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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

伝道者の書4章

2017年01月15日 05時22分45秒 | 伝道者の書
しいたげと悲しみの中にある者を慰める者はいない。むしろしいたげる者は、勝ち誇ったかのように権力を奮う。何とも空しい現実ではないか(1節)。なぜ人はこれほどまでに傍若無人に振る舞うことができるのか。なぜ血や涙の一欠片もなく残酷にあしらうことができるのか。弱い者の立場は益々弱く、強い者の立場は益々強くなる。そして権力を握った者がそれを弱者のために誠実に用いるかというとそうではない。むしろ自分のために、動物的に、人間身のない用い方をする。そんな人間社会の現実を見るよりであったら、死んだ方がましで、まだ生まれてこない人の方がましである(2節)。
次に人間社会の成功を見るならば、それは、ただ妬みに動機づけられたものであることがわかるだけで、これもむなしい、という(4節)。何が人間を成功に向かって駆り立てるかといえば、それは妬みや抑圧に対する怒りであったりする。そのために、人は人を利用し、踏み台にしていく。しかし一方でその日暮らしの、自分の身代を食いつぶすような生き方もある。それは愚かなようにも思えるが、様々な地位を得た、役職を得た、しかし、人間的な競争の泥沼の中に日々雁字搦めになって生きている、というよりも、たとえ打ち破れた者のように見なされようとも、何も持たぬ気楽さに生きていく方がよい、ということもあるだろう。
第三にひとりぼっちのむなしさ。たった一人になりながらも、なおも成功と富を求めてあくせくする、その虚しさを人間は認めることができないでいる。なぜか。人間は家族であっても裏切ることがあるが、金は、持っている限り人を楽しませ裏切らない。税金取りのザアカイが、不正によって、富を追及したのもそんな理由からだろう。しかし彼は富と地位を保証されて生きていたが、友を失い、孤独さを噛みしめ、楽しみも、喜びもなく生きていたのが本当である。真に助け合い、支え合う友や伴侶を持つ事は難しいこともあるが、それほど心を励まし、身体を暖め、勇気を与えるものはない。得るべきものは、お金ではなく、友であり伴侶である。
最後に、組織の長であることのむなしさ。組織の長は自分が後何年この役目を全うできるかを弁えなくてはならない。忠言を受け付けなくなるほどに年老いてもなお、組織の長であろうとすることほど、愚かなことはない。生産性のない頭脳、回顧的な思想、老人特有の寂しさによって、組織を先に動かす力量を欠いてしまうからである。しかし不幸にもそうした年寄りがいつまでも地位を降りたがらないのが社会の現実であったりする。そして、たとえ世代交代が進んで知恵のある若者が組織の長になっても、彼もまた頑固になり、他人の忠言を受け付けず、歓迎されない者になることがある。空しいことの繰り返しが、この世の中にはあるものだ。
こんなむなしさを一つ一つ思い返していると、何とも、人間の社会には救いがないように思えて来るものだ。しかし、この世の社会も一時的なものであり、私たちは世を一時的に過ぎていく者にすぎない。人間の頑なな現実とは別に、神との関係にあって満たされて生きていくことはできる。今日も神の祝福にこそ目を留めて歩ませていただこう。

伝道者の書3章

2017年01月14日 05時37分11秒 | 伝道者の書
「時」がある。すべての出来事は、すでに天地創造の神に定められた時があって、そのスケジュールに沿って物事が動いている、という。運命論的な言い方をしているのではない。著者は、物事の背後に、「時にかなって美しい」(11節)ことをなさる神の存在を認めているのだ。神は愛であって、神は私たちに良いものを拒まれない。これはキリスト教信仰の確信である。
だから神が私たちは、人生において常に良いことを期待することができる。人は自分が不幸だと思う時には、その暗闇が永遠に続くかのように考えてしまう。物事を悪く悪く考えてしまうものだ。しかし、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」人間には喜びの時もあるし悲しみの時もある。いつまでも悲しみに沈んでいるわけではない。いつまでも喜びに満ちているわけではない。変化の中を生き抜いていくのが人間である。ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなくてはならないのではないか」(2:10)と語った。実に、今自分はどんな時に生きているのか、を理解することが大切であって、自分の人生に抜け道がない、そんな風には思わないことである。
 実に、人間は時に制約されて生きている。しかし、神は私たちに永遠を知る、つまり時を超えた世界を感じる力を与えてくれた。もともと人間は神の形に似せて造られた存在である。神の形は様々に解釈されるが、神の愛、義、聖といった道徳的性質に似せて造られたと理解できるし、また時を創造し、時を超越した神の永遠という本質に似せて造られた部分もある。となれば、人間は時に制約されながらも、その時を超えて生きる存在である。しかし、実際にはそうではないし、神のように時の全容を把握することもできない。だから、人生を生き抜くフラストレーションを抱え込まざるを得ない。しかし、神が私たちの時を悪く定められている、あるいはよきに定められていると見るのではなく、悪い時も良い時もあるが、罪人である私たちに対して最善を拒まれないでいる、という信仰に立てば、そのフラストレーションを小脇に抱えながら生きていくこともできるだろう。
25節は、新改訳では、「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか」となり、新共同訳では「自分で食べて自分で味わえ」となる。しかし意味するところは同じで、「自分で食べて、自分で味わえ!神を離れて何も味わえない。」という反語的な表現である。新共同訳は、いささか荒削りの訳にも思えるのだが、言いたいことは、神が、「人が食べ楽しむ時」を定めてくださらなかったら、誰がそのように食べ楽しむことができようか、ということである。
 神が私たちの時を支配しておられる。そして私たちは良いことも悪いことも様々な事を経験していかざるをえない。しかしその全容については、神は私たちに対する最善を考えておられるというのが著者の言わんとしていることだ。だから神を恐れなくてはならない。神に聞いて、神に従っていくことが大切だ、となる。今日も、神がどんな時を与えられているのか、を覚え、良き時には感謝し悪しき時には耐え忍び、神の最善に期待しよう。

