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ヨハネの黙示録6章

2018年08月06日 08時32分41秒 | ヨハネの黙示録
 黙示録は、黙示文学という文学ジャンルに分類されるものである。それは単純に言えば、たとえ話の一種で、映像的なイメージで思想を伝える特徴を持つ。今日の箇所も、イメージで捉えることが大切だ。巻物を封じている7つの封印を、イエス・キリストが解く度に不思議な出来事が起こる。第一の封印を解くと、白い馬が表れ、第二の封印では火のように赤い馬、第三の封印では黒い馬、第四の封印では青ざめた馬、そして第五の封印では、殉教者がこの世の不正に苛立ち、早く神様の正しい裁きを成し遂げるようにと訴えている光景、第六の封印を解くと、世界の終わりの日の悲惨で破壊的な光景、そして全てが断ち切られた後に、舞台は天に移り、天での聖徒たち光景が繰り広げられる一連の映像である。最初の四つは、地上のこと。そして後の二つは、地よりもむしろ天の事柄にかかわっている。 この一連の映像の個々に注目し、それらが何を意味しているかと考えるよりも、全体として、何を語っているのか、そしてそれは私たちにとってどういう意味があるのかと捉えるのが、黙示文学の読み方である。
だから、この第6章では、7つの封印された巻物が子羊によって一つ一つ解かれていくことによって、ヨハネは、これからの時代の推移をそこに見ていると理解するのがよい。「私は見た」で幻は始まる。ヨハネが見たことであって、聞いたことではない。そして私の目の前には、白い馬がいたというが、乗り手の方が重要である。第一の馬の乗り手は、「弓を持ち」「冠を与えられ」「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていった」これは、おそらく馬にのって弓を強力な武器とし、ローマを脅かしたパルテヤをイメージさせるものなのだろう。ローマ軍は、AD62年、東の国境地帯でパルテヤ人のボロギス率いる軍勢と衝突して、敗北を帰し降伏する屈辱を味わっている。彼らは機動力のある馬と鋭い弓矢に屈したのである。しかも、侵略者は、ステファノス、つまり勝利者の冠を与えられている。受動態なので、その勝利は神が与えられたものと理解すべきところだろう。侵略者を神が許される、理解しにくい内容であるが、神が侵略者の飽くなき欲望を用いて、裁きを進められることは、北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ、南ユダを滅ぼしたバビロン、と旧約に記録された歴史に語られていることである。だがそれは、軍事的、帝国主義的侵略は、このアジアでも経験された。
次の「赤い」馬は、「地上から平和を奪い取る」「互いに殺し合う」、それは、戦乱をイメージしている。「赤」に使われたギリシア語は、赤い葡萄酒の赤を意味するコッキノスではない、ヴっロス、燃える火の色をイメージする赤である。「殺す」は、「虐殺する」「する」を意味する。確かに人類の歴史には、激しい戦争、内乱が繰り返されてきた。黒はユダヤでは飢饉の象徴。騎手は「秤」を手に持っている。騎手にはふさわしくない装具であるが、旧約聖書ではパンをはかって食べるのは極端な食糧難を意味した。つまり飢饉も人類史に繰り返されてきたことを思わされるところである。当時、小麦一升約一リットルが男性一日分の食料とされた。一デナリは、一日分の労賃、つまり一生懸命一日働いて自分が食べる分しか食料が得られない。大麦は、家畜用の飼料であるが、これだと三升買えるので、家族三人が食べられる。しかし一日分、ただ毎日食いつないでいくだけの人生。そんな時代は今なお繰り返されている。オリーブ油と葡萄酒の解釈は様々である。ぜいたく品と理解すれば、一方で飢饉に苦しんでいる者がいるのに、ぜいたく品がたくさんある。貧富の差の激しさがイメージされる。あるいは、それらを日常の必需品ととらえれば、飢饉は厳しくなるが、まだ命を奪うほどのものでもない、というイメージにもなる。「青ざめた」は、ギリシア語ではクロロース、病人の青白い顔色、血の気のない色を意味することばである。騎手は死であり、よみを従えていた、とある。彼がもたらすものは、死病、つまり流行伝染病によって村一つが全滅するイメージである。それはまだまだ過去のお話ではない。
こうして神の裁きが繰り広げられるが、それはまだ限定的である。地上の四分の一。恐ろしいことではあるが、最終的な滅びには至っていない。
