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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ヨハネの黙示録1章

2018年08月01日 05時35分49秒 | ヨハネの黙示録
 ヨハネの黙示録は難解な書と思われることが多い。しかし、それは、当時のユダヤ人にはわかるような書き方がなされている。つまりユダヤ人の文化や旧約聖書に親しんでいれば、それほど難しい書物ではない。
 まず、これは「イエス・キリストの黙示」である。ヨハネが創作したものではなく、キリストが明らかにしてくださった黙示である。しかも、ヨハネは幻を通して知ったことを、語り伝えている(2節)。彼は語られたことばを聞いてではなく、自分自身が見たすべてのことを証したのである。
なぜか、それは、私たちの幸いのためである(3節)。「朗読する者」は単数形、「聞く人々」は複数形が使われる。つまり黙示録は、公の教会の集会で読まれるように書かれた。そしてただ聞くだけではなく、心に留めるために書かれた。心に留めるは、ギリシャ語で、テーロー。守るという意味。従うという積極的な姿勢で心に留めるということである。
4節、アジアは、当時ローマの支配下にあったアジア州を指す。今日ではトルコであるが、そこに位置する七つの教会へ宛てて書かれた。しかしユダヤ人にとって「七」は完全数である。また「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(2:7、11、17、29、3:6、13、22)という命令の繰り返しから見て、当時のアジアだけでなく、世々の教会全体を象徴的に意味していると考えられている。つまり、現代の私たちに対しても語りかけてくるものがある。
それらの教会に、「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」から挨拶が送られる。「今おられ」は今も父なる神が万物の支配者であることを意味する。「昔おられ」は、父なる神が創造なる神、創造主であることを言う。「やがて来られる方」は、やがて歴史を閉じられる義の裁き主、実際には再臨の御子イエス・キリストを意味する。だから、ここでは三位一体の御子イエスの神性が明らかにされている。また「その御座の前におられる七つの御霊から」は七を完全数と取れば、完全な神である聖霊ご自身からということ。こうして5節三位一体の神から挨拶が送られることになる(4,5節)。完全な神からのご挨拶である。
その神と私たちにどんな関りがあるのか。6節。キリストが私たちにしてくださったことが列挙される。
①私たちを愛してくださった。
②私たちをその血によって、罪から解き放ってくださった。
③私たちを王としてくださった。
④私たちをご自分の父である神のために祭司としてくださった。
ここに神をほめたたえる根拠がある。
そしてそのキリストは、加えて約束されたとおりに、目に言える形で再臨される、という。その時には、すべての人が、主の正しかったこと、そして裁き主であったことを認めるようになる、という。アルファは、ギリシア語の最初、オメガは、ギリシア語の最後の文字である。最初で最後つまり、主は、永遠の主であり、主のことばに偽りはない。主のことばに注意深く耳を傾けべきことが促されている。
さて、ヨハネはこの啓示を受けた時に、パトモス島にいた。パトモス島は、銀山のあった島で、人が住むような場所ではなかった。彼は、キリスト教信仰の故に、迫害を受け、島流しにされていたのである。それはまさに「イエスにある苦難」であったが、同時に、それは御国に与ることとされる(9節)。すでに90歳近い年齢となっていたヨハネにとってそれは、あまりにも過酷な環境であったにもかかわらず、ヨハネはそこで御国の祝福を見出していた。そしてそれが「忍耐」の時であることを心得ていた。苦難にあっても動じないヨハネの姿が印象的である(9節)。
そこでヨハネは幻の内に、イエスに出会っている。イエスは、七つの教会、七つの燭台の真ん中に立っている。この「七」も完全数、全体を現す数字として理解したらよいのだろう。「燭台」は20節で、「教会」と言い換えられているので、全世界の教会の中心にイエスが立っておられるイメージを伝えている。そしてイエスの御姿を7つの直喩(~のような)で比ゆ的に語ろうとしている。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように雪のように白く」(14節)は、御子の完全な純潔さを「その目は、燃える炎のよう」(14節)は、主の厳しさを伝え、ヨハネはこれら比喩を通して、イエスの素晴らしさと卓越性を伝えようとしている。そしてこの、圧倒的な神の栄光を前に、ヨハネは神の前に深い畏怖を抱いている。実に、神の前に立つということは、極めて厳粛な経験である。それは恐れ多い、地に伏す経験である。しかし、神は私たちに友のように語られる「恐れるな」と。
ヨハネは、今見ていること、そしてこれから後起こると語られる二つのことを書き記すように語られる。黙示録は、当時のユダヤ人、そして今の私たちに対する二重のメッセージを持っている。だからこそ、今の私たちも耳を傾けるに値するものである。そして耳を傾けるなら、幸いであるとされる。なぜなら時が近づいている。歴史の幕を開けられた主が、歴史の幕引きをする時が近づいているからである。これから心して黙示録を読ませていただくこととしよう。

