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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ヨハネの黙示録18章

2015年03月20日 06時36分34秒 | ヨハネの黙示録
御使いが登場するたびに、一種の場面転換がある。ここからまた新しい場面に入ると考えてよい(1節)。バビロンに対する裁きがくだされる(2節)。聖書ではしばしば偶像礼拝が姦淫の罪にたとえられる。神の選びの民である教会は、キリストの花嫁。それ以外のものを拝むことは姦淫の罪であると。神の定められた正しい結婚関係は相互の責任を伴う。しかし、不品行、姦淫は、単なる快楽の追求となる。そんなことはもう止めなさいとヨハネは言う(4節)。 
これは今もイエス・キリストを救い主とする者にとって大切な教えである。あるものからは悪影響を受けないために分離する、離れることが必要。実際、私たちは値をもって買い取られた者であり、身をもって主人である神の栄光を現すように生きる者である。だからもう古い姦淫の人生からは決別すべきなのだ。
12節の商品のリストについて多くの注解者は、生活必需品ではない贅沢品であるという。つまりこれらのどれがなくても十分幸せに生きていけるものだ。「奴隷、また人のいのち」とあるが、ローマ帝国の繁栄は奴隷制度によって支えられている。当時ローマ帝国全体に6000万人の奴隷がいたとされる。しかしそれだけの奴隷を動かしたということは奴隷売買によって巨大な富を得たということ。奴隷商人はそれほど古い話ではない。現代でも形は違うがある話ではないか。普通に生活しているとあまりそういう感覚はないが、不法滞在の背景にそういう人身売買があるのではないか。奴隷や人のいのちが商品化されているそのような現実がある。
ともあれ、こうしたあらゆる矛盾と腐敗を含む、大バビロンが、徹底的に滅ぼされるのである(16節)。それは、生活音がなくなるほど、無に帰す徹底した裁きである(22節)。ローマは結局、繁栄の頂点にあったときに、贅沢のために滅んでいった。今も先進国と言われる国々が同じような生き方に倣っている。徳川幕府が倒れた原因の一つに、それまで権力と富を握っていた武士階級から富が、商人に移っていたことがある。武士が没落し商人が地上の権力者になっていく、それとよく似ている。現代は、世界人口の20%の人々が世界の資源の80%を消費していると言われる。どれだけ少数の金持ちが自分のためにだけ使っているか、ということであるが、神はそうした贅沢を見過ごされることはない、富に堕落し、奢る者は裁かれるのである。
最近、アメリカニズム的キリスト教の影響を受けているクリスチャンが増えていると言われている。つまり、アメリカには、独特のサクセスストーリーの文化がある。目に見える豊かさに価値を見いだし、そこを中心にして生きる考え方がある。こういうサクセスストーリーの文化が、アメリカでは、キリスト教の世界でも消えていない。神を信じて、祝福された結果はそうであるという考え方が根強く残るのだ。こういう発想を、日本人は抵抗なく受け入れてしまうところがある。けれども、それは、よく考えてみれば、ちまたの世俗的な新興宗教の発想と何も変わらない。そういうことのために、何もキリスト教を信じる必要はないだろう。
 聖書はもっと違った価値観を教えている。そういう生活の結末は、逆に滅びであると明確に語っている。むしろパウロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根である(1テモテ6:10)」とも、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です(6:6)」とも語っている。あるもので事足りるとする生き方。なければないなりに感謝しつつ生きるという生き方。必要以上のものは、神のみこころに従って用いるという生き方を聖書は教える。この世の中では、成功を求め、富を求め、繁栄を求めるところがあっても、クリスチャンは、そういう生き方にとらわれていてはいけない。物欲にとらわれない生き方、もっと人間として成熟した生き方を志せることが大切である。地上の富はやがて消え去る。世の富と享楽に心を奪われ命を落としつつあるクリスチャンに対する警告である。それは淫婦に貢ぐ生活だ、大事なものを見極めよ、と言う。

