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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

エズラ記6章

2019年08月26日 05時51分20秒 | エズラ記
6章 工事は完了した
<要約>
おはようございます。ハガイやゼカリヤの神の言葉に励まされつつ、彼らは、長年動かなかった働きを完成させるに至りました。大切なのは、主のみ言葉への従順、主のみ言葉の奇跡に与っていくことでしょう。主は約束を成し遂げるお方なのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.工事は完了した
 総督タテナイ等による訴えを受けて、ダレイオス王は、過去の記録を調べさせた(1節)。すると、キュロス王の命令文書が見つかった。「宮の高さは60キュビト、その幅も60キュビト」これは、ソロモンの神殿よりも規模が大きい規格である。しかし、実際には、ソロモンの神殿よりも貧弱な建物であった、と言われるから、上限を定めたものだったと考えられている。ともあれ、こうして、イスラエルの民は、ゼカリヤが伝える神のことばのみならず、社会的・環境的な後押しも受けて、16年ぶりに滞っていた神殿再建の働きに着手した。実に、不思議なことで、神が御心とすることは、必ず環境も整えられ動いていくものなのである。
こうして、ダレイオス王の治世の第6年、BC515年に神殿は完成する。ソロモンの時代には比較にならないが、彼らは奉献式を行い、いけにえをささげた。また、神への奉仕のために、祭司をモーセの書に従って任命した。確かに「モーセの書」は、祭司とレビ人との基本的な義務を定め、彼らを区別している。しかしそこに実際的な奉仕「組」を作ったのは、1歴代誌23章で学んだように、ダビデである。ともあれ彼らは基本に立ち返って、全てを整えたと理解すべきところなのだろう。
16年間、動かなかったものを進めていくには、それ相当のエネルギーを要する。身を入れて当たらなければ、というものがある。しかし身を入れて当たるかどうか、腹が決まらない、そういう所で、私たちはいつまでもだらだらしていたりする。しかし神のことばに従っていく腹を決める時に、神は道を整え、周囲を動かし、物事が進むようにしてくださることを覚えたい。神は、「アッシリヤの王の心を彼らに向かわせ、彼らを力づけるようにされ」(22節)るお方である。
2.礼拝の再開
さて、神殿の再建と同時に、神の恵みを味わう礼拝が再開されたところに、イスラエルの人々は大いなる喜びを覚えた。私たちは神の計画のすべてを知り尽くすことはできない。神のみこころの一端を担い、それが何の意味を持つだろうかと思うことが続くことがある。教会を建て上げることは、どの教会にしても、最初は核づくりから始まる。核となる牧会チームが形成されるところから始まる。しかしその核はなかなか固まらないものであるし、人が集まっては散り、ということが繰り返される。そうこうするうちに、やっていることの意味がわからなくなることもある。妨害を受けて、物事を中断されるたびに、建て上げていることの意味がわからなくなるようなものである。しかし、その苦難を最初からあるものとして受け入れ、建て上げることから心をそらさずに、淡々と建て上げに徹していく時に、次のステップが見えて来て、今していることの祝福を味わうことがあるものだ。妨害に惑わされないようにしよう。時間が無為に過ぎていくように思われることを、驚かないようにしよう。いつでも、ポイントを押さえ間違わず、主のみことばにしっっかりと自分の心を合わせて、先に進めさせていただくことを願いつつ、淡々とできることをなしていく者であろう。