さて、第五の封印では視点が天へと移り変わっている。そして非常に不思議な光景が繰り広げられる。そこでは、「自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましい」つまり、殉教者たちが、苛立って、叫んでいる。「祭壇の下」は文字通りに理解すべきことではなく、殉教者のいのちが神にささげられて、神のもとに守られてある、ということだろう。その彼らが天から地の様子を見下ろし、なお一層の犠牲が重ねられてゆく様に、我慢しきれない思いでいる。早く、世の不正を正して欲しいと、神に、激しく抗議しているのだ(10節)。神の答えに注目したい。神はただ力ある暴君ではない。神は「聖なる、真実なる」方であると同時に、正義を貫かれるお方である。確かに殉教者たちが願っていたのも、無差別の復讐ではなく、正義が全っとうされることである。だから、神は、白い衣を与えて答えられた。白い衣は勝利の象徴である。殉教者は、屈辱的で敗北的な死を味わったかもしれないが、神は彼らを勝利者として扱われる。そして「もうしばらく休んでいなさい」という。つまり、今起こるべきことがすべて起こらなくては、次のことが起こらないからである。それは、イエスが十字架においてことごとく味わうべきことを味わうことがなければ、贖いが完成し、復活が起こらなかったことと同じである。だから、試練に弱り果ててはならない。むしろ、神が侵略や戦争、飢饉、疫病、迫害そして諸々の苦難を許されているこの時を、神のご計画を思いつつ、耐え忍び、心において休んでいなくてはならない。ちょうどよい時があるからだ。神のみこころの時が満ちるまでである。この忌まわしい横暴はいつまでも続くわけではないのだ。
そして第6の封印が解かれる。太陽が黒くなる。月が血のようになる。どういう光景なのかわからない。「青い実を落とすよう」星が天から落ちる、と言う。本来落ちるはずのないものが落ちる、つまりあり得ない状況が繰り広げられるイメージである。もはやこれは、世界のファイナル・シーンを描いていると理解すべきである。それは、大変な出来事であり、地の王たち、官僚、軍隊の長、金持ち、勇士、奴隷、誰もかれもが恐れをなし、怯え、逃げまどう姿が描かれる。神と子羊の御怒りの日。本来、柔和で優しい子羊が怒るのであるから、それは、ただならぬ事態である。だが、神を信じる者にとっては何も恐れるようなことではない。時が来れば、先の殉教者と同様に、天に迎えられるだけのことだから、いつものことをいつもどおりに、誠実に喜びをもって自分に与えられた務めを進めていくに尽きる。今日もまた喜びをもってなすべきことをなさせていただこう。

ヨハネの黙示録5章

2018年08月05日 09時56分12秒 | ヨハネの黙示録
「巻き物」(1節)は、ギリシア語でビブリオン、単数形である。大体、AD2世紀頃までは文章はパピルス紙を使った巻物で、その標準サイズは、縦が25センチ、横が20センチ程度の一枚の紙を、横につなぎ合わせて、書き足していた。封印が7つある、ということは、七か所で封印された一つの巻物を解いていった、ということだ。「内側にも外側にも」とあるが、普通、巻物の両面に書くことはないが、長いメッセージの場合は別であった。ともあれ、この巻物は、封印されていた。そして、封印を解くことのできる人はこの地上には見つからないでいた(3節)。それでヨハネは激しく泣いていた、という。なぜ泣いていたのか。すぐにイエスが解けると彼は考えず、誰か自分たちの中に解ける者がいるのではないか、しかしいない、と泣いていたのである。興味深いところではないか。初め彼はその封印を解くのは、御子イエスの役割とは考えなかったのだ。むしろイエスのしもべたちの中にその者がいると考えたが、誰一人相応しい者がいないことに愕然としたのである。実に私たちがしがちな発想である。私たちは、どうしても人の中に英雄を求めやすい。しかし、神の前に栄光を受ける者は誰一人いない。ただお一人、キリストがいるだけである。長老の一人が言う。「泣いてはいけない。ユダ族から出た獅子、ダビデだけの根が」つまりイエスが、勝利したから、という。
