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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

伝道者の書4章

2013年10月14日 06時37分55秒 | 伝道者の書
<朝のディボーション>
しいたげと悲しみの中にある者を慰める者はいない。むしろしいたげる者は、勝ち誇ったかのように権力を奮う。何とも空しい現実ではないか(1節)。なぜ人はこれほどまでに傍若無人に振る舞うことができるのか。なぜ血や涙の一欠片もなく残酷にあしらうことができるのか。弱い者の立場は益々弱く、強い者の立場は益々強くなる。そして権力を握った者がそれを弱者のために誠実に用いるかというとそうではない。むしろ自分のために、動物的に、人間身のない用い方をする。そんな人間社会の現実を見るよりであったら、死んだ方がましで、まだ生まれてこない人の方がましである(2節)。
次に人間社会の成功を見るにつけ、それは、ただ妬みに動機づけられたものであることがわかり、これもむなしい、という(4節)。何が人間を成功に向かって駆り立てるかといえば、それは妬みや抑圧に対する怒りであったりする。そのために、人は人を利用し、踏み台にしていく。しかし一方でその日暮らしの、自分の身代を食いつぶすような生き方もある。それは愚かのようにも思えるが、様々な地位を得た、役職を得た、しかし、人間的な競争の泥沼の中に日々雁字搦めになって生きている、というよりは、あばらやに打ち破れた者のようにひょうひょうと生きていく方が楽だということがあるだろう。
第三にひとりぼっちのむなしさ。たった一人になりながらも、なおも成功と富を求めてあくせくする、その虚しさを人間は認めることができないでいる。なぜか。それは金は、持っている限り人を楽しませ裏切らないからだ。しかし人間は、家族であってもしばしば期待を裏切ることがある。税金取りのザアカイが、不正によって、富を追及したのもそんな理由からだろう。しかし彼も富と地位を保証されて生きていたが、友を失い、孤独さを噛みしめ、楽しみも、喜びもなく生きていた。真に助け合い、支え合う友や伴侶を持つ事の方が、人間にとって幸せである。それほど心を暖め、身体を暖め、勇気を与えるものはないが、それは得難いものである。
<夜のディボーション>
最後に、組織の長であることのむなしさ。組織の長は自分が後何年この役目を全うできるかを弁えなくてはならない。忠言を受け付けなくなるほどに年老いてもなお、組織の長たろうとすることほど、愚かなことはない。組織を誤った方向に導くからである。しかしそれが人間の現実社会そのものであったりする。しかし、世代が変わり、知恵のある若者が組織の長になっても、彼もまた頑固になり、他人の忠言を受け付けず、歓迎されない者になることがある。空しいことの繰り返しが、私たちの現実にはある。
こんなむなしさを一つ一つ思い返していると、何とも、人間の社会には救いがない。しかし、そのような空しい社会の中にあって魂の救いを得て生きていくことが人間にとっての幸せである。この世は一時的なものであり、私たちは世を一時的に過ぎていく者にすぎない。世と世にあるものに囚われず、神の永遠の都の祝福を目指して、神の祝福の中に守られて生きていく生き方もある。

