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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

伝道者の書8章

2020年04月22日 07時11分49秒 | 伝道者の書
伝道者の書8章 あれもこれ御神のなさること
おはようございます。なかなか出口の見えない伝道者の書、後もう少しお付き合いください。人間社会の不条理さ、因果応報を、明確に言い切れない神の不可解な行動、このような中で信仰を揺さぶられる状況にある人はいることでしょう。信仰の深さを探られるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.正義はあるのか
 今の自分だったら、あんなふうにはならなかっただろう、そんな風に思うことは誰にでもあるだろう。「知恵は人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる」(1節)まさにその通りで、知恵がなかったが故に、顔を強ばらせて生きていることがある。知恵は一朝一夕で身につくものではないから、そういう時を過ごさねばならぬ、こともあるだろう。ああいう時を過ごしたから今がある、ということもある。いつでも物事を正しく理解できて、適切に対処できたら、申し分のない人生を生きることができるのだろうが、そうではないから、人は謙虚に知恵を求め続けて生きなくてはならない。
 2節、「王の命令を守れ。あわてて退出するな」、と言うのは、王の権威を認めて、口答えしたり、挙動不審と見られたりしないようにせよ、ということだろう。なぜ、このような話題になるのだろうか。著者は、既に神の権力を問題にしてきた(6,7章)。ここで、地上の権力を取り上げ、その横暴さが神と同じであること、うかつに逆らおうものなら、不運が待ち受けている現実を指摘する(4節)。大切なのは、要領よく生きていくことなのだが、ところが、人生はそんなに単純なものではない。人に降りかかる災いは多く(6節)。人はその災いを予測できない現実があるからだ(7節)。人生には知恵も思慮深さも役に立たない不条理性があるのだ。それは、まさに、風を止めることのできないことや死の日をコントロールできないことに等しい(8節)。
2.わからない、ただ見るのみ
人間の知恵と思慮深さを欺くような、実に、むなしい現実が社会にはある。「悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある」(14節)。なんとも馬鹿馬鹿しい限りのことがある。問題は、だから、この世は面白おかしく生きるしかないということにもなりかねない。矛盾だらけの人の世で、正しく生きる事の何の意味があろうか、というわけである。
 だが、伝道者は、すでに「あれもこれも神のなさること」(7:14)と語っている。ここでも「すべては神のみわざである」(17節)と繰り返す。ただ、伝道者の目は、覚めて社会を見ている。彼は預言者たちのように因果応報の教理をごり押ししない。また、ヨブのように、信仰的に飛躍した結論に飛びつかない。むしろ、「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている」(11節)と、神の不可解な行動と、人間社会の不条理さの現実をじっと見つめ、理性的な結論を得ようとしている。最終的な彼の結論は、どんなに知恵深く考えても、神のなさることを理解し尽くすことはできない。神がおられるとして、ただ神のなさることを観察するだけだ、という(17節)(つづく)。