ヨハネの黙示録22章

2015年03月23日 21時39分04秒 | ヨハネの黙示録
天の都について語っている。「水晶のように光るいのちの水の川」(1節)とは、都が命であふれている様を物語っているのだろう。「もはや、のろわれるものは何もない」(3節)「もはや夜がない」(5節)。そこは今の私たちの世とはまったく別世界だ。ヨハネは「これらのことばは、信ずべきものであり、真実です」(6節)と語る。本来、私たちは神の目にかなわず、新しい都には入れるような者ではない。罪人である私たちにふさわしいのは、火と硫黄の燃える池を置いて他にない。しかし、イエス・キリストが私たちの行き先を変えてくださったのである。
日本人には罪を水で洗い流すという発想がある。しかし、ユダヤ人は、罪の現実をもっと重くとらえていた。罪を聖めるためには、命の犠牲が必要だと考えた。動物を殺して、いけにえにし、神にささげることで赦されると考えた。イエス・キリストの十字架の死の意味は、こういうユダヤ人の発想から出ているのである。イエスの十字架の死は、全人類の罪を赦すのみならず、聖める最終で究極の犠牲、いけにえだった、というわけである。問題は、私たちがこのように語られることを、信ずべきもの、真実なものとして受け入れるかどうかである。
 キリスト教の大きな特徴の一つは、死後のことは予め自分で決めるということだ。仏教の土壌に育った、私たちはせいぜい、自分の墓地をどうするか、自分の墓石をどうするかを決めるのが生前の自分にできることだと考えている。死後のことはわからぬ、あるかもしれないし、ないかもしれない、あったらあったで、行ってみて決める他はないと考えている。しかし、聖書はイエス・キリストによって人間にとって死が確実なように、死後のいのちも確実で、その命の在り様を決めるのは、今、私たち自身の問題なのだ、という。素晴らしい新しい都へ向かっていることを覚えて歩むのか、それともそれを否定して生きていくのか。それは、今、私たちが決めることである。
しかし、自分の心を覗けば、「聖なる者」には程遠い現実を感じるところではないか。正直になってみれば、神の期待には、とてもかなわぬ心の現実があるのではないだろうか。イエスに免じて、新しい都行きを保証されたのは、全くもって恵みであり、幸運であるが、本当にそのように信じていてよいのだろうか。重要なのは、聖書は法的概念で救いを語っていることであり、医療的な概念ではない点に注意することだろう。法的に、イエスの十字架の業によってあなたの罪は赦され聖なる者とされた、と宣言しているのであって医療的に完治した、というのではない。だから心の癒し、変革はこれからついてくるのだ。まず宣言ありき。内実はこれから整えよ、ということだ。だからこそ、正しい者とされた者はいよいよ正しいことを行い、聖徒とされた者はいよいよ聖なる者とされなさい、ということなのだ(10-12節)」パウロも語っている。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)神は、私たちを法的な意味で救ってくださった。私たちを聖なる者であると見てくださっており、さらに医療的な意味で、正真正銘聖なる者となれるように助け、導いてくださる。始められた救いの業を完成へと導いてくださる。信仰というのは実に前向きな発想だ。神が与えてくださる目標、聖なる者という目標を覚え、そこへ聖霊によって近づけてくださる神を信頼しつつ、歩むことである。天の御国にふさわしい生き方へと導かれることである。
20節「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。信仰は、毎週日曜日の礼拝のことではない。毎日が真実に真心から神様に近づく、そういう時でなくてはならない。御国に近づいている者らしく内実を整えていただく、そのような関心と努力が必要だ。人は永遠に生きる者であることを覚えて、今日の一日を歩ませていただきたい。

