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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

伝道者の書11章

2010年07月20日 06時10分53秒 | 伝道者の書
 「あなたのパンを水の上に投げよ」は当時よく使われた格言のようだ。種々の解釈がある。パンを「魚のえさ」、つまり撒き餌と見て、大漁を期待すると考えるもの。またパンを「商品」と解釈し、それを水の上に投げるというのは、船に積んで貿易をするという意味であるとするもの。盛んに海外貿易をしていたソロモンの時代のこととすれば、よく理解できる解釈である。さらにパンを「善意」や「親切」と象徴的に解釈するもの。善意による施しをすれば、思わぬ時にその報いがある、と理解する。そしてよくキリスト教界で聞かれるのは、最期のユダヤ人の伝統的な象徴的解釈の延長上で、パンを「福音」と解釈するものだろう。福音を語り伝えれば、今すぐに実りはなくても、後の日に収穫される、と解釈する。
 2節は、投資の原則を語っているとする。リスクを避けるため財産を分配投資する賢明さを語っている。リビングバイブル訳では、1節の流れの続きで、善意や親切をふりまけば、後で助けてもらえるという意味で解釈を通している。こうしてみると、パンを商品と解釈し、商売で設け、その儲けを分配投資するという流れで読むのが、当時の人たちの理解だったのではないか。
 そうやって読むと、3,4節も象徴的にではなく、文字通りに解釈すれば、天災の現実があることを示した後で、それを警戒してばかりいたら、思い切った種蒔きも収穫もない、というように日常的教訓として理解できる。だから5,6節もその続きで、自然現象の変化や胎児の成長などは人間に理解のできないことで、神の手中にあることなのだから、未来のことをいたずらに心配せずに、神に委ねて、朝も夜も、なせることをなせという勤勉・勤労の教訓を語っていると考えられる。
 5節欄外注釈を読むと、「風」と訳されたヘブル語の「ルーアハ」を「霊」と訳して、「あなたは、どのようにしていのちのいぶきが妊婦の胎の中の骨に入るかを知らない」という別訳が紹介されている。「霊」と訳す事も可能であるということなのだが、大筋、文脈で言いたいことは、変わらない。
 ともあれ、解釈には色々なあり方があるが、大切なのは、伝統的にキリスト教界は象徴的に解釈するか、それとも字義的、つまりは文字通りに解釈するかの二つの解釈法の間で揺れてきた。象徴的に、いわゆる霊解を試みる余りに書かれていることを超えてしまった悲劇もあるし、字義的に拘り過ぎた過ちもあった。だから、大切なことは、聖書というのは、書かれた当時の読者を教えるために書かれたのだから、当時の読者にとって自然な意味をまず最優先させる、ということだろう。そして、現代の私たち、つまり時代、歴史、文化などの差を持った私たちが理解しようとした時に、どこまで私たちの文脈に合わせて、そこに解釈の幅が許されるか、ということであろうと思う。そうやって考えれば、パンを「福音」と解釈するのは、当時のユダヤ人の伝統的な解釈の延長であるから許される範囲内であろうと思うが、基本的には、当時の人達の理解を基礎に、文字通りに解釈するのがよいと思う。というのは、9章までは、様々な空しさが語られて来た。そして10,11章は、なぜか格言集となる。それは、こんな空しい人生ではあるが、この人生を生き抜く知恵もあるのだと、その知恵を断片的に取りあげていると理解することもできる。まとめて言えば、神に自分の人生を委ねて昼も夜もなすべきことなしていくことに他ならぬとし、最後の12章で、最も大切な生き抜きの知恵を結論的に語るという流れになっているとすれば、ここは、あれこれ深読みせずに、当時理解された程度の解釈で治めた方が良いと思うのである。
 7節以降、伝道者は、人生を楽しむ事を語る。しかし人生は楽しい時ばかりではない。若さも青春も空しいということがある。たとえそうであっても、神がすべてを支配し導かれているとしたら、空しさの中に鬱々と生きていくよりは、神に全てを委ねながら、自分の最善を生きればよいということにもなるではないか。だから言う「あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」(9節)。しかしそれは、放縦や勝手気ままという意味ではない。「しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」(9節)と。弁えある自由さを語っているのである。そして、悲しみや痛みは捨て去れという。そういうものに拘り、いつまでも握りしめていても何も生まれない。過去は思い切って捨て去ることである。悲しみも痛みも忘れて、神に委ねて、新しい光の中に自分を押し出すことである。神を信じるということは、前向きな人生を生きる事に他ならない。今日、心を定めて、新しい人生に踏み出してみよう。

