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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

伝道者の書3章

2020年04月17日 07時10分12秒 | 伝道者の書
3章 人間的努力の空しさ
おはようございます。このような時代であればこそ、キリストにある復活の希望にあって、望みを繋ぎたいところではないでしょうか。人は死んで終わりではない。正しきことをなさる神を恐れ、永遠のいのちに生きる希望に立って今の生を生き抜きたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.すべてに時がある
結局人生はすべて神に握られているとしたら、それは、すべての人間的な努力を無にすることを意味する。先に、伝道者が述べたのは、そのようなことだ。一般的な言い方をすれば「運命」が万事を決するのであり、それに逆らうことはできない、物事はなるようにしかならない、ということだ。
伝道者は、否定的である。ただ、伝道者は、実に練られた修辞的方法をもってそのように語っている。1-8節は、ヘブル詩特有の交差配列法を用いた、8行詩になっている。つまり、互いに対立する言葉を配列することにより、人間がどのような状況に置かれているのか、自らの所見を述べているのだ。
確かに、人は生まれる時も死ぬ時も選べない(2節)。5節「石を投げ捨てる」「石を集める」は、ユダヤ教の注解によると性的交接に関する象徴的表現であると言う。となれば、文脈から見て、「抱擁する」「抱擁をやめる」と関連した内容を語っていることになる。7節も、二つの行は、互いに結び付かないように感じるところだが、「裂く」「縫う」は喪の習慣に関係していると言う。つまり旧約時代、人は悲しみの時には衣を引き裂き(創世記37:29)、沈黙(レビ10:1-3)した。そして喪の期間が過ぎると、衣を繕い、日常に戻るのである。8節は、5節と違い、愛は愛欲の意味ではなく一般的な愛の意味である。ともあれ、言いたいことは、人が人生を自らの能力、科学、技術をもってコントロールしようとしても、それは無駄である、ということだ。
2.すべては神の計算のうちにある
ただ伝道者は、そこで、全く悲観的な言い方はしていない。すべての出来事は、天地創造の神の定めに従うのかもしれないが、それは「時にかなって美しい」(11節)。彼は、創世記にあるように「よい(トーブ)」とは言わず「美しい(ヤフェー)」と言う。何か魅力的なことがある、と余韻を持たせている。だから、運命論的な観点からすれば、与えられた限界の中で、最大限に楽しむ他はない(12、13、22節)と言う結論になるが、キリストの復活の光に照らされたパウロは、これに同意しつつ、将来起こりうる復活の展望を示し、主の働きに熱心であるように、と諭している(1コリント15:32)。神は愛であって、神は私たちに良いものを拒まれない。これがキリスト教信仰の確信である。神は、私たちの時を支配しておられる。そして私たちは良いことも悪いことも様々な事を経験していかざるをえない。しかしその全容については、神は私たちに対する最善を考えておられる。だから神を恐れなくてはならない。神に聞いて、神に従っていくことが大切なのだ。神与えられている時を素直に受け止め、良き時には感謝し悪しき時には耐え忍び、神の最善に期待しよう。

