション>
 城壁が完成したのは、第六の月。そしてエズラを中心に律法を朗読するために、民が召集されたのは第七の月である。それはイスラエルにとっては、年の初めの月であり、第1日はラッパを吹き鳴らす日(レビ23:34)、10日は贖罪の日(レビ23:27)、15日から一週間は仮庵の祭り(レビ23:34)が行われる日である。
 贖罪の日は、断食をし、全ての仕事をやめて完全な安息を守る日である。民の一年間の罪が赦され、きよめられる日(レビ16章)であり、そのために民のすべての咎とそむきの罪を負うとされるアザゼルのやぎを荒野に放つ儀式が執り行われる。仮庵の祭りは、収穫祭とも呼ばれ(出エジプト23:16)、ユダヤ人の三大祭りの一つでもある。祭りの7日間、木々の大枝となつめやしの小枝からできた仮小屋に住むところからそう名付けられた(レビ23:42)。イスラエルのエジプトからの脱出を記念し、荒野における放浪と仮小屋での居住を記念する(レビ23:43)。
 この日、エズラは、律法を朗読し、解説するために呼び出され、民の前で律法をはっきりと呼んで説明した。それは「夜明けから真昼まで」(3節)。律法の書というのは、具体的に創世記から申命記までの五書を指す。午前中で読み終わるとしたらその抜粋であったのだろう。民は律法の書に耳を傾け、読まれたことをはっきり理解した。そして、朗読そのものが、主の礼拝を導いた。民は皆、「アーメン、アーメン」と応答し、地にひれ伏し主を礼拝したのである。まさに、みことばに応答し、主を崇め、主の権威の前にひれ伏すことが礼拝である。主を認めることが礼拝である。
<夜のディボーション>
 さて、聖書は朗読され(7節)、説明された(8節)。おそらくそれは、ヘブル語から当時の言語であったアラム語に翻訳され、また解説されたのであろう。明解な解き明かしのもと、イスラエルの民は、神の前に自分たちの罪の歩みを覚えさせられたのだろう。しかしネヘミヤたちは、贖罪の日、つまり神の恵みの赦しを覚える日であり、喜びの季節の幕開けなのだから、悲しみに終わらないようにと諭していく(9-11節)。聖書の朗読において大切なのは、自分の罪や足りなさ、欠けを覚えさせられることだけではなく、同時にそのような者の罪が赦され、愛され、祝福に導かれていることを覚えることだろう。聖書を読み、自分を責めるような読み方ではなく、積極的に十字架の恵みを受け入れ、感謝と喜びをもって信仰の歩みを前に推し進めるような読み方が大切なのである。
13節以降は、仮庵の祭りについての記録であるが、実際にヨシュアの時代からこの日まで守られていなかったというわけではない(17節)それは、ソロモンの時代にも(2歴代誌8:13)、ヒゼキヤの時代にも(2歴代誌31:3)守られている。ただしこれほどの喜びと感動を持って、新しい出発を期して行われたことは、イスラエルが約束の地に入った時代以来は、なかったということであろう。信仰の感動は失せやすい。しかしいつでも、聖書のみことばに、自分たちの再出発を思い起こし、新しい歩みを積み重ねる者でありたい。

ネヘミヤ記7章

2013年02月13日 06時03分31秒 | ネヘミヤ記
<朝のディボーション>
 城壁再建の後、ネヘミヤは、二人の人物にエルサレムを治めるように命じた。ハナニとハナヌヤである。しかしこれらの人々はどうも、行政ではなく、警備の長として任じられたようである。行政の担当者は、すでに各地区において任じられているからである(3:9)。ともあれネヘミヤが選別の基準としたのは、誠実さと神を畏れる心の態度であった。敵に対する警戒の強い時期としては、当然のことであっただろう。警備は固く、開門と閉門は、日の出と日没ではなく、「太陽が高く上って暑くなる」頃、つまり住民全員が活動する時とされた。
エルサレムへの第一次帰還者の数は、66節以下を見ても、約5-10万程度である。そのごく一部がエルサレムに住んだ。当時のエルサレムは東西500メートル、南北1キロ程度とされていたから、4節、「この町は広々としていて大きかったが、そのうちの住民は少なく、家もまだ十分に建てられていなかった」というのも理解できることである。エルサレムの人口は少なく、警備も十分ではなかったのである。こうして後に、エルサレム以外に住むユダヤ人をくじでエルサレムに移住させるという計画も実行されることになる(11:1)。
エルサレムの町を再建するというのは、こうしてみると、ただ帰還し、城壁を再建し、という以上の努力を必要としたことがわかる。あらゆるものを動員し、再配置する知恵を必要とすることであった。そしてまさに神の恵みあってこそ成し遂げられることであった。
<夜のディボーション>
 5節からは、そうしたエルサレム移住計画の前準備としての人口調査で、作成された名簿である。この名簿は基本的にエズラ記2章の内容と一致している。注目されるのは、ネヘミヤが移住者の出所を明らかにして、エルサレムに住むべき人として純粋なユダヤ人のみに絞った点である。そういう意味では、教会も、同じで、全ての人にその門戸は開かれているが、教会のメンバーとなるのは、出所の明らかな人、つまりはキリストの新生に拠って立っている人に限られている。イエス・キリストが自分の救い主であり、主であることを明確にしている人である。イエスを救い主として感謝して受け止めているだけではない、イエスを自分の主とし、はっきりイエスの権威のもとに遜っている人が教会のメンバーとして加えられる。求道者は、イエスを自分の主とするかどうかで迷っている人のことであるから、その区別をはっきりしないと、何の集まりなのかがわからなくなってしまう。
 まして祭司職を果たす、つまりは教会に仕え奉仕するメンバーとなることにおいては、資格があることを示せなくてはいけない。教会を建て上げるというのは、キリスト教同好会を作ることとは違う。教会は、キリストを主とし従う者の集まりである。アンテオケにおいてイエスの弟子たちが初めてクリスチャンと呼ばれるようになったのも、そのような彼らのアイデンティティが明らかであったからだろう。はっきりと十字架のイエスを中心とする群れであり、復活のイエスを喜びをもって証する群れである、その特徴が、教会を教会たらしめるものなのだ。キリストの群れとしての教会を完成させていこう。