伝道者の書10章

2010年07月19日 06時57分38秒 | 伝道者の書
0章の内容はまとめにくく、再び箴言の学びに戻ったかのような印象もある。それは人生の不条理や虚しさを語るというよりは、人間の愚かさとその顛末を語る内容になっている。1節、少しの愚かさが、大きな損失を与えてしまうことがある。それは死んだはえが香油をだいなしにするごとく。これはよく理解できることではないか。多くの尊い労苦も、ひとりの愚か者の行為のゆえに台無しにされてしまうことがある。組織の命運も、愚か者が最高位についたばかりに、傾いていくことがある(5,6,7節)。知恵ある者と愚か者とでは、心の向きが全くもって正反対である。そういう愚か者が、物事を台無しにしていく時に、あるいは最高位について、知恵ある者が蔑ろにされていくときにはどうしたらよいのだろうか。「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静は大きな罪を犯さないようにするから」(4節)。つまり冷静に物事の推移を見ていくことである。忍耐を働かせ、口を閉ざし、神の「時とさばき」(8:5)を見守っていくことだろう。
 8,9節は、どうも、物事にはそれなりのリスクがある、ということを語っているようである。穴を掘るという作業に伴うリスク、石垣を崩すという作業にともなうリスク、石を切り出す、木を割る、それぞれの作業に伴うリスクというものがある。斧は使えば切れ味が悪くなるものだから、最初から研いでおけばよい。蛇遣いは、蛇に噛まれる可能性があることは考えておかなくてはいけない。つまり予め予測されることを押さえずに物事をなす、というのは愚かであるということに尽きるのであり、物事を成功させようとしたら、それなりに頭を働かせることである(10節)、という(ルカ14:28-33)。一説に、「穴を掘る」は、他人を陥れようという悪い意図による企て、「石垣をくずす」は、他人の家に盗み入ろうとするための行動を指すという。しかしそのように考える根拠はわからないし、そこまで読み込まなくても、理解される内容のように思う。
 また、愚かさが最も良く表されるのは、計画性のなさ、見通しのなさということのみならず、ことばにある(12-15節)。「愚か者はよくしゃべる。」愚か者は、聞く値打ちの無いことを話し、余計なことをしゃべって自ら身を滅ぼすだけである。
 こうして、伝道者は、人間の愚かさを念頭に置いた上で、自らの王宮の営みを振り返っているようである。王宮の怠けぶりに戒めを与えている。朝から飲んだくれているような国は滅びる。しかし、仕事に向かうため起立ある食事を心がけている国は安泰である。勤勉・勤労を美徳するということであろう(18節)。18節の新共同訳は、「両手が垂れていれば家は漏り/両腕が怠惰なら梁は落ちる。」と訳す。なぜこんな変わった訳をするのか。両手と訳されたことばは、バアツァルタイム。新改訳のみならず口語訳も「怠惰」と訳している。しかしどうやらこれを文法的に「二つの怠けた手」と理解する学者たちと、これは強調形であって「絶え間ない、大変な怠けぶり」と理解する学者がいるようだ。詳しいことはわからないが、新共同訳の訳者は、どういうわけか、ヘブル語の用例の少ない、「二つの怠けた手」の方を敢えて採用したようである。しかしここだけ、奇妙な訳になってしまっている印象もぬぐえない。意味的には、なまけていると、家のメンテナンスも疎かになり、雨漏りがする、ぐらいの意味ではないか。そうであれば、16,17節に続く教訓を語っているのである。だから19節も、しっかり働けば、食事にも金にも困らない、という意味でつながる。
 20節は、日本的に言えば「壁に耳あり、障子に目あり」ということだろう。格言集のような10章であるが、愚かさを戒められる章である。少しの愚かさで自分を台無しにすることのないように、今日も身を引き締めて歩ませていただこう。