伝道者の書1章

2017年01月12日 07時11分21秒 | 伝道者の書
書名は、ヘブル語聖書の冒頭のことば、ディベレイ・コヘレト(伝道者の言葉)から来ている。伝統的にはソロモンの作と言われてきた。しかし、宗教改革者ルターがソロモン著作説を否定して以来、それは疑わしいとされている。実際12節。「イスラエルの王であった」はハイティ、完了形の動詞で、すでにこの時点では王ではなくなっていることを意味している。となれば終生王であったソロモンとは異なるし、ダビデの子という表現も、ダビデの子孫と理解することも可能であるから、ソロモンとは必ずしも言えない。著者は不明であり、著作年代も捕囚期以降という説もある。
 さて、2節、「空の空」は全く空しい。3節「日の下」は、新約聖書では、「この世」という概念に対応する。つまりこの世のものは全く持って空しい、という。「益」は、ヘブル語でイツローン。会計上の剰余金を意味する。つまり、この世での労苦には、投資に見合った見返りがない、ということだ。確かに、人は、自ら身を削って築き上げたものを、何も天に持ち帰ることができない。いずれ全てをこの地上に残し、そんな苦労も知らない者が後を継いでいく。実に空しいこと極まりない例である。
 ともあれ、人生から神を取り除いてしまったなら、自然の営みもすべては、単調な繰り返しである。川から海へと流れ込む水の流れのように、延々と繰り返し、何も新しいものを造り出すことはない(5⁻7節)。人間の歴史も、悲喜交々の繰り返しである。記憶に残っていないからそれは新しいのだという点(11節)、実に人間の頭の弱さをも覚えさせられ、愕然とするところだ。
 悲観的に人生を見る伝道者は、知恵の限りを尽くして、人生の満足を見出そうとする(13節)。知恵は何かの役には立つだろうが、知恵を尽くしても人生の意義は悟り得ない。ここで言う「知恵」は箴言の用法とは異なり、どうやら「主知主義」を意味する。全てを支配する神を恐れて生きる姿勢ではなくて、理知的なものをよしとする姿勢である。つまりあらゆる知恵を活かす神を無視する知恵は、どんなに蓄えても、追求しても空しい限りである。現代哲学が知恵の探求ではなく、論理の探求になったのも無理はない。考え方の合理性は追求できるが、何を考え抜くべきか、考えの中身を追求することは全くもって不可能である。パウロは、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3)と語った。人生の意味は、「日の下」つまり「この世」目線で考えていても見いだしえない。「日の上」という天的な領域から考えればこそ、悟りもある。知恵によって人生の問題を解決しようという試みは、実際には問題を拡大するだけだ(18節)。
人類の堕落の状況をはっきりと教えられる。すべては神にのろわれたものになってしまった。すべてはいまだに虚無に服している。自然も人間の精神も。人間はその中で意味を見出そうと生きている。この現実を踏まえて、神に立ち返る心を持つことが大切である。