伝道者の書3章

2013年10月13日 05時41分12秒 | 伝道者の書
<朝のディボーション>  
「時」がある。すべての出来事は、すでに定められた時があって、そのスケジュールに沿って物事が動いている、という。ある種運命論者のような言い方であるが、伝道者は、その背後に、「時にかなって美しい」(11節)ことをなさる神の存在を認めている。神は愛であって、神は私たちに良いものを拒まれない。これはキリスト教信仰の確信である。その神が定めた時がある。しかもその時は、変化のある時である。人は不幸な時には、物事の一側面しか見ることができない。物事を悪く悪く考え、自分はこの暗やみから一生抜け出せないかのように思ってしまうことがある。しかし、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」人間には喜びの時もあるし悲しみの時もある。いつでも悲しみに沈んでいるわけではない。いつでも喜びに満ちているわけではない。変化の中を生き抜いていくのが人間である。ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなくてはならないのではないか」(2:10)と語った。実に、今自分はどんな時に生きているのか、を理解することが大切であって、自分の人生に抜け道がない、そんな風には思わないことである。
 実に、人間は時に制約されて生きている。しかし、神は私たちに永遠を知る、つまり時を超えた世界を感じる力を与えてくれた。もともと人間は神の形に似せて造られた存在である。神の形は様々に解釈されるが、神の愛、義、聖といった道徳的性質に似せて造られたと理解できるし、また時を創造し、時を超越した神の永遠という本質に似せて造られた部分もある。となれば、人間は時に制約されながらも、その時を超えて生きる存在である。しかし、実際にはそうではないし、神のように時の全容を把握することもできない。だから、人生を生き抜くフラストレーションを抱え込まざるを得ない。しかし、神が私たちの時を悪く定められている、あるいはよきに定められていると見るのではなく、悪い時も良い時もあるが、罪人である私たちに対して最善を拒まれないでいる、という信仰に立てば、そのフラストレーションを小脇に抱えながら生きていくこともできるだろう。
<夜のディボーション>
25節は、新改訳では、「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか」となり、新共同訳では「自分で食べて自分で味わえ」となる。しかし意味するところは同じで、「自分で食べて、自分で味わえ!神を離れて何も味わえない。」ということなのだろう。新共同訳は、いささか荒削りの訳にも思えるのだが、言いたいことは、神が、「人が食べ楽しむ時」を定めてくださらなかったら、誰がそのように食べ楽しむことができようか、ということである。
 神が私たちの時を支配しておられる。そして私たちは良いことも悪いことも様々な事を経験していかざるをえない。しかしその全容については、神は私たちに対する最善を考えておられるというのが伝道者の言わんとしていることだ。だから神を恐れなくてはならない。神に聞いて、神に従っていくことが大切だ、となる。今日も、神がどんな時を与えられているのか、を覚え、良き時には感謝し悪しき時には耐え忍び、神の最善に期待しよう。

伝道者の書2章

2013年10月12日 07時08分55秒 | 伝道者の書
<朝のディボーション>
 第三に刹那主義、これもまた空しいと言う。神は、私たちが人生を楽しむようにされた。もともと天地万物のすべては、私たちのために造られた。創世の初め、神は、天を造り、地を造り、動物を備え植物を備えられた。そして、あらゆるものを整備された。最後に、人を造り、人をエデンの園に置かれた。人は思うままにエデンにある木の実を自由に食べる事が許され、その地を開拓し、守る者とされた。神はこれをよしとされたのである。
 しかし、人は神に背き、自分が神であることを求めるようになった。人は、神から離れて、そこに喜びと楽しみを見いだそうとするようになった。伝道者は、それは失敗だったと言っているわけではない。むしろ、自分はありとあらゆるものを手に入れたと言っている。なすことすべてにおいて成功したし(5-8節)、楽しみ、どんな労苦も喜んだ、という(10節)。けれども、それは、束の間の楽しみであり、自己満足に過ぎなかった(11節)という。普通は、それだけやれば十分ではないか。それだけ楽しめれば本望ではないか、というところだろう。しかし、伝道者は、いやそんなことは、何の役にもたたないし、風を追うようなものだという。
 何が問題なのか。若い頃は頑強であった父も、80を過ぎ、自分の思い通りにはならない身体の不自由さに、こぼしたことがある。確かに、生産性に価値を置けない時代がやってくる。そして皆に平等に訪れる死と向かい合わねばならぬ時が来る。何かを努力して身につけた者も、愚かさに生きて何も大成せずに生きた者も皆同じ結末へと行き着く。そしてどちらも歴史の陰に忘れられてしまう。努力も、成果も空しくなる瞬間である。爪に火をともすようにして一生懸命築き上げたものも、他人のものとなってしまうのである。ばかばかしい限りではないか。幾度も眠れぬ日を過ごし、幾度も唇を噛みしめ、耐え忍ぶ日を過ごしたとしても、それは、自分の記憶に留めるだけで過ぎ去っていく。
<夜のディボーション>
 神を抜きにした楽しみは、単なる快楽であり、娯楽であり、余興に過ぎない。しかし、25節、人が神に立ち返り、神に与えられたものを楽しむならば、それは、感謝と、賛美を備えた豊かな楽しみとなる。大きな発想の転換点である。人は、与えられた多くのものを手放し、いや、整理し分け与えて、感謝とともに神の元へと帰ることができる。人間は、楽しみだけに生きていくことはできない。神を覚えればこそ、人生に意義を見いだすこともできる。パウロは語った。「愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(1コリント15:58)。
 神に造られ、神の元に帰る信仰があればこそ、あらゆる労苦に豊かな報いを価値を考えることができる。人間がこの世だけでその生を閉じ、それだけのことであるとすれば、飲めや食えやが最高の喜びとなることは当然であるが、それだけで終わってしまうことも事実である。それほど空しいことはない。神を離れて真の喜びも平安もない。

