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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ネヘミヤ記7章

2019年08月19日 06時03分30秒 | ネヘミヤ記
7章 町の再建と人口調査
 <要約>
おはようございます。ネヘミヤは、外からの妨害、そして内からの混乱を、ただ主の助けによって乗り越えていきます。というのも、ネヘミヤが取り組んでいた事業は、ネヘミヤ自身の事業ではなく、神の事業であり、神が進められるのですから、神への信頼と神がなさる業を見ていく忍耐と、従順が必要だったのです。神の民としての旗印をいよいよ明らかにし、これをよしとする神の後ろ盾に励まされるところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エルサレムの町の再建
 城壁再建の後、ネヘミヤは、二人の人物にエルサレムを治めるように命じた。ハナニとハナヌヤである。しかしこれらの人々はどうも、行政ではなく、警備の長として任じられたようである。行政の担当者は、すでに各地区において任じられているからである(3:9)。ともあれそこでネヘミヤが警備の長の選別の基準としたのは、誠実さと神を畏れる心の態度であったことに注目したい。敵に対する警戒の強い時期としては、当然のことであっただろう。警備は固く、開門と閉門は、日の出と日没ではなく、「太陽が高く上って暑くなる」頃、つまり住民全員が活動する時とされた。
エルサレムへの第一次帰還者の数は、66節以下を見ても、約5-10万程度である。そのごく一部がエルサレムに住んだ。当時のエルサレムは東西500メートル、南北1キロ程度とされていたから、4節、「この町は広々としていて大きかったが、そのうちの住民は少なく、家もまだ十分に建てられていなかった」というのは理解できることである。エルサレムの人口は少なく、警備も十分ではなかった。だから後には、近郊に住むユダヤ人の中から、籤でエルサレムに移住させる計画が実行されることになる(11:1)。
エルサレムの町を再建することは、こうしてみると、ただ帰還し、城壁を再建し、という以上の努力を必要としたことがわかる。あらゆるものを動員し、再配置する知恵を必要とすることであった。それはまさに神の恵みと導きがあればこそ、成し遂げられることであったのだ。
2.エルサレム移住計画
 5節からは、こうしたエルサレム移住計画の前準備としての人口調査で、作成された名簿である。この名簿は基本的にエズラ記2章の内容と一致している。注目されるのは、ネヘミヤが移住者の出所を明らかにして、エルサレムに住むべき人として純粋なユダヤ人のみに絞った点である。そのような意味では、教会も同じで、全ての人にその門戸は開かれているが、教会のメンバーとなるのは、出所の明らかな人、つまりはキリストの新生に拠って立っている人に限られている。イエス・キリストが自分の救い主であり、主であることを明確にしている人が中核にならなければならない。イエスを救い主として感謝して受け止めているだけではない、イエスを自分の主とし、はっきりイエスの権威のもとに遜っている人が教会のメンバーとして加えられるのである。求道者は、イエスを自分の主とするかどうかで迷っている人のことであるから、その区別をはっきりさせていかないと、結局何の集まりなのかがわからなくなってしまう。
 まして祭司職を果たす、つまりは教会に仕え奉仕するメンバーとなることにおいては、資格があることを示す必要があるだろう。教会を建て上げるというのは、キリスト教同好会を作ることとは違う。教会は、キリストを主とし従う者の集まりである。アンテオケにおいてイエスの弟子たちが初めてクリスチャンと呼ばれるようになったのも、そのような彼らのアイデンティティが明らかであったからだろう。はっきりと十字架のイエスを主と告白し、復活のイエスに対する信頼と喜びを証する群れなのである。それこそが、教会を教会たらしめるものなのだ。キリストの群れとしての教会を完成させていこう。