伝道者の書7章

2020年04月21日 07時36分10秒 | 伝道者の書
7章 確実なもの、不確実なもの
おはようございます。人生において生は相対的なもの、死は絶対的なものです。動かしがたく絶対的な死に直面した時に、人は、自分の生を改めて考えるものですし、キリストが十字架と復活において死に勝利したことの意味を受け入れる気持ちになるものでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.知恵について、再考
「良い名声」も「香水」も、その人から香ってくる。どちらが良いか、人によって好みが違う香水よりも、絶対的な名声だろう。生と死、どちらが良いか、絶対的な死である。死は確実で、死こそ風のような人生にピリオドを打つ。だから、死が全てを支配している現実に直面させ、その事実を認識させる喪に参列することは、人間にとってよいことである。
ヘブル語原文では1節、「名声」(シェーム)と「香油」(シェメン)に語呂合わせがある。6節「鍋(シール)の下の茨(シーリーム)」にもそれがある。当時いばらは簡便な燃料として用いられた。そのように愚かな者の笑も、騒々しくはあっても、一瞬である。1-4節と、5-7節は、どうつながっているのか、唐突な内容のようでもあるが、死だけが確か(1-4節)なのだから、大事なことに悟る力を持て、と8-10節に繋がる、と理解すべきだろう。
そこで8節、試練には必ず神の目的があり、価値ある結果をもたらす。ヨブがそうであったように、忍耐の欠如は神の取り扱いに対する高ぶりとなる。短気は損気である。9節、「いらだち」は煮えたぎるような怒りを意味する。感情をぶつけられるような怒りを、忘れるのは難しい。過去に拘り過ぎてはいけない(10節)。古き良き時代というものはない。いつの時代も同じだ。悟ることだ、という。では、何を悟るべきなのか。人生において決定的なのは、神の存在である、ということだろう(13節)。神が決定されたことを変えることはできない。世俗的な知恵を得ることよりも、この事実を認識し、神の前に遜ることである。
これが、さらに明確なよき真理として示されるのは、新約聖書においてであろう。というのも、人間にとって絶対的であり、確かな死は、キリストにあって滅ぼされたのであり(1コリント5:26)、人は、確実な死に向かって、空しい生を繰り返す生き物ではないことが、明らかにされたからだ。キリストのもとに、順境の時には素直に楽しみ、逆境の時には、素直に我を顧み、神を信頼し生きる人生の楽しみがある。
2.単純な知恵ではなく、悟りを大事にする
 後半は中庸の徳を語っているかのようであるが、そうではない(16節)。正しすぎてもだめ、悪すぎてもだめ。知恵がありすぎてもだめ。愚かすぎてもだめ。極端に走るのではなくて、中庸を選んでいく。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」視野に入れつつ、神が与えられるものをしっかりつかみ取っていく生き方である、かのように。そうではなく、伝道者は人間のいかなる知恵をも否定しているのである。人は、どんなに知恵ある者になろうとしても、それはできない。むしろ、自分が持つ知恵と知識の不十分さを認めて、いや、人間の罪性がそれを歪めている現実を理解し、神の前に遜りつつ生きるべきことを推奨している。それこそが誠の人生の意義を見出す知恵なのである。

伝道者の書6章

2020年04月20日 08時11分30秒 | 伝道者の書
伝道者の書6章 神と人間の力の差
おはようございます。伝道者の書、読み進むと、気持ちが沈むような気も致します。このようなコロナ禍の時には、心に励ましのある言葉が欲しいところでしょう。しかし、もう少しお付き合いいただき、このような時にこそ、自分のいのちについて考えたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.虚しい富(続き)
伝道者は、富の虚しさについて、続ける。富を豊かに手にしながら、それを楽しむこともなく死んでしまうこと(1-2節)。自ら稼いだ富が他人のものとなる虚しさがある。新改訳は、ヘブル語のノクリーを外国人と訳した。その意図はよくわからない。口語訳も新共同訳も「他人」である。何故神は、人に賜物を与えながらそれを楽しむようにはされないのか。伝道者は、「もし」を用いて、神の意思に疑問を寄せる。子どもは神の賜物であるし、また長寿も同様である。彼は神に大きな祝福を頂いたことになる。しかし、彼は、それに満足しえないで、人生のタイムリミットを迎えたとしたら、その神の祝福に何の意味があるのか。いのちに与ることのなかった流産の子の方がましだ(3節)。彼は最後の安らぎだけを知っているのだから、詰まらない人生を歩んだ金持ちよりもずっとましだろう、というわけだ(6節)。人生において人の祝福は呪いとなる場合がある。
実に人は何をしているのだろうか。単純に富を求め、幸せになることを求め、あるいは野心を満たすために、労働する。しかしその労働の本質は、口のためではないか。人間は底のない口の欲求のために働き、それは決して満たされないのである(7節)。だから知恵ある者と愚かな者、どちらがよいかなど、あまり重要ではない。ただその日の食料を口にし、生き抜いている貧しい者に何が優るか(8節)。「目が見ること」ありのままの現実「欲望のひとり歩き」は、思い描いた夢そのものである。夢見るだけの人生にどんな幸せがあると言うのか、というわけである(9節)。
2.神の力、無力な人間
 そこで伝道者の本音が出てくる。天において力を持っておられる神と、無力な人間の関係に彼は思いを寄せている。すべては神によって決定されているように、人間の人生も、その人生は、創造以前に確定されている。もしこのように、人間が完全に神の手の中で、自らの人生の舵を取れないような存在として、いのちを得ているのだとしたら、その人生にどんな意味があるのだろうか(10節)。神の力は決定的で、神に逆らうことはできない。そして、神と議論し戦うことは、ヨブがそうであったように無駄な努力になる(11節)。ヨブは、神と論争を挑んで、結局神の人間の力を思い知らされる結末へと至ったではないか(ヨブ記40:1-5)。神が人間に賜物を与えて、それを楽しむことを許さないとしたら、実に神は暴力的な存在である。そして人間は神のゲームに弄ばれる無力な存在に過ぎない。実にこれも虚しい。たとえ神が善であっても、人間は神のご計画やそのみこころを知りえない(12節)。実に知恵が増せば、悩みも増すというところだろうが、この結論はどこへ続くのか、というところだろう。コロナ禍の中で、人間の人生を、少し立ち止まり深く考えてみたい(続く)。