伝道者の書

2013年10月11日 06時20分33秒 | 伝道者の書
<朝のディボーション>
 書名は、ヘブル語聖書の冒頭のことば、ディベレイ・コヘレト(伝道者の言葉)から来ている。伝統的にはソロモンの作とされてきた。しかし、宗教改革者ルターがソロモン著作説を否定して以来、それは疑わしいとされている。実際12節。「イスラエルの王であった」はハイティ、完了形の動詞で、すでにこの時点では王ではなくなっていることを意味している。となれば終生王であったソロモンとは異なるし、ダビデの子という表現も、ダビデの子孫と理解することも可能であるから、ソロモンとは必ずしも言えない。著者は不明であり、著作年代も捕囚期以降とされている。
 さて、2節、「空の空」は全く空しい。3節「日の下」は、新約聖書では、「この世」という概念に対応する。つまりこの世のものは全く持って空しい、という。「益」は、ヘブル語でイツローン。貸借対照表の剰余金を意味する。この世での労苦には、投資に見合った見返りがない。確かに、人は、自ら身を削って築き上げたものを、何も天に持ち帰ることができない。いずれ全てをこの地上に残し、そんな苦労も知らない者が後を継いでいく。実に空しいこと極まりない例である。
 ともあれ、人生から神を取り除いてしまったなら、自然の営みもすべては、けだるい繰り返しである。川から海へと流れ込む水の流れのように、延々と繰り返し、何も新しいものを造り出すことはない(5⁻7節)。人間の歴史も、悲喜交々の繰り返しである。記憶に残っていないからそれは新しいのだというあたり(11節)。実に人間の頭の弱さをも教えられ愕然とする。
<夜のディボーション>
 悲観的に人生を見る伝道者は、知恵の限りを尽くして、人生の満足を見出そうとする(13節)。知恵は何かの役には立つだろうが、知恵を尽くしても人生の意義は悟り得ない。ここで言う「知恵」は箴言の用法とは異なり、どうやら「主知主義」を意味する。神を恐れ、物事を悟る姿勢ではなくて、理知的なものを根本とする姿勢である。つまり神を抜きにしたら、どんなに知恵を追及しても空しい、というわけだ。哲学が知恵の探求ではなく、論理の探求になったのも無理はない。考え方の合理性は追求できるが、何を考え抜くべきか、考えの中身を追求することは全くもって不可能である。パウロは、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3)と語った。人生の意味は、「日の下」つまり「この世」目線で考えていても見いだしえない。「日の上」という天的な領域から考えればこそ、悟りもある。知恵によって人生の問題を解決しようという試みは、実際には問題を拡大するだけである(18節)。
人類の堕落の状況をはっきりと教えられる。すべては神にのろわれたものになってしまった。すべてはいまだに虚無に服している。自然も人間の精神も。人間はその中で意味を見出そうと生きている。この現実を踏まえて、神に立ち返る心を持つことが大切である