ネヘミヤ記6章

2019年08月19日 06時01分51秒 | ネヘミヤ記
6章 毅然として取り組む
 <要約>
おはようございます。神に信頼するめぐみの豊かさは教えられていても、そのように期待しきれずにいることはあるものでしょう。現実の厳しさを思う時に、神の御業を語ることの虚しさ、空々しさというものがあるものです。しかし、空回りしそうな心を、力づけ、守ってくださいと祈り、進むことに確かな祝福はあるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神ではない自分に弱さがある
城壁は門を修復するのみで完成に近づいていた。エルサレムの周りに住む敵対者たちは、何とか、この工事を中止させようと妨害の手を尽くしてきたが、城壁は、もう完成間近となっていた。するとアラブ人ゲシェムが、最後の手段と言わんばかりに、ネヘミヤを個人的に呼び出し、これを中止させる手段に出た。彼は、四度、会見の申し出をし、最後の申し出は、開封した手紙、つまり公開状の形で送られた。エルサレムでの工事は、ネヘミヤが王となり、ペルシヤに反逆する目的で行われている噂があり、その陰謀が広まる前に、話し合う必要があるというわけである。しかし、そのような根も葉もない噂にネヘミヤは動じない。ただネヘミヤは書いている。「ああ、今、私を力づけてください」(9節)ネヘミヤは、こうした根強い組織的な陰謀に、対処する知恵を求めたわけではない。また神風が吹いて、相手が打ち負かされることを求めたわけでもない。彼は神の勝利は確信していた。しかし、神がなさろうとしている事柄についていけない、人間の心の弱さが補われることを祈っている。全ては神の手中にあることだ。神が万物を支配し、維持ししておられる。そのお方が、私たちと共にあるとしたら、大切なのは、神の業がなされるまで私たちが待ち続けられるか否かにあるのだ。つまり、打たれ弱く、神の用に物事を見通せず、現実的に考え過ぎて、神の業をもはや信頼しきれない思いになる自分の弱さに負けてしまうのだ。「ああ、今、私を力づけてください」(9節)。何度でも神に心の内に叫び、神の力づけを得なくてはならない。
2.毅然と戦う
 公開状が失敗したので、トビヤの発案によるものなのだろう、シェマヤは、ネヘミヤに暗殺の危険が迫っているので安全な隠れ家である神殿に引きこもるように勧めた。敵対者はさらに罠をけしかけて来た。祭司ではないネヘミヤが神殿の奥に隠れることは律法を犯す罪であるし、また、敵を恐れて身を隠すなど、神を信頼しない弱さ丸出しである。ネヘミヤはその提案をきっぱりと拒絶する。神の計画を曲げるために、敵がすることは指導者への攻撃の手を強めることだ。指導者が失脚すれば、全ての計画は阻止される。イエスもまた同じように攻撃された。パリサイ人がイエスを囲み、ヘロデがイエスを殺そうとしていることを伝え、恐れさせて、他の所へ逃げ出させようとしたことがある(ルカ13:31-33)。それに対してイエスは、恐れることなく、その提案を拒絶している。実に、「悪者は追われもしないのに逃げ回るが、神を畏れる人に怖いものはない(箴言28:1)」パウロも、自分の前途に苦難が待ち受けようとも、その進路を変えることはなかった(使徒20:22,23)。私たちは罪や誘惑からは遠ざからなければならないが、幾多の妨害によって、恐れ、萎えて、神のご計画から退くことがあってはならない。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者」(ヘブル10:38)なのだ。
 神は私たちが信じて命を保ち、勝利を手にすることを望んでおられる。こうして、毅然とした取り組みによって、城壁はついに52日で完成した。歴史家ヨセフォスによれば、2年4か月かかったとされる。ネヘミヤの出発は第二の月で、エルルは、第六の月である。エルサレム到着日数を考えれば、ネヘミヤの記録どおりで、まさに神の不思議な恵みと助けによって順調に完成したと考える方がよいだろう。神に心を力づけられて、ただ恵みにより頼む結果というものがある。

