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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

エズラ記4章

2019年08月06日 06時52分08秒 | エズラ記
4章 再建の妨害者たち
<要約>
おはようございます。キリスト者の人生には、神の御心と思われることがなぜに、すっきり進んでいかないのか。なぜ躓いてばかりなのか、と思われることがあるものでしょう。今の罪の世にあっては、悪の力も働くというべきでしょう。ですから信仰を失わず、しっかりと主の使命に立って歩むことが大切です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1. 妨害活動と、その理由
 神が与えてくださる未来の祝福に喜びを覚えたのも束の間、神殿再建工事は、種々の妨害活動によって、中止に追い込まれていく。4章は、キュロス王からダレイオス王時代に渡る、約16年間の嫌がらせと妨害により、結局、神殿再建工事がとん挫してしまった記録である。神のみこころの再建であり、神の導きによるものであるはずなのに、どうしてこのようなことが起こるのか?結局神のみこころではなかったのではないか?そのように思われてしまうことではないか。このような問題をどのように考えたらよいのか。
まずキュロス王時代の話(1-5節)。反対者たちは、北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされた際に、他の地域から移住させられた人々の子孫であった。彼らは、初め協力を申し出て来ている(2節)。しかも、彼らはイスラエルの神を受け入れ、いけにえをもささげ、イスラエル人たちに同調しようとしている。しかし、イスラエルの指導者たちはそっけない断り方をした。それは、反対者たちが基本的に多神教的な信仰を持っていたからである。神殿の再建は、単に建物を建てあげる話ではなく、天地創造の唯一まことの神を信じる者の信仰共同体の再建であった。だから、どれほどイスラエルの信仰を理解し、宗教的な寛容さに生きる人々とはいえ、その信仰に立つのでなければ、一緒にはできない、という相談なのである。信仰は価値の共有である。
2.妨害による工事の中断
そこで断られた彼らは、脅しに出た(4節)。暴力を働き、高官を買収し、計画を中断させようとした(5節)。そしてついに、キュロスからダレイオスの時代まで約16年間工事は中断することになる。実に長い月日である。帰還民を志願して、帰って来たものの、不毛な16年が過ぎていく。さぞ無念な思いもあったことだろう。しかし、神が目的とすることが妨げられ続けることはない。神の計画は必ず時至れば、実現する。妨害や困難に弱り果ててはいけないことを私たちは学ばなくてはならない。
3.執拗な、さらなる妨害
6節以降は、クセルクセス王(6節)とアルタクセルクセス王(7-23節)、それぞれ別の時代の妨害が記録されている。しかもこの後の5、6章にはダレイオス王が登場し、7章で再びアルタクセルクセス王の出来事が描かれる。つまり順序を整理すると、
1)キュロスからダレイオス王の時代の出来事(4:1-6、24節、5-6章)
2)クセルクセス王の時代の出来事(4:6)
3)アルタクセルクセスの時代の出来事(4:7-23、7章以降)
となる。アルタクセルクセスはエステルを王妃とした人物であるから、4章の6節と7節の間にエステル記に書かれている内容が起こったことになる。そして、エズラやネヘミヤはアルタクセルクセスの時代の人であるから、7~23節の妨害は、神殿再建ではなく、ネヘミヤ1:3に記録された神殿再建後の城壁や町の再建での妨害について語っている。そのような意味で、4章は記述が前後し入り組んだ形になっていて、かなり年代的に幅のある時代のことを書いていると考えてよい。
4.神は誠実である
ともあれ、敵対者たちは、様々な形でエルサレムの町の再建を妨害した。つまり神のみこころとするエルサレム再建はそんなに容易く進まなかった、ということである。敵対者たちは、アルタクセルクセスに書状を書き送り、武力をもって働きを中止させることにも成功している。何とも口惜しいことであるが、神のみこころとされることが、寄ってたかって潰されることはありうることなのだ。人生には不可解なことは起こりうる。しかし、だからといってそのような試練に弱り果ててはならない。サウルに苦しめられたダビデ王然り、サタンに弄ばれたヨブ然り、アタルヤの陰謀に踏みにじられた、南ユダの時代然りである。ただ、神は私たちに忠実である。罪の世にあって、私たち自身が踏みにじられそうになることはあるものだろう。だが、ペテロのことばを確信とすべきである「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。(1ペテロ5:8、9)」そして、不可能と思われることがあっても、神がみこころとされることに勇気と信仰をもって取り組み続けたいところだ。