伝道者の書9章

2010年07月18日 06時09分26秒 | 伝道者の書
死は、厳然たる事実として、私たちの前に立ちはだかる。私たちに必ず起こることであって(ヘブル9:27)、これを考えずに済ますというわけにはいかない。死に対する備えを、私たちはどこかで考えて行かなくてはならない。
 それは、常日頃、元気なうちに身辺整理をするということのみならず、自分の死を受け入れられる備えが出来ているかどうか、ということでもあろうと思う。ある牧師が、伴侶を亡くした際に、最大の慰めは、伴侶が意識混濁に陥る前に、神のことばを分かち合い、互いに天国の希望を語り合うことができたことだった、と語ってくれたことがある。そのように、死後の復活の希望を語り合うことができ、来るべき世について、夫婦で納得し合うことができた、ということが、どれほど残された者にとっても支えとなったか、というわけである。確かに、死に対する最良の備えは、主イエス・キリストにある永遠のいのちの賜物を自分のものとして受けることである(ヨハネ3:18)。そして、最期の時まで、神の召しに従って生きることにある。
 ところが、来るべき世に対する希望を持つことがなければ、この世で面白おかしく生きた方がましであるというので自己中心な我欲を満たすだけの、愚かさを丸出しにした自暴自棄な生き方をせざるをえないことになる。しかし、永遠のいのちの賜物を意識していきるのならば、良い死は、良い生を生き抜くことによって迎えられる、というわけで、できるだけ自分の人生をよきものにしようという気持ちになる。
 だから人間関係をも大切にする事も意味があることであるし、特に、自分が最も責任を果たしうる伴侶に対してはなおさら、ということなのだろう。また自分の仕事、つまりは神がなすように、と召してくださったことについては、立派にこれをやり遂げることも大切だ。この世での仕事はこの世だけのことであって、もうあの世では存在しえないのだから(10節)。そう思えばこそ、自分の仕事をより完成度の高い物にする意義もある。
 ただし、やはり、この世の不条理は弁えておかなくてはならない。足の速い人が必ずしも競争で勝つわけではない(11節)。常識的に考えて当然と思われることが、実際にはそうはならないことがある。「時と機会に出会う」ということが物事のよしあし、成功を決めるということがある。またある地位につくということも、その人の実力というよりは、チャンスが巡って来た、というだけのことに過ぎないことがある。それはよいことばかりではなく、不幸についても同じである。また知恵あるということは、大切なことであるし、それは、多くの問題を解決する。しかし知恵者が貧しい者で力のない者であるならば、その知恵は権力を握っている者の手柄にされてしまうことがある。良く理解されることではないか。
 そういう不条理に満ちた人生の中で、真面目に、立派に生き抜くことは、馬鹿馬鹿しいと思い、全てを打ち壊す方向で生きていくのか。たとえそう思われることがあっても、すべては明らかにされる時が来るのであってその人の生き方は永遠についてくる、永遠に残されるのだと思って、物事を建てあげる方向で生き抜いていくのか。選択を迫られるところではないだろうか。神の前に正しい決断をして歩ませていただこう。

伝道者の書8章

2010年07月17日 06時14分10秒 | 伝道者の書
 高校を卒業して神学校に入った時のこと、自意識過剰になりすぎて、何やら対人恐怖症ぽくなった時があった。今の自分だったら、あんなふうにはならなかっただろうと思うことがある。就職していた時のこと、上司とうまくいかずに、ぎくしゃくしていた時代があった。今の自分だったら、あんなふうにはならなかっただろうと思うことがある。「知恵は人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる」(1節)まさにその通りである。何とも知恵がなさ過ぎて、顔を強ばらせて生きていることがある。しかし知恵は一朝一夕で身につくものではないから、やはりそういう時も過ごさねばならぬ、ということなのかもしれない。ああいう時を過ごしたから今がある、というべきか。いつでも物事を正しく理解できて、適切に対処できたら、申し分のない人生を生きることができるのだろうが、そうではないから、人は謙虚に知恵を求め続けて生きなくてはならないのだと思う。
 続いて伝道者は、王の命令を守れと語る。あわてて退出するな、というのは、挙動不審と見られるようなことはするな、ということだろう。また、王の権威を認めて、口答えはしないことである、という。当たり前のことを当たり前にせよ、と語っているようだ。しかし、なぜ急にこんな王の話題を出したのであろうか。唐突のようにも思われる。新改訳は2-5節を、区切って訳している。挿入的な戒めのようでもある。
 しかし、続く6節を読めば、すべては続いていると考えられる。つまり、余計な災いに首を突っ込むような生き方をしていることがある。しかし、そうならないように知恵をもって思慮深く歩む、つまり李下に冠を正さずなどということは、大切なことなのだが、基本的に人生には知恵も思慮深さも役に立たない不条理性もあるのだ、と後半で語っているのであろう。人間の知恵と思慮深さを欺くような、実に、むなしい現実というものが社会にはある。「悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある」(14節)。なんとも馬鹿馬鹿しい限りのことがあるものだ。だから、この世は面白おかしく生きるしかないということにもなりかねない。矛盾だらけの人の世で、正しく生きる事の何の意味があろうか、というわけである。
 だが、伝道者は、すでに「あれもこれも神のなさること」(7:14)と語っている。ここでも「すべては神のみわざである」(17節)と繰り返す。不条理さの中に、実は、私たちに後のことを悟らせないための神のご計画がある。人は物事を見通せないからこそ、愚かさを繰り返すのでもあるが、物事を見通せないからこそ、物事を不条理に感じることもある。そういう人間の知恵の有限性、不完全性をはっきり意識することだろう。わかるようでわからない。「人は日の下で行われるみわざをみきわめることはできない」(17節)物事というのはそういうものである。そういう謙虚さの中に、不条理と思われる事柄の中で腐ることもなく、淡々と生きる歩みをさせていただこう。