ヨハネの黙示録17章

2015年03月19日 06時14分32秒 | ヨハネの黙示録
旧約聖書では、神の選びの民とされたイスラエルが、その契約を破って偶像礼拝をすることは、しばしば姦淫と表現されている。それはイスラエルこそが神の花嫁であるからだ。一方異邦人は神の花嫁ではないので、彼らの偶像礼拝は、無節操な遊女の淫行、あるいは不品行と表現される。だから2節、地の王たちは、イスラエルではなく、異邦人たちのことを言っている。彼らは、この女と不品行のぶどう酒に酔っていた。つまり、まことの神に背いて、偶像を拝み、あるいはそれぞれの偶像を造り上げ、罪と快楽の生活に耽っていたという。
 その大淫婦は、緋色の獣に乗っている。イザヤは、罪を緋色(イザヤ書1:18)に例えている。神に反逆する性格が現されているのだろう。実際紫や緋色は、その染料が高価であったから、贅沢を象徴する。つまり富みにおごり高ぶっていることを象徴する。ヨハネは、この女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている姿に驚いている。滅亡を期待したのに、裁かれることもなく思うままに振る舞っていたからなのだろう(6節)。すると女についての秘密が説き明かされる(7節)。神に逆らう権威者たちは、小羊に戦いを挑んでも、小羊が勝つようになるのだ、と(14節)。そして、神に背いた人間の文明社会は、最終的にはそれ自体の利害の衝突、究極の目標の違いが明らかになって滅んでいく。獣と女は、滅ぶ定めにあるということだろう(16節)。ヨハネの時代には、ローマが世界帝国であった。その支配下にはローマに従属する国々とそれぞれの王たちがいた。この大帝国もその内部分裂から滅びていった。それ以降の歴史も、世界を制覇した支配者たちが、出現しまた消え去る事の繰り返しであった。こうして、さらに詳しくバビロン滅亡の状況が18章に続いて語られる。
さて6~16章までは、封印、ラッパ、鉢という三つのイメージで繰り返し語られる、恐ろしい災いのたとえ話によって、終末へ向かう人類の歴史と裁きが要約されていた。その中で迫害の試練に会い、苦しむクリスチャンへの励ましと希望が描かれていた。この17章からは、同じ終末的状況であっても、別のテーマ、つまり、苦難とは別の形の試練にさらされるクリスチャンに対する警告が描かれている。つまり、ローマ帝国の富と豊かさに与り、その平和と豊かさの中で、信仰的にぼけてしまったクリスチャンに対する警告である。終末状況ですべてのクリスチャンが苦しむわけではない。ある者たちは、安逸をむさぼっていた。サルデスやラオデキヤの教会がそうであったように(3章)。ヨハネはローマ帝国を旧約時代に栄えたバビロンのイメージでとらえ、まさに売春婦が真面目な青年の心の隙や弱さにつけこみ、その生活や家庭を破壊してゆくように、ローマ帝国に蔓延した享楽に毒されていくクリスチャンに対する警告を発しているのである。富と放縦の「大淫婦」と例えられたローマもバビロンのごとく破局を迎えるというのが17-19章の要点である。
人間の心には、もっとしゃれた家に住みたい、おしゃれをしたい、あるいは高学歴を身につけて、よい地位を得たいという気持ちがある。それは汚い欲望かというと、そうでもなくて、人間を向上させる大切な欲求でもある。けれども、人間には、神様が与えてくださったもの以上に、それを求め出す弱さがある。向上心をどん欲な欲望に変えてしまう罪の心がある。楽しむだけではなく、虜にされてしまう弱さがある。そういう弱さに、サタンはつけ込んでくる。
 つまり神様が与えてくださったものを楽しむのはよいのだが、それを手放せなくなる、世の富や豊かさというものが、神様となり、支配されることが問題。すべてを与えてくださるのは神であることを決して忘れてはいけないのである。そしてこれは、ローマ帝国内に平穏に住むクリスチャンたちだけではなく、現代の私たちの問題でもある。すべては、神に与えられて生きている。すべてを与えてくださる神をこそ、大事にし、崇めて歩む者であろう。