伝道者の書5章

2020年04月19日 07時18分22秒 | 伝道者の書
伝道者の書5章 空しい宗教、富
おはようございます。新しい主題、宗教的営みが取り上げられます。献げ物、祈り、誓いです。そして同時に富について。いずれも最も人間臭い部分というべきでしょう。宗教に迷うのも、富に迷うのも、人間ならではの問題です。そこをどのように生きるかです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.虚しい宗教
 ヘブル語聖書もそのギリシャ語訳である七十人訳聖書も、1節は、4:17となっている。新共同訳はそれに倣っているが、口語訳、新改訳はこれを5:1として訳してきた。新改訳は、5:1から9節までを一つのまとまりと解釈したためなのだろう。翻訳には解釈が入る、と言われる部分がこういうところに出てくるわけだ。
 ともあれ、伝道者は、ここで新しい主題、宗教的な営みを取りあげている。信仰の本質は、聞くことにある(1節)。だが、人の信仰の現実は、聞くのではなく、長々と願いを並べ立てること(2節)、軽々しい誓願を立てるである(3-6節)。イエスも、偽善者の敬虔そうあ祈りに警告し(マタイ6:6)、虚しい誓いを戒めている(マタイ5:24)。その趣旨は伝道者と同じで、神は天におられ、人は地にいることを弁え、神への慣れ慣れしい態度を慎むことにある。神の高きを認め、恐れつつ、神に従う、これが信仰の核心である(7節)。
 続いて伝道者は、あるエピソードを取り上げる(7,8節)。言いたいことは、国に抑圧と腐敗が起こっても驚くな、である。貧しい者、弱き者が、苦しめられることは、歴史に繰り返されてきた。必要とされるのは、適切な指導力を発揮するリーダーシップであるが、現実はそうではない。上に立つ指導者はただ役得に乗っかり、それを維持し、のうのうと神のように高きに居座っているだけであったりする。これもまたむなしい。
2.虚しい富
 続いて伝道者は、富とその行く末の虚しさを語る(10-20節)。基本的にこのテーマは、6章に続くが、5章の筋を追っておこう。第一に、富は、飽き足りない(10節)。人の貪欲さは留まる所を知らず、決して満たされない。第二に、富は、歓迎しない人間関係を増し加える。富に群がる人々が友となるのだ(11節)。貪欲な人間が自分の富を楽しむのを眺めるなどバカバカしい限りではないか。さらに富は、それが失われることへの不安を引き起こし、不眠の種となる(12節)。確かに人間は、裸で生まれ、裸で天に帰らなくてはならない。何一つあの世に持って行くことはできないし、いつまでも自分の手元に留めておくことはできない。なのになぜ蓄えようと動機づけられるのか(13-16節)。しかも富を持っているが故の家族不和、争いがある。富を持つが故の不健康さがある。富にはよいことがない(17節)。もしあるとしたら、一生賢明汗水たらして働き、その後でパーッと楽しい宴会を開くことぐらいだろう(18節)。神が備えてくださったのだ、神が与えてくださったのだ。それを喜んだらよい。そのようにして労働と富のバランスをとって生きるなら、人生を楽しむこともできるだろう(19,20節)。だが、ただ金銭を愛するだけの人生は、既に述べたような虚しさに人を閉じ込めてしまう。言葉と富には慎重でありたいものだ。