伝道者の書2章

2020年04月16日 07時23分13秒 | 伝道者の書
2章 どこまで知恵があればよいのか
おはようございます。バツ印の人生を生きる愚かな人にはなりたくはないが、真面目な人生もな、…。だからちょい悪で、と冷めた心で考えることはあるものでしょう。しかし伝道者の著者は、そんな人生も虚しいと語り掛けます。少し伝道者と付き合ってみましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ちょい悪で生きてみる
第三に取り上げるテーマは、「さあ、快楽を味わってみよう、楽しんでみよう」である。それでも人生は無意味だと言えるのか?たとえば人生の楽しみの一つに酒がある。もちろん、酒に飲まれるような人生は愚かだ。だからか、酒を楽しみながら、頭はクールに、ちょい悪(ちょっと愚かな)の人生を生きてみたらどうなるのか(3節)。快楽を楽しみながらも、快楽の奴隷にならず、欲求の赴くままに楽しんで生きるのだ(10節)。事業を拡張し(4節)、大邸宅を作り(5,6節)、奴隷を得て(7節)、財産を蓄え、女を侍らせ(8節)、名声を得る(9節)。だが結局それも意味がある人生とは思えない、という。普通だったら、それだけ楽しめれば本望ではないか、と思うところだろう。しかし、伝道者は、そんなことは、何の役にもたたないし、風を追うようなものだ。自己満足に過ぎないのだ、と言う(11節)。
2.楽しみはいつまでも続かない
 何が問題なのか。知恵ある生き方と愚かな生き方、どちらがよいか。それは、光と闇のどちらが優れているか、と言えば、光であるように、知恵ある生き方だろう(13節)。けれども、半分知恵ある生き方の方が良いのか、と言えば、そうは言えないのだ。というのも、知恵ある生き方をした者も、愚かな生き方をした者も、皆同じ結末を迎えるのだ。ちょっと知恵ある生き方をしようが、並外れて知恵ある生き方をしようが、結末は、愚かな生き方をした者と変わらない。「あいつは真面目だからな、ちょっと遊びも必要なんだよ」と冷めたような顔をして生きることも、どっこいどっこいなのだ。
3.誰が自分の楽しみの後を継ぐのか?
実際、誰が自分の人生の実を受け継ぐことになるのか、考えてみれば、それは一目瞭然だ。人はいつまでも生きるわけはないし、いつまでも楽しみを保ち続けられるわけでもない。やがて、人生のタイムリミットが訪れるなら、人は全てを残して、神のもとに帰っていかなければならない。遅かれ早かれ、人はその財産を放棄する。問題は、それを受け継ぐ者が愚か者になるかもしれないことだ。そうすれば、彼は愚か者に貢ぐために人生を生きたことになる。ちょっと冷めた生き方をしようと、何ともばかばかしい限りである(21節)。
おまけに、神の存在だ。人間は知恵ある者のように人生をコントロールして生きていると思っているだけで、これを操る神の存在があるだろう。人によっては、「運命」と言うが、神が采配を振るって、人の人生を左右しているのだ。神が良しとする人間には祝福された人生が、そうでない人には、神が良しとする人間の奴隷となる人生が定められている。人間は自由に生きているようでありながら、そうではない現実がある。人生において知恵ある生き方がよいなどとは、決して言い切ることはできない(26節)(続く)。

