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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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伝道者の書10章

2017年01月21日 05時41分38秒 | 伝道者の書
10章の内容はまとめにくく、再び箴言の学びに戻ったかのような印象もある。それは人生の不条理や虚しさを語るというよりは、人間の愚かさとその顛末を語る内容になっている。1節、死んだはえが香油をだいなしにするように、少しの愚かさが、大きな損失をもたらすことがある。愚かさの原因は、心にある。「右」は、救いや霊的な事柄の象徴であり、「左」はその逆である。知恵ある者と愚か者とでは、心の向きが全くもって正反対である。
問題は、そうした愚かさに関わらねばならぬ時である。愚か者が最高位につくこと自体が災いであるが、その彼があなたに立腹したならどうすべきか。4節、冷静に物事の推移を受け止めていくしかない。狼狽えず、逃げ腰にならず、忍耐を働かせ、神の「時とさばき」(5節)を見守っていくことだ。それは驚くことではないが、続くものでもない。
 というのも愚かさの結末を考えたらよい(8-11節)。「穴を掘る、石垣を崩す」は悪意に満ちた執念深い努力を意味する。それは実に愚かさ丸出しの行為であって、自ら作った絞首台に吊るされたハマンの運命を辿るようなものだ(エステル7:9-10)。物事には、それなりのリスクがあるものだが、弁えがなければ、それ相当の損失を受けることになる(9節)。物事を成功させようとしたら、それなりに頭を働かせることだ(10節)(ルカ14:28-33)。
 愚かさは、無謀性、無計画性、そして見通しの甘さに現れるものであるが(12-15節)、言葉の習慣においてもそうである。「愚か者はよくしゃべる。」愚か者は、聞く値打ちの無いことを話し、余計なことをしゃべって自ら身を滅ぼすだけだ。
 こうして、著者は、人間の愚かさを念頭に置いた上で、自らの王としての営みを振り返っている(16-20)。国にとって必要なのは成熟した指導者である。未熟者で、朝から飲んだくれているような国は滅びる。しかし、仕事に向かうため起立ある食事を心がけている国は安泰である。勤勉・勤労を美徳することだ(18節)。18節の新共同訳は、「両手が垂れていれば家は漏り/両腕が怠惰なら梁は落ちる。」と訳す。両手と訳されたヘブル語は、バ・アツァルタイム。極度の怠けぶりを意味することばである。新共同訳は、両手と両腕を掛け合わせ、手ぶらでいる怠けぶりを表現したかったのかもしれないが、そのまま直訳してもよいところではないか。ともあれ、なまけていると、家のメンテナンスも疎かになり、雨漏りがする程度の意味で、16、17節に続く教訓の延長である。だから19節は、しっかり働けば、食事にも金にも困らない、という意味になる。
 20節は、日本的に言えば「壁に耳あり、障子に目あり」ということだろう。愚かな者が支配権を握る状況ほど気がめいるものはない。しかし、そうした未熟さ、怠慢さにも静かに対処するのが知恵ある者だ。権威に従順であることは、身を守ることになる。あるがままに人生を受け止め、神の主権の働きを見守る人間力を持つ者でありたい。





伝道者の書8章

2017年01月19日 06時22分10秒 | 伝道者の書
今の自分だったら、あんなふうにはならなかっただろう、そんな風に思うことは誰にでもあるだろう。「知恵は人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる」(1節)まさにその通りで、知恵がなかったが故に、顔を強ばらせて生きていることがある。知恵は一朝一夕で身につくものではないから、そういう時を過ごさねばならぬ、こともあるだろう。ああいう時を過ごしたから今がある、ということもある。いつでも物事を正しく理解できて、適切に対処できたら、申し分のない人生を生きることができるのだろうが、そうではないから、人は謙虚に知恵を求め続けて生きなくてはならない。
 2節、「王の命令を守れ。あわてて退出するな」、と言うのは、王の権威を認めて、くちごたえをしたり、挙動不審と見られたりするようなことはするな、ということだろう。当たり前のことを当たり前にせよ、と語っているようだ。しかし、なぜ急にこんな王の話題を出したのであろうか。唐突のようにも思われる。新改訳は2-5節を、区切って訳している。挿入的な戒めのようでもある。
 しかし、続く6節を読めば、著者の思考の中では、すべてがつながっていると考えられる。つまり、私たちはしばしば余計な災いに首を突っ込むような生き方をしていることがある。だから、そうならないように知恵をもって思慮深く歩む、つまり李下に冠を正さずを心がけることは、大切だ、となるのだろう。
一方、後半は、人生には知恵も思慮深さも役に立たない不条理性があることを語っている。人間の知恵と思慮深さを欺くような、実に、むなしい現実が社会にはある。「悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある」(14節)。なんとも馬鹿馬鹿しい限りのことがある。だから、この世は面白おかしく生きるしかないということにもなりかねない。矛盾だらけの人の世で、正しく生きる事の何の意味があろうか、というわけである。
 だが、伝道者は、すでに「あれもこれも神のなさること」(7:14)と語っている。ここでも「すべては神のみわざである」(17節)と繰り返す。どんなに物事が不条理に動いているように見えようとも、神の正しい裁きが行われるというのは、著者の確信である。というのも、不条理さの中に、実は、私たちに後のことを悟らせないための神のご計画があるからだ。人は物事を見通せないからこそ、愚かさを繰り返す。しかし、物事を見通せないからこそ、物事を不条理に感じてもいる。初めからわかっていれば決して犯さない過ち、決して持つことのない焦燥というものがある。人間の知恵の有限性、不完全性の故に、人間は鳥越苦労していることがある。「人は日の下で行われるみわざをみきわめることはできない」(17節)物事にはそんなところがある。だから、不条理と思われる事柄があっても、そこで腐ってしまうのではなく、むしろ謙虚に、神の働きを信頼し、泰然自若として生きる歩みが必要なのだ。こうして伝道者の書は、箴言に通じるテーマを繰り返していると言える。知恵の初めに神を恐れることが大切なのだ。