ヨハネの黙示録21章

2015年03月23日 21時34分47秒 | ヨハネの黙示録
 1節「以前の天と、以前の地は過ぎ去る」ある。聖書は、この世の存続を否定する。多くの人は、この世の中はいつまでも続く、たとえ滅亡の危機があったとしても、人間の力でそれは乗り越えられる、と考えているのではないだろうか。しかし、そうではない。人類の歴史は終焉に向かっている。神がご計画に従ってこれを「終えられる」とはっきり語る。神がご自身の主権によって世界を始め、世界を終えられるのだ。また、単純に終わるのではない。そこに色々な内容がある。ファイナルステージでは、イエス・キリストの再臨があり、復活があり、千年期があり、裁きがあると語る。そして、もう一つ大切なこと。それが「新しい天と新しい地」という教えである。
 歴史は終焉に向かっている。けれども歴史の幕が閉じられて、それで終わりなのではなく、終わることによって新しい始まりがある、と言う。ここが聖書の終末史観の最も大切な点である。聖書は終末を語り、恐怖を煽ろうとしているわけではない。むしろ、新しい始まりのためには、今の世は終わらなくてはならない。そしてその新しい始まりがいかに素晴らしいものであるかと語る。21、22章は、その新しきもの、新しい都エルサレムの特色を述べている。
 一つに、その新しい世界では、今の世の中では当たり前の悲しみ、叫び、苦しみがない。 なぜか。たとえば私たちは、至る所で、色々な生きにくさというか、人間関係の難しさを感じて生きている。それは、結局、自分中心に物事を考え、行動する罪の問題があるからだ。しかし、新しい都、エルサレムには、自分中心な者は一人もいない。だから素晴らしい。だから、もはや悲しみも叫びも、苦しみもない。
 8節。「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、地獄である」とある。この言葉の意味を厳密に考えていけば、新しい都エルサレムに入れる人など誰もいないように思えてくる。私たちに相応しいのは、天国どころか地獄である。
 しかし、そんな私たちの行き先を新しい都エルサレムへと変えてくださった方がいる。それがイエス・キリストだ。私たちが向かっているのは、終焉ではなくて、終末という出来事を超えた、永遠の聖なる都、新しいエルサレムである。悲しみ、叫び、苦しみのない、素晴らしい祝福の場に向かっている。
16節から、その都の特色が語られている。一万二千スタディオン。一スタディオンが185メートルなので、計算すると2220キロメートル。大ざっぱにアフリカ大陸を底辺とした立方体。そんなサイズである。これは大変大きな都。東京も大都市であるが、アフリカ大陸を底辺とする面積の都市というのは、ちょっと想像できない大きさだ。しかし、重要なのは、「黙示文学」は、たとえ話であるのだから、そこは非常に大きな都という捉え方で十分だ。また城壁があることから、入れる人と入れない人がいるという理解で十分である。さらにその都は、様々な宝石で飾られている(18節)。これも、私たちの経験の範囲内で語ろうとするたとえである。大変素晴らしい場所という程度の理解でよい。このように全てがたとえで語られているのだが、天の都は、22節にあるように、神様を中心として、一日中皆が喜び、楽しむ場として描かれているそこには夜がない(25節)。夜がないというのは、それほど、新しいいのちが充実していることを物語るのだろう。27節「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」イエスの救いを受け入れる、つまり、遜って、イエスの尊い犠牲による罪の赦しの恵みに与り、狭い道を歩み続けた者だけが辿り着ける場である。確かにこの救いの恵みに与る者とさせていただこう。