伝道者の書1章

2020年04月15日 06時47分47秒 | 伝道者の書
伝道者の書1章 人生は無意味だ
おはようございます。今日から伝道者の書に入ります。一日一章読み進めると、どうも切れの悪いところがあるものです。しかし、最近の私は何も矛盾を即座に解決しようとしなくてもよいのではないか、小脇に抱えながら、思索を続けていく時の大切さがあるようにも思います。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.伝道者の書について
 書名は、ヘブル語聖書の冒頭のことば、ディベレイ・コヘレト(伝道者の言葉)から来ている。伝統的にはソロモンの作と言われてきた。しかし、宗教改革者ルターがソロモン著作説を否定して以来、それは疑わしいとされている。実際12節。「イスラエルの王であった」はハイティ、完了形の動詞で、すでにこの時点では王ではなくなっていることを意味している。となれば終生王であったソロモンとは異なるし、ダビデの子という表現も、ダビデの子孫と理解することも可能であるから、ソロモンとは必ずしも言えない。著者は不明であり、著作年代も捕囚期以降という説もある。
2.全く無意味な世界と人生
 さて、2節、「空の空」、伝道者は全く無意味だ、と言う。3節「日の下」、つまりこの世の人生には何の益もない、とする。「益」は、ヘブル語でイツローン、会計上の剰余金を意味する。つまり、この世での労苦には、投資に見合った見返りがない、ということだ。なぜ、そう言えるのか。伝道者は自然と人生、それぞれ三つの例をあげて説明する(4-11節)。つまり、太陽、風、川、それらの自然現象に注目するならば、それらは、単調な、延々とした繰り返しで、そこに何の生産性があるわけでもなく、積み重ねもない(5⁻7節)。人生について言えば、人間のことばも同様で、川が海を満たさないように、決して、人を満たすものとはならない(8節)。実際、人の人生に新しいものは何もなく、すべては過去にあったものの繰り返しである(9-10節)。人間は忘れやすいから新しいと思うだけなのだ(11節)。確かに、死後のいのちを取り上げない伝道者の論理は、実に、人生の虚しさを的確に言い当てている。
3.伝道者の試み
だが伝道者は、そうは言いつつも、ここで改めて知恵の限りを尽くして、人生の満足を見出そうとした自分の証を語り始める(13節)。そして1章では二つの格言をとりあげながら、自分の結論を一つ一つ述べていく。第一に、「曲がったものはまっすぐにはできない、ないものは数えられない」(15節)ということだ。物事は、あるようにあるのであって、人間がそこに何か手を加え、変化を与えられるようなものではない。成功の秘訣?そんなものはない、というわけだ。そして第二に「知恵が増せば悩みも増す、知識が増せば痛みも増す」(18節)と言う。先の箴言では、愚かにならず、賢い人生を生きるようにという勧めであったが、伝道者の書はその逆である。知恵を大事にする生き方に、何のメリットがあるだろうか。悩みも痛みも増すだけなのだから、と言う。さて初日からいきなり、悲観主義的で重々しいが、少し、伝道者の思考にお付き合いしながら、読み進めていくことにしよう(つづく)。

伝道者の書12章

2017年01月23日 05時19分03秒 | 伝道者の書
伝道者は、最後に、人生の終着について語る。「何の喜びもない」と年月というのは、老いのことである。たとえは、印象で理解するのが原則である。つまり、「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう」は、老いの現実を印象的に語るものだ。そして3-6節は、いのちが衰えていく様を、絵画的に描いている。年寄りの腕は震え、背は丸くなる。歯抜けになる様を「粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ」と語る。「目は暗くなる」は、視力の衰えを語っている。「通りのとびらは閉ざされ」は、聴力が衰えること、そして「歌を歌う娘たちはみなうなだれる」は、声が弱くなることである。
 年寄りは、高い所に上ることを恐れるし、道を歩くこともままならない。アーモンドの花、口語訳では「あめんどう」、は白髪を象徴的に語っているし、のろのろ歩くいなごは、外に出かける年寄りの歩き方を表現している。「ふうちょうぼく」、新共同訳では、「アビヨナ」と訳す。ヘブル語の音訳である。地中海原産のこの低木は、日本名のふうちょうぼくとは同一ではない、という判断なのだろう。口語訳では「欲望は衰え」リビングバイブル訳では「性欲もなく」と意訳される。というのも、ふうちょうぼくのつぼみは酢漬けにして料理されるが、それは食欲や性欲亢進に役立つと言われるからである。「花開く」は、萎れる他はないことを言う。「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ」は、当時使われた油を用いた照明器具の、天井からつるす銀のひもが切れた様子、油の受け皿であった金の器が地に落ち砕けている様を語っている。また昔は、次から次と湧き水をくみ出し、世間話に花が咲いた井戸が、今や誰も足を運ばない涸れ井戸になっている。つまり人間の死を実に巧みに表現している。
 しかし、人間の老いは終わりではない。人間はちりで造られたのだからちりに戻っていく。しかし霊は、神より授かった特別なもので、これは、地上を彷徨うのでも、消滅するのでもなく、神のもとに帰るという(7節)。ここに伝道者のメッセージがある。
 日本人は、死んだら何も無い、すべては終わって消滅するだけだと考える人が多い。天国も地獄もないと。ただ、極楽ぐらいは考えたい人もいるだろう。葬儀の後に、七回忌、十三回忌と追善供養を重ねるのも、そういう信仰があればこそである。しかし、いったいその死者の魂はどこへ行ってしまっているのであろうか?伝道者は、それは創造主のもとに帰るのだという。初めに天と地をお造りになり、さらに、人間を造られた神のもとに帰ると。だから、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(1節)ともなる。人間と神の接点は神が私たちを創造した点にある。その創造者のもとに帰ることを覚えて今の世を歩むことが最善なのである。
13節「神を恐れ、神の命令を守る」この順序に注意しよう。神を知ることが神への従順を生み出す。神を恐れる時に、私たちの信仰も成長する。やがて神のもとに帰る者として、神を仰ぎ、神のみこころの中に今日も歩ませていただこう。

