10章の内容はまとめにくく、再び箴言の学びに戻ったかのような印象もある。それは人生の不条理や虚しさを語るというよりは、人間の愚かさとその顛末を語る内容になっている。1節、死んだはえが香油をだいなしにするように、少しの愚かさが、大きな損失をもたらすことがある。愚かさの原因は、心にある。「右」は、救いや霊的な事柄の象徴であり、「左」はその逆である。知恵ある者と愚か者とでは、心の向きが全くもって正反対である。
問題は、そうした愚かさに関わらねばならぬ時である。愚か者が最高位につくこと自体が災いであるが、その彼があなたに立腹したならどうすべきか。4節、冷静に物事の推移を受け止めていくしかない。狼狽えず、逃げ腰にならず、忍耐を働かせ、神の「時とさばき」(5節)を見守っていくことだ。それは驚くことではないが、続くものでもない。
というのも愚かさの結末を考えたらよい(8-11節)。「穴を掘る、石垣を崩す」は悪意に満ちた執念深い努力を意味する。それは実に愚かさ丸出しの行為であって、自ら作った絞首台に吊るされたハマンの運命を辿るようなものだ(エステル7:9-10)。物事には、それなりのリスクがあるものだが、弁えがなければ、それ相当の損失を受けることになる(9節)。物事を成功させようとしたら、それなりに頭を働かせることだ(10節)(ルカ14:28-33)。
愚かさは、無謀性、無計画性、そして見通しの甘さに現れるものであるが(12-15節)、言葉の習慣においてもそうである。「愚か者はよくしゃべる。」愚か者は、聞く値打ちの無いことを話し、余計なことをしゃべって自ら身を滅ぼすだけだ。
こうして、著者は、人間の愚かさを念頭に置いた上で、自らの王としての営みを振り返っている(16-20)。国にとって必要なのは成熟した指導者である。未熟者で、朝から飲んだくれているような国は滅びる。しかし、仕事に向かうため起立ある食事を心がけている国は安泰である。勤勉・勤労を美徳することだ(18節)。18節の新共同訳は、「両手が垂れていれば家は漏り/両腕が怠惰なら梁は落ちる。」と訳す。両手と訳されたヘブル語は、バ・アツァルタイム。極度の怠けぶりを意味することばである。新共同訳は、両手と両腕を掛け合わせ、手ぶらでいる怠けぶりを表現したかったのかもしれないが、そのまま直訳してもよいところではないか。ともあれ、なまけていると、家のメンテナンスも疎かになり、雨漏りがする程度の意味で、16、17節に続く教訓の延長である。だから19節は、しっかり働けば、食事にも金にも困らない、という意味になる。
20節は、日本的に言えば「壁に耳あり、障子に目あり」ということだろう。愚かな者が支配権を握る状況ほど気がめいるものはない。しかし、そうした未熟さ、怠慢さにも静かに対処するのが知恵ある者だ。権威に従順であることは、身を守ることになる。あるがままに人生を受け止め、神の主権の働きを見守る人間力を持つ者でありたい。
問題は、そうした愚かさに関わらねばならぬ時である。愚か者が最高位につくこと自体が災いであるが、その彼があなたに立腹したならどうすべきか。4節、冷静に物事の推移を受け止めていくしかない。狼狽えず、逃げ腰にならず、忍耐を働かせ、神の「時とさばき」(5節)を見守っていくことだ。それは驚くことではないが、続くものでもない。
というのも愚かさの結末を考えたらよい(8-11節)。「穴を掘る、石垣を崩す」は悪意に満ちた執念深い努力を意味する。それは実に愚かさ丸出しの行為であって、自ら作った絞首台に吊るされたハマンの運命を辿るようなものだ(エステル7:9-10)。物事には、それなりのリスクがあるものだが、弁えがなければ、それ相当の損失を受けることになる(9節)。物事を成功させようとしたら、それなりに頭を働かせることだ(10節)(ルカ14:28-33)。
愚かさは、無謀性、無計画性、そして見通しの甘さに現れるものであるが(12-15節)、言葉の習慣においてもそうである。「愚か者はよくしゃべる。」愚か者は、聞く値打ちの無いことを話し、余計なことをしゃべって自ら身を滅ぼすだけだ。
こうして、著者は、人間の愚かさを念頭に置いた上で、自らの王としての営みを振り返っている(16-20)。国にとって必要なのは成熟した指導者である。未熟者で、朝から飲んだくれているような国は滅びる。しかし、仕事に向かうため起立ある食事を心がけている国は安泰である。勤勉・勤労を美徳することだ(18節)。18節の新共同訳は、「両手が垂れていれば家は漏り/両腕が怠惰なら梁は落ちる。」と訳す。両手と訳されたヘブル語は、バ・アツァルタイム。極度の怠けぶりを意味することばである。新共同訳は、両手と両腕を掛け合わせ、手ぶらでいる怠けぶりを表現したかったのかもしれないが、そのまま直訳してもよいところではないか。ともあれ、なまけていると、家のメンテナンスも疎かになり、雨漏りがする程度の意味で、16、17節に続く教訓の延長である。だから19節は、しっかり働けば、食事にも金にも困らない、という意味になる。
20節は、日本的に言えば「壁に耳あり、障子に目あり」ということだろう。愚かな者が支配権を握る状況ほど気がめいるものはない。しかし、そうした未熟さ、怠慢さにも静かに対処するのが知恵ある者だ。権威に従順であることは、身を守ることになる。あるがままに人生を受け止め、神の主権の働きを見守る人間力を持つ者でありたい。