伝道者の書7章

2017年01月18日 06時11分11秒 | 伝道者の書
1節、「良い名声」は、名は体を現すというように、良い内なる性質を意味するのだろう。つまり内なる性質は、外なる芳香より重要である、ということだ。人間いかに人格を培うかが重要である。そういう意味では、2節、お祭り騒ぎが好きな人生に深さはない。しかし、悲しみや苦しみは、教訓となり、私たちの人生に深さをもたらす。忠言や苦言も、上手に受け止めれば、人生の肥やしになる。6節、「なべ(シール)の下のいばら(シーリーム)」、とあるが、ヘブル語では1節同様に(「名声」(シェーム)と「香油」(シェメン))ここにも語呂合わせがある。当時いばらは簡便な燃料として用いられた。そのように愚かな者の笑も、騒々しくはあっても、一瞬である。物事に悟る力を持ちたい。
次に四つの危険。7節は、テキストに誤り、あるいは単語の脱落があると議論される個所であるが、言いたいことは、虐待や賄賂が知恵ある者を破壊する危険性を持つことだろう。8節、試練には必ず神の目的があり、価値ある結果をもたらす。ヨブがそうであったように、忍耐の欠如は神の取り扱いに対する高ぶりとなる。短気は損気である。9節、「いらだち」は煮えたぎるような怒りを意味する。感情をぶつけられるような怒りを、忘れるのは難しい。過去に拘り過ぎてはいけない(10節)。それは新しい時代への取り組みをないがしろにする。人生の破船から免れるためには、知恵を得ることだ(11-13節)。
 13節、人生の苦難にあっては、神のみわざとしてこれを認めていくことである。すべては神の意志に服従している。どんなに不満を覚えることがあっても、私たちにそれを変えることはできない。むしろ、人は神を認め、神のなさることを見極めなくてはならない。順境の時には素直に楽しみ、逆境の時には、素直に我を顧みる。そしてこの先を導かれる神に信頼することである。
 15節、むなしく不条理な人生がある。しかし、人はそこで生きることを学ばなくてはならない。ありのままの人生を生き抜くことだ。そういう意味では、イスラエルの中庸の知恵にも学ばなくてはならないのだろう(16節)。正しすぎてもだめ、悪すぎてもだめ。知恵がありすぎてもだめ。愚かすぎてもだめ。極端に走るのではなくて、中庸を選んでいく。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」視野に入れつつ、神が与えられるものをしっかりつかみ取っていく生き方である。慌てず、迷う時は十分迷うことである。単純にではなく、複雑に、ありのままに物事を受け止めていく。21節。「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない」悪意ある者のことばは気まぐれである。そんなことばに一々躓き、心をかき乱されるのも馬鹿馬鹿しい。「人の舌を止めることはできない。だったら、自分の耳を閉じて、話されたことを気にしないことである」とイギリスの説教家スポルジョンは語った。
 29節、伝道者は、中間的に結論を述べている。神は人を直ぐな者として創造したが、実際には言い訳をする者になった。人が罪の中にある現実をよく認識し、正しく理解する、そこに、むなしい人生をむなしいままに生きることのない知恵もある。