<参考年表>
538年 第1回帰還
537年 祭壇を築く.全焼のいけにえ(エズラ3:1-2)
536年 神殿工事着工(エズラ3:8)、16年間中断
520年 神殿工事再開(エズラ4:24,ハガ1:15,2:18)
516/5年  神殿完成(エズラ6:15)
483年  ワシュティ廃位.クセルクセスの3年(エス1:3)
479/8年 エステル、王妃になる
458年  エズラの帰還(エズラ7:1,8-9)
445年  ネヘミヤの帰還(ネヘ2:1,6,11)

エズラ記3章

2019年08月05日 05時30分38秒 | エズラ記
3章 新しい出発
<要約>
おはようございます。人間は記憶の中に生きているものでしょう。大切なのは、どんな記憶の中に生きるかです。神の誠実さを覚える記憶の中に生きるか、自分のみじめな過去の記憶の中に生きるかでしょう。いつでも、神の誠実さに期待してまいりたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.開始された再建
 イスラエルの民はエルサレムの再建に取り組み始めた。祭壇を築き(3:1-6)、神殿の礎を据えた(3:7-13)。
 イスラエルで言う第七の月は、太陽暦では9-10月に相当し、贖罪の日、仮庵の祭りが行われる。その日が持つ意味からすれば、それは再出発にふさわしい時であった。彼らは「周りの国々の民を恐れていたので、祭壇を所定の場所に設けた」とある(3節)。恐れていたにもかかわらずか、あるいは恐れていたからこそなのか、わからないが、周囲の国々の脅威を感じていたのは確かである。実際、彼らはペルシヤから帰還を許された民で、軍隊も官僚機構も持たない、国の体をなさないわずか4万人の群れであった。
しかし彼らは反対されること、妨害されることもなく、モーセの書に書かれているとおりにまずは、仮庵の祭りを祝い、日々の全焼のいけにえを献げることができるようになった。回復の道筋は開かれたのである。神の約束への忠実さを深く味わい知る礼拝となったことだろう。
2.過去に縛られずに生きる
 続いて民は、第2神殿(ゾロバベルの神殿)の建設に着手する。ソロモンによる第1神殿建設の際と同様、彼らはまず木材を手に入れ、工事に着手した。彼らはまず神殿の礎を据えていく。「以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた」(12節)とされる。第1神殿と第2神殿とでは、その基礎の大きさには違いがあったのである。老人たちは過去を回想し、自分たちの顛末を悲しんだ。礎は、建物のサイズ、形、構造を決める。老人たちは、その礎を見ながら、建て上がる神殿の貧弱さを思い(ハガイ2:3)、自分たちが回復しがたい失敗を犯したことを思わずにはいられなかったのだろう。
 私たちに過去を変えることはできない。そして「過去」に縛られることが多い。しかし実際には、「過去の記憶」に縛られているのである。大切なのは、その記憶をどう心の内で処理するかである。過去は、私たちの歩みを導く舵となることもあれば、私たちの歩みを妨げる足かせにもなりうるからだ。
過去がもたらした現状に立ちつつも、信仰を持って未来を展望する歩みがある。信仰がなければ、過去は望みを奪う鎖となって私たちを縛り付けるだけだろう。しかし、たとえどんな過去を生きようと信仰を持って未来を展望するならば、そこに私たちは神の業を期待することができる。たとえ貧弱な未来を予測することがあっても、神の祝福は、私たちの思いを超えたものであり、その可能性は計り知れない。
老人の嘆きは、やがて、ほかの多くの人々の喜びの声にかき消されて行った。嘆きの叫びと喜びの声は交り合い、区別できなくなり、やがて喜びの叫びが勝利し、それは遠い所まで響き渡って行った(13節)。たとえ過去がどうであれ、主の約束に対する忠実さを思う人生には新しい未来がある。過去をいたずらに悲しみ、感情の赴くままに無為な時間を費やすのは止めることだ。新しい未来を築きあげる時を今日も積み重ねることにしよう。まずは、新しい出発を決意し、踏み出すことである。