創世記には、「ユダは獅子の子、王権はユダを離れず」(49:9)とある。ユダの末からダビデが出て、ダビデの末からイエス・キリストが誕生したことを背景とする。また「屠られた姿で」(6節)も、イエス・キリストを意味する。勝利者と殉教者、二つのイメージでイエスが語られている。これに「七つの角と七つの目」がある。「七」は完全数を示す黙示録特有の表現で、「角」は、全能の力の象徴。「目」は、聖霊であると注釈されている。つまり、聖霊の目を通して、キリストが全てを完全に知っておられる全知性を示している。全知、全能のお方である、ということだ。大事なことは、この巻物を解く相応しさは、倫理性にあったわけではないことだろう。この世界をお造りになり、その歴史を支配し、導き、かつ、人類救済のその歴史における重要な偉業、十字架を成し遂げたイエスこそ、歴史の最終章を記す(6:1で封印を解く行為からして、それは6-21章の内容と理解できる)、巻物を解くに相応しいお方である、ということだ。私がアルファであり、オメガ、というイエスこそ、歴史の始まりと終わりを導かれるのである。
しかも、8節、巻物が受け取られた時に、四つの生き物と24人の長老たちが、子羊の前にひれ伏し、その手には、この方をたたえる竪琴のみならず、香に満ちた金の鉢があった、とされる。そして香は聖徒たちの祈りであったという。一種感動を与える光景ではないか。私たちの祈りが、金の鉢に蓄えられていた!神はこれを、金の鉢に蓄え、それを大切にとっておられたのである。空しいように思われる祈りであれ、空しいということはない。「金」の鉢ということが、私たちの祈りを神が大事にしていることに他ならない、と思わされるところではないか。そこで感動をもって、竪琴を奏でながら、新しい歌が歌われる。イエスが成し遂げた贖いの業、そして肝心な点であるが、私たちは贖われた以上の使命を託されている。王国とし祭司とされた、今や地を治める。この意識に立って、地上の人生を歩めばこそ、後に、彼らと共に、その喜びの生涯の賛美をささげることができるだろう。
「新しい」(9節)には二つのことばがある。時間的に新しいことを意味する「ネオス」と質的に新しいものを意味する「カイロス」である。黙示録では一貫してカイロスの方が使われる。つまり、新しい歌は、これまでになかった質的に新しい歌を意味する。新しい歌で、巻物を受け取る主が賛美されている。大切なのは、巻物を受け取った子羊に対する応答して礼拝がなされているイメージを捉まえることだろう。御座と生き物と長老たちとの回りに多くの、万の幾万倍~これは無数の一つの慣用句である。作られたすべてのものが、御座に座る方、つまり父なる神と子羊に、栄光を帰したのである。
これまでの流れをみると、4章では、天地創造の神に対する礼拝、5章では御霊を持つ子羊、イエス・キリストに対する礼拝、つまり三位一体の神に対する天の御国での礼拝の壮大な光景が、人間のことばで伝えられている。これを当時の読者の立場で読むなら、どのように読めるのだろうか。当時のクリスチャンたちは、ローマ皇帝の支配と戦っていた。すでに話したように、スミルナの教会(2:10)、ペルガモの教会(2:13)、そしてサルデスの教会もそうであった(3:4)。国家的な権力による暴力と迫害という困難の中にあった。そういう苦しみの中にある人々に、この手紙は書き送られた。
 そこで当時の読者たちは、この手紙を読みながら、地上の苦しみの中から天上の栄光を見上げるように促されたのである。ローマの支配に勝る、もう一つの支配があることを思い起こさせられた。それは苦難に耐え抜く力に大変な大きな違いをもたらした。やはり、苦難にあって、その目に見える苦難以上に、苦難をも許される神様がおられる。神様が一時的に苦難を与えておられることがわかるようになると、苦難に対する姿勢が変わる。
 また、イエスは、勝利者と殉教者の二つのイメージで語られる。つまり、イエスもまた十字架の犠牲によって多くの人々を天の祝福に勝ち取っている。それは、苦難にある信者も辿ることのできる道である。私たちにも忍ばねばならぬ時がある。しかしそれによって勝利を得るのだから。


ヨハネの黙示録4章

2018年08月04日 06時36分30秒 | ヨハネの黙示録
「この後必ず起こること」とあるように、4章から新しい展開が始まる。「天に一つの御座があり」と、ヨハネの視点は、天に向けられる。これまでは、地上の七つの教会に向けてメッセージが語られていた。今度は、地上から天に目が向けられ、天上のことが説き明かされる。