伝道者の書4章

2020年04月18日 07時15分14秒 | 伝道者の書
伝道者の書4章 地上の事柄の矛盾
おはようございます。私は、伝道者の書を読むと、一代目の一途な信仰とは別の、既に受けてしまった信仰とその意味を冷静に考える、二代目の悩みを思うことがあります。今日の二つのポイントも、新約のキリストの光を照らさなければ、厭世的な結論で終わってしまいます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.不正と虐待が意味するもの
伝道者の視点は、永遠の事柄から、地上の事柄へと移っていく。既に、3:16-22において、伝道者は、地上の法定に不正があることに注目している。正義が力でなければならないのに、力が正義となっているあべこべの現実がある(3:16)。エレミヤやイザヤのような預言者ならここで、神は正しいことをなさる、神が裁いてくださる、と言い出すところだろう(3:18)。だが、伝道者は、不正のもとには絶望的な現実があるのみだ、と語るのだ。そして、人間が動物と変わらない存在であることから(3:19)、そもそも正義などなんの役にも立たないことを語ろうとする。全ての生き物の定めは死であり、死後に人間が動物より高き天に引き上げられると言う保証はない(3:21)。未来がないのだから、今の人生を楽しむのが最善だ、というわけである(3:22)。
基本的に4章の初めは、この考え方を踏襲し、地上のもう一つの救いようのない現実、虐待に目を注ぐ。力が正義となるところに、腐敗はつきものであり、抑圧と虐待がある。そして虐げられる者の運命も絶望的であるという(1節)。権力を握った者がそれを弱者のために誠実に用いるかというとそんなことはない。そこで出てくる結論は、死者は生者よりも幸いである(2節)。だが、3章で述べたように、死後報われる保証もないのだから、そもそも存在しないことが幸いなのだ、となる(3節)。3章の後半と合わせて社会正義の問題は、伝道者にとって人生の虚しさ、そして賢く生きることの無意味さを証しするのである。
2.労働
次に伝道者が注目する地上の営みは、労働である。何のために労働するのか。妬みに動機づけられた労働がある(4節)。しかし野心的な労働には、怠惰とほとんど変わらないのだ(5節)。なぜなら、怠惰が人滅ぼすように、野心的な労働も人を滅ぼすことに変わりはない。のんびりその日暮らしをすることに優ることはない(6節)。
また、労働の実を誰に残そうとするのか。既に、伝道者は、2:18-22で跡継ぎが愚か者である可能性を指摘し、その虚しさを語ったが、孤独な労働者の労働の虚しさを指摘する。労働は、協働であったこと、価値あるものとなる(9-12節)。だが、皆も経験しているとおり、労働の楽しさは、仕事の内容と人間関係にかかっている。そして人間関係でうまくいく職場は少ないものだ。
最後に、伝道者は一つのたとえ話をする(13-16節)。これがヨセフの物語に関連する、と指摘する説もあるが、よくわからない。ただ言いたいことは、野心的な青年が民衆の心を掴み、優れた指導者となったとしても、それは民衆の気まぐれな要求に合致しただけに過ぎないことだ(16節)。成功した労働の虚しさを語っている(つづく)。