ヨハネの黙示録16章

2015年03月19日 06時11分52秒 | ヨハネの黙示録
災いの第三サイクルが描かれている。これは先の二つのサイクル、解かれた封印、吹き鳴らされたラッパのそれと同じことを言っているが、内容はより激しくなっている。たとえば、先の災いは、地の3分の1に対する限定的なものであったが(8:10)、最後の七つの鉢の災害はすべての者に及ぶ。それは、一時的な懲らしめではなく、これまでにない最終的なもので、悔い改めの呼びかけが何度も要求されるのである(9節、11節、21節)。
人が死ぬことについては誰も異論がない。誰も死を経験したものはいないにもかかわらず、他人の死を見て、生ある者は必ず死ぬと理解する。しかし、裁きについては意見が別れる。信じない人は多い。しかし裁きがないなら、この世における裁きは、あまりにも不幸である。詩篇や箴言では、悪者が栄える事に対して、やりきれない思いが非常に率直に表現されている。有名なイマヌエル・カントという哲学者は、もし神と来生の希望がなければ、道徳的な理念は、どんなに立派なことを言っても、人々はそれに同意と賛嘆は示すけれども、だから自分もそう生きようという意図と実行の動機にはなり得ない、という言い方をした。裁きがなければ、道徳そのものの基盤は実際にはないのだというわけである。神の正しい裁きがあるという聖書の教えに立って初めて、今の私たちの生き方のもとになる道徳的な規範が成立する。7節、神の裁きは勝手な独断的な思惑によるものではなく、正義の現れである、と強調される。
さて、16節。「彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」この場所がどこをさすか、何を意味するか、色々な説があるだけで確定しがたい。ハルマゲドン、一般的にはメギドの山と、理解する人が多い。ハルは、ヘブル語で山、マゲドンは、ヘブル語のメギドの音訳。そこからハルマゲドンはメギドの山を指すとされるからだ。ところが、メギドの山は実在しない。だからこれを少し読み替えて、イルマゲドンとする解釈がある。イルになると、メギドの町になる。メギドの町はあるからだ。パレスチナの内陸からフェニキヤに至る道と、エジプトからシリヤメソポタミヤに至る道が交差する通商や軍事の重要な拠点でもある。旧約聖書の時代には大きな戦いが繰り返された。ここで起こる世界の最終戦争を預言すると考えられた時代があった。しかしここに、戦闘場面は描かれていない。そこでハルマゲドンは象徴的に理解する解釈するのがよいのだろう。つまり、それは大きな戦争を象徴しているが、具体的に核戦争を始めるといった、目に見える最終戦争ではなく、目に見えない世界で繰り広げられる最終戦争であるという理解である。この地上の戦争ではなくて、霊的な世界での戦い。つまり、悪魔ともサタンとも呼ばれる悪の勢力が、生き残りをかけて、最終的な抵抗をする戦いと読むわけである(20:7-10)。確かに、悲しみも苦しみもない、素晴らしい祝福の天が来る前に、悪魔ともサタンとも呼ばれる存在は、終末において、宇宙とともに、跡形もなく滅ぼされてしまう。20節は、ラストシーンを描いている。だから悪魔ともサタンとも呼ばれる存在は生き残りをかけて、神に抵抗し戦いを挑む、それがハルマゲドンだ、というわけである。
聖書の世界観は、二元的である。普通の人は、一元的に世界を見ている。目に見える世界がすべてだと考えている。しかし、聖書は、目に見える世界だけではなく、もう一つの目に見えない神がおられて、悪魔やサタンという存在がいて、死んだ人々も眠った霊として存在する二元的な世界観で語られている。今の目に見える世界は、やがて滅びるものであるが、神がおられる世界は、永遠に残る。しかも、その世界からサタンとも、悪魔とも呼ばれる存在は永遠に追放されて、ただ、イエスの十字架によって、罪赦され、十字架の愛に生きることを学んだ者のみが招かれ、永遠に祝福の時を過ごす世界があると言っている。ただ世は終わるのではない、その日、すべての人間に神の正義がもたらされる日が来る。神にお会いする備えが求められている。