まず天においては神が一つの中心となっている。「その方は碧玉や赤めのように見えた」(3節)という。イスラエルで神殿礼拝が行われていた旧約聖書の時代、大祭司の衣装の胸当てには、碧玉や赤めのうといった石の飾りがついていた。それは、神の栄光と尊厳を現す象徴であった。つまり、ここでヨハネは間違いなく栄光と尊厳に満ちた神を見ているのである。
 緑玉も大体同じように考えてよいだろうが、問題は虹である。旧約聖書時代の後期、エゼキエルの時代に、虹は神の神性を意味すると解された。しかし、元々の起源はノアの洪水の物語に遡る(創世記9:12-16)。つまり伝統的な理解では、神の契約がとこしえに変わらないことの象徴なので、神の永遠の真実さ、不変さを見たということなのだろう。さらに御座の回りに24の座があり24人の長老たちが座っていた(4節)。種々の説があり、定説はない。み使いとする説と、旧約の12部族、新約の12使徒に象徴される聖徒たちとする説がある。
ともあれ、黙示録を読む時にはいくつかの点に注意しなくてはいけない。一つは、黙示録は、人類がまだ経験していないことを書いている。人類の歴史が終わった後の話である。だから、そこには当然、現代人の知性をもっても把握できないことが書かれている。また黙示録は、AD1世紀のヨハネの感覚で書かれている。つまり、ユダヤ的な背景を踏まえて書かれている。そこで、当時の人々の知識的な前提を理解しておく必要がある。当時のユダヤに流行した黙示文学という形式で書かれているのだ。それは、イメージでメッセージを伝える手法で、たとえ話に似ている。つまり細かなことを深く考えすぎて謎解きになってはならず、大まかな印象から伝わってくるメッセージを掴むことが求められていることである。
となると、5節以降は、神の御座の前で壮大な礼拝が繰り広げられているイメージを掴むことだろう。「四つのいきもの」(6節)にも、様々な説があり、具体的にどういうものかは確定し難い。そういう存在がいたという程度で受け止めておきたい。御使いであるかもしれないし、特別に造られた被造物であるかもしれない。「前も後ろも」という表現から、絶えず四方を見守っている全被造物を代表する存在とする説がある。というのも、第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった、という。ただ単に、父なる神を守るために存在したというよりも、長老たちが、神の民を現すのに対して、この生き物たちは、神の造られた世界全体を指すというわけだ。神が造られたものすべてが、神に従い、神を賛美しているイメージで捉えるべきものなのだろう。だから9節、旧約と新約で救われた全ての人が、父の前にひれ伏し神を拝している。当時の読者は、皇帝礼拝の危機に瀕していた。しかし、すべてのものが礼拝している父なる神こそが真の主であり、我らの神である、とされる。賛美し、拝すべきお方は、皇帝ではなく、真の神のみである、というわけだ。
 私たちがこの地上の生涯を終えて、やがて行くであろうとされる天の御座では、神が礼拝されている。神様がおひとりぽつんといらっしゃる。あるいは、蓮の池の間を、のどかに神様が散歩されていらっしゃるというのでもなく、礼拝されている。しかも注目すべきは、「冠を投げ出して」礼拝している姿である。冠は、ギリシア語でステパノス。つまり王冠ではなく勝利の冠である。私たちが信仰の歩みを乗り越えて、また皇帝礼拝という危機を乗り越えて、信仰を全うしたとしても、それは決して私たちの誇りにはならない。神が授けてくださる栄誉の冠を、私たちは投げ出して、ただ主の守りがあったからこそ、この天への旅路も守られたのである、と告白し、拝するのみである。そして、天上で今繰り広げられているこの礼拝を覚えるならば、地上で私たちがどうあるべきか、を教えられる。今日も、まず天上に目を注ぎ、天上の空気を吸ってみる。そこから、今日の一日を始めてみることとしよう。



ヨハネの黙示録3章

2018年08月03日 06時24分44秒 | ヨハネの黙示録
5番目になるが、サルデスにある教会に対するメッセージでは、イエスが、ご自身を「神の七つの御霊、および、七つの星を持つ方」としている。七が完全数であるとすれば、完全な神、すべての教会の牧師に支配を及ぼしている神、と理解してよいのだろう。そのキリストが語る。「なたは、生きているとされているが、実は死んでいる(1節)」サルデスの教会は、一見教会として機能しているように見えている。しかし、それは機械仕掛けの「鑞人形の館」に過ぎなかった。見かけは、生きているように見えても、命はない。確かに活動をしてはいても、世の光、地の塩というにはあまりにも存在感のない教会だったのである。