エズラ記2章

2019年08月04日 05時42分28秒 | エズラ記
2章 勇気ある帰還者たち
<要約>
おはようございます。どんな事柄であっても、大変な部分はあるものでしょう。しかし、物事をゼロから立ち上げる、創設の苦労はこれに取り組んでみた者でなければ分からないものがあります。それは、誰も関心を持たず、誰も共有しない孤軍奮闘の部分があるからです。けれども、その苦労を担う人がいなければ、新しい物事も起こらないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エズラ記の特色
エズラ記は、後の二つの書ネヘミヤ記、エステル記と合わせて、旧約聖書の歴史書を完結させる。これらは捕囚後、神がユダヤ人をどのように取り扱ったのかを明らかにしている。エズラ記、ネヘミヤ記は、捕囚の地からエルサレムとユダヤに帰還した「残りの者」を扱っているが、エステル記は捕囚の地に留まっている者の出来事を描いている。しかもヘブル的資料のみならず、ペルシヤの公式文書等を用いて、イスラエルの民が生き抜いた厳しい時代を描いているのだ。
というのも、エルサレムへの帰還と神殿再建は、主の導きによって始まったはずなのに、速やかに物事は進まず、まるで主の導きはなかったかのように、敵の不当な抗議や妨害によって工事の中断を余儀なくされていく状況があった。神のみこころならば、何でも物事がトントン拍子に進む、と考えやすいところだが、そうではないこともあることのよい例証だろう。神の御心にかなうことだって、うまくいかず、妨げられ、中断させられ、臍を噛むようなこともある。けれども、神のみこころならば、必ずそれは成り立っていく。預言者を通して語られたとおりに、神は、捕囚からの解放と神殿再建を実現されるお方であることを、私たちは、この書を読みながら認めざるを得ない。同時代のハガイ、ゼカリヤ、マラキ等、預言者によって書かれたものも併せ読むならば、実に、神は御心を成し遂げられるお方である、とこれらの書から神に対する信仰を深められることだろう。
2.帰還者名簿の謎
 2章は、帰還した者たちの名簿である。公式記録の写しなのだろうが、聖書学者の受け止め方は様々である。全くの虚構であるとする者、ゼルバベルからエズラの時代にかけて実際に帰った者の記録とする者、と様々である。しかしここでは実際の記録として見、少し内容を整理してみよう。
1)ゼルバベルとその仲間(2:1,2)11名。ネヘミヤの記録と比べるとナハマニの名が抜けている(ネヘミヤ7:7)。
2)氏族別の帰還者人数(2:3-20)15,604名。ネヘミヤの記録と比べると、人名の違いはほんのわずかであるが(ネヘミヤ7:7以下)人数は半数以上一致しない)
3)所属別の帰還者人数(2:21-35)8,540名
4)祭司数(2:36-39)4,289名。ダビデ王は祭司を24の組に分けているが(1歴代24:7-18)、帰還した者おリストに出て来るのは、そのうち4組のみである。
5)レビ人の数(2:40-42)341名
6)宮に仕えるしもべたちとソロモンのしもべたちの子孫(2:43-58)392名
8)血統不明の人々(2:59-63)652名
ということで、全集団の合計は、42,360名とされる。しかし、実際に、表記された数値を合計してみると29,829名。興味深いことに、全集団の合計値は、ネヘミヤ7:66、そして外典とされる1エスドラス5:41にも同じ値として出て来るのであるが、それぞれ、ネヘミヤでも31,089人、第一エスドラス書で30,143名と異なっている。名簿にあげられた数は、成人男子だけであるとか、ユダとベニヤミンの部族の者たちだけであるとか、最初に帰還した者の数だけであるなどと説明されるが、どういう数え方をしているのか、実際にはよくわからない。ともあれ、所属別を見ると、だいたいがユダとベニヤミンに属する地名であることがわかる。とすれば、この記録は、1:5にあるユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、という順に沿って書かれたものと言えるだろう。しかし、それ以上のことはわからない、わからないものはわからないままに、とりあえず受け止めておく他はない。
3.一歩先を行く者たちの名簿
むしろここで注目すべき、大切な点は、彼らはみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった者たちである点だ。普通に考えれば、今の安泰な生活を捨てて、新しい人生に飛び込んでいくなど、なかなか考えられないことだろう。だから、当然、ある者たちは残ったのであり、エルサレムへ上っていこうとする者たちを励ますわけである。しかしその飛び込んでいく人々、一歩先を行く人々がいなければ、物事は始まらない。2章の名簿は、その大胆な一歩を踏み出した者たちの記録なのである。
 出来上がったものを、新たに運用するのも、それなりに大変な部分はある。しかし、ゼロから一つ一つ積み重ねて建てあげていく働きは、並大抵の努力ではできない。普通に考えれば、理性が邪魔をして、そのように試みる人を励ましはしても、自分から飛び込んでいく気にはならないものだ。だが、エルサレムの再建はそこから始まった。そのような意味では、誰かが道を開かねばならない、一歩先を行かねばならないことがある。「一族のかしらのある者たちは、…進んでささげ物をした」(68節)とあるように、資金にしても手弁当で工面し、自分たちにできることをまず始めることがある。ただ神はその一歩を後押しされるのである(ヘブル11:1)。信仰の第一歩を踏み出し新しい時代を切り開く者でありたい。玉川教会について言えば、30人ほどの人数が集まり、これからが本当の創立時代というべき所に到達した。牧師のビジョンにフォロアーがついてきたゼロ開拓時代も確かにあった。しかし教会は、核ができるまでが大変で、核が出来たところから本格的な出発になる。そのような意味では、玉川教会の歴史は、株分け方式の開拓伝道の出発点に立ったようなものに過ぎない。様々な苦労を前向きに受け止め、神を信頼し、仲間を信頼し、しっかり物事を建て上げるための当たり前の衝突もしのび、乗り越えながら、共に玉川の地に光をもたらす教会を建て上げてまいりたいところだろう。