ヨハネの黙示録15章

2015年03月17日 06時25分55秒 | ヨハネの黙示録
これまで、七つの封印(6-7章)、七つのラッパ(8-15章)、と二つの災いのサイクルが描かれてきた。ここで、7人の御使いが、最後の災害を携えて登場する。しかし2節、ここでは、13章で激しく迫害を受けた信仰者が、解放され、勝利の歌を歌っている姿が描かれている。「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌っている。モーセの歌は、かつてイスラエルの民が紅海を渡ってエジプトを脱出した時に(出エジプト15章)歌った歌である。
出エジプト記14章30節には「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」とある。エジプトから脱出したイスラエル人たちは、今、紅海の対岸にある。そして15章1節、モーセとイスラエル人は主に向かって、この歌を歌ったとある。一方、黙示録15章2節、勝利したクリスチャンたちが「ガラスの海のほとりに立っていた」とある。このガラスの海は、4:6にあるように、神様の御座の前、天の都にある。そこに、クリスチャンたちが立っている。そして彼らは、モーセの歌と小羊の歌を歌っている。明らかに、黙示録の光景は出エジプト記の光景を背景として描かれており、歌われている歌も替え歌になっている。
出エジプトのモーセの歌では、神様が苦しみから解放してくださった、神様は悪い者を裁いてくださった、ということが具体的に歌われている。そして何度か繰り返して読むと分かるが、褒め称えられている神は、あくまでもユダヤ人の神は素晴らしいという調子である。しかし、黙示録の替え歌は、もっと積極的である。苦しみから解放してくださった神様は素晴らしい、偉大であると言う。けれどもその言い方は、比較ではなく絶対的である。ただあなただけが聖なる方です(4節)。聖なる方、これはヘブル語ではカドーシュ。区別されたという意味が原意。つまり、「あなただけが区別された唯一の神です」という意味になる。そして「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します」とある。
また、黙示録の歌は、小羊の歌であるとされる。それは、旧約の出エジプトと黙示録の新しい出エジプトの性格の違いから来る。旧約ではイスラエル人たちは、エジプトで奴隷状態にあり、彼らは虐げられ苦しんでいた。そして神様がその呻き、叫びを聞いてくださって、解放してくださった。それで、彼らは神様の正しい裁きをたたえ、感謝する歌を歌う。一方、黙示録では、クリスチャンたちは、同じようにローマ帝国の迫害の中で虐げられ苦しんでいるが、その苦しみと積極的に戦っている。クリスチャンとして生きることが難しい社会状況の中にありながら、クリスチャンとして生きることに血を流している。最後までクリスチャンとして生き抜ぬいて、勝利を勝ち取っているのである。彼らは、ただ苦しみから解放されただけではない、勝利したのである。だからこそ小羊の歌を歌っている。実際イエスも、十字架の苦しみに勝利し、神の右の座にお着きになったからだ。
神は私たちに勝利を約束してくださっている。そこで、自身を神に対する最高の生け贄として日々ささげて生きていきなさい、というメッセージも出てくる。11章には証人のイメージが示された。クリスチャンとして生き抜くことを証しする者のイメージである。12章では、一人の女と赤い竜のイメージで、証人が迫害され蹂躙される様が語られている。13章も同様、ローマ帝国で強制された皇帝礼拝に伴う迫害が「海の獣」「地の獣」のイメージに重ねて語られる。14章は、その迫害下で信仰を守り抜き、戦い抜いたクリスチャンたちが天に凱旋しているイメージが描かれている。15章は完全なる勝利の歌を、神の御前で歌い上げている。
 一連のドラマをとおして苦しめられる者への慰めのメッセージが、語られている。簡単に言えば、苦しめる者には、新しい出エジプトがあり、十字架の勝利がある。だから、勇気を持とうというわけである。神への信頼と希望を持つ一日としたい。