 イエスは、新しい命を燃やすように命じている。第一に目を覚ましなさい。霊的にまどろんでいてはならない、そして、死にかけている他の人を力づけなさい、と。サルデスの教会には、望みがあった。まだ息をしているキリスト者に、他の兄弟の命を揺さぶるように、と命じている。また、あなたへの働きかけを思い出しなさい(3節)、という。神は、罪のぬかるみから彼らを引き上げられた。それは彼らが神に従順な者となり、熱心によい行いをするようになるためであった。私たちは、滅びることのないように救われたばかりではなく、永遠のいのちと神の聖さに与るように救われたのである。だから、堅く守りなさい(3節)、という。信仰の真理を理解することと、それを生活の中に活かす(堅く守る)こととは全く別である。イエスは、サルデスのキリスト者に、信仰を実際に活かすように命じられた。聖書はその人の思想を変え、言葉を変え、行動を変える。だから最後に、悔い改めなさい(3節)という。そうすれば、三つの祝福がもたらされる、という。それは永遠の義、市民権、賛成票の三つである。つまり、私達の地上におけるキリストに対する忠実さが、神に認められ、永遠の報いとなることが約束されているのだ(5節)。
次にフィラデルフィアの教会。フィラデルフィアのキリスト者は、小さな群れであったが、大きな可能性を秘めている集団であった。というのも彼らは神の言葉を忠実に守り、迫害の中でキリストに堅く立つ者たちだった。教会の真価は、人数の多さや外観の華やかさによらない。どんなに小さな群れであろうと、そこに信仰のいのちがあればそれは賞賛に値する。イエスは彼らの前に伝道の門戸を開くチャンスを与えられた。実際フィラデルフィアは、地理的に東の玄関口として知られる重要な拠点にあったので、ギリシアの文化と言語を、ルデヤやフルギヤに広める戦略的な拠点として用いられた都市である。神は、この小さな都市を、トルコに福音を運ぶ機会として用いられようとしていた。イエスは、約束される。フィラデルフィアの教会の勝利と守り、そしてそのよき名声である。イエスは、「忍耐について語ったことば」を守り、彼らの持っている「少しばかりの力を」保持し、主の再臨を待ち望むように勧められる。
最後にラオディキアにある教会。ラオディキアは、経済的に豊かな町で、AD60年の大地震において町が破壊された際に、ローマ帝国の援助を一切受けずに、市民だけの経済力で街を再興することができるほどであった。その有り余る豊かさに、ラオディキアにある教会もまたまどろんでいたのである。豊かさの中で、燃えるような熱心さを持って戦うことを忘れた教会、それがラオディキアにある教会であった。そこでキリストは、まず彼らの豊かさが、創造者であるキリストから来ていることを思い起こさせている(14節)。そして、霊的な事柄に無関心である、彼らの問題を暴露する。主は、なまぬるい状態に吐き気を催しながら、懲らしめを与える前に悔い改め立ち返るように勧める。キリストは叱責するが見捨てるわけではない。霊的な炎を燃やすように勧めているのである。
以上イエスは、7つの教会それぞれに特定の私信を送り、最後に至りもう一度、全ての教会が自身と出会うことの重要さを繰り返している。初めの愛に冷えたエペソの教会は、新鮮なキリストの愛に触れる必要があった。苦難を恐れていたスミルナの教会は、復活し勝利した力あるキリストに触れる必要があった。教理的に妥協し、いい加減な生活を送っていたペルガモンの教会は、忠実なキリストと交わる必要があった。道徳的に妥協し、堕落の一途をたどっていたティアティラの教会は、キリストの聖さに触れる必要があった。霊的に無関心の状態にあったラオディキアの教会は、熱いキリストの熱意に触れる必要があった。心の戸を叩き続けるキリストに、その扉を開くのは、私たち自身である。悔い改め、主に従っていく、私たちの意思が問われている。私たちが心を開かぬ限り、なんらそこに、新しい歩みは起こらない。信仰の前進のために、私たち自らが心を開いて、一歩踏み出すこととしよう。

ヨハネの黙示録2章

2018年08月02日 07時32分51秒 | ヨハネの黙示録
2-3章は、共通の構造を持つ。それぞれの手紙は、次の同じような構成となっている。(1)書き送れ:復活の主からの委託、(2)復活の主の描写、(3)復活の主からの称賛のことば、(4)非難されるべき点、(5)どのようにして正すべきか、という矯正のことば、(6)招きのことば、(7)挑戦のことばである。2章は、四つの教会へ書き送られている。