ネヘミヤ記6章

2013年02月12日 06時01分58秒 | ネヘミヤ記
 城壁は門を修復するのみで完成に近づいていた。エルサレムの周りに住む者たちは、何とか、この工事を中止させようと妨害の手を尽くしてきた。しかしそれはもう完成間近であった。そこでアラブ人ゲシェムが、最後の手段にネヘミヤを個人的に呼び出そうとした。四回に及んで会見の申し出をし、最後の申し出は、開封した手紙、つまり公開状の形で送られた。エルサレムでの工事は、ネヘミヤが王となり、ペルシヤに反逆する目的で行われている噂があり、その陰謀が広まる前に、話し合う必要があるというわけである。しかし、そのような根も葉もない噂にネヘミヤは動じない。ただネヘミヤは書いている。「ああ、今、私を力づけてください」(9節)神の力を必要とする、思いがあったのだろう。
 敵対者は、あらゆる手を尽くして妨害し、自分の手には負えない脅威を感じさせられることもあるだろう。しかし、すべては神の手中にあることだ。神が万物を支配し、維持ししておられる。そのお方が、私たちと共にあるとしたら、大切なのは、神の業がなされるまで私たちが待ち続けられるか否かにある。しかし往々にして私たちは打たれ弱く、何でも悲観的に受け止めてしまったり、後ろ向きな思いになってしまったりで、神を信頼し続けることができない。自分の弱さに負けてしまう。「ああ、今、私を力づけてください」(9節)。何度でも神に心の内に叫び、神の力づけを得なくてはならない。
<夜のディボーション>
 公開状が失敗したので、トビヤの発案によるものなのだろう、シェマヤは、ネヘミヤに暗殺の危険が迫っているので安全な隠れ家である神殿に引きこもるように勧めた。もう一つの罠である。祭司ではないネヘミヤが神殿の奥に隠れることは律法を犯す罪であるし、また、敵を恐れて身を隠すなど、神を信頼しない弱さ丸出しである。ネヘミヤはその提案をきっぱりと拒絶する。神の計画を曲げるために、敵がなすことは指導者への攻撃の手を強めることだ。指導者が失脚すれば、全ての計画は阻止される。イエスもまた同じように攻撃された。パリサイ人がイエスを囲み、ヘロデがイエスを殺そうとしていることを伝え、恐れさせて、他の所へ逃げ出させようとしたことがある(ルカ13:31-33)。それに対してイエスは、恐れることなく、その提案を拒絶している。実に、「悪者は追われもしないのに逃げ回るが、神を畏れる人に怖いものはない(箴言28:1)」パウロも、自分の前途に苦難が待ち受けようとも、その進路を変えることはなかった(使徒20:22,23)。私たちは罪や誘惑からは遠ざからなければならないが、幾多の妨害によって、恐れ、萎えて、神のご計画から退くことがあってはならない。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者」(ヘブル10:38)なのだ。
 神は私たちが信じて命を保ち、勝利を手にすることを望んでおられる。毅然とした取り組みによってついに、城壁は52日で完成した。歴史家ヨセフォスによれば、2年4か月かかったとされる。ネヘミヤの出発は第二の月で、エルルは、第六の月である。エルサレム到着日数を考えれば、ネヘミヤの記録どおりで、まさに神の恵みと助けによって順調に完成したと考える方がよいだろう。神の恵みにより頼む歩みをさせていただこう。