「あなたのパンを水の上に投げよ」は当時よく使われた格言のようだ。種々の解釈がある。パンを「魚のえさ」、つまり撒き餌と見て、大漁を期待すると考えるもの。またパンを「商品」と解釈し、それを水の上に投げるというのは、船に積んで貿易をするという意味であるとするもの。盛んに海外貿易をしていたソロモンの時代のこととすれば、よく理解できる解釈である。さらにパンを「善意」や「親切」と象徴的に解釈するもの。善意による施しをすれば、思わぬ時にその報いがある、と理解する。そしてよくキリスト教界で聞かれるのは、最期のユダヤ人の伝統的な象徴的解釈の延長上で、パンを「福音」と解釈するものだろう。福音を語り伝えれば、今すぐに実りはなくても、後の日に収穫される、と解釈する。
2節は、投資の原則を語っているとする。リスクを避けるため財産を分配投資する賢明さを語っている。リビングバイブル訳では、1節の流れの続きで、善意や親切をふりまけば、後で助けてもらえるという意味で解釈を通している。こうしてみると、パンを商品と解釈し、商売で設け、その儲けを分配投資するという流れで読むのが、当時の人たちの理解だったのではないか。
そうやって読むと、3,4節も象徴的にではなく、文字通りに解釈すれば、天災の現実があることを示した後で、それを警戒してばかりいたら、思い切った種蒔きも収穫もない、というように日常的教訓として理解できる。だから5,6節もその続きで、自然現象の変化や胎児の成長などは人間に理解のできないことで、神の手中にあることなのだから、未来のことをいたずらに心配せずに、神に委ねて、朝も夜も、なせることをなせという勤勉・勤労の教訓を語っていると考えられる。
5節欄外注釈を読むと、「風」と訳されたヘブル語の「ルーアハ」を「霊」と訳して、「あなたは、どのようにしていのちのいぶきが妊婦の胎の中の骨に入るかを知らない」という別訳が紹介されている。「霊」と訳す事も可能であるということなのだが、大筋、文脈で言いたいことは、変わらない。
ともあれ、解釈には色々なあり方があるが、大切なのは、伝統的にキリスト教界は象徴的に解釈するか、それとも字義的、つまりは文字通りに解釈するかの二つの解釈法の間で揺れてきた。象徴的に、いわゆる霊解を試みる余りに書かれていることを超えてしまった悲劇もあるし、字義的に拘り過ぎた過ちもあった。だから、大切なことは、聖書というのは、書かれた当時の読者を教えるために書かれたのだから、当時の読者にとって自然な意味をまず最優先させる、ということだろう。そして、現代の私たち、つまり時代、歴史、文化などの差を持った私たちが理解しようとした時に、どこまで私たちの文脈に合わせて、そこに解釈の幅が許されるか、ということであろうと思う。そうやって考えれば、パンを「福音」と解釈するのは、当時のユダヤ人の伝統的な解釈の延長であるから許される範囲内であろうと思うが、基本的には、当時の人達の理解を基礎に、文字通りに解釈するのがよいと思う。というのは、9章までは、様々な空しさが語られて来た。そして10,11章は、なぜか格言集となる。それは、こんな空しい人生ではあるが、この人生を生き抜く知恵もあるのだと、その知恵を断片的に取りあげていると理解することもできる。まとめて言えば、神に自分の人生を委ねて昼も夜もなすべきことなしていくことに他ならぬとし、最後の12章で、最も大切な生き抜きの知恵を結論的に語るという流れになっているとすれば、ここは、あれこれ深読みせずに、当時理解された程度の解釈で治めた方が良いと思うのである。
7節以降、伝道者は、人生を楽しむ事を語る。しかし人生は楽しい時ばかりではない。若さも青春も空しいということがある。たとえそうであっても、神がすべてを支配し導かれているとしたら、空しさの中に鬱々と生きていくよりは、神に全てを委ねながら、自分の最善を生きればよいということにもなるではないか。だから言う「あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」(9節)。しかしそれは、放縦や勝手気ままという意味ではない。「しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」(9節)と。弁えある自由さを語っているのである。そして、悲しみや痛みは捨て去れという。そういうものに拘り、いつまでも握りしめていても何も生まれない。過去は思い切って捨て去ることである。悲しみも痛みも忘れて、神に委ねて、新しい光の中に自分を押し出すことである。神を信じるということは、前向きな人生を生きる事に他ならない。今日、心を定めて、新しい人生に踏み出してみよう。
