御使いが登場するたびに、一種の場面転換がある。ここからまた新しい場面に入ると考えてよい(1節)。バビロンに対する裁きがくだされる(2節)。聖書ではしばしば偶像礼拝が姦淫の罪にたとえられる。神の選びの民である教会は、キリストの花嫁。それ以外のものを拝むことは姦淫の罪であると。神の定められた正しい結婚関係は相互の責任を伴う。しかし、不品行、姦淫は、単なる快楽の追求となる。そんなことはもう止めなさいとヨハネは言う(4節)。
これは今もイエス・キリストを救い主とする者にとって大切な教えである。あるものからは悪影響を受けないために分離する、離れることが必要。実際、私たちは値をもって買い取られた者であり、身をもって主人である神の栄光を現すように生きる者である。だからもう古い姦淫の人生からは決別すべきなのだ。
12節の商品のリストについて多くの注解者は、生活必需品ではない贅沢品であるという。つまりこれらのどれがなくても十分幸せに生きていけるものだ。「奴隷、また人のいのち」とあるが、ローマ帝国の繁栄は奴隷制度によって支えられている。当時ローマ帝国全体に6000万人の奴隷がいたとされる。しかしそれだけの奴隷を動かしたということは奴隷売買によって巨大な富を得たということ。奴隷商人はそれほど古い話ではない。現代でも形は違うがある話ではないか。普通に生活しているとあまりそういう感覚はないが、不法滞在の背景にそういう人身売買があるのではないか。奴隷や人のいのちが商品化されているそのような現実がある。
ともあれ、こうしたあらゆる矛盾と腐敗を含む、大バビロンが、徹底的に滅ぼされるのである(16節)。それは、生活音がなくなるほど、無に帰す徹底した裁きである(22節)。ローマは結局、繁栄の頂点にあったときに、贅沢のために滅んでいった。今も先進国と言われる国々が同じような生き方に倣っている。徳川幕府が倒れた原因の一つに、それまで権力と富を握っていた武士階級から富が、商人に移っていたことがある。武士が没落し商人が地上の権力者になっていく、それとよく似ている。現代は、世界人口の20%の人々が世界の資源の80%を消費していると言われる。どれだけ少数の金持ちが自分のためにだけ使っているか、ということであるが、神はそうした贅沢を見過ごされることはない、富に堕落し、奢る者は裁かれるのである。
最近、アメリカニズム的キリスト教の影響を受けているクリスチャンが増えていると言われている。つまり、アメリカには、独特のサクセスストーリーの文化がある。目に見える豊かさに価値を見いだし、そこを中心にして生きる考え方がある。こういうサクセスストーリーの文化が、アメリカでは、キリスト教の世界でも消えていない。神を信じて、祝福された結果はそうであるという考え方が根強く残るのだ。こういう発想を、日本人は抵抗なく受け入れてしまうところがある。けれども、それは、よく考えてみれば、ちまたの世俗的な新興宗教の発想と何も変わらない。そういうことのために、何もキリスト教を信じる必要はないだろう。
聖書はもっと違った価値観を教えている。そういう生活の結末は、逆に滅びであると明確に語っている。むしろパウロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根である(1テモテ6:10)」とも、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です(6:6)」とも語っている。あるもので事足りるとする生き方。なければないなりに感謝しつつ生きるという生き方。必要以上のものは、神のみこころに従って用いるという生き方を聖書は教える。この世の中では、成功を求め、富を求め、繁栄を求めるところがあっても、クリスチャンは、そういう生き方にとらわれていてはいけない。物欲にとらわれない生き方、もっと人間として成熟した生き方を志せることが大切である。地上の富はやがて消え去る。世の富と享楽に心を奪われ命を落としつつあるクリスチャンに対する警告である。それは淫婦に貢ぐ生活だ、大事なものを見極めよ、と言う。
これは今もイエス・キリストを救い主とする者にとって大切な教えである。あるものからは悪影響を受けないために分離する、離れることが必要。実際、私たちは値をもって買い取られた者であり、身をもって主人である神の栄光を現すように生きる者である。だからもう古い姦淫の人生からは決別すべきなのだ。
12節の商品のリストについて多くの注解者は、生活必需品ではない贅沢品であるという。つまりこれらのどれがなくても十分幸せに生きていけるものだ。「奴隷、また人のいのち」とあるが、ローマ帝国の繁栄は奴隷制度によって支えられている。当時ローマ帝国全体に6000万人の奴隷がいたとされる。しかしそれだけの奴隷を動かしたということは奴隷売買によって巨大な富を得たということ。奴隷商人はそれほど古い話ではない。現代でも形は違うがある話ではないか。普通に生活しているとあまりそういう感覚はないが、不法滞在の背景にそういう人身売買があるのではないか。奴隷や人のいのちが商品化されているそのような現実がある。
ともあれ、こうしたあらゆる矛盾と腐敗を含む、大バビロンが、徹底的に滅ぼされるのである(16節)。それは、生活音がなくなるほど、無に帰す徹底した裁きである(22節)。ローマは結局、繁栄の頂点にあったときに、贅沢のために滅んでいった。今も先進国と言われる国々が同じような生き方に倣っている。徳川幕府が倒れた原因の一つに、それまで権力と富を握っていた武士階級から富が、商人に移っていたことがある。武士が没落し商人が地上の権力者になっていく、それとよく似ている。現代は、世界人口の20%の人々が世界の資源の80%を消費していると言われる。どれだけ少数の金持ちが自分のためにだけ使っているか、ということであるが、神はそうした贅沢を見過ごされることはない、富に堕落し、奢る者は裁かれるのである。
最近、アメリカニズム的キリスト教の影響を受けているクリスチャンが増えていると言われている。つまり、アメリカには、独特のサクセスストーリーの文化がある。目に見える豊かさに価値を見いだし、そこを中心にして生きる考え方がある。こういうサクセスストーリーの文化が、アメリカでは、キリスト教の世界でも消えていない。神を信じて、祝福された結果はそうであるという考え方が根強く残るのだ。こういう発想を、日本人は抵抗なく受け入れてしまうところがある。けれども、それは、よく考えてみれば、ちまたの世俗的な新興宗教の発想と何も変わらない。そういうことのために、何もキリスト教を信じる必要はないだろう。
聖書はもっと違った価値観を教えている。そういう生活の結末は、逆に滅びであると明確に語っている。むしろパウロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根である(1テモテ6:10)」とも、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です(6:6)」とも語っている。あるもので事足りるとする生き方。なければないなりに感謝しつつ生きるという生き方。必要以上のものは、神のみこころに従って用いるという生き方を聖書は教える。この世の中では、成功を求め、富を求め、繁栄を求めるところがあっても、クリスチャンは、そういう生き方にとらわれていてはいけない。物欲にとらわれない生き方、もっと人間として成熟した生き方を志せることが大切である。地上の富はやがて消え去る。世の富と享楽に心を奪われ命を落としつつあるクリスチャンに対する警告である。それは淫婦に貢ぐ生活だ、大事なものを見極めよ、と言う。