ヨハネの黙示録14章

2015年03月16日 06時02分34秒 | ヨハネの黙示録
1節、「また私は見た」場面転換が起こっている。13章は刻印を押された獣の支配下にある人たち、それと対比される小羊の贖いに与った144,000人に視点が移っている。だから刻印に対して、小羊の贖いに与った人の額には、「小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」という。すでに7章で述べたが、144,000人は、12の二乗に完全数10の三乗を加えたもので、エホバの証人が言うような、文字通りの144,000人ではなく、救いに与る者全体を指す。
 彼らは、「御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」という。
「新しい歌は、実質的には、次の15章の3節から出てくる、モーセの歌と小羊の歌のことを言う。最初は、贖いの賛美、二番目は神の正しい裁きがいよいよ明らかになることへの賛美である。4節、新しい歌を歌う者の資格として「童貞」があげられる。それは、結婚していないということではなくて、偶像礼拝の罪が不品行とか姦淫と語られるように、偶像に汚されていないことを意味する。「小羊が行く所にはどこにでもついていく」は、救い主への忠誠と服従を特徴とする人々である。
ここで押さえておくべきことは、黙示録には、イエスやクリスチャンを二つのイメージで描く特徴があることだろう。つまり軍事的なイメージと犠牲的なイメージである。たとえば5:4-6。イエスが二つのイメージで描かれている。「ユダ族から出たしし、ダビデの根」これは軍事的なイメージである。そして6節「ほふられたと見える小羊」これは犠牲的なイメージである。それと同じで、クリスチャンについても、144,000人という統計値は戦力を意味し、「童貞」も、ユダヤ人には戦時下にあっては、敵に隙を見せない緊急特別措置として性的な営みを控える習慣があったから軍事的なイメージそのものである。地上の信仰の戦いを戦い抜いてきたクリスチャンが、天に凱旋し、神の御前に整列している姿を描いているに過ぎない。
そして「小羊がゆくところにはどこにでもついてゆく」は犠牲的なイメージである。5節の「彼らの口には偽りがない。彼らは傷のない者である」は、単にクリスチャンが真実だと言っているわけではない。当時のユダヤ人は、傷のない動物を、いけにえとしてささげた。つまりささげもののイメージでクリスチャンが語られている。
さて6節「もうひとりの御使い」は、厳しい状況の最中になお、全世界に救いの福音が宣べ伝えられるという使命を実行に移していく人々を意味する。7節。私たちは福音を、喜びのおとずれ、救いの福音としてだけ受け止めがち。しかし、福音が神を信じる者に救いをもたらすということは、同時に、神を信じることなく、偶像を拝み続けて来た者には、裁きがもたらされることを意味する。そういう意味では、神の裁きの時が来るのだ。
 8節、さらに「第二の、別の御使い」がバビロンの倒壊を宣言する。バビロンは、象徴的にローマに代表される地上の権力を意味している。そして第三の御使いの宣告が続く(9節)。地上の権力に蹂躙される絶望的な状況の中で、神の戒めを守り、信仰を持ち続けるように聖徒たちの忍耐が勧められる。そして『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』(13節)と続く。
14節は、イエスの毒麦のたとえ(マタイ13)の現実化である。神の裁きが実行された。 
日本のような平和で豊かな物質主義の時代に生きていると、こうした迫害と死に直面する中で生きている人々に対して励ましとして語られたことが、何か、とてつもなく、まじめで、犠牲的に生きていくことをよしとしているような印象を受ける。励ましが励ましとして感じられないことがあるだろう。豊かさが、私たちの感覚を狂わせていることがある。今の時代がどんな時代であるか、識別の目をもって、信仰の歩みを進めさせていただこう。