2節は、投資の原則を語っているとする。リスクを避けるため財産を分配投資する賢明さを語っている。リビングバイブル訳では、1節の流れの続きで、善意や親切をふりまけば、後で助けてもらえるという意味で解釈を通している。こうしてみると、パンを商品と解釈し、商売で設け、その儲けを分配投資するという流れで読むのが、当時の人たちの理解だったのではないか。
そうやって読むと、3,4節も象徴的にではなく、文字通りに解釈すれば、天災の現実があることを示した後で、それを警戒してばかりいたら、思い切った種蒔きも収穫もない、というように日常的教訓として理解できる。だから5,6節もその続きで、自然現象の変化や胎児の成長などは人間に理解のできないことで、神の手中にあることなのだから、未来のことをいたずらに心配せずに、神に委ねて、朝も夜も、なせることをなせという勤勉・勤労の教訓を語っていると考えられる。
5節欄外注釈を読むと、「風」と訳されたヘブル語の「ルーアハ」を「霊」と訳して、「あなたは、どのようにしていのちのいぶきが妊婦の胎の中の骨に入るかを知らない」という別訳が紹介されている。「霊」と訳す事も可能であるということなのだが、大筋、文脈で言いたいことは、変わらない。
ともあれ、解釈には色々なあり方があるが、大切なのは、伝統的にキリスト教界は象徴的に解釈するか、それとも字義的、つまりは文字通りに解釈するかの二つの解釈法の間で揺れてきた。象徴的に、いわゆる霊解を試みる余りに書かれていることを超えてしまった悲劇もあるし、字義的に拘り過ぎた過ちもあった。だから、大切なことは、聖書というのは、書かれた当時の読者を教えるために書かれたのだから、当時の読者にとって自然な意味をまず最優先させる、ということだろう。そして、現代の私たち、つまり時代、歴史、文化などの差を持った私たちが理解しようとした時に、どこまで私たちの文脈に合わせて、そこに解釈の幅が許されるか、ということであろうと思う。そうやって考えれば、パンを「福音」と解釈するのは、当時のユダヤ人の伝統的な解釈の延長であるから許される範囲内であろうと思うが、基本的には、当時の人達の理解を基礎に、文字通りに解釈するのがよいと思う。というのは、9章までは、様々な空しさが語られて来た。そして10,11章は、なぜか格言集となる。それは、こんな空しい人生ではあるが、この人生を生き抜く知恵もあるのだと、その知恵を断片的に取りあげていると理解することもできる。まとめて言えば、神に自分の人生を委ねて昼も夜もなすべきことなしていくことに他ならぬとし、最後の12章で、最も大切な生き抜きの知恵を結論的に語るという流れになっているとすれば、ここは、あれこれ深読みせずに、当時理解された程度の解釈で治めた方が良いと思うのである。
7節以降、伝道者は、人生を楽しむ事を語る。しかし人生は楽しい時ばかりではない。若さも青春も空しいということがある。たとえそうであっても、神がすべてを支配し導かれているとしたら、空しさの中に鬱々と生きていくよりは、神に全てを委ねながら、自分の最善を生きればよいということにもなるではないか。だから言う「あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」(9節)。しかしそれは、放縦や勝手気ままという意味ではない。「しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」(9節)と。弁えある自由さを語っているのである。そして、悲しみや痛みは捨て去れという。そういうものに拘り、いつまでも握りしめていても何も生まれない。過去は思い切って捨て去ることである。悲しみも痛みも忘れて、神に委ねて、新しい光の中に自分を押し出すことである。神を信じるということは、前向きな人生を生きる事に他ならない。今日、心を定めて、新しい人生に踏み出してみよう。