伝道者の書12章

2010年07月21日 06時23分13秒 | 伝道者の書
伝道者は、最後に、人生の終着について語る。「何の喜びもない」と言う年月というのは、老いのことを言っている。たとえというのは、印象で理解するのが原則である。とすれば、「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう」というのは、老いの現実を印象的に語っていると理解してよいだろう。そして3-6節は、いのちが衰えていく様を、絵画的に描いている。年寄りの腕は震え、背は丸くなる。「粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ」というのは、年寄りの歯が抜けた様を。そして、「目は暗くなる」は、視力が衰える様を語っているのだろう。「通りのとびらは閉ざされ」は、聴力が衰えること、そして「歌を歌う娘たちはみなうなだれる」は、声が弱くなることを物語っている。
 年寄りは、高い所に上ることを恐れるし、道を歩くこともままならない。アーモンドの花、口語訳ではあめんどう、は白髪を象徴的に語っているし、のろのろ歩くいなごは、外に出かける年寄りの歩き方を表現している。ふうちょうぼく、新共同訳では、アビヨナと訳す。ヘブル語の音訳である。地中海原産のこの低木は、日本名ふうちょうぼくとは同一ではない、という判断であろうか。口語訳では「欲望は衰え」リビングバイブル訳では「性欲もなく」と意訳される。というのも、ふうちょうぼくのつぼみは酢漬けにして料理されるが、それは食欲や性欲亢進に役立つと言われるからであろう。「花開く」というのは、もうしおれるしかないということなのだろう。こうして読むと、老いがテーマとなっていることがよくわかる。「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ」というのは、当時使われた油を用いた照明器具であって、天井からつるす銀のひもが切れた様子、油の受け皿であった金の器が地に落ち砕けている様を語っている。そして別のイメージ。使われなくなった壊れた井戸の様子。その昔はだれもがそこに集まって、話しに花を咲かせ、次から次と湧き水をくみ出された井戸。しかし今やだれも寄り集まらない涸れ井戸になっている。ということから最後は死を実にうまく詩的に表現している、ということになるだろう。
 こうして人間の老いを考えることほど寂しいものはない。しかし、老いは終わりではない。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る」(7節)とされる。人間はちりで造られたのだからちりに戻っていく。しかし霊は、神より授かった特別なもので、これは、地上を彷徨うのでも、消滅するのでもなく、神のもとに帰るのだという。ここに伝道者のメッセージがある。
 日本人は、死んだら何も無い、すべては終わって消滅するだけであると考える人が多い。天国も地獄もないのだと。あるいは、極楽ぐらいは考えたいという人もいるだろう。葬儀の後に、七回忌、十三回忌と追善供養を重ねるのも、そういう信仰があればこそである。しかし、いったいその死者の魂はどこへ行ってしまっているのであろうか?
 伝道者は、それは創造主のもとに帰るのだという。初めに天と地をお造りになり、さらに、人間を造られた神のもとに帰ると。だから、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(1節)ということにもなる。人間と神の接点は神が私たちを創造したという点にある。その創造者を覚えて今の世を歩むことが、私たちにとっては最善である。この「神を恐れ、神の命令を守って」(13節)いくことが私たちにとってすべてである。もし、私たちが神に造られたものであるとすれば、それは当然のことではないか。神を覚える時に、老いも、また空しい人生にも、一つの意味づけがなされる。空しい人生を客観的にみながら、私たちはここで寄留者であり、旅人であることを覚えて、世俗のことにあまり深入りせず、神のみこころをなして生きることが最善であると理解される。空しい人生にどっぷりと浸りきって生きていることはないだろうか。そして足を取られて、空しい人生の空しさに巻き込まれて、悩み痛んでいることはないだろうか。空しい人生というのは、深入りせずに、そつなく通り過ぎるべきものである。しかしそんな知恵もなく欲望の赴くままに、世間の流れに流されるままに、どっぷりと世に浸りきって生きていることはないだろうか。神のもとに帰る者として、神を恐れ、神の命令を守り、神のみこころの中に今日も歩む事を心に留めていこう。