エズラ記1章

2019年08月03日 05時21分46秒 | エズラ記
エズラ記 1章 奮い立たせる主
<要約>
おはようございます。
本日からエズラ記に入ります。ちょうど歴代誌が書かれた読者のいた時代のエピソードがつづられていきます。この時代、彼らは、私たちが読む旧約聖書のメッセージをどのように受け止めながら、行動したかに注意しつつ読むことが大切なのでしょう。そのカギとなることばは、神の契約に対する誠実さであろうと私は思います。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.歴史的背景 
BC538年キュロス王はバビロニヤを征服した。彼の最初の事業は、バビロニヤに捕虜となっていたイスラエルの民を自分たちの国に帰国させることであった。エズラ記を読むと、まるでクロス王が、イスラエルの神を信じているかのような印象を得る。しかし、歴史的碑文は、クロスがバビロニヤのマルドウゥク神を信じていたことを裏付けている。つまり彼は多宗教的な信仰を持ち、あらゆる種類の宗教を受け入れる者であったのだろう。
 ともあれクロス王は、帰国を願うイスラエル人を励まし、また彼らに必要な金銀を援助するように命じた。そしてユダの君主シェシュバツァルにそれらを渡したという。シェシュバツァルの正体については定説がない。一つは、帰還と定住を監督する任務を担い、帰還後まもなくして死んだと思われるゼルバベルと考える(5:14)。また、エホヤキムの子の一人、シェヌアツァル(1歴代3:13)とする説もある。さらには特別に任命されたペルシヤの役人であるという説もある。「ユダの君主」は「統治者」と訳したほうがよく、このヘブル語は必ずしも王家の出であることを意味しないので、第三のペルシヤの役人説が有力だとされる。
2.契約に忠実な神
さて、1章を読んでまず思わされることは、ダビデ契約に忠実な神の存在であろう。歴史を動かすのは、神である。神がペルシヤの王クロスの心を動かしている(1節)。これまで神が、異邦人を動かす時は、イスラエルを裁く道具とされることが多かった。イスラエルが神に対して罪を犯し、偶像崇拝に走る時には、必ず、周辺諸国の民を用いて、イスラエルを悔改めに導く道具とする。しかし、ここで神は、異邦人の王クロスを、イスラエルを再興し、建て上げる道具として用いられている。神は、滅ぼしもし、建て上げもする。ご自身のあらゆる資源を用いて、イスラエルに約束されたことを忘れず実行しようとされる(エレミヤ25:12、29:10)。今の時代においても同様である。神は誠実な方である。神が私たちに約束されることは、決して放棄されることはない(ローマ11:26)。
また、神は、クロス王に働かれただけではない。ユダヤ人たちの心をも動かされた(5節)。実に興味深い点である。捕囚の中にあって、誰がその滅びの穴から抜け出すことを考えたであろうか。ユダヤ人が置かれた現実から、国を再興することへの希望は起こりえなかったことであろう。だが神が働かれるからこそ、運命が決定されたかのようにすら思われる環境の中で、新しい出エジプトへの思いが与えられるのである。また、事実彼らに必要なものは、全て備えられた。ペルシヤの王クロスは、宝庫を開けて、ユダヤ人に必要な資材を提供するまさに神の奇跡、神の大いなるあわれみがそこにある。
3.誠実な神に応答する
大切なのは、後で読むように、約束に忠実で、解放の恵みをもたらされる神を信じ祈り続けるダニエルのような者がいるかどうかであろう。ダニエルは祈った。自分たちの努力ではなく、「大いなる神のあわれみ」により、自分たちが回復される可能性のあることを信じ祈り続けた(ダニエル書9:18)。神は全世界を支配し、ご自身の目的を遂げられるために、地上のあらゆる資源を用いられるお方である。神はご自身の約束の実現のために、世をも味方につけて、世の富を注ぎ込んでくださる。そして、ご自身の約束に立つものの心を奮い立たせてくださる。すべての根源であられる主に期待したいところであろう。