伝道者の書7章

2010年07月16日 05時27分24秒 | 伝道者の書
 高校を卒業して神学校に入ったばかり、ある老人と食事をした時のことだ。「今の時代は刹那的だ」という。「刹那的?」と切り返す私に「ほら」とその老人はテレビを指した。画面には、ビーチではしゃぎながら、ビールを飲み浮かれている水着姿の女性が映し出されていた。ビールのCMである。なるほど刹那的ね、と考えさせられた時だった。確かに、どうしたら「今・ここ」という瞬間を愉快に過ごせるか、そんなことばかり考えて生きている時代がある。若い時分には、誰にでも身に覚えのあることではないかと思う。
 しかし、いずれ人間は、そんな薄っぺらな人生を生きてきたことに、恥じ入る時が来たりする。人は、面白おかしく今だけを生きていくその結果を、やがて刈り取らなくてはならない。ある日突然惨事に打ちのめされて、自分の人生の脆さに思い知らされることがあったりする。真面目に生きるのが一番である。だから、悲しみや苦しみに目をつぶってはならないし、忠言や苦言に耳をふさいではならないのだろう。物事の不幸を避けて通っているようではいけない。宴会よりも葬式に列する方が得であるというのは、それだけ人生を深く、真面目に考えさせるからだろう。よりよい人生を生きようとしたら苦菜が必要である。適度に苦みがあればこそ、目を覚ました生き方もできる。名前負けする、ということがあるが、自分の名を汚すような底の浅い生き方はしないことである。
 次に人生は知恵を持って生きるべきものである。短気は損気と言われる。忍耐力をもって物事を慎重に考え抜く者が、人生をしっかり生きていくことができる。お金に惑わされてはいけない(8節)。過去に拘り過ぎてもいけない(10節)。人間の愚かさのパターンというのはある程度決まっているようなところがある。しかし誰もが同じような罠に引っかかってしまうのだから、敢えてこのような警告も必要なのだろう。人生を破綻させたくないのであれば、愚かだといわれることからは身を引く事も大切である。当たり前に言われていることを当たり前のように守っていく、それが知恵をもって生きると言うことであり、知恵をもって生きるというのは頭がよいということとは違うのである。
 さらに、無理してはいけない。自然の流れというものがある。高齢者の方々とつき合う機会が多くなり、学んだことが一つある。物事の成り行きを見守ることである。自分で竿を刺して、船首を動かしたいと思うような時には、ぐっと堪える。まず物事の流れを見ていく。石橋を叩いても渡らないと言われようが、物事の推移をある程度見守っていくことが肝要である。というのも、「遅すぎる」と思うのは人間の常であるが、物事のすべては、神の御手に動かされているのであって、人は神のなさることを見極めなくてはならない。自然界の道理に逆らってはいけない。そして順境の時には素直に楽しみ、逆境の時には、素直に我を顧みる。そして神が、最善をなしてくださることを信じ、神のみわざに目を留め、それに沿っていくのである。
 そういう意味では中庸という、イスラエルの知恵にも学ばなくてはならないのだろう(16節)。正しすぎてもだめ、悪すぎてもだめ。知恵がありすぎてもだめ。愚かすぎてもだめ。極端に走るのではなくて、中庸を選んでいく。あれもこれもはよくないと言われるのは日本の社会であるかもしれない。あれかこれかの世界である。しかし、あれもこれも目を留めつつ、神が与えられるものをしっかりつかみ取っていくという生き方もある。要するに慌てないことである。迷いに甘んじるというべきか。物事を単純にではなく、複雑に受け止めていくということではないか。21節。「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない」確かにそうだ。人のことばに一々躓かないことだろう。人はよく考えもせずに物事を語っていることがある。そんなことばに一々躓くことも馬鹿馬鹿しいではないか。変なことを言っているなと聞き流す、それだけの器の広さと深さを持ち、本当に留めるべきことばを選んでいくことだ。スポルジョンは語っている。「人の舌を止めることはできない。だったら、自分の耳を閉じて、話されたことを気にしないことである」
 28節「見いだしたことは次のとおりである」伝道者は、中間的に結論を述べている。「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めた」(29節)。つまり、神は人が正しく生きる者として創造されたのであるが、人はその目的にかなわない者となった。人は神の目的を退け、自分が満足する目的を追い求めて、結果的に矮小な罪の世界に生きるようになったのである。
 今ここで少し立ち止まってみようではないか。刹那的に薄っぺらに生きていやしないか。近視眼的に、短気丸出しで両極端に生きていることはないか。神の知恵の深さに生きる事を考えてみよう。深く掘り下げて人生を生きる様に、自分の人生の方向転換をしてみようではないか。