ヨハネの黙示録20章

2015年03月22日 06時26分37秒 | ヨハネの黙示録
1-6節の間に「千年」ということばが6回出てくる。これをどう理解すべきか、三つないし四つの考え方がある。
一つは、それは、キリストの地上生涯から再臨までの教会時代を指す、象徴的な表現である、する考えである(無千年期説)。だから「第一の復活」(6節)は信者の新生経験を意味すると考える。しかしこの時代は、サタンが縛られ、キリストが支配する時代のはずであるが、世の現実は全くそうではない。
次に、これを修正した解釈として、千年は限られた時間ではないが、そういうキリストの支配という時期があり、その終わりにキリストの再臨があると考える(20:11)(千年期後再臨説)。つまり千年期は、キリストが地上で治める期間ではなくて、キリストの霊的な支配、神の国がだんだん浸透していく様を意味する。確かに、神の国はある意味でこの世の霊的な事実として始まっているが(マタイ12:28)、それは、未来に完成するものとして示されている(マタイ19:27)。
19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、こういう解釈をとる人は福音派の中にも多くいた。というのも、教育が進み、様々な福祉が行き届いて、人間や歴史の未来について楽観的な考え方の影響が強く、あたかも千年王国と言えるような時代が来ると考えられたからである。もちろん、20世紀後半は、悲惨な二つの大戦を経験したことからそういう楽観主義も急速に後退した。
そこで第三に、日本の福音派に多い考えであるが、千年期を象徴的にではなくて、文字通りにとる考え方がある(千年期前再臨説)。千年期は、20章に記された順番で展開されていく、と考える。ただ成就する千年期は、旧約に預言されたユダヤ人のためのダビデの地上の王国であると理解する。あくまでもユダヤ人のための千年期であると解釈する。同様に千年期の前にキリストの再臨があると解釈しつつも、微妙に違うのがジョージ・ラッドの神の国の福音という第四の理解である。ラッドは、この千年期はダビデ王国の実現ではなくて、キリストの地上支配である、とする。これが完成した時に、永遠の新しい天と新しい地が始まると考える。
無千年期や千年期後再臨と考える改革派系統の人は、世の中はだんだんよくなると考えるので、社会実践に積極的になる。多くのミッションスクールやキリスト教病院を立て、キリスト教化を真剣に考え、宣教を強く動機づけられる。一方千年期前再臨と考え人はこの世の改革に悲観的な発想をする。人がどんなにあがこうと、この世は悪の頂点に向かっている、とひたすら望みを次の世に置くからである。それに対して、ラッドは、福音の進展も。現実の問題として悪の力の増大も認める。キリスト者は現実的な対応をとらなくてはいけない、という考え方になる。
 自由主義者は、ほとんど千年期後再臨説で、千年期そのものについても象徴的にとらえる傾向がある。逆に福音派の人々は、これを文字通りにとらえ、患難期をどこに位置付けるかという細かな議論に立ち入り、行き過ぎたようにも思われる。どの立場に立つかは個人の確信ではあるが、現実の世に対するキリスト者としての立ち位置を決める重要なものである。
さて12、13節、当時、地上で死んだ人については、死後、皆「黄泉」に下ると考えられていたが、海で死んだ人がどうなるかについては、全くわからないことであった。ところが海の深みがもはや神秘ではなくなるという。これは、歴史の隙間に消え去って、わからなくなったと思われる人が、終末においては神に覚えられていて、その人もまた行いに応じて裁かれることを語っている。これは誠実に人生を歩みながら、様々な矛盾の中で苦しみ、死に直面した人にとっては、恵みのことばだろう。逆に、行いが正しくない人にとっては、裁きのことばである。なお、聖書的な意味での死というのは神との断絶を意味する(14節)。永遠の死は、永遠に神から引き離されることであり、永遠のいのちは、永遠に神と共にあることなのだ。