エズラ記5章

2019年08月26日 05時50分24秒 | エズラ記
5章 二人の預言者
<要約>
おはようございます。16年中断した工事を再開する、そのエネルギーたるや、大変なものがあったことと思います。それを成し遂げたのは、神のことば、実に、聖書であったことに注意したいところです。朝毎に聖書を開き、聖書を読む、それが何になろうか、というものではなく、それは、私たちの人生を大きく変えていく力になることを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.二人の預言者ハガイとゼカリヤ
 BC520年、主の預言者ハガイとゼカリヤがエルサレムに来ていた。彼は、過去16年間の工事の妨げにより、人々がどれだけ落胆し、励ましを必要としているかを良く知っていた。エルサレム帰還後、人々は神殿再建の工事を邪魔され、阻止されるばかりで少しも進めることができなかったのである(16節)。そこに神の預言者が現れ、イスラエルの人々を励まし、新たに工事再開の定礎式を行ったわけである。
しかし再びこれを止めさせようと、川向うの総督タテナイとシェタル・ボズナイ、そしてその同僚の知事たちがやってきた。彼らは、そもそも、本当にキュロス王の命令が出たかどうかを問題にし、ダレイオス王に書状を送っている。その書状の写しが8-17節である。
 実に、16年の空白の時が流れた後、神の宮を再建するには、相当のエネルギーを必要としたことであろう。神はそのようなイスラエルの民の心を動かすために二人の預言者を起こし遣わされた。ハガイ書はその記録であり、エズラ記と併せ読む時に、そのメッセージも良く理解される。神が私たちに何かをさせようと考えられる時に、いつも神は私たちに神のみ言葉を語る使者を遣わされる。そして異教の環境の中にあれ、神の言葉に耳を傾け、それに従うならば、異国の王すら神は用いて神の業を進められるのである(エズラ1:1)。しかし、たとえ神を信じていても、大いなる結果を期待せず、神の声に聞き従おうとしないならば、それは、神のみこころを受けそこなう結果となる。
2.神の言葉に力づけられる
 そういう意味では、私たちの人生には、つぶやきと不信仰により、神の業を取りこぼす無為な時間を過ごしやすいものではないか。神にビジョンを語られても、そんなことはできないと心がつぶやき、協力者もいない、助け手もいないと後ろ向きになるばかりで、何もせずにやっぱりできないと心を頑なにさせてしまうことが多い。それはまさに、エジプトを脱出したイスラエルの民が、本来ならば11日間で行くはずのところを、40年間さ迷い続けたのと似ている。私たちが信じている神は、天地創造の神であることをよく理解しなくてはいけない。信仰によってこそ進められることがある。この世的に物事を計算ずくめで考えていても、信仰がなければ起こり得ないことがある。現状がどうであれ、神のことばが私たちと共にあり、神の目でもって状況を見、神と共に働く時に、物事が大きく進む、私たちの思いを超えた働きがなされることがある。もちろん、それは、一朝一夕にして起こりうることばかりではない。神の業は、人間の時間を無視して事がなっていく、例外ばかりを意味するのではない。
 あなたの前には瓦礫の山が多くあるかもしれない。あるいは、なすべきことがたくさんあり、どこから手をつけたらよいのかわからないほどに、混乱することもあるかもしれない。あるいは、自分には全くもって力がなく、働きはわかっていても、働きに向かう気力すらないことがあるかもしれない。あるいは、反対が強すぎて、競争がありすぎて、それだけでも、もうやる気が失われていることがあるかもしれない。大切なことは、神の言葉に耳を傾けることである。神のことばに力づけられることである。私たちを助ける、神の預言者の声に耳を傾けることである。私たちを動かすのは神の言葉である。


エズラ記10章

2019年08月12日 05時44分41秒 | エズラ記

10章 雑婚問題への対応
<要約>
おはようございます。雑婚の禁止、そして異教的な人々の追い出し、と何か厳格な信仰の道が説かれているようでもあるのですが、聖書の信仰はそれほど単純ではありません。人間の複雑な状況の中で、以下に神に生きるか、もっと複雑で愛に満ちたものというべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.価値観の一致
 エズラ記最後の書は、雑婚問題への対応の記録で終わっている。1-6章までが帰還から神殿建設完成までの内容とすれば、7-10章は、帰還者の中の律法学者エズラの活動について語られている。しかしそれは雑婚問題への対応が中心となっている(9-10章)。
 エズラは律法を教え、イスラエルの民の生活を回復しようとしたのだが、まさに、雑婚は、その中心的な問題になるほど大きな問題であった。もちろん、外国人の伴侶を持つことが悪いというのではない。問題は、信仰の共同体の基本である家族が、どんな価値観でまとまっているか、ということである。考え方はバラバラの単なる同居人という家族の在り方もあろうが、イスラエルは、神の祝福の器となるように選ばれた民である。神の祝福を認めることにおいて一致した思いがなければ、その選びの使命には立ちようがない。同床異夢では、教会は建て上がらない。エズラが行ったことの意味は、単なる考え方の一致をはかることではなく、同じ価値観に基づくビジョンの一致をはかったことである。
2.実際の処置
 そこで、エズラは、代表者たちを集めてそのような勇気ある決断と痛みを伴う行動を起こすために、神の前に誓うことを求めた。そしていよいよ行動を開始した。同調しない者はユダヤ人社会から追放される厳しさがあった。第9の月は11-12月にあたり、先の雨の時期で、非常に寒い時期である。この時期にイスラエルの民は、集められ、実際に誰が雑婚をし、追い出されるべき対象となるかを明確にしたのである。祭司が17名(18-22)、レビ人6名(23)、歌うたい1名、門衛3名、他に84名(25-43)、合計111名がその対象となった。
 しかしながら実際に追いだしたのだろうか?実際に、教理に従うべきことが正しいとわかっていても、人情的には許さないという問題はある。44節、口語訳は「これらの者は皆異邦の女をめとった者である。彼らはその女たちをその子供と共に離縁した。」と「離縁」という言葉を使って、3節の「追い出しましょう」に呼応する形で意訳している。しかし、ヘブル語の原文は曖昧で、新改訳2017もそうであるが、大方の訳はヘブル語原文どおり意味不明な曖昧な直訳となっている。
 「追い出す」ことは、離縁そのものを迫る意味ではないのだろう。実際、神は赦しの神であり、救いの神である。新約聖書においても、パウロが提示する原則は「信者の男子に信者でない妻があり、妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。」(1コリント7:12,13)である。それは、伴侶の救いを第一と考えるところから来ている発想である。つまり追い出すというのは、神を第一とする生活を侵害されないことが大切なのであり、伴侶に対しても、信仰を促し、証し、神に立ち返る生活を期待すべきことを求めていくことに他ならない。
切り捨てることではなく、真の信仰と生活に目覚めさせ、決断を促し、神に立ち返らせることが神のみこころである。万人救済はありえないとしても、万人が救われることを願い、異教の伴侶ルツの告白が導かれる事を願う、それがまず実際になされたことなのだろう。物事には段階がある。まずは、価値の一致とビジョンの一致へと熱心に導く愛の行為こそが求められるのである。