伝道者の書6章

2017年01月17日 05時26分57秒 | 伝道者の書
伝道者は、人生の不幸について数え上げていく。
 第一に、富を豊かに手にしながら、それを楽しむこともなく死んでしまうこと(1-2節)。自ら稼いだ富が他人のものとなる虚しさがあるという。新改訳は、ヘブル語のノクリーを外国人と訳した。その意図はよくわからない。口語訳も新共同訳も「他人」であり、その程度の意味だろう。第二に、子宝に恵まれ、長寿を全うしながらその人生に何の幸いもないこと(3-6節)。子宝に恵まれるのは神の祝福の象徴である。長寿も同じである。世間的にあの人は神に祝福された人であると思われながら、実際には蝋人形の館に住んでいる、心通う夫婦関係も親子関係もなく、その死を心から痛み悲しんでもらうこともない人生、それも実に空しい。同じ屋根の下に暮らしながら、深い部分で人と心通う満足感を得ることもなく、日々人生を積み重ねる、これが人生だと思ってしまえばそれまででもあるが、そうではないし、そんな人生は不幸のなにものでもない、というわけだ。
 第三に、生活のためただ苦労すること(7節)。食べるために生きていく、ただそれだけの人生、それも空しいではないか。生産性なき、ただ自分の個体を維持するだけの人生である。働けども、働けども人生楽ならざる、というべきか、ゆとりのない人生が続くばかりというのも希望がない。
 第四に、知恵ある者も愚か者も皆、同じ結末に行く現実(8節)。実に、知恵ある者が愚かの者を軽蔑しようが、同じ結末を迎えるとは、これほど空しいこともない。私はあんな愚かな生き方はしまいといいながら、結末は同じというわけなのだから。
 第五に、大きな夢を抱いても実現しないこと(9節)。「目が見るところは」ありのままの現実「心があこがれること」は、思い描いた夢そのものである。夢大きく膨らませるよりも、現実に沿って行動した方がよい。夢の実現が長引けばそれだけ心も病むものであるし、実現しなければそれこそ空しい時を過ごしてしまう。
 12節、「だれが知ろうか」空しさの根本的な問題は、見通しの悪さである。これから先人生何年も遊んで暮らそうと、富を蓄え、病に冒されるという見通しの悪さ。結婚し子宝に恵まれ、どんどん幸せになると思ったところが、心通わぬ夫婦関係に陥るという見通しの悪さ。これでいけると思いながら思いがけなく商売に外れてただ生活に追われるだけになってしまう見通しの悪さ。自分の人生の正しきこと、賢きことを鼻にかけながら、結局は軽蔑した者たち、疎んだ者たちと同じ結末を迎える見通しの悪さ。大きな理想と夢に燃えて乗り出した事柄が、ただの幻想で終わってしまう見通しの悪さ。あらゆる空しさは、見通しの悪さのためである。となれば、人間の限界をはっきりと認めて、神に見通しを与えていただくのがよい。神が私たちの足のともしびとなって、また私たちの人生の先を照らしてくださって、導いてくださることを切に求めることだ。今日も、主よ、照らしてください。主の最善へと導いてください、と祈りつつ歩ませていただこう。


伝道者の書5章

2017年01月16日 05時25分08秒 | 伝道者の書
 ヘブル語聖書もそのギリシャ語訳である七十人訳聖書も、1節は、4:17となっている。新共同訳はそれに倣っているが、口語訳、新改訳はこれを5:1として訳してきた。そもそもこの章節は、最初からあったわけではなく、新改訳は、5:1から9節までを一つのまとまりと解釈し、4:17としなかったのだろう。翻訳には解釈が入る、と言われる部分がこういうところに出てくるわけだ。
 ともあれ、伝道者は、人生の諸相を様々に見てきているのであるが、ここでようやく宗教的な営みを取りあげている。「近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる」(1節)。信仰の本質は、聞くことにある。だが、私たちの信仰の現実は、聞くのではなく、願いを述べること、誓願を立てることにある。信仰は、神の存在を認め、神の高きを認め、神に従うことなのであるが、相変わらず自分を中心に据え、神を従える人生を歩んでいるのが人間である。それもまたむなしい。そういう宗教は滅多に使うこともない保険に加入しているようなものである。
 続いて、伝道者は、国家の問題を語る(7,8節)。国に不正と腐敗が起こり、変えがたい現実として存続することがある。こうした組織のもと、貧しい者、権利なき者が、苦しめられることは、歴史に繰り返されてきた。そうした国家の有り様を変えるのは、リーダーシップである。結局、国に確かな利益をもたらすのは、「農地を耕せる王」つまりは、ヨセフがエジプトを飢饉から救ったように、国の必要を的確に掴んで、組織を、その必要のために動かしていく指導力である。しかし、そのような指導力はなかなか得難く、ただ役得に乗っかり、それを維持するためだけの指導者がいつまでものうのうと居座っているだけであったりする。これもまたむなしい。
 最後に、伝道者は、富とその行く末の虚しさを語る(10-20節)。基本的にこのテーマは、6章に続くが、とりあえず5章に限って読んでおくと、持つか持たないかで人生をおしはかり、財を持っていることで安心しようとしても無駄であるという(10節)。なぜなら人間の貪欲さは留まる所を知らず、決して満たされないからである。そして収入が多くなれば、それだけ生活も豊かになるが贅沢になり、支出は増える。一度高められた生活の水準を落とす事は難しい。そして高められたものはさらに高めずにはいられない。また富は、いつまでも自分のものであるわけではない。いずれ手放さなくてはならないものである(15節)。これもむなしい。しかし、常に与えられたもので満足する道もある。貧しさの時も、富める時も、いつでも、神が備えられたことを覚えて、それを正しく用いて満足していく道もある。神が備えてくださったのだ、不足に見えても不足はない、本当に不足であれば必ず与えられる、すべて感謝である、と考える事が出来たら、その人はあれこれ患うこともないし、いつでも喜びを持って歩むことができる。
人生において自分を中心とする限り、むなしさから解放されることはない。むしろ、神を自分の人生の中心に据え、神に聞き従う歩みをするならば、全てに損得を超えた意味づけができるのであり、これが、人生をむなしさから救う道なのであると教えられる。