ヨハネの黙示録19章

2015年03月21日 06時06分00秒 | ヨハネの黙示録
黙示録は、神の厳しい裁きを語りながら、その合間合間に、正しい者の前途にある望みについて語り掛けてくる。19章は、大バビロンに対する裁きが語られた後の、小羊の勝利を語るものである。2節、原文では、「ホティ」なぜなら、という言葉がある。それは理由を示す接続詞で、19章を受け、神のさばきが真実で正しいから、大淫婦が裁かれたから、と続き、神礼拝の光景が続く。
すべてが完成される時に、万物の支配者である神が王位に付かれる。そしてその神の国の確立を祝って、主を賛美せよということばが繰り返される。7節からは婚姻のイメージである。まさに、パウロが、「しみや、しわや、そのような者の何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を立たせる」(エペソ5:27)と言ったキリストと教会の婚姻が実現するところである。
 11節からは王と天の軍勢による勝利。12節「多くの王冠」は、ギリシャ語でディアディマ、王様の冠を意味する。いわゆる主権が神にあることを示している。「名が書かれていた」つまり名前をつけることも支配権を意味している(創世記2:19)。13節、「 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」ヨハネの福音書でも、イエスは神のことばと表現されている(1:1)。また、イエスご自身裁きのために来たと語る(9:39)。御子は神のことばであり、鋭い両刃の剣によって人々を統治されるお方であり、同時にまた神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる、いわゆる裁きの執行者である。
 17節、「中天を飛ぶ」は、共同訳では、「空高くを飛んでいる」となっている。すべてを見通すことができる、ということ。その鳥に命じられることは、徹底した殺戮である。先にハルマゲドンへの言及があった(16:16)。そこで起こる戦闘の記録がこの箇所なのだろう。ただ詳しい説明はない。大事なポイントは、神の力によって悪の勢力が一掃される、と繰り返し述べられていることである。
黙示録は、人類がまだ経験していないことを書いている。いわゆる人類の歴史が終わった後の話である。だから、現代人の知性では把握できないことが書かれている。となれば、わからないところはわからないままに受け止めておくだけでよい。私たちの理解を超えた何かがある、と押さえておくだけでよい。そして黙示録の記事には、それなりの読み方がある。第一に、黙示録の記事は、科学的な思考に慣れた現代人とは無縁の、紀元1世紀の著者の感覚で書かれている。そうした理解で読むことだ。第二に、ユダヤ的な背景を踏まえて書かれている。だから、当時の人々がどういう読み方をしたのか、どういう知識的な前提を持って読んだのかが押さえられなければ、想像たくましくこれを読み込み、カルト的な行動に出る危険性も生じる。そもそも旧約聖書を読まないクリスチャンは危険である。聖書通読の重要性は、こういうところにある。第三に、たとえ話は、全体を通じて、一つのメッセージを掴むことが大切だ。黙示文学も同じで、一つの絵画的なイメージで何が伝えられているのかを掴むべきで、いちいち細かい部分までわからなくてもよい。だから24人の長老は何か、四つの生き物は何か、第一の生き物はどういうものか、そういうことはわからなくてもよい。むしろ、これらの象徴で描かれた一つの劇画的なイメージで何が伝えられているかをしっかり理解することだ。19章では、ローマ帝国の迫害(6-16章)とその享楽の誘惑(17,18章)において、信仰的に戦い、耐え抜いたクリスチャンが、地上の生涯を終えて天に迎えられ、四つの生き物や長老たち、そして御使いたちとともに勝利の歓声をあげているイメージを掴むことだ。白い馬にのり、「神のことば」(13節)と呼ばれ「王の、主の主」(16節)とされたイエスご自身が完全な勝利をおさめたイメージを掴むことだ。つまり19章は、一つの結論を述べている。やがて来る戦勝の喜びを思う一日とさせていただこう。