エズラ記9章

2019年08月11日 04時30分23秒 | エズラ記
9章 雑婚の禁止
<要約>
おはようございます。雑婚の問題が取り上げられますが、その問題の本質は、民族の純粋性ではなく、信仰の純粋性を保つことにありました。信仰を同じくしえるかどうか、それは、生活上の衝突へとつながることであったからです。宗教的寛容性を重んじることと、宗教的確信を守ることは、別物です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.雑婚の問題
雑婚の問題が語られる。いわゆる異教の習慣に導く雑婚を罪とし、その罪を犯した者は、113人(10:18-43)とされるが、それは、誰のことなのか。いくつかの議論がある。ゼルバベルと共に帰還した者の子孫たちだったと考える説がある。そうすれば、雑婚をした者たちはまだ少ない人数であったことになる。しかし、普通に読めば、この箇所は、エズラと共に来た人々であろう。となれば、それはかなり多い人数であり、エズラは帰還の旅の途上四ヶ月も、毎日律法を教え、彼らと関わりながら、なぜそのようなことに気づかなかったのかという疑問も起こる。しかも、神殿再建の喜びの後で、思いがけない問題が沸き上がって来たことにもなる。
いずれにせよ、彼らはカナン人やヘテ人、つまりモーセの律法において、宗教的な純潔さを守るために結婚が禁じられている者たちと結婚をしていた。エズラはこの報告に対して、当時の慣習に従って嘆き、驚きを表現している。普通は髪をそるところをエズラは毛を引き抜いている。それはエズラの動揺の激しさを表している、と言うべきなのだろう。イスラエルの歴史は純粋な神信仰、つまり異教の偶像崇拝との戦いであった。彼らは異教の民と交わり、堕落し、神に滅ぼされ、バビロンに捕虜とされ国を失う苦渋を味わっている。そのような歴史に学んでいないイスラエルの民に対するエズラの失望、落胆、怒りが、その行為に表されているのだ。
2.問題の本質
ただ問題とされているのは、異教の民との雑婚そのものよりも、雑婚によってまことの信仰が失われる事態が生じていたところにある。雑婚については、ルツのような例外もある。実際上の問題は、その雑婚によって個人の信仰が破綻し、さらにイスラエルの民全体に悪影響を及ぼすことであった。エズラは歴史を振り返る。そもそも、イスラエルの国が滅びたのは、どういうわけか。それは、異教的信仰に毒されて、イスラエルが神を捨ててしまったからではないか(6節)。けれども、そのような私たちに神は、大いなる哀れみを施し、再び、国を再生させてくださったのである(9節)。その恵みを無駄にしてはいけない、というのが趣旨であった。
しばしば教会においては、未信者との結婚は、つりあわぬくびきであると反対されることが多い。その根拠は、1コリント7:39を挙げることが多いが、この箇所がそのようなことを語っているかどうかは、また様々な議論のあるところだが、むしろそれは常識的に考えて、信仰者と未信者とではもともと生き方のベクトルが違うところを考慮する、人間の知恵による判断に負うところがある。一方は、天国を目指し永遠のいのちの希望を持って歩み、他方は神に背を向けて滅びに向かって歩んでいる、生き方のベクトルが違うのだ、そこに反対があるのも無理はない。初めは些細な違いと考えてしまう信仰の違いも、実際に結婚生活をスタートさせてみれば、毎週日曜日の過ごし方の違いから始まり、お金の使い方、子育ての考え方、将来設計の考え方、余暇の過ごし方とありとあらゆる日常性の中でその価値観の違いや行動の違いを思い知らされるようになるからだ。予めそういう事態になると、よくよくわかっていれば、そんな人生に足を突っ込むこともなかったのに、と思うのだろうが、人間は愚かで悟りがないので、気づいた時には、どうして、ということになることが多いのだ。
そのような意味では、後の祭りにならないように、いつでも自分の信仰が無為にならない生き方を考えて歩みたいものである。5節からエズラの祈りが記録される。過去の罪の告白、神のあわれみと神の命令の確認がなされている。信仰の純潔さを求める祈りである。信仰の純潔さを保つことに、もっと意を注がなくてはならない。神の愛と恵みの中に生きること、そして信仰の歩みを成熟させることに、私たちは信仰的な伴侶と友を必要とする。救いの完成を互いに進め合う交わりをこそ求めたいものである。