エズラ記9章

2013年02月05日 05時54分50秒 | エズラ記
<朝のディボーション>
 雑婚の問題が語られる。いわゆる異教の習慣に導く雑婚を罪とし、その罪を犯した者は、113人(10:18-43)とされるが、それは、誰のことなのか。いくつかの議論がある。ゼルバベルと共に帰還した者の子孫たちだったと考える説がある。そうすれば、雑婚をした者たちはまだ少ない人数であったことになる。しかし、普通に読めば、この箇所は、エズラと共に来た人々である理解される。それは帰還した人数からすればかなり多い人数であり、エズラは帰還の旅の途上四ヶ月も、毎日律法を教えていながら、なぜ気づかなかったのかという疑問も起こる。しかも、神殿再建の喜びの後で、蓋をあけてみたら、偽りが出てきたということにもなる。
いずれにせよ、彼らはカナン人やヘテ人とモーセの律法において、宗教的な純潔さを守るために結婚が禁じられている者たちと結婚をしていた。エズラはこの報告に対して、当時の慣習に従って嘆き、驚きを表現している。普通は髪をそるところをエズラは毛を引き抜いている。そこにエズラの動揺の激しさも表れているのだろう。イスラエルの歴史は純粋な神信仰、つまり異教の偶像崇拝との戦いであった。彼らは異教の民と交わり、堕落し、神に滅ぼされ、バビロンに捕虜とされ国を失う苦渋を味わっている。そのような歴史に学びきっていなかったイスラエルの民に対するエズラの失望、落胆、怒りがある。
問題は、異教の民との雑婚そのものよりも、雑婚によってまことの信仰が失われる事態が生じたところにある。雑婚については、ルツのような例外もあるが、実際には、信仰が破綻し、イスラエルの民全体に影響を及ぼす結果を産み出す場合の方が多い。
<夜のディボーション>
5節からエズラの祈りが記録される。過去の罪の告白、神のあわれみと神の命令の確認がなされている。信仰の純潔さを求める祈りである。
よく教会においては、未信者との結婚は、つりあわぬくびきであると反対されることが多い(1コリント7:39)。確かに、信仰者と未信者では生き方のベクトルが違う。一方は、天国を目指し永遠のいのちの希望を持って歩み、一方は神に背を向けて滅びに向かって歩んでいるのであるから、反対されるのも無理はない。最初は多少の違いと考えられる宗教の違いも、実際に結婚生活を始めてみれば、余暇の過ごし方、将来設計、子育て、様々な点でその価値観の違いと摩擦に思い知らされることになる。
ただ予めそういう事態になると、よくよくわかっていれば、そんな人生に足を突っ込むこともなかったのに、と思うこともあるのだが、人間は愚かで悟りがない者であるから、後で気づかれることが多い。
そういう意味では、後の祭りにならないように、いつでも神のみこころに生きるこころを持って歩みたいものである。信仰の純潔さを保つことに、もっと意を注がなくてはならない。神の愛と恵みの中に生きること、そして信仰の歩みを成熟させることに、私たちは信仰の伴侶と友を必要とする。熱心に自分の救いの完成の歩みを進めたいものである。