<朝のディボーション>
1節、「というのは」は、「さて」と訳すべきものだとされる。つまりここから著者は自ら観察したことの結論に入る。そして言う。物事は神の支配の中にあることは確かなのだが、正しい人だからといって神に愛された歩みができるわけでもなく、悪者だからといって、神に憎まれた歩みをするわけでもない。どんな人生を歩もうと、皆、死の報いを受けるのである。ポイントは、著者は死を悪と見なしていることである。
著者は、この世の人生を決定的なものとして考えているようである。今の人生がどんな機会を人に提供するか、そこに注目すれば、人間の努力のすべてをむなしくしてしまう死は悪なのである。来るべき世に対する希望を持つことがなければ、こういう結論にならざるを得ない。だからこの世で面白おかしく生きた方がましである。自己中心な我欲を満たすだけの、愚かさを丸出しにした自暴自棄な生き方をせざるをえない。
だが著者は、同時に、神に生きる視点をも評価する。7節。死を迎える前の今の人生を満足して生きよという。「神はすでにあなたの行いを喜んでおられる」つまり、神はすでに信仰者の歩みを受け入れているし、喜んでいるし、その神との交わりを覚えて神と共に生きることが、同じ面白おかしく生きるにしても質の良い人生を味わうことができるということだろう。たとえ死が私たちのよい働きを打ち壊したとしても、私たちのよい働きは神に覚えられているのである。神の元へ帰るというのであれば、それで十分である。
<夜のディボーション>
「白い着物」「油」は暑い地域では、快適な生活のための必需品である。油は、乾いた肌に潤いを与える。著者は、神が与えられている今、という人生を喜び楽しむように語る。イエスは、天ではめとることも嫁ぐこともない、と語ったが、地上の人生での祝福の一つは、結婚である。だから結婚を神の賜物として楽しむように、と語る。また、自分の手に委ねられていることを忠実に、喜んで、行え、という。労働も、地上ののみの祝福である。この世での仕事はこの世だけのことであって、もうあの世では存在しえないのだから(10節)。そう思えばこそ、自分の仕事をより完成度の高い物にする意義もあるだろう。
ただ、それは罪の世の不条理を弁えた上でのことだ。五つの不条理が語られる。足の速さ、軍事力、知恵、悟り、愛顧も、人が期待するような結果をもたらさないことがある。常識的に考えて当然と思われることが、実際にはそうはならないことがある。信仰を持つ者には、戒めと希望であるが、自信を持つ者には災い的なことである。「時と機会に出会う」ということが物事のよしあし、成功を決めることがある。
知恵は権力に勝る。しかし、知恵はいつも権力の側にあるわけではない(16節)。また知恵は、多くのよいものを打ち立てるが、一人の罪人の愚かさによって、それらは一瞬にして打ち壊される。そういう世の不条理さを弁えた上で、人の生き方は、神に覚えられており、やがて私たちはその永遠の神のもとに帰るのだと物事を建てあげる方向で生き抜いていくかどうか、その覚悟を決めさせられるところである。
1節、「というのは」は、「さて」と訳すべきものだとされる。つまりここから著者は自ら観察したことの結論に入る。そして言う。物事は神の支配の中にあることは確かなのだが、正しい人だからといって神に愛された歩みができるわけでもなく、悪者だからといって、神に憎まれた歩みをするわけでもない。どんな人生を歩もうと、皆、死の報いを受けるのである。ポイントは、著者は死を悪と見なしていることである。
著者は、この世の人生を決定的なものとして考えているようである。今の人生がどんな機会を人に提供するか、そこに注目すれば、人間の努力のすべてをむなしくしてしまう死は悪なのである。来るべき世に対する希望を持つことがなければ、こういう結論にならざるを得ない。だからこの世で面白おかしく生きた方がましである。自己中心な我欲を満たすだけの、愚かさを丸出しにした自暴自棄な生き方をせざるをえない。
だが著者は、同時に、神に生きる視点をも評価する。7節。死を迎える前の今の人生を満足して生きよという。「神はすでにあなたの行いを喜んでおられる」つまり、神はすでに信仰者の歩みを受け入れているし、喜んでいるし、その神との交わりを覚えて神と共に生きることが、同じ面白おかしく生きるにしても質の良い人生を味わうことができるということだろう。たとえ死が私たちのよい働きを打ち壊したとしても、私たちのよい働きは神に覚えられているのである。神の元へ帰るというのであれば、それで十分である。
<夜のディボーション>
「白い着物」「油」は暑い地域では、快適な生活のための必需品である。油は、乾いた肌に潤いを与える。著者は、神が与えられている今、という人生を喜び楽しむように語る。イエスは、天ではめとることも嫁ぐこともない、と語ったが、地上の人生での祝福の一つは、結婚である。だから結婚を神の賜物として楽しむように、と語る。また、自分の手に委ねられていることを忠実に、喜んで、行え、という。労働も、地上ののみの祝福である。この世での仕事はこの世だけのことであって、もうあの世では存在しえないのだから(10節)。そう思えばこそ、自分の仕事をより完成度の高い物にする意義もあるだろう。
ただ、それは罪の世の不条理を弁えた上でのことだ。五つの不条理が語られる。足の速さ、軍事力、知恵、悟り、愛顧も、人が期待するような結果をもたらさないことがある。常識的に考えて当然と思われることが、実際にはそうはならないことがある。信仰を持つ者には、戒めと希望であるが、自信を持つ者には災い的なことである。「時と機会に出会う」ということが物事のよしあし、成功を決めることがある。
知恵は権力に勝る。しかし、知恵はいつも権力の側にあるわけではない(16節)。また知恵は、多くのよいものを打ち立てるが、一人の罪人の愚かさによって、それらは一瞬にして打ち壊される。そういう世の不条理さを弁えた上で、人の生き方は、神に覚えられており、やがて私たちはその永遠の神のもとに帰るのだと物事を建てあげる方向で生き抜いていくかどうか、その覚悟を決めさせられるところである。