ネヘミヤ記5章

2019年08月19日 05時59分35秒 | ネヘミヤ記
5章 愛の配慮
<要約>
おはようございます。外からも内からも、人間の歩みには様々な角度から困難が襲い来るものでしょう。人生苦労はつきものとは言っても、やはり耐え難い状況に追い込まれることはあるものです。そのような時には、せめて内側においては、一息つけるような場でありたいものです。しかしそれは、神の倫理、神の価値に立てばこそのことと言えるでしょう。神の愛と配慮に満ちた教会を建て上げたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.イスラエルの内部の窮状
 城壁の工事に費やした期間は約2ヶ月弱であった。その間、ネヘミヤたちは、外からの攻撃に備えて、槍を片手にしながらの突貫工事をした。当然農作業や牧畜をする余裕はなかった。そこに飢饉が生じ、深刻な食糧難をもたらした。「食べて生きるために穀物を手にいれなければならない」「私たちの畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない、この飢饉に際して穀物を手に入れるために」「畑やぶどう畑に課された王の税金を支払うために、金を借りなければならない」「今、私たちは息子や娘を奴隷に売らなければならない」と民は次々と窮状を訴えた。すると、このような同胞の困窮した者たちに金を高利で貸して、搾取する者が現れ、一層耐え難い事態を引き起こしていた。外敵の脅威ではない、内部の危機が生じたのである。ネヘミヤは怒った。
2.教会らしいあり方
 神の共同体を建てあげるには、この世の感覚を捨て去らなければならないところがある。この世の感覚からすれば高利でお金を貸すのは当たり前のことだろう。お金がないんだったら貸してあげましょう。利息はいくらです。世の中はそうやって動いている。しかし、神の共同体に世の中の考えを安易に持ち込むことは危険である。それは、しばしば世の中とは全く変わらない状況を生み出してしまう。お金を貸し付けることそれ自体は罪ではない。しかし、神の律法は、同胞の生活を守るために利息を取ることを禁じている(申命23:19-20)。貸付が困窮を強いるならば、それは非難されるべき罪である。神のみことばに従って、配慮すべき事柄がある。教会らしい考え方というものがある。
ヨハネは、晩年に書いた手紙の中で、兄弟が互いに愛し合うことを語っている。積極的に愛し合い、支え合い、仕え合うことを語っている。私たちは、同胞の必要を本当に知らなくてはならない。そして必要があれば、自分の利益を考えながら手を差し伸べるのではなく、本当に助けなくてはならない。まさに「私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を畏れながら歩むべきではないか」(9節)なのである。外部から教会に訪れた人たちが、教会に世の中と変わらぬ搾取を見たり、争いを見たりすることほど残念なことはない。やはり私たちは神を畏れている者として、それにふさわしい歩みをすべきであり、知らずに世的な考え方に影響され、それに浸りきって生きているかもしれぬ状況に注意し、そのような状況に気づくならばそれを脱ぎ捨てて神の民の倫理と配慮に生きることが大切だ。
3.ネヘミヤの対応
ネヘミヤは経済的困窮のために売り飛ばされた家族を買い取った。そして負債を帳消しにすることを提案した。そしてイスラエルの全集団がそのことに主の前で合意し、主をほめたたえ、その約束を実行したという。神の民として愛と思いやりを示す独自の在り方を再確認したのである。地の塩であると同時に和合して暮らす歩みが大事である。
ネヘミヤはこの期間、またネヘミヤの親類も総督としての手当も受けなかったという。ネヘミヤが自分自身のみならず親類をも犠牲にしたように、家族皆が犠牲になる、お金の問題ではない大変な苦労があったことだろう。そのような苦労や心遣いに敏感な信仰者でありたい。必要があれば、配慮できる感性をもった信仰者でありたい。


ネヘミヤ記4章

2019年08月16日 07時17分47秒 | ネヘミヤ記
4章 戦う
<要約>
おはようございます。ネヘミヤたちの再建事業が始まりますが、それは、簡単にトントン拍子で進むようなものではありませんでした。むしろ取り組むべき課題は余りにも多く、瓦礫の山の前に、気力をそがれてへたり込んでしまうようなものでした。しかしそれは象徴的です。実に全てに言えることかもしれませんが、私たちの働きもそんなに容易いことばかりではないからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ネヘミヤたちの苦闘
「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえを献げようというのか。1日で仕上げようというのか。焼けてしまった石を瓦礫の山の中から拾って、生き返らせようというのか。」(2節)ネヘミヤたちの再建事業は始まった。しかし、それは遅々と進まず、周囲の住人にあざけりを受けるようなものであった。
日本の教会開拓の現状を思う時に、そのような遅々と進まぬ状況にある教会というのは、実に多いと言わなければならない。7年で100人以上の会衆が集まるようになり、立派な新会堂を建設した、というような話もないわけではないが、多くは、瓦礫の山を片付けるような、実に報われない思いをする働きであったりする。神の働きであるのに、神の栄光が危められていると思うようなものであったりする。しかしそれは、神が原因ではなく、自分の力のなさである、と思うようなことがあるだろう。
そうであるとするならば、まさにネヘミヤたちが、そのような労苦を通り抜けたというべきではないか。ネヘミヤたちの再建事業は颯爽と始まったかのようであるが実際には、そうではない。彼らの再建事業は、手を汚さない類のものではなかったのだ。
「荷を担ぐ者の力は弱り、瓦礫は山をなしている。城壁を築き直すことなど、私たちにはできない」(10節)。彼らは自分たちにこの主に与えられた使命を果たす力はない、と嘆いた。しかし、あきらめてしまったらそれまでである。ネヘミヤたちが、この状況に、どのように立ち向かったのかに注目しよう。
2.ネヘミヤたちの対応
まずネヘミヤは神を見上げるように勧めた「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい」(14節)。実に、教会を建て上げるのは、神の御業であり、聖霊の働きである。私たちの力ではない。神の誠実さに期待すべきであり、あらゆる妨害において、「私たちの神が私たちのために戦ってくださる」(20節)という信仰を働かせなくてはならない。全てが主にかかっているかのように、主に声をあげるのだ。
第二に、成功談を多く聞くことがあっても、現実の戦いを否定しないことである。自分のように能力がないからこんなことが起こっている、と嘆かないことである。むしろ、何事も困難はつきものと腹をくくって、戦い勝ち取る覚悟を決めることだ。城壁を築く者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていたとされる(17節)。また、「夜明けから星の現れるまで、槍を手にしていた」(21節)、「私たちの中のだれも、服を脱がず、水場でもそれぞれ投げ槍を持っていた」(23節)ともある。つまり、彼らは緊張感をもって、戦うべき時には戦うのだ、と逃げ出さずになすべきことに向かっていった。祈りとみ言葉に励まされて、取り組むべきことに取り組むことだ。
 そして「こうして、私たちはこの工事を進めた」(21節)とあるように、自らの本来の使命を達成することに集中していくことである。敵を警戒し、敵と戦うことばかりを考えていてはだめである。教会を守ることだけではなく、教会の歩みを先に進めることに集中することである。否定ではなく肯定していく。敗れているように思われることがあっても、淡々と神の誠実さを信頼し、神の恵みを待ち望みながら、進めるべき駒を進めるのである。つまり、今日も神とよき時を過ごす礼拝を目指す、今日も神とよき時を過ごす祈祷会を目指し、実現させていく。常に、この教会には、良き礼拝とよき祈祷会が守られている、教会の再建はまさにそこから始まるのであり、そこに神の子たちも集められると言えるだろう。