まずエペソにある教会であるが、エペソは、アジア最大の都市である。シリヤのアンテオケやエジプトのアレキサンドリヤとともに、東地中海3大都市の一つとされる。しかしそれだけに、クリスチャンが礼拝を捧げ、教育と伝道を進めるには難しい町であった。「右手に七つの星を持つ方」つまり、右は、権威と力の象徴、星も指導力の象徴であるから教会のリーダーシップを真に握っておられるキリストから、エペソにある教会へ称賛のことばが語られている。行い、労苦、忍耐、誤った教えを受け入れなかった識別力、その信仰の正当性が称賛されている。イエスはそれらを知っている、という。そしてしかし初めの愛から離れてしまった、と非難されている。愛を失ってしまったわけではない、離れているのである。実際、イエスが「知っている」と称賛したのは、エペソの人たちの愛の「労苦」だ(2節)。それはしなくてもいい苦労をすることを意味する。そういうものがなくなってしまった。燃えるような、濃ゆい愛がなくなってしまった、ということである。そこで5節。まず思い出せ、と言う。いったいどこからおかしくなったのか、そして悔い改めて、初めの行いに立ち返りなさい、と。6節のニコライ派は、正確に何を、誰を指しているのか、その教えの内容も不明である。おそらく偶像礼拝や不品行、不道徳という形で人々を滅ぼすような教えを言っているのだろう。
次にスミルナにある教会へのメッセージ。スミルナは、BC600年頃に、一度滅亡した町で、290年頃に再建された。そして再び栄えて、アジアの華とか冠と呼ばれて、それが後の10節、冠を与えるということばとつながってくる。「初めであり終わりである方」その中間に今の私たちの歴史がある。歴史を始め、今も歴史を支配し、やがて今の歴史を終了させる神からのことばとして「苦しみと貧しさとを知っている」という。苦しみは、スリプシス、物理的な圧力で砕かれることを意味する。厳しい労働、心労、逆境、迫害といった様々な圧力、つまり迫害が意味される。また貧しさは、プトーケイアで、極度の貧しさ、全くの無一文を意味する。社会でクリスチャンとしての筋を通そうとして、生活上、商売上の不利益に遭遇する(黙示録13:15-17)問題があった。しかしその苦難は、10日の間、つまり限られている。まもなく終わるものであるから、恐れずに死に至るまで忠実であれという。冠は、ステファノスで勝利のしるしを意味する。
第三の教会はペルガモン。サタンの王座がある、つまり、クリスチャンが生活し、また伝道活動をするには、あまりにも困難な地域であった(13節)。実際ペルガモンは皇帝礼拝や様々な偶像崇拝の中心地であった。彼らは、こうした難局にあって妥協の道を歩んでいた。イエスは、直截に「自身の罪に立ち向かうように」と手紙を書き送る。「鋭い両刃の剣を持つ方」、つまり裁き主であるイエスが、心を変え、意識を変え、そして生活を変えるべきことを求めている。もし、妥協し続けるなら、「わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう(16)」という。そして悔い改めた者には、「隠れたマナを与える(2:17)」という。「白い石」は種々の説がある、キリストの祝福が意味されている、と理解して間違いない。
 最後にティアティラにある教会。ティアティラは、製造業と商業中心地として繁栄していた町である。毛織物、亜麻布、染色物、服地、革製品、焼き物、陶器、青銅の品、そして奴隷、多岐わたる貿易組合が存在していた。「燃える炎のような目」心の深い所にある思いをも見抜く裁き主の目を意味する。「足は光輝く真鍮のような神の子」真鍮は、銅と亜鉛の合金。力と卓越性を伝える。その方が「あなたの愛と信仰と愛と奉仕と忍耐」を知っているという。しかし、問題は、自称女預言者とされるイゼベルが教会に害毒をまき散らすままにしていることだ、という。イエスは、誤った教えや罪深い行為に立ち向かい、それ除き去ろうとせず、むしろ黙認している教会を問題にしている。勝利を得る者には、イゼベルに代わる支配の権威が約束される。
これらは、キリスト者を落胆させるためではなく、むしろ励ますため。傷つけるためではなく、彼らを本当の意味で助けるため、主のために無用ではなく、有用な者とするためのことばである。