エズラ記8章

2019年08月10日 07時44分47秒 | エズラ記
<要約>
おはようございます。エズラの神への信頼とその信頼を形にした姿を、教えられるところです。信仰は、告白されると同時に、行動に表されなくてはなりません。そうでなければどうして信仰がある、とわかるでしょう。信仰者には、その信仰を喧伝する必要はないとしても、その生き方の中に、確かに信仰があるとにじみ出てくる歩みがあるはずなのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エズラの祈り
 エズラと共に帰還した者たちの名前が記される(1-14節)。しかし彼らの中に祭司はいたが、レビ人を一人も見つけることができなかった(15節)という。つまり、神殿が再建されても、その祭儀を行う人々がいなかった。そこで、エズラは、ふさわしい人を捜しあてようと人を遣わした。急を要することであった。エズラは、「神の恵みの御手が私たちの上にあったので」「レビの子マフリの子孫のうちから思慮深い人」が連れて来られたとする。実に、私たちの必要がある時に、私たちの望みをかなえるのは、神の恵みの御手である。遜り、神を見上げる時に、神がそれにふさわしい人を送ってくださる。教会において人材が不足することはあるだろう。そこでまず、すべてが神にかかっているかのように、神に祈ることが大切であるし、神の恵みなくして、私たちは一歩も進めないという謙虚な心で神の業を求めていくことが大切である。 
2.エズラの信頼
 またエズラは、すべての守りが神にあるかのように行動した。エズラは道中の無事を神に願い求めている。彼は、「道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じた」という。なぜ恥じたのか。それは、エズラがアルタクセルクセスも認めた天の神は、人間の手で守られるようなお方ではないことを明らかにしたかったからなのだろう。
エズラが集めたささげ物の総額は約10億円の価値があったという。実際に、イスラエルが戦争で負け、すべてが没収された時には、400億円もの財産が奪われたというのだから、あながちあり得ない話ではない。つまり、彼らは10億円の財産を携えながら、エルサレムへと約1450キロの長旅をしたというわけだ。男性だけで1500名、女子どもも入れると約3000名の集団であったが、それは出エジプトに比べれば、あまりにも少人数であった。彼らは砂漠を避けて、普通の道を通ってパレスチナに北から入ったとされるが、こうした莫大な財産を抱えながらの、少人数による長旅は、決して安全ではなかった。だからネヘミヤの場合は、エルサレム帰還のために護衛隊を求めている(ネヘミヤ2:9)。
しかし、エズラは求めなかった。それは、常々彼が口にしている神への信頼のためであり、まことに生きておられる神を、この機会を通じてだれの目にも証するためであった。エズラは、自分たちが信じる天の神は、生ける神であり、寄り頼む限り、私たちを確かに守り、祝されるお方であることを常々語っていたのである(22節)。エズラは、自分が確信している通りに行動した。信仰は、理解ではなく信頼の問題である。そして神への内的信頼は、日常生活における外的行動において明らかにされる。だから、エズラは、すべてが神にかかっているかのように、断食し、神に願い求めて行動した。
すべてが神にかかっているかのように神に頼り切ったエズラを、神は、一切の危険より救い出してくださった。もし神がまことに生きておられるお方ならば、私たちは神が生きておられることを味わい知らなくてはならない。確かに、私たちが信じる天の神は、目があっても見えず、口があってもきけない、偶像の類ではない。神の力を味わい、自らの苦境が打ち破られることを知らなくてはならない。神に祈り求めよう。