ネヘミヤ記3章

2019年08月15日 05時57分17秒 | ネヘミヤ記
3章 進む再建
<要約>
おはようございます。再建事業の進捗の様子が伝えられています。大切なのは、皆でその再建が手掛けられていくことであり、またまず自らの再建が進められていくことなのでしょう。人のことよりも自分自身をしっかりと立て直していく。それは、いつの時代にも通じる原則です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.再建の流れ
エルサレムの城壁再建が始まった。まず羊の門の再建(1節)。これは、北東に位置し、神殿と神殿の供え物の市場がこの近くにあった。続いてメアのやぐら、ハナヌエルのやぐら、そして魚の門に進んだ(2-3節)。魚の門は現在のダマスコ門の位置にある。つまり最初は、北側の城壁を羊の門から西に向かって順に修復していったことになる。次にエシャナの門、新共同訳や口語訳では「古い門」となっているが、恐らく、北の城壁東右角で、エレミヤが預言をした「隅の門」(エレミヤ31:38)なのだろう。一度東側に戻った形であるが、続いて、ハルマフの子エダヤが自分の家に面する所(10節)、谷の門(13節)と続くあたり、そのまま北側から西に折れて南下し、西側の城壁が修復される。谷の門は、ネヘミヤがエルサレム城壁の修復のために、夜中に起きて探索を開始した場所である。ネヘミヤは、西側の中程にあった城壁の門からヒノムの谷に沿って南下し、南の城壁で折り返し、東側の城壁をケデロンの谷に沿って北上するのであるが、途中道が悪いので獣から降りて、ちょうど谷の門の反対側にあった泉の門のあたりまで、徒歩で歩いて引き返している(2:12-15)。このネヘミヤの探索の順に沿うかのように、北側→西側→南側→東側へと城壁の修復は進んだ。16節、ダビデの墓地、人口貯水池、勇士たちの家は今では所在不明である。恐らくケデロンの谷に沿った南側のダビデの旧都に位置したのかもしれない。最後に、城壁の修復は、水の門(26節)から馬の門(28節)、東の門(29節)、招集の門(31節)、羊の門(32節)と東側に位置する門とその周囲を北上して修復された。こうして、エルサレムの城壁はぐるりと一巡して再建されていった。
2.皆による再建
 再建の事業には、大祭司(1節)、半区の長(12-19節)、金細工人(8節)、女性たち(12節)、そして外の人、つまり外国人たちも(2,5,7節)皆加わった。しかしそこには協力しようとしない人もいた(5節)。教会の建設も同じである。牧師も信徒も、才能のある者もない者も、女も子どもも、皆共同して当たらなくてはならない。しかし現実には、皆の苦労に手を貸そうとしない人がいるのは、驚くことではない。ただ、城壁の再建によってイスラエルの人々が神の栄光が表されることを願ったように、教会というのは、神の栄光が証されることを願い、自らの手を汚す人々によって再建されていくのである。北側から西側、南側から東側へとぐるりと一巡する働きには時間もかかるし、労力も多い。しかしそれらを黙々とやり遂げる人たちによって、教会は建てあげられていく。要するに教会が建つか建たないかは、その教会を担う人々の責任感と忍耐、そして協調性と実行力にかかっている。そして、教会が建てあげられるためには、まず彼らがそうしたように自分の家に面するところ、つまり自分自身の事柄から再建する必要がある。自分の信仰生活、教会生活がしゃんとせずに、教会の働きを進めても、それは見せかけで偽りに過ぎない。自らを再建し、教会において神の栄光を見ることを望みとし喜びとして、建てあげる者として、教会の働きに関わっていく者であろう。