伝道者の書11章

2017年01月22日 05時58分39秒 | 伝道者の書
 「あなたのパンを水の上に投げよ」は当時よく使われた格言のようだ。種々の解釈がある。①パンを「魚のえさ」、つまり撒き餌と見て、大漁を期待すると考えるもの。②パンを「商品」と解釈し、船に積んで貿易をすることと考えるもの。盛んに海外貿易をしていたソロモン時代を背景とする解釈で、確かに舟での商取引の利益は、長期間待たされるものであったとする。③、パンを「善意」や「親切」と考えるもの。善意による施しをすれば、思わぬ時にその報いがある、と理解するユダヤ人の伝統的な象徴的解釈。④、③の延長線上の解釈でパンを「福音」と考えるもの。福音を語り伝えれば、今すぐに実りはなくても、後の日に収穫される、と解釈する。
 2節は、投資の原則を語っている。リスクを避けるため財産を分配投資する賢明さを語っている。リビングバイブル訳では、1節の流れの続きで、善意や親切をふりまけば、後で助けてもらえる意味で解釈を通している。こうしてみると、パンを商品と解釈し、商売で設け、その儲けを分配投資する流れで読むのが自然である。
 だから3、4節も文字通りに、予見できない天災の現実があることを示した後で、それを警戒し、優柔不断となることへの警告と取る。続けて5、6節も、自然現象の変化や胎児の成長などは人間に理解のできないこと(5節は欄外中の別訳が自然である)で、神の手中にあることなのだから、未来のことをいたずらに心配せずに、神に委ねて、朝も夜も、身近な責任を果たすことを促す勤勉・勤労の教えと理解できる。
9章までは、様々な空しさが語られて来た。そして10、11章は、なぜか格言集となる。それは、こんな空しい人生ではあるが、この人生を生き抜く知恵もあるのだと、その知恵を断片的に取りあげていると理解することもできる。まとめて言えば、神に自分の人生を委ねて昼も夜もすべきことしていくことに他ならぬとし、最後の12章で、最も大切な生き抜きの知恵を結論的に語る流れになっているとすれば、ここは、あれこれ深読みせずに、当時理解された程度の解釈で読むのがよいのだろう。
 7節以降、伝道者は、人生を楽しむ事を語る。しかし人生は楽しい時ばかりではない。若さも青春も空しい。しかしそうであっても、神がすべてを支配し導かれているとしたら、空しさの中に鬱々と生きていくよりは、神に全てを委ねながら、自分の最善を生きればよい。だから言う「あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」(9節)。ただそれは、放縦や勝手気ままという意味ではない。「これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」(9節)と。弁えある自由さを語っている。そして、悲しみや痛みは捨て去れと言う。悲しみや痛みとするものにいつまでも拘っていても何も生まれやしない。過去は思い切って捨て去ることだ。悲しみも痛みも忘れて、新しい人生を切り開いてくださる神に委ねて、新しい光の中に自分を押し出すことである。神を信じることは、神のみ守りを信頼して前向きに人生を生きる事に他ならない。今日、心を定めて、新しい人生に踏み出してみよう。