伝道者の書12章

2013年10月22日 07時28分38秒 | 伝道者の書
<朝のディボーション>
 伝道者は、最後に、人生の終着について語る。「何の喜びもない」と年月というのは、老いのことである。たとえは、印象で理解するのが原則である。とすれば、「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう」は、老いの現実を印象的に語るものだ。そして3-6節は、いのちが衰えていく様を、絵画的に描いている。年寄りの腕は震え、背は丸くなる。歯抜けになる様を「粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ」と語る。「目は暗くなる」は、視力の衰えを語っている。「通りのとびらは閉ざされ」は、聴力が衰えること、そして「歌を歌う娘たちはみなうなだれる」は、声が弱くなることである。
 年寄りは、高い所に上ることを恐れるし、道を歩くこともままならない。アーモンドの花、口語訳では「あめんどう」、は白髪を象徴的に語っているし、のろのろ歩くいなごは、外に出かける年寄りの歩き方を表現している。「ふうちょうぼく」、新共同訳では、「アビヨナ」と訳す。ヘブル語の音訳である。地中海原産のこの低木は、日本名のふうちょうぼくとは同一ではない、という判断なのだろう。口語訳では「欲望は衰え」リビングバイブル訳では「性欲もなく」と意訳される。というのも、ふうちょうぼくのつぼみは酢漬けにして料理されるが、それは食欲や性欲亢進に役立つと言われるからである。「花開く」は、萎れる他はないことを言う。「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ」は、当時使われた油を用いた照明器具の、天井からつるす銀のひもが切れた様子、油の受け皿であった金の器が地に落ち砕けている様を語っている。また昔は、次から次と湧き水をくみ出し、世間話に花が咲いた井戸が、今や誰も足を運ばない涸れ井戸になっている。つまり人間の死を実に巧みに詩的に表現している。
<夜のディボーション>
 しかし、人間の老いは終わりではない。人間はちりで造られたのだからちりに戻っていく。しかし霊は、神より授かった特別なもので、これは、地上を彷徨うのでも、消滅するのでもなく、神のもとに帰るという(7節)。ここに伝道者のメッセージがある。
 日本人は、死んだら何も無い、すべては終わって消滅するだけだと考える人が多い。天国も地獄もないと。ただ、極楽ぐらいは考えたい人もいるだろう。葬儀の後に、七回忌、十三回忌と追善供養を重ねるのも、そういう信仰があればこそである。しかし、いったいその死者の魂はどこへ行ってしまっているのであろうか?伝道者は、それは創造主のもとに帰るのだという。初めに天と地をお造りになり、さらに、人間を造られた神のもとに帰ると。だから、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(1節)ともなる。人間と神の接点は神が私たちを創造した点にある。その創造者を覚えて今の世を歩むことが、私たちにとっては最善である。
13節「神を恐れ、神の命令を守る」この順序に注意しよう。神を知ることが神への従順を生み出す。神を恐れる時に、私たちの信仰も成長する。やがて神のもとに帰る者として、神を仰ぎ、神のみこころの中に今日も歩ませていただこう。 

伝道者の書11章

2013年10月21日 05時54分01秒 | 伝道者の書
<朝のディボーション>
 「あなたのパンを水の上に投げよ」は当時よく使われた格言のようだ。種々の解釈がある。①パンを「魚のえさ」、つまり撒き餌と見て、大漁を期待すると考えるもの。②パンを「商品」と解釈し、船に積んで貿易をすることと考えるもの。盛んに海外貿易をしていたソロモン時代を背景とする解釈で、確かに舟での商取引の利益は、長期間待たされるものであったとする。③ユダヤ人の伝統的な象徴的解釈で、パンを「善意」や「親切」と考えるもの。善意による施しをすれば、思わぬ時にその報いがある、と理解する。④、③の延長線上の解釈でパンを「福音」と考えるもの。福音を語り伝えれば、今すぐに実りはなくても、後の日に収穫される、と解釈する。
 2節は、投資の原則を語っている。リスクを避けるため財産を分配投資する賢明さを語っている。リビングバイブル訳では、1節の流れの続きで、善意や親切をふりまけば、後で助けてもらえる意味で解釈を通している。こうしてみると、パンを商品と解釈し、商売で設け、その儲けを分配投資する流れで読むのが自然である。
 だから3、4節も文字通りに、予見できない天災の現実があることを示した後で、それを警戒し、優柔不断となることへの警告と取る。続けて5、6節も、自然現象の変化や胎児の成長などは人間に理解のできないこと(5節は欄外中の別訳が自然である)で、神の手中にあることなのだから、未来のことをいたずらに心配せずに、神に委ねて、朝も夜も、身近な責任を果たすことを促す勤勉・勤労の教えと理解できる。
<夜のディボーション>
9章までは、様々な空しさが語られて来た。そして10、11章は、なぜか格言集となる。それは、こんな空しい人生ではあるが、この人生を生き抜く知恵もあるのだと、その知恵を断片的に取りあげていると理解することもできる。まとめて言えば、神に自分の人生を委ねて昼も夜もなすべきことなしていくことに他ならぬとし、最後の12章で、最も大切な生き抜きの知恵を結論的に語る流れになっているとすれば、ここは、あれこれ深読みせずに、当時理解された程度の解釈で読むのがよいのだろう。
 7節以降、伝道者は、人生を楽しむ事を語る。しかし人生は楽しい時ばかりではない。若さも青春も空しい。しかしそうであっても、神がすべてを支配し導かれているとしたら、空しさの中に鬱々と生きていくよりは、神に全てを委ねながら、自分の最善を生きればよい。だから言う「あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」(9節)。ただそれは、放縦や勝手気ままという意味ではない。「これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」(9節)と。弁えある自由さを語っている。そして、悲しみや痛みは捨て去れと言う。悲しみや痛みとするものにいつまでも拘っていても何も生まれやしない。過去は思い切って捨て去ることだ。悲しみも痛みも忘れて、神に委ねて、新しい光の中に自分を押し出すことである。神を信じることは、前向きに人生を生きる事に他ならない。今日、心を定めて、新しい人生に踏み出してみよう。